47/一年一組の裏事情
正直なところを言うと、肇にとって渚と出会うまでの時間は
むしろ出会ってからでもその考えはあまり変わらなかったぐらいだ。
変な理由ではない。
彼自身の培った経験からくる純粋な価値観。
例えば誰かと他愛もない話をして。
毎日の変わらない朝を迎えて。
一瞬一瞬の景色を瞳で切り取って。
色も音も味も、なにもかもを体感する。
それだけで彼からすればとんでもないもの。
すなわち今あるものはすべて贅沢で。
世界は胸に飾ってしまえるぐらい綺麗だという事実。
……だから、正直な話をすると。
いまの
なにせ彼にはしがみつくほどの未練がない。
心に抱えて残した熱量のようなものもほんの僅か。
不幸に塗れて望まない最期を迎えたワケでも、誰かのように思い悩んで苦しんだ末に命を絶ったのでもない。
肇は心底、徹頭徹尾、先の生き方に満足している。
これ以上はなかったと思えるぐらいに納得している。
その考えはきっと誰になんと言われようと変わらない。
例え最愛だった姉に否定されたとしても彼だけは強く肯定する事実だ。
他人から見てどうだったとか、常識的に見て良かったかじゃなく。
彼自身が最高だと思えたのだから、それ以外に付ける評価はないだろうと。
――その上で降って湧いた
肇としては承服しかねる。
嫌というワケではない。
難しい理屈をこねなければ彼だって素直に嬉しい。
けれど、それは
あるいは嬉しすぎて、贅沢すぎて。
良いものであるのは間違いないけれど受け取りがたい、唯一無二の代物だった。
しかし、だからといって命あるのならとやかく言うのも間違いというもの。
なによりウダウダ悩んでいてもしょうがない。
余計なことは引き摺るだけ時間の無駄だ。
産まれたのなら生きていくだけ。
そうやって当たり前のように立って、周囲に馴染んで、熱意を失っても歩けるものとここまでやってきた。
……肇は一度完璧に終わった命になる。
人の一生を死を以て終結とするのなら、なるほど彼は見事に完結したワケだ。
無念で無念で悔やみきれない非業の死ではない。
心残りや思い残したコトが強すぎるなんて話もない。
ましてや人として当たり前を享受しないまま、空っぽの無色透明なまま育った自我であるのでもない。
彼の自意識は確立している。
揺れるような危うさも崩れるような脆さもそこにはない。
たったひとつ。
個として完成された一人の人間の命。
その後に続く道があるなら贅沢か、それこそ蛇足以外のなにものでもないだろう。
ちゃんとした蛇の絵はもう一部の隙もなく完璧に出来上がっているのに、これ以上なにをどうして足を付けてしまえるものかと。
……でも、実は。
ほんのちょびっとだけ。
描けていなかった部分があったみたい。
蛇に足を付けるまでもなく。
たぶん、そう――鱗あたりが一枚二枚抜けていたようだ。
それに気付けたのはつい最近のコト。
だからといって死ぬほど悩んだとか、苦しんだワケではやっぱりないけれど。
折角だから仕上げてしまいたいと思ったのは絵描きの性か。
繰り返すように後悔はない。
未練なんて引き摺るほどでもない。
残したモノも出来なかった過去もぜんぶ含めて己にとっては素敵な思い出。
そこから再度生まれ落ちた先で彼自身の培ったものは一切欠如しなかった。
強いて言うなら
良くも悪くも、水桶肇という人格は強固に完成されすぎている。
だからこそ脆く儚い
要は、これはそういうお話――――
◇◆◇
土曜日の
渚と肇の間に於いて、変わったコトと変わらなかったコトがふたつずつある。
まず変わったコト。
ひとつは言わずもがなお互いの呼び方。
肇は彼女を渚さんと。
渚は彼は肇くんと呼ぶようになった。
それだけ。
たったそれだけ。
けれども、だからこそ――明確に距離が縮まった感じのする変化だ。
ちなみに早速とばかりに「優希之おまえ〝はっ、はははじめくん〟って誰? どっかのペンネーム? え? 名前呼び? ……過呼吸なってんのかと思ったわー!」なんて煽ってきた
ちょうど日直の掃除当番だったのが功を奏した。
変わったコトのふたつめである。
もうひとつは件の
もともと近かった距離感はここのところ更に近付いてさえいるほど。
よもやいつしか隣同士ほっぺがくっつくのでは――いやまあそれはそれで渚としては役得なのだが――とさえ思うぐらいに接し方が酷すぎる。
こう、なんというか、耐えられないほど良すぎて。
「あ、渚さんご飯一緒に食べない?」
「渚さん荷物持つの手伝うよー。貸して貸して」
「あはは、渚さんほっぺにお弁当ついてるー」
「そういえばこの前の膝枕はまたやってくれないの?」
「渚さんお菓子いる? チョコ。……ん、じゃあはい。口開けてー、あーん」
「よしよし。渚さんはやっぱり賢いねー、えらいねー」
ありえない。
全体的に至極真っ当にありえない。
これらすべてが家でのコトならまだしも、学園内で起きた事件である。
もう一度言おう。
学園内で起きた事件なのである。
これによってただでさえ傍から見守りを決め込んでいたクラスメートは九割以上の大部分が手出し一切無用のパーフェクトスルー。
お陰様で一年一組間での渚の評価は「ユキノヒヨコ」「ピヨノナギサ」「小動物」「茹で蛸」「ナギサ狒々」「赤面鳥」「銀の尾を引く赤い彗星」「銀髪赤面クール
散々なものだと同意してほしい。
世界中のひとり残らず、切に。
〝――――――おのれ
なお本人の口から直々に「ふふっ……渚さんってば、いつから俺の奥さんやってたの?」とか言ってきたのはどう考えても
是非ともこれでもかという刑罰に処してほしい。
具体的にいうなら終身刑とか。
いやどこのなにがとは言わないが。
言わないのだが――ここは被害者に真摯な対応を見せるべきではないだろうかと。
なにがとは言わないが、うん、まあ、はい。
……さて、では変わらなかったコトはというと。
ひとつは大方彼女も予想していたとおり、彼が部活に熱中し続けているコト。
もうひとつも彼女の思ったとおり、今週も一緒に帰る機会がなさそうなコト。
以上である。
――以上である。
――――以上である。
大事なコトなので渚は
つまりなにが言いたいのかというと。
〝スキンシップが酷いくせに部活ばっかりに夢中とかコイツ釣った魚に餌あげてキープまんまではないか? やはりクソボケ最低ではないか――??〟
というコトである。
無論、ポンコツ男子の名誉のために言っておくと彼が部活に熱中するのは分かりきっていたコトだ。
なんなら渚を水族館に誘う前にきちんと「描きたい欲が凄くてここ最近は一緒に帰ってあげられません」と断ってさえいる。
だがそれはそれ、これはこれ。
事情説明をしただけで済んだと思うなら大間違い。
たった一度の休日私服デートお出かけで収まるほど乙女の気持ちは安くない。
そんなに軽い女子ではないのだ、
「――――……、」
「……なぁ、優希之嬢がめっちゃ不機嫌なんだけど」
「水桶くんがさっさと部活行っちゃったからじゃない?」
「あー……なるほど。一緒に居られないから……」
「優希之、おまえついぞ部活にすら男を取られたのか……かわいそうにィッ!?」
「あ、海座貴が腹パンされた」
「大の男が蹲ってんよ。こえー、水桶嫁ちょうこえー」
「――――よ、嫁じゃない、からっ!!」
「そうだそうだ。優希之みたいな小動物が嫁なんてストレスで死んじゃうだろ」
二度目の衝撃が海座貴少年の腹を貫いていく。
「優希之……ッ、おまえ……!!」
「――私、海座貴くん、キライ」
「なんだあの絶対零度の視線。雪女みてえ」
「優希之女史ならぬ雪の女王だったかぁ……」
「水で溶ける淡雪だけどね」
「肇くんはどうやってあんなに仲良くなったんだろう」
ぴくぴく、と渚の銀色センサーが反応する。
変化点は以上の計四つだが、不満点は腐るほどあった。
直近でいうなら先ほどサラッと女子陣営から出た名前呼び。
……そう、
水族館ではあれほどからかって、
挙げ句の果てには勿体振った上で下の名前に移行しておきながら他の女子とはあっさり姓の垣根を越えているのだ。
率直にいってふざけてやがる。
「っ、てて……? ……あはは。優希之、クラスメートに嫉妬とかたぶん絶対、まず間違いなく不毛だぞ」
「っ、は、はぁ!? 嫉妬とかっ――別に、してないし……!」
「顔赤いんだけど」
「っ!!」
「いや今更隠してもおせッ」
どすん、と響く三度目の正直。
揺れる肢体に力はなく。
頽れる身体に支えはなく。
地に叩きつけられる膝には割れんばかりの激痛。
ここに本日の勝敗は喫した。
腹筋から内臓を貫いて背中へ突き抜けた衝撃に、ひとりの男子生徒が儚く散っていく。
「容赦ねえな、優希之さん……」
「この前水桶も殴られてたぞ。こう、胸板をどすどすって」
「それ絶対効果音もっと軽いよね。ぽかぽかーって感じだよね」
「でもさ、実際、その……両極端だよね。肇くん」
「まあたしかに。昼間あんだけ優希之さんに構ってるのに、放課後きたら即部活だし」
「そういえば美術室の作品見た? 水桶くんの。ヤバいよ。マジでえぐい」
「えー、そんなに……?」
「ほんとほんと。うち絵心とか絵画のコトとかさっぱりだけど見ただけで鳥肌めちゃくちゃたったもん。ホワイトタイガーに目の前で吼えられたときぐらい!」
「微妙に分かりづらい境遇ぶっ込まないでくんねぇ?」
件の女子がいうには「がおー!」という迫力が迫ってくる感じらしい。
渚はちょっと聞いただけで頭痛が痛かった。
彼女自身としてもそのような感覚を感じられるかは分からない。
おそらく天性の感性だけでいえば似通っていたりするのだろう。
渚の知ったところではないが。
「ん? 作品は出来てんだ。じゃあなんでせっせか部活に励んでんの、あいつ」
「み、水桶さん、新しい絵を描いてますので!」
「ん? 摩弓。あんたも美術部行かなくていいの?」
「早く行きすぎると部長と水桶さんのツーカー言語で心を打たれるの……!」
「よく分かんないコトになってんな美術室……」
天才及び感覚派特有の言語に意思を重ねた新手のコミュニケーションだ。
使い手はいまのところ名門星辰奏の中でもふたり以外に存在しない。
むしろふたりしか存在しないが故に成立している可能性すらある。
最近はどちらからともなく飲み物を差し入れたり、絵の具をノールックで渡したり、お菓子を適当に相手の口へ放りこんだりとエスカレート気味。
三つ目に関しては渚に知られた場合一週間は拗ねるので注意が必要だった。
まあ本人がその真実に気付いていないのでそう遠くないうちに露見するだろうが。
「――優希之さんは見に行った? 水桶の絵」
「ぁ、えっと……、……まだ、かな……」
「そっか。そうだよね。優希之さん芸術の科目選択音楽だし」
「音楽組は美術室あんまり行かねーもんな。とくに用事ないし」
「とくに女子は海座貴のギターに聞き惚れてるしな」
「そのギター、優希之嬢自身の手でそこに伸されてんだけど」
「海座貴ー、大丈夫かー? 聞こえるかー? 声出すか瞬きしろー」
「……っ、……!」
「無事だな、ヨシ!」
ぺしぺしと叩かれて生存確認されるイケメンはシュールだった。
どことなく憐れでさえある。
これで暴力を振るった相手が少しでも気にしていれば甘酸っぱさもなにも別なのだが、下手人はいまだ冷めた目で蹲る男子を見る始末。
有罪か無罪かでいえば情け容赦なく貴様は〝ぐー〟だ、とでも言わんばかりの視線だ。
わざわざいちいち煽ってこられては彼女もたまったものではないので。
あと申し訳ないコトに行き場のない鬱憤を吐き出すのにちょうど良いので。
「しかし新しい絵って、どんなの描いてんの。風景画?」
「んー……あれは、なんだろ……、……笑ってる、女の人かな……?」
「ちなみに特徴は」
「銀髪とかならビンゴだな」
「え、あ、普通に髪は黒っぽかった気が……?」
「――――だははははっ! ドンマイ、優希之っ!!」
「あ、海座貴が復活した」
「っ!!」
「こ゚っ!」
「また沈んだ」
「命って儚いんだな……」
都合四度目になる鉄拳制裁。
それは呵々大笑と声を上げる男の腰を折り、人の夢のごとく砕け散らせた。
悲しいかな、よもや渚専用サンドバッグと化しているイケメンである。
じゃれ合いの範疇なので渚も本気ではないのだが、回数を重ねればそれなりに痛手だ。
……尤も、回数を重ねずとも
満面の笑みでいじってくる顔の良い男子は大抵の場合敵としてよろしい。
「……大体、海座貴くんだってこんなところで油売ってる暇、ないと思うけど……」
「――っ、ぁ……? なにが……?」
「…………好きなコトやるの、学園の三年間がミソなくせに」
「――――なんで優希之がそれ知ってるかなぁ……」
「別に。……たまたま耳にしただけ。それに私とは関係ないし」
「言ってくれんなあ、おい……そりゃそうだけども……」
ぶつくさという三葉に、渚が堪えきれず苦笑を漏らす。
本来の形なら彼女の言うコトは間違っている。
関係がない、なんてコトはないのが優希之渚と海座貴三葉だ。
学園でいちばん初めに出会うふたりは同じ学年の同じクラスにつき十分特別な間柄に発展していく。
それは目の前の気心知れた者同士のど付き合いなんかでは断じてない、もっと洗練された鮮やかなばかりの交わりと言ってもいい。
だからこそ現実は違っている。
彼女は
そうすると彼は海座貴三葉というだけの男子なままだ。
その道が開かれるコトは、この世界線に於いて遠くありえない。
のだが、
「おーおー、これが新手のツンデレか?」
「ツンデレというかツンドラというかツン(物理)デレ(溶解)というか」
「男ふたりで美少女取り合うのは鉄板だよな」
「なんだなんだ不倫か? いけないなー、優希之さんそれはいけない」
「誰かこっそり伝えてみろ。水桶の珍しい嫉妬が見れるかもしらん」
「み、水桶さんの
「摩弓。あんたのスイッチが最近分からないよ、もう」
このとおり外野は好き勝手騒ぎ立てていた。
一部は英才教育を受けた名のある家系。
一部は普通に試験を切り抜けた優等生。
一部は素の学力で席を掴んだ才能の塊。
そんな一年一組の諸君であるが、おおよそ順応性も高かったらしい。
たぶん学内で余裕のある立場というのが大きく関係している。
「……オレいやだよ。こんな暴力的な恋人」
「私、海座貴くん、キライ」
「喧嘩するほどなんとやらっていうよね」
「実はお似合い? 美男美女?」
「NTRだ! の、脳がッ」
「肇くんかわいそうに……、……傷心につけ込んだらワンチャンいけるな、コレ」
「ないない。ないよ。たぶんない。……ないと良いなあ……」
まあ、そういった冗談の類いはともかく。
ちょっとだけ気持ちも前向きで、勇気もわいてきた渚からすると件の話は気になった。
どれかなんて言うまでもない。
もちろん彼が女性の絵を描いているというあたりである。
しかも黒髪の。
銀髪じゃなくて。
……いや別に肇の作品なのだから黒だろうが白だろうが銀だろうが金だろうが好きにしていいのだが。
(…………ちょっとだけ、見てみたいかも)
興味本位で、と。
少女はほんの少しだけ心を揺らす。
それはなにも予感していない純粋な思念そのもの。
彼の思い描く女性像を見てみたいだけという、ありきたりな心持ちからだ。
だからだろう。
彼女は気付けない。
気付けるハズなどない。
それは優希之渚ではない誰かと分かっても、どこの誰なのかまでは分からない。
……好奇心は猫をも殺すという。
だとするなら、そこに好奇を抱いた彼女の行く末は――――
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