モジモジャさん

手紡イロ

モジモジャさん

今日、僕は死ぬ。病院のベッドの上で痩せこけた父が『あそこには絶対に入るな』と低い低い声で、幼い僕でもその言葉に深く頷くほどの重たい言葉を残した場所で。

薄らと埃を被った仏壇の前で、首筋を撫ぜる。さっきから徐々に息苦しさが増し、改めて“あれ”は実在するのだと悟った。目の前にある無惨に壊された父の位牌が、“不可視の力”を更に確信させる。

じわじわと体にまとわりつく空気が鬱陶しい。ふとその中に気配を感じる。ようやく来たか、と呟くはずだった唇は、一気に首を絞めあげられたせいで形を成すことも出来なかった。


本家に生まれた男は、必ず若くして死ぬ。知る限りでは長くて精々30代前半。父も僕が生まれてすぐに癌が見付かり、僕にあの言葉を残した後あっという間に死んでしまった。祖父も似たような感じであったらしい。後に曾祖母から訊いた話によると、男が産まれたときには男親は必ずこう言って聞かせていたようだ。

『仏間には絶対に入るな』と。

子供心をくすぐられる、まるで魔法の言葉だ。やるな、と言われたことほどやりたくなる。

祖父や父、ご先祖様も同じだったらしい。忠告を忘れ、女しか入ることを許されない仏間へ足を踏み入れ、早死への第一歩を踏み出すことになる。所謂“呪い”というものに魂を蝕まれ始めるというわけだ。

僕はというと、父の最期の言葉をしっかりと守り仏間を避けて生きてきた。というより、あの部屋からはもう蓋をしてもドロドロとした腐敗臭のようなモノが漏れだしているようで、他人より『そういうの』が鋭いところがあったせいで僕は近付けなかった。祖母や母も、砕けた父の位牌を見てから一度も仏間には入っていない。

大学に通う意味を見い出せず中退し暇を持て余した僕は、それこそ埃まみれの蔵をひっくり返して、この“呪い”の始まりを突き止めようとした。探すなら書物だろうと、変色した本やノートの束を紐解いて片っ端から調べ回った。

しかし、どうにもあまり得られるものは無いと思われて、溜息を吐きながら手に取ったのは高祖母が幼いときに書いた日記と思われるノート。半分惰性で読んでいって捲って――そのページに“描かれた”ものにゾワッと身体が震えた。

そこに描かれていた絵を食い入るように見る。殆どが黒で塗り潰されているそれには、ヒトのカタチ、その周りにうねる触手のようなモノ、空洞とされているのか眼窩は丸く色を塗られておらず、口は大きく裂けておどろおどろしい笑みを浮かべているようだ。子供が描いた絵と言うにはあまりに禍々しい。

暫く絵から目を離せなかったが、ふとそのページの端に何か書かれているのに気付く。絵の間を縫うように、

『ブツマ、カミノ毛、モジモジャサン。ザシキロウ、カナシイ、クルシイトイフ』

高祖母は幼馴染だった僕の高祖父と結婚したと聞いている。この家にも遊びに来たことは幾度もあったのだろう。そのときに仏間に潜むモノ――“モジモジャさん”とやらと出会したようだ。だが、本家の人間でも、ましてや男でもなかったから祟られなかったのだろう。しかもモジモジャさんの言葉まで聞いている。僕は他にモジモジャさんのことが書かれていないかとページを捲った。

だが、他にめぼしい記載はまるでなかった。はぁ、と落胆の溜息を吐いた瞬間、ごそっ、と音がする。何だろう、と思った次の瞬間には積まれた本やノートが崩れ、一頻り舞い上がった埃に咳き込み終えた僕の目の前にめちゃくちゃに散らばっていた。

暫くそれらを見つめた後、僕の人生一番となる腹の底からの長い溜息が漏れた。


身体中を何かに締めつけられ、必死に呼吸をしようと足掻いたが締めつけは緩むことなく更に強くなる。そのまま引き倒された僕は、苦しさに恐怖を感じることを出来うる限り振り払い、その正体を目に焼きつけた。

眼窩は空洞で深い闇が果てしなく続いているかのよう。大きく裂けた口からは涎と長い舌、そして『あひ、ひひひ』と声を垂れ流して、黒い何か――髪の毛をうねらせて愉快そうに笑っている。

「ひとい、ひとい、あひひ」

僕の意識が段々と遠くなっていくのを見て、モジモジャさんは嬉々として長い長い髪の毛を更に強く締め付ける。そして、

「おわり、おわり、おわり」

と心から嬉しそうに繰り返していた。


蔵を調べ回り、もうモジモジャさんに関しての情報はないと崩れ落ちた書物を片付けていた。そのときたまたま手に取ったのは高祖母の日記よりも更に古い、紙縒りで閉じられた書物。達筆な文字が連ねられて僕には読めなかったが、何かモジモジャさんにまつわるものであると確信めいたものがあり、大学でお世話になった国文学を教わった教授のもとへ向かっていた。

「これはまた古いの持ってきたねぇ」

顎髭を撫でながらしみじみと言うと、パラパラと一通り流し読みし、「それで」と顔を上げ、

「中身を知りたいと」

「はい」

「全部?」

「全部です」

うーん、と唸った教授は、ひとしきりブツブツ呟いた後、有難いことに時間をくれと承諾してくれた。終わったら連絡してくれるとのことで、僕は電話番号を渡して大学を後にした。

帰りの電車の中、あの書物の中身が何なのか思案する。何故あれがモジモジャさんの正体に近付けるモノだと確信に至ったのか。目を閉じて思い返す。崩れ落ちた書物の中から真っ先に手に取ったあれは――。


――いよいよ意識が遠退いてきた。これで本家の血を引く男は消える。もう呪う相手もいなくなって、モジモジャさんも浮かばれるのだろう。教授に解読を頼んだ書物の中身をぼんやりと思い返す。

あれほ日記だった。絶対に見付からないように隠し隠し綴られ続けた、その昔この家で使用人をしていた初老の女性が、ひとりの女性の生涯を書き留めた日記。

その昔、他所で女を作り夫に疎まれ、座敷牢に入れられていないモノとされていた妻がいた。お前との子はいらない。そんな不条理な理由でモジモジャさんは座敷牢に入れられていた。絶望していた彼女を慰めたのは、初老を迎えた口の固い女の使用人。本来ならば許されないことだが、座敷牢に出入りする短い時間二人は言葉を交わし、いつかここから出してもらえるとお互い信じ続けた日々を過ごしていた。

しかしそれはある日、呆気なく終わる。座敷牢が人の目に触れそうになったことから、いい加減痺れを切らした夫に首を絞められ殺されたのだ。遺体は人目につかないところで乱雑に埋められたらしい。日記の最後には何かで――初老の使用人の涙で滲んだ痕があった。

ふと、首を絞めつける力が弱まった。四肢は捕らえられたままだが、首に絡んでいた髪の毛は全てが解かれ、僕は勢いよく息を吸って激しく咳き込む。その間、モジモジャさんは「おえ、かあし、なしい、かあし?」と不思議そうに僕を見下ろしていた。

「あぜ? かあし? おえ、かあし?」

問いかけてきているのか。僕の息が整うと“モジモジャさん”はしゃがみ込んで顔を覗き込んでくる。

「あして、かあし?」

闇に飲まれていた眼窩が微かに揺らいだ。涎と長い舌を垂らしていた口は、僕の返事を待つようにいつの間にか閉じられている。試しに腕を動かそうと力を入れてみたら、きつく縛られていた髪の毛が様子を伺うようにだが解けていって、僕は“モジモジャさん”と真正面から向きあった。

うねる髪の毛が完全に僕から離れた。かくん、と首を傾げると「あして、かあし?」と再び問いかけてくる。

「おえ、あぜ、かあし?」

「…………」

どう伝えたらいいのか、中々言葉に出来なかった。黙りこくった僕に再び髪の毛がするするとまとわりついてくる。

――出来るかどうかわからないが、もうこれしか思いつかない。

僕は髪の毛に絡まる前に、モジモジャさんを抱きしめていた。

「ごめんなさい」

今までいくつの魂を食らってきたのだろう。吐き気を催す腐敗臭がする。だがそれ以上にモジモジャさんの苦しみと哀しみの感情が渦巻いているのを、僕は全身で感じていた。

しゅるしゅると髪の毛が絡みつく。ただ、さっきまでとは違い優しく包むように。もう形を成しているのは頭部だけだ。そんな姿になってしまうまで、モジモジャさんは夫を怨み、その子孫を呪い、ヒトではなくなってしまった。今まで誰もがその存在を恐れるだけで、理解しようともせず、ただ自分の存在を知らしめることしか出来なかった。

「僕で終わりだから」

夫に愛されなかった寂しさ。

平凡な日常への渇望。

子を産めなかった苦しみ。

呪うことしか出来なかった辛さ。

抱きしめたモジモジャさんから直接なだれ込んでくる、様々な想い。全てを受け止めるにはキツすぎた。まるで自分がそうであったようで涙が止まらない。だけど、改めて決心がついた。

そっとモジモジャさんの顔が見えるように離れると、左目がヒトの、生きていた頃に戻っている。その頬を伝うぽろぽろと透明な、綺麗な涙。

「僕が一緒にいくから」

微笑んで見せるとモジモジャさんはこくんと頷き、優しく僕の首に髪の毛を巻き付けた。

そして、僕の心臓の上にするすると髪の毛をとぐろにして押しあてる。

「くうい、しあい……」

最初の禍々しさが嘘のような、とても穏やかな声だった。

「ありがとう」

また僕はモジモジャさんを抱きしめて、首が絞まるのと、涙で肩口が濡れていくのを感じていた。




fin.

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

モジモジャさん 手紡イロ @irobird16pajarer

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ