第五話 不毛でも、聖地

 合コンに敗れ、現実というものを、また改めて思い知らされた。そうして、また一つ歳を取った。あの一件を機に、それからというもの、自分は職場で。逃げ回るようにして人目を避けて行動するようになった。

 杉田さんたちの占領する休憩室には自然と足が向かなくなり、更衣室へも時間をずらして立ち入るようになった。空いた時間は、一人、用具室に赴き、清掃道具を磨き続ける。黙って、それらと向かい合っているうちに、ちょっとのネジの緩みや、どこが摩耗しやすいのとか、また、ワックスや洗浄液剤の減り具合から誰が使用したかまで、もう容易に判別できるようになっていた。道具や機械とばかり対話している。大切に使って欲しいと思う反面、一人で閉じ籠って、自分は何をやっているんだろうとも思う。

 きっと皆からは、暗い奴だと思われているに違いないし、敬遠されていることもわかっていた。それでも、目の前で笑われるよりかは、よっぽどマシだった。

 声を掛けられると、一瞬、身体が硬直する。足がすくむ。相手の、その目を見ると震える。心底おそろしいのだ。もう、平静を保てない。人前に立つと不安と猜疑心に駆られ、次第にその場から逃げ出したいと思うようになっていた。

 気が休まらない。潜伏先を移動する指名手配犯のような気持ちで、そうやって毎日、会社の門をくぐった。


 帰りのバス停をわざわざ会社から遠く離れた場所へと変えたのは、そんな気持ちの表れからだった。

 駅とを結ぶ主要路線から一本、通りを外れると、ひっそりと、そこにバス停はあった。寂れた路線だ。そこにはいつも人が並んでいなかった。

 くの字にひしゃげた、錆びた標識版、苔の生えた簡易ベンチ。雨風に晒されて、時刻表は酷く燻んでしまっている。廃村の残影を思い浮かばせるような、それこそいつ廃線になってもおかしくない、みすぼらしい停車場だったけれど、そこに立っていると妙に心が落ち着いた。こんな場所にでも存在は許されるのだ。自分には、うってつけの居場所に思えた。

 そのバス停、名を団子坂下と言う。文字通り、背後には車一台が通れるかわからない、細くゆるやかな坂が折れ曲がる形で続いている。坂と言ったけれど、小径と言った方がしっくりくる。日陰に覆われていて、その先にかすかに陽の光を確認できる。神秘的、言いようによっては不気味とも思える。上った先がどうなっているのか、自分は知らない。別に知りたくはなかった。誰もいないその停留所で、ただ、じっと、帰りのバスを待っていれれば、自分はそれで良かったのだ。


 寂しい人生だと思う。


 人生、ふりだしに戻ってしまったような気がする。いや、そもそも、ひとマスたりとも進めていなかったのかもしれない。父から受け継いだ、この吃音はとどまることを知らない。発作も赤面も、手付かずのままだった。

 やるせないし、とても苦しい。でも、もうこれ以上、傷付きたくはなかった。自分は誰にもよろこばれないし、誰からも必要とされない。いっそのこと、それでも構わないと思い始めていた。それが嫌でこの街にやって来たというのに、とても矛盾している。でも仕方がない。自分という人間と折り合いをつけるべきときなのかもしれない。夏の間中、ずっと、そう考えていた。潔く決断したら、楽になれるだろうか。

 アスファルトに堆積する根熱がようやく弛み始めようとしていた。新しい季節の気配。この地に足を踏み入れてから三度目の秋を迎えようとしていた。


「ユキエさん」と呼ぶ、その女性と知り合うことになったのは、それからしてまもなくのことだった。


 彼女とは、坂の下のバス停で、初めて出会った。

 その日、いつものように、バスを待っていると、不意に背後に人の気配を感じた。思いもせず振り返った。すると、そこに、トレンチコートに身を包んだ細身の女性が立っていた。そうして、途端に話し掛けられた。


「あの、すみません、ここのバス、植物園前に停まりますか」


「えっ!? えっ!? ええっ、ええええ、え、えとっ、はっ、はっ、ははは、はは、ははっ、はは、はっ、はいっっっ」


 突然のことに、いつにも増して吃り倒す。女性に真剣な顔で「大丈夫ですか」と心配された。首を縦に何度も振ると、「よかった、ありがとうございます」と言われ、彼女はそのまま自分の隣りへと並んだ。

 どうして、ここに。まさか、人が来るだなんて、思いもしてなかった。ここがバス停であったことを、すっかり忘れてしまっていた。雨錆で路線図が剥げている。植物園前は自分も降りるバス停だった。どうしよう。赤面が止まらない。


「ここ、よく、利用されるんですか」


 また話し掛けられた。


「ははは、はっ、はっ、はいっ」


「お仕事帰りですか」


「はっ、ええっ、はは、はっい」


「そうですか、わたしもです。昨日から職場を変えたばかりで、こっちの方も訪れるのは初めてなんです」


「はっ、ははっ、はっいっ」


「朝は電車で来たんですけどね、植物園前を通るバスがあるって聞いたもので、知ってる人がいて良かった」


「えっ、はっ、ははっ」


「なんというか、とても雰囲気があるところですね。真夜中になったら、なにかが出てきたりして」


「はは、はっ、あっ、えっ」


「あっ、そう言えば、この坂の上って、見晴らしがすごくいいんですね」


「いっ、いいっ、はっ、いっ」


「あっ、上がったことなかったですか」


「ははは、ははは、はっ、あっいっ」


「銀杏並木が見渡せるんです。大通りに続く、鮮やかな一本道」


「ははっ、はっ、はは……」


「黄葉の見ごろがたのしみですね。葉が落ち始めたら、もっと見応えがありそう」


「……」


「あっ、あと、それとですねっ」


「……!!」


 言葉を詰まらす、こちらの態度をなんとも思わないのだろうか。口が閉じない。話を止めない。一方通行が過ぎる、一方通話。この人は一体、なんなのだろう。人との距離を縮めることに対しての敷居が異様に低いように見える。自分という人間とは、まるで正反対の存在のように思えた。酷く困惑する。その親睦の情を、どうか胸の内に納めてください。自分に向けられては困るのです。自分はいかんせん、まともに会話ができんのです。ですから、お願いですから、黙ってバスを待ちませんか。心の声が漏れ出す。動悸が止まらない。不毛でも聖地だった坂の下のバス停が、今日、初めてやって来たばかりの彼女に奪われようとしている。


 切れ長の一重瞼に黒縁の眼鏡を掛けた彼女はまるで、ファッション雑誌の表紙の中にでも立っていそうな人間であった。すらり、と伸ばしたしなやかな手脚。ふんわりと、肩下まで巻いたパーマは絹地のようにとてもなめらかだった。そのまま、舞台花道を闊歩できそうなものだ。黙っていればモデル。ただ唯一、その口達者だけが全体の印象を損ねている気がした。


 数十分が経過した。彼女の調子に、未だ引っ掻き回されていた。わざとやっているとしか思えない。自分はもの凄く焦っていた。永久機関のような彼女に追い込まれている。身体中から変な汗が噴き出していたし、頭も少し、クラクラする。そうして不安が押し寄せると、いよいよ、吐き気まで覚え始めた。アレルギー反応だった。いい加減、これ以上は、頼むから、会話で迫らないで欲しい。自分は到底、しゃべれない。


「……ところで」

「……」


「……大丈夫ですか、喉の調子でも悪いんですか?」


 その一言で、遂に、自分は業を煮やした。


 もう、つき合ってられるものか。ジャケットのポケットから、紙とペンを取り出すと、殴り書きのメモを彼女へと手渡した。


「吃り癖があって、上手くしゃべれません。なので、自分と会話をしても、つまらないと思います」


 最も手っ取り早い方法で、一刻も早く、彼女の口を閉じさせたかった。もう、我慢の限界だった。ところが、彼女は黙るどころか、こちらの心のうちに、土足で足を踏み入れてきたのだ。


「そんなふうに、自分のことを卑下しないでください。大丈夫、上手に喋れなくたって、わたしは何とも思いませんから。さぁ、自信を持って、大丈夫、そんなこと、気にしない」


 何が大丈夫なのか、自分には全く理解できなかった。「そんなこと」人の気も知らないで、この人は、本当に一体、なんなのだ。したり顔で、しかも、迷いなく言い切った。悪気なく、そう言っているのだとしたら、もはやもう、致命的だ。却ってそれが、この人の無神経さを増長させているような気がしてならなかった。


「大丈夫!」

「さぁっ!」

「自分を信じてっ!」


 偽善で詭弁。なおも、振舞う彼女に、わなわなと、身体が震えた。腹に据えかねた自分は、そうして、たまらなくなり、彼女へと向かって吠えた。


「いっ、いっ、いい、いい、いいっ、いい加減に、してくっ、くっ、くださぁいっ!」


 彼女は、ひゃあぁっ、と蛙のように飛び跳ねた。


「あ、ああ、ああっ、あっ、あなたに、こっ、ここっ、こここ、この気持ちが、わか、わかっ、てっ、たまるもっ、もも、ものかっ」


 言ってやってしまった。案山子が暴発。

 彼女は、ぽかん、と口を開けたまま、立ち尽くしている。そうして、自分は彼女に背中を向けた。


「……迷惑……でし……た……か……」


 後ろから声がする。震えている。構わず、自分は、首を強くふった。はっきりと伝わるように、四回、容赦なく。

 ぶんぶんっ、ぶんぶんっ。


 坂の上のことも、あなたがどこから来て、何をしているのかも、ここら辺のことも、植物園のことも、紅葉のことも、昨日食べた、焼き魚定食のことも、そのお店が気に入ったということも、趣味も、服装の好みも、失礼ですが、全部、自分には全く、興味がないのです。あるとすれば、あなたが明日も明後日も、このバス停に立ち寄るのかということ。どうか、できることでしたら、ご遠慮いただきたい。いや、お願いだから、もう来ないでください。


 その意思表示のつもりだった。


 再び、声がする。


「……ごめんなさい」


 泣きそうな声だった。


 陥落寸前のところで、ようやくバスがやって来ると、自分は一目散に、それに飛び込んだ。


 これみよがしに、彼女を遠ざけて、着席をした。

 今更なから、そこで自分は、彼女のことを呪っていた。坂の下の怨みは、海よりはるかに根深かった。そのときの自分には、彼女のことが、言葉を武器に、暴れ馬を走らせる蛮族のように、侵略者にしか見えてならなかったのだ。

 彼女の、その奔放さが疎ましかった。

「喋れる」とは、なんて自由なのだろう。けれども、傲慢であるとも思う。そのように何も知らずに、身勝手に、粗雑になんて扱って欲しくはなかった。


 坂の下の静寂が破られた。未だ、動悸がおさまらない。茜色の空の下を、いつもと変わらぬ速度でバスは進んだ。

 彼女は窓の外を眺めていた。その顔はよく見えなかった。



 バスは、ぼう在家ざいけという停留所に停車した。すると、昇降口の階段を前に、全身、黒着の蝶野正洋ちょうのまさひろに良く似た、悪役レスラー風の男が足をまごつかせていた。杖をついている。どうやらくだりに不自由らしく、その一歩を踏み出せずにいるようだ。手を貸そうにも、男は目下の数段を物凄い形相で睨み付けており、その風貌はよもや、その筋の人間をも思わせた。

 こわい。蝶野は、キレて、いた。眼光が、リング上で対峙する敵へと向ける、まさにそれだった。恐ろしすぎる。却ってトラブルにでも巻き込まれてしまったらと想像すると、浮いた腰が、それ以上は持ち上がらなかった。皆、見て見ぬふり。男のもとに近寄ろうとする者など、誰もいなかった。


 孤立無縁、手負いの蝶野が悪態を吐く。

 ガッッデェッムッ。 

 そのときだった。


「大丈夫ですか」


 彼女だった。

 颯爽と歩み寄ったのだ。


 その顔は少しこわばっているようにも見えた。それでも、果敢に彼女は、蝶野に挑んだ。怯むことなく腕を取ると、その鈍る体躯を無事にステップのふもとへと送り届けた。彼女が蝶野に笑顔を向ける。スリーカウントがこだました。立派だった。彼女もまた、レスラーであった。その行動に、自分は目を奪われた。彼女は無言で会釈だけすると、何事もなかったかのように、すっと、席へと戻った。流れる車窓の袂で、蝶野はとても嬉しそうに手を振っていた。


 どうやら、彼女は、坂の下の聖地を、奪いにやって来た蛮族などではなかったようだ。むしろ、それは自分の方なのではないか。頭のてっぺんを、拳で叩きつけられたかのような気持ちになった。ようやく、目が覚めた。

 亀井塚では、おばあさんの手を引き、公民館前では、親子連れの小さいお子さんの手のひらに、彼女は、アポロチョコレートを包んだ。

 その姿は、紛れもない「聖人」であった。


 健康優良児のような笑顔をふりまいている。先ほどの自分にも、それと同じものを向けようとしただけではないのか。皮肉にも、彼女との距離がひらいて、ようやく、自分はそのことに気付いた。身勝手で無神経なのはどちらであろうか。この期に及んで、明白だった。


 抱えきれないものがあって、坂の下へと逃れてきたけれど、そこで、自分は、前へ進むことを完全に放棄しようとしていた。どこか卑屈な人間になろうとしていた。善悪の区別もつかなくなってしまっていた。一人きりは楽だったけれど、何も受け入れようとはしなかった。

 わるいひとたち、ばかりではない、彼女のような人間もいるのだ。

 彼女が口にしてくれた、「大丈夫」が、今頃になって、心にじんわりと沁みた。


 それからというもの、変に向こうのことが気になって仕方がなかった。先程まで、それとは正反対の態度で構えていたというのに、ひどく調子が良すぎるだろうか。 


 ところが、彼女の表情が豹変したのは、それからだった。

 その顔を見て、自分は愕然とした。


 まるで、能面をかけたかのようにして、突如として、血の気や感情を失ってしまったのだ。その顔、とりわけ、その「目」に、自分は酷く見覚えがあった。そのような目をする人間を、自分は知っていた。その人は、突如として狂い出し、かと思えば、そのような目で、いつも、ここではない何処か遠くを見据えていた。


 母だった。


 彼女の、其れは、かつて自分の母が見せたのと同じようにして、まるで、そっくりだったのだ。

 脈が、尋常ではない速さで走った。こわいもの見たさを通り越して、もはやもう、彼女から目を背けられないでいる。席から身を乗り出した。他人事ではなくなっていた。

 光の行き届かない海縁を回遊する深海魚のように、彼女のそれは、昏く、そして空ろな目だ。先ほどの、心洗われる、その行為を自ら台無しに、健康優良児の面影は、そこには一切ない。


 今日という日は、まるで、予期しないことばかりが起こっている。慣れ親しんだはずの坂の下の停車場も、続くこの路線の車内も、夏がやって来たかと思えば、突然、真冬へと変わる。もしかしたら、彼女は、妖の類いの一種だろうか。日常から、ざっくりと、切り取られたような感覚に陥っていた。

 目の色を無くした彼女の傍へ、今直ぐにでも駆け寄りたかった。そして尋ねたかった。自分の思い過ごしであって欲しい。けれども、邪推ばかりが頭の中を埋め尽くす。


 お願いです、どうか、違うと言ってください。


 胸に込み上げる思いを、必死になって押し込んだ。胸が、痛んだ。彼女も、母や自分と同じ、同類の人間とでも言いたいのだろうか。ありえない、戯言だ、ありえない。思い直して、ぶんぶん、首を横に振ったけれども、そもそも、今日という日、そのものが、どうかしていた。


 そんな意識を刈り取るようにして、突如、車体を飛礫のようなものが、もの凄い勢いで弾き出した。空が真っ黒だ。瞬く間に、辺り一面、滝のようにして、水濁が打った。気圧が移り変わったばかりの、読めない天候である。今日という日を象徴しているかのようだった。

 我に帰った自分は、電光掲示板に目を向けた。慌てて降車停のボタンを押す。彼女は正常に戻っていた。あっという間に、植物園前である。


 轟音がエンジン音を掻き消す。窓越しに流れる景色も一変して歪んで見えた。電線に連れ立って整列する雀のように、手すきの通行人たちが、悲鳴を上げながらビルや店舗の軒下に群がってゆく。 

 仕事柄、常に雨具は携帯していた。折り畳み傘に雨合羽もある。大丈夫だ、問題ない。

 リュックサックのジッパーに手をかける。彼女のことが気になった。視線の先でバッグの中身を掻き分けている。大丈夫だろうか。そして、どうやら笑っているようだ。苦笑いだろうか。アナウンスが流れた。もう間もなくだ。雨の勢いは衰えない。

 覚悟を決めた彼女がトレンチコートのフードを目深に被ると同時に、ずぶ濡れのバスは、植物園前に停車した。


「こここここここここっ、こっれっどぞぉぉ」


 気付いたら彼女のもとへ駆け寄っていた。

 扉が開くや否や、上擦る声で自分は折り畳み傘を彼女に差し出した。まるで体育館倉庫裏で告白する男子学生のように。

「あなたが好きです」のイントネーション。有無を言わせる隙間など与えず、傘を手に取らせた。その速さ、コンマ一秒。呆気に取られ、目を点にする彼女。自分はそんなこと構いもせずに、逃げるようにしてバスを飛び降りた。そして、濡れた夕闇の街中を駆け抜けた。


 そのときの自分は、まるで、走れメロスのようであった。額に打ちつける雨粒など気にならない。衣服が鉛の鎧を纏おうとも、構いやしなかった。全速力で駆けるのみだった。

 ただ、ただ、彼女が平穏無事に帰路に就ければ、それで良かった。ただ、それだけを思って、自分は走り続けた。



 翌る日も、そのまた、翌る日も、自分は結局、坂の下のバス停を目指さなかった。彼女がどんなに善良な人間だとして、自分が喋れないことには変わりはなかった。そうして三日が過ぎた頃、自分は、あるどうしようもなく簡単なことに気付く。そうだ、時間をずらせばいいんだ。なにをどうすれば、そこに辿り着かないのかがわからない。

「坂の下には彼女がいる」なんのキャッチフレーズかわからないけれど、どうやら自ら、暗示にかかっていたようだ。

 社屋の外まわりの落ち葉掃きを行い、その日は、いつもより、じゅうぶん日が暮れてから門を後にした。こうすればよかったのだ。何も苦ではなかった。ところが、暗がりのバス停に着くや否や、自分は思わず、悲鳴を上げそうになった。闇夜の中から、ぬうっ、とトレンチコートが現れたのだ。幽霊ではない、なんと彼女であった。


「ひぃぃぃっ」

 実際に声が漏れた。


「よかったぁ、ようやく会えた」


「どっ、どっ、どどどっ、どっ、どっ、んっ、んっ、どっ、してっ」


「どうしてって、あなたが来るのを待ってたんですよ」


「えっ、えっ、ええっ、えええっ?」


「あのっ、大丈夫ですか、風邪とかひいたりしてませんか」


「はははは、はっ、はっ、はっいっ」


「よかったぁ」


「この前はごめんなさい。あなたの気持ちも考えないで、勝手なことばかり口にしちゃって、本当にごめんなさい」


 彼女は表情を正すと、深く頭を下げた。


 連日、この時間まで、自分のことを待っていてくれたらしい。顔を真っ赤にし、もの凄い勢いのまま飛び降りて行ってしまった自分のことを心配していたと伝えられた。


「ちゃんと、お詫びと、そして、お礼がしたかったもので」


 バウムクウヘンの箱が入った、オレンジ色の紙袋を手渡してくれた。そこに自分の折畳傘も、きれいに畳まれている。アイロンで伸したかのような新品に見えて、とても、自分のものとは思えなかった。

 あんな、傘一本、捨ててくれたって構いやしなかった。リサイクルコーナーで購入した、数百円のボロ傘だった。律儀というか、お人好しが過ぎる。


「本当に、ありがとうございました」


 彼女が、にっ、と笑うと、陽のひかりを浴びた、洗い立てのタオル地のように、ふくよかな人柄が滲み出た。これが彼女の平常運転なのだろう。心はいつだって、健康優良児たちであふれている。


 それが、彼女という、人間だった。


 自分は恥ずべき人間だった。卑屈さに任せて彼女に酷い態度を取った。感謝される道理も、頭を下げられる筋合もなかった。

 居たたまれない。彼女のその誠意が眩しかった。だから、正直に、胸のうちを伝え、謝ろうと思った。疎んでいたこと、妬んでいたこと、僻んでいたこと、喋ることはとても惨めでも、ここで、自分も誠意を示さなければ、本当にみじめな人間になってしまう。そんな気がした。心まで、不毛になってはいけない。


 逃亡生活を悔い改める指名手配版のような気持ちで、そのとき、初めて、自分は彼女に対して、言葉を向けた。

 酷く不様で、恥を忍んだ。そのうえ、むやみに時間まで割いた。おそろしくて、彼女の顔を見るのもはばかった。伝わったかどうか、わからない。自分はただひたすら、言葉を詰まらせ、そして、続けた。


「こ、こ、ここここ、こっ、言葉が、そっ、そそっ、そそっ、その、ごご、ごめっ、ごめわっ、ごごっ、ごめんなさっい」


 彼女は、言った。


「大丈夫、届いてます。ちゃんと、届きました。わざわざ、ありがとう。あなたのことが、きっと、よくわかったような気がします」


 思いもよらない言葉だった。


 礼拝堂で告解を終えた、カトリック教徒のように、自分は彼女の前で、思わず、手を合わせたくなった。何度も何度も、頷き、首を動かした。ぶんぶん、ぶんぶん、ぶんぶん。

 月明かりの照らす停留所が、慈悲深さに包まれる。人知れず、涙がこぼれそうになった。

 言葉で伝える、それは自分の中で久しく欠落していたことであった。この先も、叶わぬものだと信じ切っていた。しかし、そうではなかった。少なくとも彼女の前では。

 その言葉は、自分には、キリストのように貴かった。


 それから、坂の下で、二人仲良く、並び立った。名前を訊き合うと、欠けたドーナツ型の月を眺め、それから、彼女の坂の上「噺」の続きに耳を傾けた。

 彼女は、たいそう、笑っていた。だから自分も、たくさん、笑った。 


 やっぱりここは、不毛でも、聖地だった。


 バスがやって来た。

「それじゃあ、帰りましょうか」


 ここに来れて良かった。


 ぶんぶん。




 逃げて逃げて、逃げて、逃げ回った先で、出会った、一人の女性。

 彼女は、迷いの先に航路を紡ぐ、灯台の光のように、自分の目の前に、道を与えてくれた。踠きの渦の中であっても、強く、懸命に生きることを教えてくれた。

 そのような機会に巡り合える人なんて、はたして、この世には、どれほどの数いるのだろうか。

 人生のうちに、線香火が、そのこうべを地に垂らすかのような間だったとしても、そこには間違いなく、一瞬の火花の散らす、眩い輝きがあった。一生分の重みがあったと、自分は胸を張って言える。


 「団子坂下の奇跡」

 そのときの出会いを、後に自分は、そう呼んだ。









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