53/彼のとっても悪いところ





「――――あ」


 渚が教室に顔を出したとき、誰かの口からそんな声が洩れた。


 残り半分を切ったかという昼休みの時間帯。


 中に居るのは弁当組と購買組。

 あとは早くに済ませてきた食堂組だろう。


 クラス全体で見ればおよそ七割の人間が集まっている。


 その全員が一瞬渚の顔を見たあと、しゅばっと勢いよく目を逸らした。

 こう、なんというか、示し合わせたように。



「優希之さんだ」

「にわとりちゃん……!」

「オトナギサ……」

「名字はどっちだ……!?」

「君はまだシンデレラだと思ってたよ私は」


「…………?」



 ひそひそと語られるなんだかオカシな話。


 それに彼女はガッツリ眉をひそめて反応する。


 なんとも微妙な雰囲気は意図的に作り上げられたものだ。

 自然発生したワケではない。


 今まで保健室に居たからそれが理由かと思ったがそうではない。


 ほんのり、やんわりと。


 渚から逃げた視線はひとりの少年へと集まっていく。




「――お、優希之。戻ってきたのか。おっすおっす」




 未来の花嫁ー、なんてからから笑う少年に渚はつい天を仰いだ。



 〝――――――コイツかぁ…………〟



 どこか遠い空を拝む今朝方お姫様抱っこされたばかりの美少女。

 いまのいままですっかり忘れていたが、そのときのどこぞの阿呆が言ったコトを彼女はしっかり思い出せた。


「あ、渚さんもう大丈夫? 元気出た?」


 と、そんな三葉アホの横からひょいと肇が顔を覗かせる。


 どうやら珍しく一緒に食事を摂っていたらしい。


 いつもなら肇は美術部の部員や馨か渚と、

 三葉は軽音楽部のメンバーと食べるのだが今日は違ったようだった。


「――――――」


 だがそんな想い人の反応を渚はあえて無視した。


 コツ、と甲高く靴音を鳴らして歩みを進める。


 彼我の距離は十メートルもない。

 走らずとも逃さぬコトなく捕らえるのは簡単だ。



「えっ、なんか寒っ」

「急に冷え込んだね。もう四月も終わりなのに」

「……ちょっと待て。優希之嬢の様子がなんかおかしい」

「全員下がれっ! なんか不味いぞ、あれ! ……いや海座貴はそこに座ってろ。いい。水桶も大丈夫だ。うん」

「鎮まれ! 鎮まりたまえ! さぞかし名のある女神と見受けたが、何故そのように荒ぶるのかッ!?」



 ――コツ、コツ、コツ。



 気のせいか、一年一組の教室は春真っ盛りだというのに真冬の光景を幻視できた。

 ちょっと薄目にすれば窓の外は強く吹雪いている。


 幻覚だ。


 あまりの迫力にみんな脳がやられているのだろう。



 ――コツ、コツ、カツン。



 ぴったりと三葉の前で足を止めた渚が、立ったまま容赦なく彼を見下ろす。


「……オイくそ野郎ねえ海座貴くん


「渚さん?」

「どうどう。落ち着け優希之。たぶん本音と建前が逆だ。見ろ、おまえのボーイフレンドがめちゃくちゃ驚いてる」

「ストレートに罵倒しても渚さんは素敵だよ……!」

「人をダメにするフォローの仕方してんじゃねえ」


 まあそうやって空気を読まない天然純朴野郎ポンコツクソボケは置いといて。


「――――なんて言ったの?」

「優希之と水桶が朝帰りしてて通学途中に優希之が腰痛すぎて歩けなくなったから保健室で休んでるって」


「ふんッ!」

「こ゚ッ!!」


「渚さん!?」


 ずどん、とイケメンの腹筋に叩きこまれるボディブロー。

 一撃で仕留めんばかりの躊躇のなさ。


 真っ直ぐ突き刺さった拳はその衝撃を余すところなく人体へ伝えた。


 血痰を吐き出さん勢いで殴り抜かれた海座貴某はガクンと膝から崩れ落ちる。


「み、三葉くーん!」

「っ、肇ぇ……! 逃げろ……おまえじゃ、優希之には……敵わねぇ……ッ」

「そ、そんな! しっかりしてくれ三葉くん! 食堂の唐揚げ定食をひとりで平らげるって言ってたじゃないか!」

「もう……喰ったさ。腹ァ……いっぱいだ……!」


 茶番だった。

 ちょっとイラッとした渚は仕方ないだろう。


 …………というか、


「いつから下の名前で呼ぶようになったの……」

「ついさっきだぞ。肇と一緒に飯食ってたら、なー?」

「そうそう。なんかこう、話がはずんでね。三葉くんやっぱ良い人だし」

「どうよ。一年以上名字でしか呼べてなかったヤツとは違うんだぜ、ユキノニワトリ」


「っ!!」

「か゚ッ!!」


「三葉くーん!!」


 漢海座貴、本日二度目の腹筋崩壊(物理)である。


 冗談交じりの煽りはそれでも有罪ギルティだ。


 三葉と肇が親しげにしている様子は渚もあまり見たコトがなかった。

 つまり本当にそれまで普通の同級生感覚だったというコト。


 一日足らず。


 クラスメートの美術部連中ですら数週間はかかったのに昼休みの食事一回。


 それでお互い下の名前に移行したというのだから男だろうがなんだろうがちょっと嫉妬すジェラる。



「……肇くんこいつダメな男だから仲良くしない方が良いよ絶対。やめた方が良いよ」

「えー。でも話してて面白いよ三葉くん。すっごく」

「同感。なんていうかオレも分かる。優希之はやめとけ」

「ほらこんなコト言うよ」


「て言われてるけど。どうなの三葉くん」

「肇。オレはあれだぞ。おまえの絵を見たときからエモーショナルだった」

「そこ気付くの凄いよね。包丁みたいなセンスしてる」

「あっはっは。褒めるな褒めるな!」


 〝あっこれ美術部部長とかと同じ感じタイプの会話だ……〟



 どこか要領を得ない会話に察する渚。


 流石に「ツーカー」というレベルではないだろうが彼らもそれなりに本能言語でのやり取りができている。

 え、まじで? これが? と人を指差して顰めっ面をする彼女は傍から見るとちょっと失礼かもしれなかった。


「しかし上手いよな肇。雪射しだっけ? すげーよ。ダイヤモンドみてえ」

「ありがとう。そこまで言われるとちょっと照れる」

「照れんなよ。大丈夫だろ、あれだけのものだったら」

「個人的には色々とあるけども」

「へぇー。そりゃあまたなあ……?」


 〝……部長さんとだと別になんでもなかったのに。海座貴くんだとなんか腹立つんだよね……〟


 なんでなのかは渚も分からない。


 ついでに言うと付随してひとつ思い出してもいた。

 そう言えば、なんて記憶の掘り起こしで。


 原作ゲームではたしか、海座貴三葉あほまぬけ楽曲ソッチ方面に関する才能とセンスは尖りまくっていたなと。


「……雪射しって、なに?」

「なにっておまえ……ああ。優希之は絵、まだ見てないんだっけか」

「渚さんも見てはいるよ。三葉くんが言ってるのはまた違う前に描き上げたやつ」

「……そう、なんだ……」

「うん。俺が創作意欲を爆発させた正真正銘の復帰作」


 いぇーい、なんてピースサインをつくる天然クソボケ。

 隣にいる三葉アホが気の合う同性と知ってテンションが上がっているのだろう。


 渚はというと思うところがあったのか、それを受けて急に俯いた。



「…………ねえ。肇、くん……」

「……? うん、どうしたの」



 ぎゅっと、ちいさく拳を握り締めたのはどういう心境からか。




「――私、その……肇くんに、なんか……してあげられた、かな……」



「え? 勉強??」

「っ、そ……そういうの、じゃなくて……!」

「そういうのじゃなく」


 ほほぉー、とオウム返し込みで頷く肇はそのあたり分かっているのか心配になる。


 じゃあどういうのか、と訊かれると渚としても言語化するのはちょっと難しい。

 頭の中では理解しているものの、上手い言葉を見つけ出せない。


 ……それがまた悔しくて、自然と握った拳に力を入れた。


「うーん……」

「――――――……っ」

「よく分かんないけど」


 ぴくん、と彼女がその声に肩を震わせたときだ。



「色々とお世話になってる気がするから良いんじゃない? 少なくとも俺は渚さんと一緒なら十分嬉しいし!」


「――――――――」



 〝かっ!!!!!!〟



 それは閃光じみた胸中の悲鳴だった。


 目の前で花開いひかっ表情フラッシュバンはあまりにも衝撃的。


 眩しい。


 ただただ目を焼かれる純度百パーセント――百二十パーセント――いいやそれすら越えて五百パーセントのとした笑顔。


 直後、渚は頽れるように溶けた。


「――あれ、渚さん?」

「肇。火力が高すぎたな。見ろ、優希之が地面に落ちたアイスみたいになってる」

「渚さん??」

「家庭科室行ってこい。業務用の冷凍庫あるから」

「なんでそんなもの置いてるのこの学園……」

「シンプルな規模のでかさだろうな……」


 びしゃびしゃの水溜まりみたいになった少女の前で男二人が食事を再開する。


 当たり前のように会話しながらサラッとおかずの交換をしているあたり、やっぱり聞こえてない言葉は続いているようだった。

 渚にはてんでさっぱり、触りすら掴めない。


「――そうだ。渚さんもご飯まだでしょ。一緒に食べよー」

「…………え、あ……う、うん……っ」

「肇、肇。オレは犬に食われたくねえよ」

「大丈夫大丈夫。お馬さんは賢いんだよ」

「そうかぁ。……それより優希之、おまえ本当に腰は大丈夫かッ――」

「三葉くーん!」


 くの字に折れ曲がって倒れる海座貴少年を余所に渚は自分の席へと向かう。


 弁当を引っ張り出してくるのだろう。


 鞄は事前の予想通り、朝のうちに肇が持って運んで机の上に置いていた。

 本当、そこまでしなくてもいい気遣い。


 ……けれど、いまの彼女にはそれだけでもちょっと嬉しいので。


「おのれ優希之……! あいつオレのコトをサンドバッグかなにかとッ」

「仲が良いからだよ。俺、あんなコトそうそうされないし」

「それこそ犬も食わねえんだよなあ……」

「??」


「海座貴くん、黙って」

「こういうところあるからマジでオレ優希之はやめた方がいいと思う」

「――――っ」

「やめろ優希之。無言で構えんな。……気を付けろよ、おまえ」


 ぴた、と口を開かないまま動きを止める渚。


「…………、」


「――――腰やってんだから」


「ふっ!」

「き゚っ!!」


 もはや漫才コンビもかくやという流れだった。

 音楽系イケメン、ここに散る――――







 ◇◆◇







 その日の放課後も肇は部活動へ参加した。


 残りわずかとなった過去の遺産を描き上げるためである。


 軽い調子で顔を出したとしても部長から文句は言われない。

 湧いている意欲が正真正銘本物だと分かってるからだ。


 天才特有の阿吽の呼吸は相も変わらずも絶好調。


 いつも通りの席に座っていつも通りの席に座れば、特にコレといった異常もなくいつも通り時間は過ぎていく。




 ――ハズだったのが、今日はどうにも違ったらしい。


 というのも約一名、非常に荒ぶっている人が居たからだ。



「――――――」



「……あの、水桶さん」

「? どうしたの姫晞さん」

「いや、あの。潮槻さんなんですけど……」

「うん」

「なんか様子、おかしくないですか……?」

「そうかな?」


 言われて肇も馨のほうを向く。


 見れば彼はいつにも増して真剣な表情で筆を走らせていた。

 眉間にシワを寄せていると言ってもいい。


 普段のクールビューティーじみた冷酷な鉄の仮面が気持ち般若のように変わっている感じさえ見受けられる。


「筆遣いが荒いです……」

「言われてみればたしかに」

「あとさっき折れてこっちに飛んできました」

「え。なにが?」

「――――筆が」

「筆が…………、」


 摩弓がそっと差し出したポッキリいった絵筆に「おぉ……」なんて若干驚いた反応を返す肇。


 本人が気付いているかどうかはともかく、馨の持ち味は絶妙な加減の繊細なタッチと境界を曖昧にする流れるような色彩のラインだ。


 そのあたりは肇ですら敵わないほどの高いポテンシャルを持っている。

 優劣ではなく表現の技法が違う方向性にあるからこその素質。


 それを踏まえて考えればなるほど、力任せにキャンバスへ筆を叩きつけている彼の姿はたしかにおかしい。


「話聞いてみる?」

「……え、あ……良いんですか……? 絵のほうは……」

「もうちょっとだし大丈夫。ちょっと休憩」

「そ、そうですか」


 よし、と肇が筆を起きながら席を立つ。


 過去ぜんせを含めても珍しい彼自身の意思による作業の中断だ。

 おそらくは一度描いているからこその微かな熱意の弱さから来ているモノ。


 なんだかんだで部活中に描いているときは気を緩めるコトをしなかった画家の端くれである。


 快諾された摩弓がつい戸惑ってしまったのも無理はない。


「馨ー?」

「ごめんいま話しかけないでくれ忙しいから」

「……姫晞さん。本当に機嫌悪いね、馨」

「で、ですねっ、水桶さん!」




「――――誰のせいだと……!」



 ぎりぃ、と馨がキャンバスに筆を押しつける。


 余程強い力を込めたのだろう。

 歯を食いしばったのではなく、曲がりかけた絵筆の持ち手が出した悲鳴だ。


 あぁ、アレは折れるな――と納得したのは肇も摩弓も。


 ちなみにそんな彼の瞳は真っ直ぐ話しかけてきた男子のほうへと向いている。



「……え、俺?」

「君の恋人」

「馨。俺まだフリーだけど。誰とも付き合ってないけど」

「君の婚約者」

「ごめんそういう相手はいない」

「…………優希之渚ッ」

「渚さんかー……それはそれで気が早いよ、もう……ふふっ」


「かはっ……!?」



 隣で吐血した摩弓嬢を気にもとめず微笑む肇。

 それだけでちょっと混沌カオスだったが美術部の面々は誰も気にしなかった。


 なんてコトはない、少し前から始まった彼らの日常である。


 憧れの人に惚気られて致命的な傷を負う女子生徒の姿は酷いものだが致し方なし。

 コラテラルダメージというやつだろう。



「――今日、昼休みに美術室ここで話したんだ」

「へぇ……どんな話?」

「僕はおまえが気にくわないって話」

「ストレートだね」

「あとおまえが嫌いだって話」

「意味殆ど同じじゃない?」

「あとそんな奴に君がぞっこんだから僕は心底ムカついてるって話」


「馨はちょっと俺のコト好きすぎない?」

「うるさい。僕アイツめちゃくちゃ



 むっすー、と頬を膨らませる少年はこれまた珍しく年相応の顔だった。

 なんでもない日だと肇は思っていたが、もしかすると本日は結構な非日常かもしれない。



「馨は最初からずっとそう言ってるよね。なんで?」

「……なんでもなにも全部だよ。目の色も、人を見る感じも、雰囲気も、匂いも、身振り手振りもなにもかも」

「俺は渚さんの全部好きだよ。頭の天辺から足の爪先までっ」


「こふぅ……っ!!」

「――摩弓ちゃんっ! もうっ……もういい……っ! もういいだろぉ!!」



 流れ弾を受けて瀕死の重傷となった摩弓を同じ一年の女子が抱きとめる。


 死因は間近で好きな人の他人に対する恋心を聞いてしまったことによるショック死。

 嫉妬ジェラ死、あるいは脳が破壊されたコトによる脳死だ。


 一介の女子高生にはなにかと耐えがたい衝撃の連続。


 彼女のこころにはいくつもの弾痕、何本もの矢が刺さっている。



「……君がそうだから余計に心配なんだ」

「? そりゃまた、どうして」

「……いっぽうが強すぎる関係は深くて脆いから」

「渚さんは十分強いと思うけど」


「あれのどこが……、……いや、君の前だからって遠慮すると余計悪いね。はっきり言うよ。どうせ僕が嫌悪を抱いてるのは変わりない」

「俺は馨のそういうところすっごい尊敬できるしすっごい好きだ」

「……ありがとう。僕も君の素直さは話していて非常に新鮮で楽しくある」



 ふっと仄かな笑みを浮かべる馨。


 その様子にきゃーきゃーと湧き上がった女子数名だったが、直後に教室の端っこへ集まってなにやらヒソヒソと話しはじめた。


 ふたりにはまったく聞こえていないが、彼女らはどうも「受け」やら「攻め」やら「はじかお」やら「かおはじ」やらと謎の会話を繰り広げている



「……正直、僕としては念のため釘を刺すのと八つ当たりだったんだけど」

「八つ当たりなんだ……」

「話してみたら脆すぎてびっくりした。……あれじゃ他人ひとと繋がっても意味がない。君や部長よりよっぽど隔絶してる」


「ちょっと、なんか言ったそこ。えっと……し、し……シオカワ!」

「……潮槻シオヅキです」



 なんでもありません、と答えながら馨はひっそりとため息をついた。


 前例からして分かりきっているけれど、トップに名前を記憶してもらえないというのは結構クルらしい。

 判別の条件が条件だけに特に。



「意味がないってどういう?」

「そのままだよ。君が将来のパートナーなら尚更、これからずっとあの調子じゃいつかなにも出来なくなる」

「そのときは俺が渚さんを支えるから平気だよ?」

「……だからそういうところだよ。肇。君、甘やかすしかしないだろう」

「そりゃあ、まあ? 基本的には? ……うん、惚れてるワケだし」



 あと過去ぜんせのアレコレで返したいモノがいっぱいあるし、と。



「だからアレなんだ。正直僕は本気でやめた方がいいと思ってる。今からでも遅くない。肇、せめて部長あたりにしておくのがいいよ」


「勝手になに言ってんのよコラ。そこ、し……シオモミ!」


「潮槻です。部長はちょっと静かにしててください」

「なるほど塩揉しおもかおる……!」

「肇。僕はいま産まれてはじめて人をぶっても良いかもしれないと思っている」

「ごめん」



 冷静沈着な馨からまさかの「ぐー」が出掛けていた。


 割合でいうと七割方肇が悪いので是非もない。

 あとの三割は一向に名前を記憶しようとしないぶちょうにも非がある。



「……話を戻すけど、結局そこがどうしようもないと僕は思う。どうせ君らは好き同士で放っておいてもくっつくだろうけど、そういう間柄だからなにも解決しない」

「やだなー好き同士なんて。まだ明確な返事はもらってないのにー」

「デレデレするなよ。君がアレを想って鼻の下を伸ばしてると思うと気分が悪くなる。もう一回……というか何度でも言うけど僕は彼女が嫌いだ。心底嫌いだ。腹が立つ」

「えー……そこまで来ると筋金入りだね。俺はちょっと悲しいよ」

「仕方ない。これは僕の問題でもあるから」



 と、馨は一瞬だけどこか遠くを見るような目をして。



「……なんにせよ彼女、あの程度の嫌味すら胸を張って退けられないようじゃダメだ」

「……もしかして昼休みにちょっと元気なかったの馨に八つ当たりされたから?」

「そうじゃないの。……で、どんな風だった。なにか相談されたのかい、肇は」

「うん。俺になんかしてあげられたかどうかって言ってたから、一緒に居るだけで幸せだよーって告白しておいた」

「じゃあそれで彼女は元気になったワケだね」

「まあそこからは、そうだね。変わりなかったと思うよ」


「……だから嫌いなんだ」



 はあ、とあからさまに大きなため息をつく馨はすでに筆を手放していた。


 会話を続けていくうちに段々と止まらなくなってきたのだろう。

 よもや犠牲になる画材はなく、突き破られんばかりに虐待されるキャンバスはいない。


 彼らは一時の休息に机の上でほっとひと息ついているコト間違いなしだ。



「他人を拠り所にしすぎるとどうなるか肇は知ってるかい」

「え? いや……そこまで、詳しくないかな……」

「自分しか見えなくなる。勝手にどっか行くんだ。……人の気も知らないで」

「…………馨?」

「……ああそうだよ。あいつ母さんと同じ感じがする。だから嫌いなんだ。そうだ。そうだった、くそっもう……優希之渚……っ」


「どうどう。ステイ。馨。なんか凄い怖い顔してるってば」

「…………ごめん、熱くなりすぎた……」



 本日二度目の彼にしては珍しい明確な感情の発露。

 肇から始まり馨へと移り変わり、やはり今日はいつもと違ったモノが沢山溢れ出てくる日のようだ。



「……渚さんと馨のお母さんが似てるの?」

「そうだよ。先に言っておくけど僕、両親いないから」


「…………え」

「ふたりとも死んでる。父さんが残した会社は親戚名義で実質僕が抱えてるけど」


「……えっえっ」

「別にそんな驚く事じゃないだろう。割とよくある話だよ」


「いやよくはないと思う!」



 予期しなかったとんでもないカミングアウトに肇が目を見開いて反応する。


 両親不在もそうだが、同年代でそこまでやれるものかという驚きもあってだ。

 加えてなにより馨自身がそこまで切羽詰まった暗さを醸し出していない。


 だからてっきり父親も母親も生きていて、裕福な家庭でなに不自由なく暮らしているのだと肇は勝手に思っていたのだが。



「あー、知らなかったの肇。そいつ仕事〝は〟めちゃくちゃできるわよ。今度の私の展示会も会社ごと協力してくれる手筈だし」

「そうだったんですか。なのに潮槻くんはダメなんですね」

「なに言ってんのよ。シオノハカタでしょ」


「潮槻です。……もうしか合ってません」

「ごめんごめん。私自分より絵が上手い奴以外に脳のリソース使いたくないのー」


「……肇。君は彼女にフルネームを覚えられているという事実をよく受け止めたほうがいいと僕は思う」

「うん。俺も急になんかそんな感じがしてきた」


「なによ二人して」



 気味悪いわねー、とぼやく彩は先日の肇同様一切キャンバスから目を逸らさない。


 瞬きすらしているのか怪しいぐらいの集中力でひたすら手を動かしている。

 それに対して「ちょっと酷いなー」なんて苦笑いを浮かべる天然純朴クソボケはちょっと己の身の振り方を省みたほうが良いかもしれない。


 人の振り見てなんとやら。


 同系統の天才たちはお互いを見て「うわ自分よりやってんな」などと思い合うばかりだった。



「認めてはいるわよ。成績は良いって聞くし、人に対する観察力も相当なもの。画商に必要な審美眼だってまず間違いなく鋭い。総じて能力は高いわよね。絵は微妙だけど。絵だけは微妙だけど」

「どうして二回も?」

「だって実際微妙じゃない。なんというか今一歩よね。厚切りベーコン?」

「ちょっと言い過ぎじゃないですか? せめて薄切りで」


「……そうだね。君たちのおかしな会話でも僕が落ち込むぐらいには言い過ぎだ」



 薄いのと厚いのでなんの差があるのか。

 ベーコンとは一体なんのコトを言っているのか。


 肇と彩の間でだけ成立する語は本当、いつだって意味不明だ。


 馨にだって到底分かるものではない。



「それに余計なお節介まで焼こうとしてるし。別に良いじゃないどうなっても。むしろ私にワンチャンあるから放っておいてほしいんだけど」

「えっ」

「肇。私は一度も帰るとは言ってないのよ」

「困ります部長」

「だってあの程度なら私のほうが絵、上手いワケだし」


「……いい加減、続けてもいいかな……?」

「あっ、ごめん。良いよどうぞ」



 ワケの分からない会話を断ち切って話の流れを戻す。

 つまるところ馨がなにを言いたいのかというと。



「……要は肇が強すぎるからいけないんだ」

「えっと……ありがとう?」

「褒めてない。いや、褒めてはいるけど論点はそこじゃなくて…………、」


「……言いづらい話?」

「聞いてて面白くないコト」

「じゃあ大丈夫」



 こくん、と頷く肇に馨がそっと視線を向けた。


 ……そう、正しくそのあたり。


 いま実感している部分がそうなのだが、だからこそだと少年は一度目を伏せる。



「……うちの母さんは家族想いな人だった。父さんが大好きだった。僕だって相当良くしてもらったよ。本当に。……本当に良い母さんだった」

「……うん」

「父さんとは大恋愛だったらしい。周囲の反対を押し切って結婚したとも聞いていた。父さんがそのために色々動いたのも」

「……そっか」

「それで二年前、僕が中学二年のときに父さんが病気で倒れて。一か月足らずで容態が急変して。そのあとはまあ、言わなくても分かるだろう」


「…………それは」

「だから聞いてて面白くないって言ったんだ。……あっちだって残された側だろうに、それにどうして気付かない。嫌いだあんなの。僕は心底いやだ」



 それはおそらく触れづらいが故の彼の気配りで。

 最低限、誰かに向けられた微かな優しさの残滓だった。


 きっと本人がいれば我を忘れるぐらい驚いたろう。


 少なくとも、喧嘩を売るような物言いでよっぽど良かったと思えるぐらいに。


「……いや、まさか。渚さんがそんな……なるかなー……?」

「どうだろうね。あくまで僕が見た上ではだけど。嫌なニオイはするし、嫌なカンジもするし。だから最悪なんだ。なにより――」


 ぐぎぎ、と馨が拳を握り締める。

 理由でいうならたぶんそれが最も大きいもの、とでも言わんばかりに。



「――そういうところを全部含めて僕が嫌だと感じないどころか別に良いと許容してしまいそうな感覚が大嫌いだ」


「……馨の心は複雑だね。それ矛盾してる気がする」


「そうかもね。でも仕方ない。なんて、それだけで嫌う理由に余りあるよ。……少なくともこんな感覚きもち、僕自身のものじゃないさ」



 吐き捨てるように言って彼は再度乱暴に筆を取った。


 それはともすれば肇も、彩も分からないような別種の情緒だ。


 嫌いなのに嫌いじゃない。

 嫌いになれないから嫌いと思う。


 想いの在処に正解はないとはいえ、言葉にするとそれはいや難しい問題である。


「……馨も渚さんも、俺は深く考えすぎと思うんだけど」

「肇はそれで良いよ。きっと。あくまで僕が思うのは彼女だ」

「よっぽどだね。いや、どうかと思う」

「なにがだい」




「――――馨、やっぱり俺のことめちゃくちゃ好きじゃないか?」

「うるさいよ」






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