48/最後の色彩





 ――カリカリと、ペンを走らせる音が響く。


 星辰奏学園本校舎三階。

 第一生徒会室。


 放課後、役員の手伝いで呼ばれた渚は書類の整理と一部のまとめを頼まれた。


 難しいものではなく、時間さえあれば簡単に片付けられそうな仕事である。


 いくら入試首席とはいえ彼女だってまだまだ新参者の一年生。

 そのあたり経験の有無を考えての割り振りなのだろう。


「――――、」

「…………、」


 生徒会室はやけに静かだ。

 普段使う教室と少し離れているのもあって喧噪は遠い。


 もともと人通りが少ない廊下なので人気もそこまで。


 加えていうなら現在、室内には渚ともうひとり――生徒会長だけだった。


 顔見知りで喋ったコトもあるとはいえ親しいとは言い難い相手である。

 当然ながら会話に花が咲くワケもあらず。


 結果、お互い無言のまま手を動かす時間が続いていく。


(………………なんか、気まずい……)


 ペンを淀みなく動かしながら、渚は胸中でぽつりとこぼした。


 その場の空気か雰囲気か。


 彼女自身静かな環境には慣れていないハズもないのに、どうしてか落ち着かない。

 集中できる状態、真剣に取り組める条件であるのに心地よさは皆無。


 ……当たり前のコトだけれど。


 知らない誰かとふたりっきりでリラックスできるのは一部の人間だけだ。

 大半の人は警戒、ないしは緊張するもので、渚の反応は別に変なものじゃない。


 彼女は正しく他人との隔たりを味わっている。


(別にこういう感じも嫌い、とかじゃなかったと思うんだけど……)


 思い起こされるのは一年前。


 毎日のように通っていた塾の自習室。

 人気もなく、閑散としていて、もっぱらペンの音だけが響いていた懐かしの空間。


 けれど彼女はそこに向かうのが嫌いではなかった。


 居心地だって最高だった。


 いつもの何倍も集中できて、いつもの何倍も勉強は捗って。

 そしていつもの何倍、気分を上げさせてくれる日常の休憩場。


 肇と一緒に居るときですらそれは変わらなかっただろう。


 いやむしろ、途中からは彼が来るからこそ足を運んでいたぐらいなもので――


(――っ、やめやめ。余計なコト考えるな、私……っ)


 よしと気持ちを切り替えながら、渚は作業に意識を戻した。


 相変わらず空気は固い。

 生徒会室は息の詰まる静けさに支配されている。


 理由をつけるならそれはたぶん、相手のコトを知らない事情からくる気まずさだ。


 初対面だから、よく分かっていないから、まだぜんぜん慣れないから。

 だから居心地も微妙で落ち着けずにいる。


 ……だというのなら。


 それなら一体どうして、は最初から馴染んでいたのだろう――?




「――――優希之」

「っ、ぇ、あ、はい!」

「手が止まっているようだが」

「す、すいません!」

「いや、良い。少し休憩しよう。根気を詰めすぎても効率は悪い」

「……はい」


 パソコンを打つ手を止めて会長――聿咲陽向が席を立つ。


「コーヒーと紅茶と緑茶と中国茶があるが、どれがいい?」

「あ、いや、大丈夫です……」

「遠慮するな。こういうときのためのティーセットと給湯器だ」

「…………そ、それじゃあ、紅茶で……」

「砂糖とミルクは?」

「い、要らないです……」

「わかった」


 テキパキとした動作でお茶の準備をしていく陽向。


 その動きは洗練されていて淀みがない。

 二年生――前年度では一年生――ながらも会長職にまで上り詰めた実力は折り紙付き。


 彼自身のスペックは攻略対象なのとある事情もあって相当に高くある。


 かといってそこらの女子よろしくとめいたりはしない渚だったが。


 この主人公ヒロイン、フラグの悉くを凍てつかせていた。

 雪の女王の渾名は伊達じゃないらしい。


 たぶん。


「ほら」

「……ありがとうございます……」

「ん、いい。構わん、ついでだ」


 そういう陽向は彼女とは違って湯呑みを片手に持っている。

 匂いからしておそらく緑茶だろう。


 渚の机にはティーカップに淹れられた紅茶。


 どちらも茶葉から煮出したのではなくティーバッグだ。


 お味のほどはまあ、それなりに。

 良すぎはせず悪すぎもせずと言った感じの味わい。


「……そういえば。優希之は水桶と仲が良かったな」

「へぇっ!? あ、や、その……まあ……?」

「彼の作品は見てみたか」

「い、いや……まだ、ぜんぜん……」

「……そうか」


 ずず、と湯呑みを傾ける生徒会長。


 渚が初めて会ったときからだが、どうにも彼は肇に並々ならぬ関心を持っているらしい。

 その証拠にこうやって、生徒会のお手伝い中にぽつぽつと話題に上がったコトがある。


 うっすらと前提知識ぜんせのきおくが残っている彼女からすると分からなくもない理由ワケ


 ――聿咲陽向は優秀な人間だ。


 成績は堂々の学年トップ。

 身体能力にしても去年の星辰競祭――他でいう体育祭――では出場した殆どの種目でぶっちぎりの一位だったという。


 性格だって真面目で人となりも悪いワケじゃない。


 多少固いところもあるが、概ね酷くできた人間というのが周囲からの彼の評価。

 おまけに顔も良いとくればそりゃあ女子人気だって爆発する。


 言わずもがな、それも含めて生徒の代表に無事当選したのがなにより証明していた。


「……優希之は絵の価値が分かるか?」

「いえ、そんなには……」

「水桶のような相手を近くで見るのはどうだ」

「…………どう、って……?」

「嫌にならないか、と訊いている」

「……別に、なりません……けど……」

「まあ、だろうな」


 文武両道、容姿端麗、質実剛健。


 その上で己の力量を傲るのではなく、誰かと手を取り合うことを重視する。

 同じ場所に在る人なら繋がるべきだろう、と彼はよく言う。


 それがなにより関係性を大事にしているが故のコトだと彼女は前から識っていた。


 だからいま、その表情に入る微かな苦味も。

 知らないコトだといえば嘘になるワケで。


「俺には芸術的センスがない」

「……そう、ですか」

「ああ。さっぱりだ。なにが良くてどこが良いのかまったく分からん。どれも同じようなものだろうと思ってしまうぐらいだ」

「………………、」

「が、彼……水桶肇の絵は相当だ。俺でさえそれは分かった。姉貴に言われて見に行った価値はたしかにあったな、あれは。一度覗いてみるコトを勧めるぞ」

「……クラスの子にも似たようなこと言われましたけど」

「それほどのものなんだ、たぶんな」


 なにせあの姉貴が絶賛している――と語る声は平坦そのもの。


 陽向の芸術、美術に向けられる想いはたしかに覚えている渚だ。


 産まれた場所さえ違ったのなら縛られなかっただろうコトも。

 いつかのときに体験プレイして、同じ芸術家を姉弟に持つ人間としてまったく共感できなかったコトも。


 だからきっと、彼に関しては会う前から警戒する必要もなかった。


 すでに三葉や馨に会っていたというのもあるけれど。

 記憶にあるとおりの人物に近いのなら、絶対に馬が合うわけはないと確信していたから。


「……会長は」

「? あぁ。なんだ」

「お姉さんが嫌いですか」

「――――いや、嫌いじゃない。色々と苦手ではあるが」

「……それは絵が描けるからですか」

「それもある。……が、大部分はあの性格だぞ。いつもこっちが振り回されるんだ」

「――――なら」


 ふと。

 そこで気になって。


 よせば良いのに、確かめたくて。


 彼女は口を開いた。



「もしもお姉さんが絵を残していなくなったりしたら。会長は、どうしますか?」



 なんでもないように。

 明日の話をするように渚は彼へ問いかける。


 それに一体どう思ったのか。


 ぴたり、と。


 湯呑みを持っていた陽向の動きは一瞬止まった。


「……急に嫌な話をするな、優希之」

「喩え話です。……遠い親戚に、絵が売れないまま早死にした画家がいるので」

「ああ、そういうコトか。御愁傷様だ」

「いえ……もう済んだ話ですので」


 厳密にいうなら遠い家族だ。

 もっというなら遠いというのも物理的なモノとは違う表現。


 けれどそれ以外はまるっきり真実である。


 彼女の知るところに早死にした画家は、たしかにいた。


「……そうだな。一枚だけ取っておいて、あとは寄贈するか……売るかはするさ」

「……良いんですか? お姉さんの描いたものなのに……」

「だが姉貴の生きた証は酷く知れ渡るだろう。大勢に覚えてもらっているというのはそれこそ喜ばしい。画家なら尚更、誰からも忘れられるよりずっと良い」

「……顔も知らない他人がそれを持っていたとしても、ですか」

「顔も知らない他人が知っているぐらい、俺の姉貴かぞくが凄いというコトだろう?」


 そうやって笑う陽向の表情はどこか自信に満ち溢れている。


 彼が絵に対してコンプレックスがあるのは見てとれる。

 現在進行形で若くして画家の才能を遺憾なく発揮する姉は、それこそ苦手な相手としてもしょうがない。


 だが同時に、強く宣言するぐらい嫌いではないとも言っていた。


 そのあたりの強さか、誠実さか、はたまた割り切った人間の気持ち良さか。

 自分と同じ両親のもとに産まれた人は凄いのだ、と。


「大体、姉貴が死んだとして作品を全部独占なんかしたらきっと化けて出る。どうして私を有名にしない、だからおまえは絵描きの素質がないんだー……とか言ってな」

「…………そういう、ものなんでしょうか……」

「そういうものだよ。よく言うだろう。誰かが覚えているかぎり、人の記憶の中で生き続けるんだ。俺たちはひとりじゃない。だから繋がるものがある」


 そうして陽向は、薄く微笑んで。



「それは素敵なことだと思わないか、優希之」


「――――私、は…………」


 一部の隙もない笑みにグッと黙り込む。


 ……どうだろう。


 彼女にはその正しさが知識として理解できる。

 彼の言っているコトの素晴らしさが常識として受け止められる。


 けれど、感情として納得できるかは別問題。


 翅崎彩斗はたしかに凄かった。


 渚の知らないところではあるが、死後父親の尽力もあって芸術の分野では後世にまで長く名が残ったほどだ。

 実際の作品があったならもっとずっと有名になっただろう。


 でも、そうはなっていない。


 ここにも、

 果ては向こうにも、


 すでにどこにも――彼の凄さの証明は実在しない。


「……私は。大事な相手のものだったら、誰かに渡したくありません……」

「そうだな。そういう答えもあるだろう」

「…………それで名が売れるとしても、近くに置いておきたいです」

「それもまたひとつの考え方だ。別に正解なんてないからな」

「………………、」


 だから、彼女は。


「さて、そろそろ仕事に戻るぞ。優希之。あと少しだ」

「……はい」


 渚は紅茶を飲み干して、いま一度ペンを握り直す。


 何事もなければ残るものとして彼の死後も現存したはずだ。

 価値がなければ残さざるを得ないとして残り続けたはずだ。


 思い入れなんてなければ消えるまでもなく散らばったに違いない。


 様々な要因が重なった上での末路。


 燃え滓になった灰の温かさは万人にとってただの残骸。

 それでも彼女にだけは形を変えても胸に響く彼の残滓だった。


(………………、)


 思い出はかくも儚く千切れていく。


 その中で残るものを必死に守ったつもりでいたけれど。


 ああ、今更になって――こんな風になって――冷静になって――


 不意に向き合ってみればその後ろ暗さに足を引っ張られる。


 落ち着いた心持ち。

 余裕を抱いた精神状態。


 柔らかくなった過去の痛み。


 それは彼女本来の性質の目覚め。


 ……そう、であるのなら。


 ――――陽嫁わたしは一体、弟になにができていたのだろう。







 ◇◆◇







 生徒会の手伝いが終わると結構な時間が経っていた。

 あたりはすでに夕暮れの色を越して暗くなりつつある。


 校舎のなかに人気はない。

 最終下校時刻まではおよそ十五分ほど。


 つい先ほどまで響いていた吹奏楽の練習音も、演劇部の喧噪もいまは途絶えている。


 廊下も教室もとても静かだ。



「――――あッ!」

「……?」



 と、渚が帰ろうかと階段を降りていたとき。

 偶然階下の廊下でクラスメートの姿を見かけた。


 肇と仲の良い美術部の女子である。


 たしか名前は――――



「……姫晞さん?」

「っ、おのれ優希之渚ぎんぱつびしょうじょ……!」

「え」


「こらこら摩弓ちゃん。どうどう。あ、優希之さんお疲れー。生徒会終わったの?」

「あ、うん……いまさっき、ちょうど……」

「そっかそっかー」


「ん、何事よコレ。……お、優希之だ。珍しいー」

「ほんとだ。渚ちゃんがこんな時間までいるの滅多にないね」


「まあ……帰宅部だし……」



 ぞろぞろと追加で並んでくる美術部員一同。


 鞄を持っているあたり、どうやら彼女らもちょうど帰るところだったらしい。


 ……そうと分かった瞬間、無意識のうちのどなたかを探してしまったのはよっぽどやられている渚だからだ。



「あ、肇くんならまだ美術室いるよー、もうちょっとだけやりたいって」

「えっ、あ、そう……なんだ……」


「なんか力の入れよう凄いよな、マジで。鬼気迫るっつうか……」

「本人曰くあれでも抑えめらしいぞ。本当はもっとできるとかなんとか」

「なにそれ意味不明。部長も水桶も一体なに星人なの」

「お絵描き星人カイーガー」

「ネーミングが雑」



 騒ぎ立てる部員とは対照的に、渚は少しだけ複雑そうな表情をする。


 文字通り二の足を踏んでいて。


 彼女としては美術室は苦手な要素の巣窟だ。

 絶対に入れないというほどはないけれど、進んで足を踏み入れたくはない感じ。


 なにより今まで寄りつく理由もなかった渚は完全な部外者。


 ここで彼が居るから、と好き勝手突っ込んでいくのはアレな気がした。


「――――ゆ、優希之渚っ!」

「っ、ぇ、あ……な、なに……姫晞、さん……??」

「あ、あなたが水桶さんのっ、よ、よよよ嫁だと言うのならっ」

「――よ、嫁じゃないけどっ!?」

「と、とにかくっ! ……作品、見てください。それだけ、ですっ」


 ふんすっ! と息巻いて踵を返しつつ、摩弓はトテトテと階段を降りていった。


 同じ絵描きとして渚の言に思うところがあったのだろう。


 彼と近しくなるつもりならどういう絵を描くかだけでも見ておけ。


 内容に差異はあれど、要はそう言われたようなものだ。

 たしかに芸術家であるのならとりわけ大事なコトなのかもしれない。


 一介の女子高生である渚にはあまりピンとは来なかったが。


 来なかったのだが――いちおうというか、なんというか。

 理由自体はこうして出来上がってしまったワケで。



「あーもう、待ちなよ摩弓ちゃん! ――っと、優希之さんもじゃあね! 美術室、まだ開けっ放しだから!」

「見たほうが良いのは同感だなー。まじですげーもん、あれ」

「完成品もいま描いてるやつも上手いよね」

「上手いって言うか、化け物? 部長然り水桶然り、ああいう人らって何食ってればあんなの描けるんだろうねー……」



 やいのやいのと騒ぎつつ美術部の面々は去っていく。


 残された渚はただ呆然と廊下の先を見詰めている。


 大勢の人間に色々言われている画力。


 本人の認識だとそれほどでもないと言っていたのを彼女も聞いていた。


 中学生のレベルだから。

 いまの年齢だから評価される程度のものだと。


 だが実際はどうなのか見ていない渚には判断つかない。


 なら、そのあたり確かめてみるのもありと言えばありだ。


(…………仕方、ないかぁ……)


 あれだけ言われてしまったものだし。

 気持ち背中を押されたようでもあって。


 本当に仕方なく。


 しょうがなく――美術部のほうへと足を向ける。


 カツカツと校内に響いていくひとり分の靴音。


 やはりというか、いまからに行くというのに気分は沈まなかった。

 むしろちょっとだけ楽しみであるぐらい。


 かつて己の手で命を絶つまで深かった心の傷。

 正常性も理性もなにも歪ませた根源の闇。


 それがいまは触って握り込めるほどに優しく柔らかだ。


 心境の変化によるものだろう。

 かれによるものだろう。


 ここまでのコトをしておいて未だ友人関係というのだから――本当、笑えてくる話だ。


 こう、複雑怪奇にない交ぜになった心理状態で。



「――――……、」



 カツカツと。


 靴音は寂しく響いていく。


 距離は瞬く間に縮まっていく。


 学園広しといえど同階の教室に向かうのはそこまで時間もかからない。


 気付けば目的地は見えていた。


 扉は中ほどまで開かれていて、線のように光が漏れている。


 美術室はもう目前。


 そこまで来て足取りは弛むことなく。

 意識が乱れることもなく。


 ただ真っ直ぐに、穏やかな心に従って。


 ――――少女は、懐かしい匂いの広がる空間に入り込んだ。



「……あら? 一年の」

「っ、お、お疲れさま、です……」

「お疲れ。なに、用はあいつ?」

「ぇ、あ、っと……いちおう……」

「ん、了解。別に邪険にしないから勝手になさい」

「……あ、ありがとう、ございます……」


 ひらひらと手を振って部長――彩が準備室のほうに入っていく。

 引っ張り出した資料や画材なんかを仕舞う為だ。


 見慣れない教室の中。


 鼻孔をつく絵具やオイルの匂い。

 それに心は跳ねたけれど、でもそれだけだった。


 ――かつ、と歩を進める。


 彼は窓際の席で、まだキャンバスを構えて筆を走らせていた。

 内容はちょうど肇の身体と被さる位置でよく見えない。


 渚はゆっくりと、その距離を詰めていく。



「――――肇くん」

「……ん、渚さんだね。この声は」



 振り向かずに少年は答えた。


 手は止まらない。

 それだけ彼は目の前のコトに夢中になっている。


 反応したのは偏にだっただけかどうか。


 ……彩斗おとうとはあまりしなかったな、と軽い心地で思い出す。



「うん、私。……もう遅いよ。帰らないの」

「帰るよ。もうちょっとしたらね。……優希之さんこそ、なんでこんな時間まで?」

「私は……生徒会の手伝いが長引いて」

「あー、そっか。なるほどなるほど」



 うんうん、と得心いったように頷く肇。


 それでも彼は振り向かない。

 それでも手は動き続けている。


 不思議なのは態度の悪さと反して声音が色味の乗ったものだというコトだ。


 無論、彼にとっては蔑ろにしているワケじゃないので。


 ……そんなものだから、やっぱりなんとなく渚は気になった。



「それ、なに描いてるの……?」

「俺の忘れ物」

「……忘れ物……?」

「そう。あと少しってところでずうっと放っておいた作品。それを仕上げてる」

「へぇ……」

「一時期の俺の、を込めた一枚だよ」

「そう、なんだ……」



 〝どれどれ――――〟



 ふぅーん、なんて反応をしつつ、渚は後ろから――肩から覗き込むような感じで――彼の絵を視界におさめた。






 〝――――――――〟






 ――――それは、



 ――真っ白な、


 ともすれば  くうはくそのものな、


 目と、頭蓋と、脳みそと、

 すべての間に空間をねじ込まれたような錯覚。


 あまりにも意識を曇らせる衝撃。




 〝――――なんで〟




 かつん。


 靴音はいやに高く響いた。

 無意識のうちに渚は足を引いたらしい。


 一歩分だけ彼女が後退る。


 それに彼は気付いたかどうか。



「あと少しで完成するんだ。出来たら、そうだね。渚さんにあげる」

「――――ぇ、ぁ……あ……っと……、」

「……嬉しくない?」

「そんっ……な、こと……なく、て…………、」

「じゃあ、是非持っていてほしい」



 わからない。


 ……わからない。


 いまの渚には、もう、なにも――――








「――――な、なまえ……」

「ん?」

「……そ、その……絵の、名前……タイトル、とかって……」

「ああ。もう決まってるよ、うん」

「それ、は――――」









「〝陽嫁はるか〟」









 ――――ひときわ高く。


 この世に生まれていちばん強く。


 心臓が、跳ねた気がした。



「この絵のタイトルは、〝陽嫁〟っていうんだ」









 

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