54/いつか消えてしまうなら





 いつの間にか、窓から見える景色は朱色に染まりかけていた。


 放課後に入った一年一組の教室。

 しんと静まり返った空間に人影はただひとり。


 渚はぼんやりと夕暮れの空を眺めている。


「…………、」


 ほう、とため息にもならない吐息が洩れる。


 部活動の音に溢れた校舎は賑やかであれども人気は薄い。

 廊下側に近くある彼女の席でもそれは一緒だった。


 新参者が集められた教室は五階。


 いまの時間帯にそこを通る生徒は殆どいない。

 別におかしなコトではなく、単に用なんて出来ようもないからだろう。


(……なに、してるんだろ……)


 机の上に上半身を倒しながら渚は考える。


 彼女が残る理由はまったくない。

 今日は学級委員としての仕事も生徒会の手伝いも入っていなかった。


 部活動にも所属していないのだから授業が終わればすぐ帰ればいい話。


 ただ、そこでちょっと色々と思うところがあって。

 結局は立ち上がれもしないまま長居してしまっただけ。


(…………私は)


 思い起こされるのは昼休みの一件だ。

 ふらっと立ち寄った美術室で起きた馨とのやり取りである。


 ……別に彼の言葉が刺さったままなワケではない。


 心を揺らされてズルズルと引き摺っているのとは違う。

 以前までの渚ならそうなっていただろうが、今はまだまだ大丈夫なほう。


 落ち着いて思考を回せているだけ、少しは前に進めている証拠だった。


(結局……どう、なんだろう)


 心に浮かんだ答えはたしかな形を取りつつもぼやけている。


 優希之渚という少女の在り方。

 彼女がこれまで歩んできた過去に対するモノ。


 なんであれ持ち直した現状は、けれども自分自身だけの成果ではない。


 かつては正しく物事を捉えるコトすら難しかった精神ココロ


 生まれ変わったとしてもそれは根本的に解決していなかった。

 渚の醸し出す人を寄せ付けない雰囲気オーラがその証明だろう。


 それが薄れてきたのはつい最近になる。


 理由だって考えずとも分かるぐらい明白だ。


 たしかに彼女は前に進んだ。

 なんであれ以前のように生きていく力を取り戻しつつあった。



 ――――誰でもない、かれに支えてもらいながら。



 もしも彼が杖であるのなら。

 義手、義足、果ては車椅子であったなら。


 そんな状況も悪くはないと言えたかもしれない。


 でも肇は人間だ。


 生命機構でいえば変わったところもないただのヒト。


 刺されれば血が出るし、血が出れば命に関わるし、下手すれば手遅れになる。

 当たり前に生きて当たり前に死んでいく。


 それは悲観するコトじゃない。


 生き物である以上いつか死ぬのが自然の決まり。


 当然の流れだろう。


 ヒトはモノと違って代えが効かないものだ。

 それは現実的な話じゃなく、個人的な――もっと言えば精神的な話。


 壊れたからといって簡単に治せるワケじゃない。

 駄目になったからといって交換できるハズもない。


 ……だから問題は。


 それが絶対的な支えになっているというコトになる。


 そのコトに渚は少しだけ気が付いた。

 思えば、私はいつも彼に頼ってばかりいたのかな――――と。


(……肇くんが、もし……)


 居なくなったら。

 姿が消えたら。

 遠くへ行ってしまったら。

 離れ離れになってしまったら。


 最悪――――死んでしまったら。


 ……言うまでもなく。


 きっと彼女は耐えられない。


 ただ好きな人であっただけでも相当なモノだ。

 過去ぜんせ彩斗おとうとだと分かったいまそのショックは計り知れないものとなるだろう。


 そうなれば多分、精神は深い場所へと遡行する。


 暗い過去へとさかのぼる。


 そんなときにどういった選択をするのか、一度身をもって経験した彼女はなんとなく判断もついた。


(――――最低……なんてこと考えてるんだろう、私…………、)


 くすりと微笑む。

 想像上では笑えもしない有様だったけれど。


 せめて形だけの笑みを浮かべて彼女は顔を伏せた。


 彼女の歪みは根本的な部分と、そこから発展した対人関係によるものだ。

 簡単に処理できる爆弾ものじゃない。


 それこそ渚が自立できるように肇が支えていたのなら結果はまた違ったろうが、なんの自覚もない彼にそこまで望むのは難しいと言えた。


(…………でも、ほんとに、いなくなったら……)


 いつかに失って取り戻した彼女の指針。

 生きる気力を湧き出させてくれる心の拠り所。

 他にひとつと存在しない彼女の太陽ひかり


 凍えきった身体を、冷めた精神を温めてくれた。

 引っ張り上げてくれた、すくい上げてくれた。


 優しく背中を押してくれた恋い焦がれる相手ひと


 そんな相手を失う。


 彼女にとっては考えたくもない未来。

 目を背けたいほどの暗い行き先。


 ……でも、いつかは必ず辿る結末のひとつ。


 違うとすれば、それは彼より先に彼女が死んだ場合だけだ。


(――――私が、先に……)


 そうすればきっと渚幸せだ。

 彼の傍で、最期の最期まで彼に見られながら、彼を失う痛みを知らずに去っていく。


 正しくこれ以上はない終わりだろう。

 おそらく未練なんてあってないようなぐらい。


 けれど必ずしもそうなるとは限らないのが人生だ。

 一日先、一寸先ですらなにが起こるか知りようもないのが普通。


 …………なにより。


 残される側の苦さを、辛さを。

 彼女はよく、知っている。


 それを彼に与えていいものかと。


 そこまで思考が回ったのは、自力ではないとはいえ進歩があったが故の間違いなく良い部分ところだ。


(……私が死んだら、肇くんはどうなるんだろう……)


 泣いてくれるだろうか。

 渚のように重く引き摺るだろうか。


 わからない。


 姉弟でも精神性が同じとは限らない。

 産まれ育った微かな環境の違いだってある。


 ――彼は強固だ。


 彼女とは根本的に自我のつくりからして違う。

 芸術的センスが飛び抜けているだけに肇の自己、完全性は欠落する余地がない。


 なればこそ、きっと泣きはするだろう。


 でもそれまで。

 たぶんそれだけ。


 思いっきり泣いて、思いっきり悲しんで。

 たくさんいっぱい沈んだあとに、変わりなく進んでいける強さを持っている。


 ……ああ、そう考えるとたしかに。


 渚ではダメだという馨の言葉は、ちょっとだけ頷けるような気がして――






「――――あれ、優希之? おまえなんでまだ居んの」


「……海座貴くん?」



 いぶかしげな目で渚を見るひとりの男子。

 異性にしてはよく話すクラスメート。


 突然の闖入者は黒いギターケースを背負いながらやってきた。


 予期しない人物の登場に驚いたのも一瞬、彼女は思考を中断して居住まいを直す。



「そっちこそ、いま部活じゃないの……?」

「早めに切り上げ。そんで、教室に数学のノート忘れてたから取りに来たんだよ。ひとり物憂げに佇んでる奴がいたけど」

「……別にそういうのじゃない」

「じゃあ格好付けてる奴がいたと」


「殴るよ」

「優希之。オレ、おまえのその、直ぐ手が出るところは悪いところだと思うぞ」

「海座貴くんにだけだから」

「うわぁ、世界で一番嬉しくねえ独り占め」



 うへぇー、なんて声をあげながら彼は自分の席へ向かう。



「んで最初の話に戻るけどなんで居んの、おまえ」

「……なんでだろうね」

「いやその返しがなんでだよ。……肇待ってんの?」

「……そういうんじゃないよ」

「ふーん……」



 がさごそと机の中を漁る三葉。

 お目当ての品物は早々に発見できたのか、「おっ」なんて声をあげて一冊のノートを引き抜いていく。


 そうして彼はそのままUターン。


 渚のコトは気にせず帰る――かと思いきや、どすんと彼女の隣の席へ腰掛けた。


 さも最初からそう決めていたような様子で。



「…………なに」

「いや。ちょっと気になって」


「……そこ退いてよ。肇くんの席だし」

「いいじゃん。オレと肇の仲だからな?」


「そんなに仲良くないでしょ」

「少なくとも長いコト名字呼びだったおまえよりか近しくあるだろ」


「は?」

「冗談だっつうの」


「笑えないから」

「いつにも増してピリピリしてんなー……おまえ」



 呆れたように三葉がため息をつく。

 渚は打って変わって彼と反対側――廊下のほうへ顔を向けた。


 なんとも面倒くさい遠回しな意思表示。


 それを少年はどう思ったのか、頬杖をつきながら二度目のため息をこぼす。



「……どうしたんだよ、優希之」

「……なにが」

「如何にも悩み事ありますって顔してんぞ。どうせ肇関連だろうけど」

「……どうにしたって海座貴くんには関係ないコトだから」

「そうだな。関係ないから話聞いてやるよ。そのほうがやりやすいんじゃねえの」

「………………、」



 そっと、渚が三葉を盗み見るように首を動かす。


 ……いつものふざけた態度で忘れがちだが。


 ほんとう。

 こういうところはものだな――と。



「……別に大したコトじゃないけど」

「ああ」

「肇くんが居なかったら私、生きていけないかもなって」

「大したコトじゃねーかおまえ」



 いつにも増して鋭いツッコミに渚はくすりと微笑んだ。


 彼女としてはふざけたように言ったけれど、彼相手ならそれで十分らしい。


 本心の重みがどうかぐらいは察して余りある。

 そのあたりの機微には聡いのが三葉という少年だった。



「前から思ってたけど、優希之って重いよな。つくづく肇相手で良かったと思う」

「……なにが良いの?」

「だっておまえ、そこまでだと普通は困るだろ。……いや、なにをもって普通とするのかはオレも昨今わかんないけども」

「私だってわかんないよ」

「そうか。……ま、そこらへんマジで相性は抜群だとオレは感じたけどなー」



 ああいうのはなかなかいねえ、と笑う三葉。


 それはたしかにその通りだと渚も思う。

 肇のような相手はそうそういない。


 繋がり的にも、人となり的にも、素質的にも紛れもない希少性の塊だ。

 一部だって彼の代わりは他人に務まらない唯一性。


 だからこそ、やっぱり渚は暗い予想に考えを引っ張られる。



「……私さ、肇くんに助けられてばっかりなんだよ」

「まあそりゃあ、見てりゃ分かるけど」

「ずっとずっと引っ張ってきてもらってさ。それでここまで来れたってのも分かってるし……実際そうなんだけどね」

「ほぉー……そんで、そのなにが不満なワケよ」

「言ったでしょ。居なくなったら、生きていけないんだって」

「………………、」



 自嘲するように渚は語る。


 その言葉に強い響きが付随するのは事実だからだ。

 遠く離れた空間とはいえ、過去に実際あったコトだからだ。


 無論、三葉はそんな馬鹿げた因果を知る由もない。


 ただ酷く感情のこもった言葉であったのは理解できた。



「肇くんと居ると楽しいし、嬉しい。幸せだって思うし、満足できる。一緒に居たいって思う。ずっと傍に居たいって」

「急に惚気んな。口の中甘くなる」

「……だって仕方ないじゃん。私知らなかったんだよ。ぜんぜん気付かなかったもん」

っておまえ」

「なのに……、なのに――――惚れちゃったんだよ。私、あの子に」



 肇と過ごしたいつかの時間。


 過ぎていった何気ない日々の中で。

 重ねていたのは彩斗おとうとの影だったけれど、追っていたのはそうじゃなかった。



「しょうがないじゃん……そんなの、私……違うのに。でも、だって……っ」



 いつだって彼女の胸を弾ませたのは。

 この心を独占していたのは、振り回したのは。


 彩斗おとうとによく似た誰かじゃなくて。


 ――――そうではないと切り離した水桶肇その人だった。



「なのに今更言われたって、わかんないよ。違うもん。私、あの子を見てたワケじゃない。ちゃんと肇くんだから、彼だから――――好き、でっ」

「……落ち着け優希之。そんなん向こうだって分かってるだろ」

「分かってないよ多分絶対だって肇くんだよクソボケだもんっ!!」

「お、おう。そうだな。そうかもしれんな」



 なるほどクソボケは言い得て妙だな、と頷く三葉のセンスはきっっと正しい。

 古今東西純朴天然を表す言葉などそれで十分なのだ。


 水桶肇はポンコツクソボケ。


 そんなのは男女共通――ともすれば万国世界共通の認識である。



「……大切なんだよ、大事なんだよ。だったらさ、そしたらさ……なくなったら、どうすればいいの」

「……肇、あいつなんか悪いところでもあんの?」

「そうじゃ、ないよ。ううん、そうじゃない。……いつか、死んじゃったら。居なくなっちゃったら、私、無理だよ。絶対無理。生きていけない。彼がいない世界なんて……そんなの、私――――」

「優希之…………」



 経験則に基づいた結論と、自覚しているが故の現実。

 そこに過去の出来事が余計な装飾として加われば完璧だ。


 自分の弱さに気付いて、不足している部分に気付いて、失敗にも気付いた。


 後退する理由はそれだけで出来上がってしまっている。


 皮肉にも、前へ進んでしまったがために。



「――……だから、どうなのかな……って、思って。……考え込んでた」

「………………、」

「私、こんなんで良いのかなって。肇くんの傍に居て良いのかなって。どうしようもないのに、そんな資格とか、あるのかなってさ……」



 きゅっと、ちいさく両手の拳を握りながら渚はこぼし終えた。


 整理のつかない感情。

 整理のつきはじめた思考。


 ふたつがない交ぜになった言葉は後ろ暗いものに塗れている。


 罪状はたしかではない。

 けれどそれはある意味告発じみていた。


 絵を燃やしたというコト。

 後を追ったというコト。

 彼の死を長らく引き摺り続けたコト。


 そのせいでまともじゃ居られなかったコト。

 根本的な部分ではそんな自分に変わりないコト。


 ……そう、実際、今みたいに。


 肝心なところで後ずさってしまうほどには。



「――――……優希之、おまえさ……」



 そっと三葉が口を開く。


 俯き加減な渚を見詰めながら。

 どこか気遣うような視線を投げて。


 彼は優しく――――













「おっっっっっっっっっっも」





 ――――優しく、というのは誰かの見間違いだったらしい。


 静かに顔をあげた渚はくるりと九十度横に回転。

 ゆっくりと両手を伸ばし、彼の頭を振れるように掴んだ。


 そして、



「――――しッ!!」


「がッ!!」



 ごん、と逃げ場をおさえて膝を喰らわせる。


 衝撃の逃れようもない。

 防御のしようもない本気の膝蹴り。


 しかも顔面への情け容赦のない一撃だった。


 真正面からそれを受けた三葉は土砂かなにかのように床へ崩れ落ちていく。



「……て、てめえ優希之……っ、そういうところがなぁ……!」

「人が真面目に話してるのに茶化すからだよ」

「いやおまえそれ以外どう反応しろと。重いんだよ、重い」

「女子にそういうコト言うの最低だと思う」

「うっせ。違うしな。つうかおまえだって乗っかってんじゃん」



 ぶつくさ言いつつ姿勢を戻す三葉。


 渚から結構な制裁を喰らっているのにめげないあたり彼はわりと大物だ。

 むしろまったく怒る気配がないあたり凄まじい強者と言ってもいい。


 なんだかんだで二人の仲が宜しい証拠でもあるが。



「重いし、めんどくせえし。その上こじらせ過ぎてんな、優希之は」

「…………しょうが、ないじゃん。私だって好きでこんなんじゃ……っ」

「ま、そこら辺は仕方ねえよ。生まれ持った性ってのもあるだろうし」



 息を吐くように三葉が笑う。

 再度すぐに下を向いてしまった渚からその表情は見えていない。



「……な、優希之。おまえなんで生きてるんだ?」

「…………それ、は」

「ああいや、違う。すまん、ごめん。悪い意味じゃない。どうしてって感じだ」

「……なんでって、別に、普通に……」

「じゃなくってさ。うん。優希之だけじゃないし。なんつうかなぁ」



 うーん、と考え込んだのは数秒足らず。


 なにを悩んだのか彼女には見当もつかなかった。

 質問の意図すら曖昧なものだ。


 渚にはまだ三葉の言いたいとするコトがイマイチ掴めない。



「優希之の言ってるコトは分かんなくもねえけど、それをどうにかするために生きてるもんじゃねえのかな。普通」

「……どうにか、って」

「なくなってからも歩いて行けるように、いまあるうちに沢山溜めておくんだろ」



 咲き誇るような表情で三葉は言った。

 肇とはまた違う、真っ直ぐで晴れやかな顔で。



「死んだら辛え。消えたら悲しい。居なくなったら寂しい。当たり前だ。誰だって同じだそんなん。そのあと生きていくのだってしんどいに決まってる。だから生きてるうちにいっぱい作っとくんだろ。充電だ充電」

「充電って……」

「違うのかよ? だっておまえ人なんだからいつかは絶対死ぬんだぞ。そうと分かってるなら今のうちにやれるコトやっとかなくてどうするんだ」

「………………っ」



 思わず返す言葉を失ったのはあまりのストレートさからだ。


 気遣いの欠片もない台詞。


 浪漫も特別な響きも一切込められてはいない。

 ともすれば嫌な現実さだけが刺さる一言。


 けれど、だからこそ。


 そんな彼の言うコトは率直に届いてきた。



「いつ来るかもどうやって来るかも分かんねえ未来に怯えて足踏みしてるだけとか馬鹿らしいぜ。耐えられないって気付いてんならそれこそだ。たとえ肇がいなくなったとしても歩いて行けるぐらい今のうちに作ってためとけよ。モノじゃなくて、カタチじゃなくて、優希之の思う部分になー」

「……私の、思う部分……」

「これさえあればあいつが居なくても大丈夫って思えるところをだよ」



 くしゃりと笑って立ち上がった三葉が、ぐわわーっ、と乱雑に渚の頭をかき回していく。



「っ、な、なにすっ……やめっ……――やめてホントに」

「いやガチトーンはよせ。怖え。肇には無抵抗でやられてんのに」

「うるさい。肇くんは別に良いもん」


「優希之」

「なに」

「おまえが〝もん〟ってちょっとキツ――」


「っ!!」

「ぐっ!!」



 本日何度目かも分からない衝撃に悶える少年の姿はちょっと憐れだ。


 渚にもっとパワーがあって本気ならもう腹筋は青痣だらけだったろう。


 彼女がか弱い女子であったコトに三葉は地味に感謝した。

 これが同性の運動部連中であれば洒落にならない。


 シンプルに喧嘩の時間だ。


「……いってぇ……おまえな。折角ヒトが助言してやったのに……」

「余計なコト言うからでしょ」

「はいはい、すいませんね。……ともかく、オレから言えるのはそんなもんだよ。複雑に考えすぎなんだよ、優希之は。きっと肇だってそう思ってるぜ」

「そんなワケ――――」


 〝深く考えすぎなんだ〟


 瞬間、頭に浮かんできたのはそんな言葉。


 面と向かって言われた記憶はない。

 彼女が朧気な意識でとらえた誰かの響き。


 眠る前に聞いたような、隙をついて発せられたような、靄がかった肇の声だ。



「――…………、」

「ん、当たったか? まあどっちでも良いけど、少しは素直になれよ。気持ち的にも考え方的にも。そのほうがお前らは良いよ。多分だけどな」

「…………なにそれ」

「オレの勘。じゃあな、優希之。あとどうするか決めるのはおまえだから」



 そう言うと、三葉はさっさと教室から出て行った。


 自分から言ってやれるのはここまで。

 あとは他人に任せる領分でもない――とでも言うかのように。


 大事な部分は渚自身でやるものだろうと。


(……いまのうちに、溜めておく……)


 かたん、と椅子を鳴らしながら背もたれに体重を預ける。


 見上げた天井に夕暮れの色は消えていた。

 窓から覗く空模様はすでに夜の景色に移り気味。


 どうしようもなく時間は無情に過ぎていく。


 ……いや、だからこそ無情も薄情もない。


 予感はある。

 確信だってしている。


 いつか消えると分かりきっているもの。

 定められてここに在るモノ。


 ならばそれが残っているうちに。


(……ああ、そっか)


 思えばそんな考えを、彼女はしたコトがなかった。


(……私、彩斗がいないってコトに悲しむだけで、なにも見てなかったんだ……)


 そこに気付けたのは果たして幸か不幸か。


 暗くなっていく教室で少女はひとり物憂げに座り込む。


 密やかに、静やかに。

 どこか風が抜けていくように。





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