49/願ってもいない奇跡





「この絵のタイトルは、〝陽嫁はるか〟っていうんだ」



 渚のほうを振り向かずに肇はそう言った。


 彼は熱心に筆を握り続けている。

 その集中力は彼女が話しかけていても淀みない。


 会話と描画を上手く自分のなかで両立させているのだろう。

 そういうところが出来るあたり、なんとも素質の高さが垣間見えた。


 ……同時にそれは。


 リソースを割けるほど安定しているという、焼き直しによる熱意の薄れでもあって。



「はる、か……――――」


「うん。最初から決めてた」



 ……かつん。


 渚が足下をふらつかせる。


 姿勢が安定しない。

 視界は鮮明ではっきりしているのに、どうにもぐらついて曖昧だ。


 わからない。


 なにがどうで、どれがなんで。

 いまの目の前の状況がどういうコトか。


 頭では理解して当然のハズなのに――心が受け入れるのを拒んでいる。


 偏に。


 その衝撃が、あまりにも。



「ひとりの終わり。だれかの結実。でもって、ひとつの訣別かな」

「――――、……けつ、べつ……」

「そう。だからこれが……これだけが、ぜんぶの終わりだ」

「――――――――」



 かつん、かつん。


 膝が震える。

 足下はおぼつかない。


 アルコールでも摂取したみたいな奇妙な酩酊感。

 脳みそから中身ごと揺らされているような平衡感覚の喪失。


 わからない、わからない、わからない。


 だってそれは。


 その絵は。


 此処には――



 ――いいや、どこにだって存在しない。


 いつかの彩斗おとうとが描いた、最期の一枚そのもので。



「本当にあとちょっとだったんだ。もう一筆二筆ってところで、描けなくなってた」



 ぐちゃぐちゃの心模様。

 ミルクを注いだ珈琲みたいに混ざり行く意識の中。


 彼の言葉に渚の奥深くから記憶が浮かび出す。


 忘れもしない寒い寒い冬のある日。

 長い眠りについた姉弟かぞくは、命を手放したあとも筆は離さなかった。



「それがこうやっていま仕上げられる。そこは有り難いかもね。大した未練ではないけれど、小っちゃくたって後悔は後悔だから。……うん、そこは良い」



 そのときのキャンバスに飾られていた絵が。

 死んだ彩斗おとうとが最期のひとときまで描き続けた最終作が。

 関わり合いもなにもない現在いまのこの瞬間。


 彼女なぎさの目の前で、はじめによって描かれつつある。


 揺れる視界。

 霞む意識。


 曖昧でぼやけた自分あたまで何度見てもそれは現実だった。


 ……間違いない。


 見違えるハズもない。

 なにより彼女が彼の絵を見て気付かないワケがない。


 ましてや一度過去ぜんせでほぼ完成したモノを見ているなら尚更。




 〝――――――なん、で……〟




 かつん、かつん、かつん。


 蹈鞴たたらを踏む。


 いや、実際はどうか。


 前後不覚に陥った渚はもうどこが前でどこが後ろかも分からない。

 なにもかもが理解の外。


 頭脳は拒むように鈍い痛みを訴えている。


 いやな心臓の鼓動が止まらない。

 息が苦しい。


 水中にいるような感覚に空気を求めてあえぐように呼吸する。


 ただ、そう。


 明確に、冷静に。


 正しく分かっているコトがあるとするなら。




 〝――――――――なんで〟




 その絵には見覚えがあって。

 その姿には重なるものがあって。

 その言葉には通ずる部分があって。


 その雰囲気には――たしかな答えが隠されていた、というコト。



「だから、楽しみにしてて」



 絵を描き続けながら肇はそう言った。


 渚はもう瞠目するしかない。


 音は同じく。

 響きは等しく。


 別人のはずの彼の背中に、記憶の中の影が被さる。


 ――――かつん。


 踵が床を叩く。






 〝――――――――――〟




 ぱん、と。


 軽い発砲音じみた衝撃が身体に走る。


 冗談じゃなく。

 比喩ではなく本当に、渚は脳みそが弾けたと思った。



 ――――かつん、かつん。



 頭がさっぱり回らない。

 思考回路がぜんぜん動かない。


 全身に異常がないところなんてないぐらいだ。



 ――――かつん、かつん、かつん。



 血液は沸騰している。

 脈打つ血管はいまにも千切れそうなほど。


 心臓だって気を抜けばすぐにも破裂するだろう。



 ――――かつ、かつ、かつ、かつ。



 胃液は逆流していた。


 頭が痛い。


 眼球が乾きすぎてぽろぽろと崩れそうだ。


 手足は痙攣している。

 喉も痺れたように引き攣ったまま。


 声だってもうぜんぜん。



 ――――かつ、かつ――たん――――



 なにもできない。

 なにも発せない。

 なにも反応できない。


 その中でも足だけが真っ先に動いた。


 脳髄が復帰するより前に爪先が大地を蹴る。


 彼に向かってではなく。

 近付くためなんかじゃなく。


 身体は倒れこむよう、出入り口の扉を抜けていく。



「――――――――ッ」



 ばたばたばた。


 泥のように駆けていく。

 陸に打ち上げられた魚か死んで生き返った屍体ゾンビみたいに。


 無様に手足を振って、ぐしゃぐしゃに崩れそうな様子フォームで、彼女はひと息に階段を下っていく。


 頭の中は真っ白だ。


 意識が飛んでいるのでない。

 本当に、本気で考えるというコトができない。


 わからない。


 こわい。


 ありえない。


 しんじられない。


 自我が壊れそうだ。

 そんな、今までのすべてを打ち砕くほどの真実。




〝――――ッ、――――……っ!!〟




 ……は見つかった。


 彼女がもう二度と手に入らないと思っていた宝物キセキは近くにあった。


 それは姿形が変わろうとも関係ない。

 目に見える価値だけを尊んでいたワケじゃないからだ。


 彼女が惚れ込んだのはすべてを含めたその本質。


 なればこそ、それは彼にとって当たり前に備わっていてしまった。




〝――――ぁ、――――あぁ〟




 大切だった。

 大事だった。


 ずっと引き摺っていた。

 ずっと割り切れていなかった。


 彼のすべてを彼女は愛していて。

 彼女のすべては彼に捧げたいと思ったほどだ。




〝あ――ぁ、あ――――あぁあ――――っ〟




 失って酷く傷付いた。

 無くすまでもなく代え難いと分かっていた。


 当然のコト。


 それでも天はふたりを引き裂いていって。


 だから彼女は以前のような陽光あかるさ夜闇くらさに沈んでいる。


 そこをなんとかようやく、最近になって取り戻しかけていたのに。




〝あ、あぁあ――――あぁあぁあああ――――ッ〟




 二度目の人生を救った彼が。

 手を引いてくれた明るい太陽ほしが。



 ――――好きになったひとが、彩斗おとうとだった。



 このいのちに深く刻み込まれた、最愛の家族あいてだった。



「――――――――ッ」








 その後についてはもう渚も記憶にない。

 どこをどう通ってどう行ったのかも一切不明。


 無我夢中に走って、ただがむしゃらに駆け抜けた。


 息が切れても倒れそうになっても遮二無二手足を動かした。


 彼女が意識を取り戻したのは家の玄関の前。


 心配そうにこちらを見詰める母親が顔を出したところで、やっと帰宅したのだと認知できたらしい。


 まともに返事をする気力なんて、それで残っているはずもなかった。





 ◇◆◇





 少女が走り去ったあと。


 引き留める間もなくあっという間に教室から出て行ったのを確認して、肇はちいさく息を吐いた。


 それまで動きっぱなしだった手を止めて、ゆっくりと扉のほうを見詰める。


「……やっぱり」


 くすりと、全部分かっていたように彼は笑う。


 いつか彼女がここに顔を出すコトも。

 目の前の作品を見ればどうなるのかというコトも。

 衝撃を受ければどんな反応をするかも。


 そして――その最奥に在る秘密の正体すらにも手をかけていたとでも言わんばかりに。


「え、なに。逃げられてんの肇」

「ちょっと見せびらかしてまして」

「はー、なるほどねー……あんたらって複雑よね」

「かもしれないです。俺は違うんですけど」

「そりゃあんたが肇だからでしょ」

「まあ、はい」


 軽く笑いながら肇が筆を置く。


 その会話に重ねられた真意は語るまでもない。

 事実を知ったとして思い悩むコトこそあれど、彼は苦痛に歪まなかった。


 ただそれだけ。


 一分の隙もないだけに心の在り方は強固だ。


「すべては感覚と実感ですから」

「あらまあ、なんとも真理。嫌いじゃないわね」

「ごめんなさい」

「うっさいっての。大体、無視されてんでしょうに」

「……そういうんじゃないですケド」

「ふん。あっそー」


 ふいっとそっぽを向く部長に肇は苦笑した。


 切欠はなんてコトのない日常の一幕から。

 気付きは彼らしくその熱の高まりようである。


 再起の原因。

 彼にとっての原初の燃料。


 そんなのはたったひとりを除いて他にいない。


 ならば答えなんて簡単に掴めたコト。

 そも、音もリズムも名残も重なりも関係なかった。


 彼女の傍にいて彼が描きたいと思った時点で、答え合わせは終わったようなものだ。


「関係ないんです。俺らは赤の他人なので」

「……よく言うわよ、まったく」

「だってそうじゃないと失礼なので」

「律儀ねー……いやはや馬鹿の所業だわ」

「ありがとうございます」

「やりやすくて助かるわ、あんた」


 会話のリレーはテンポ良く。


 言葉に込められた意味は二重にも三重にもなっていた。

 正真正銘、肇と彩でなければ成立しないやり取りである。


「――だって、渚さんですから」

「…………あっそ」


 もう一度彼はちいさく微笑む。


 冷静に考えれば分かるコト。

 もっと言うなら考えなくても自ずと出てくる答え。


 すべての記憶とすべての感覚が肇の中でそれを告げている。


 肝心なのは薄れゆくモノではない。

 いまにたしかに在るべき色と形だ。


 彼はとっくに分かっていた。


 その心の矛先は間違いでも勘違いでもないだろう。


 なにせ戸惑うまでもなく。


 ここまで来て笑い合ったのは、

 穏やかな時間を過ごしたのは、助け合ってきたのは、思い出を重ねて来たのは、


 好きだと思えているのは――――







 ◇◆◇








 ばたん、とベッドに倒れる自分をどこか遠く思いながら、渚はようやくひと息ついた。


「――――――、」


 ……とは言っても、さっぱり落ち着いてはいない。


 指先は微かに震えている。

 動悸は激しくなるばかりで、頭は靄か霞のかかったみたいな微妙さ。


 喉だって引き攣ったままだ。


 未だに声は出ない。

 出そうと思っても、震えて嗚咽みたいに洩れるだけ。



 〝――――――――〟



 彼女は力無く倒れこんでいる。

 虚無のような時間はそのとおり何も無しに過ぎていく。


 まるで迷子になったみたいだ。


 流れる世界のなかでひとりだけ明確に取り残された感じ。


 事実、渚の意識は停止してると言っていい。


 あの瞬間。

 肇の描いた陽嫁かのじょの絵を見たときから。


 もうなにがなんだか、分からなくなっている。


「――――………………、」


 あまりの衝撃に麻痺する感情。


 心がとんでもなく攪拌されて上手く掴めない。

 いくら掬っても指の隙間から意識はすり抜けていく。


 茫然自失。


 その言葉がいまはなにより彼女によく似合っていた。


 だってそうだ。


 あれは。

 彼は。


 水桶肇は。


「………………ぁゃ、と……」


 震える音で声を紡ぐ。

 口にすれば胸の中身はこぼれるよう広がった。


 じんわりと。


 身体中を浸すみたいに染みになって感情が伝播する。


「…………ぁ、あ…………」


 胸を掴む。


 気持ちが悪い。


 いっそのコト、そのまま取り出してぜんぶ洗ってしまえたら良いのにと。

 そう思ってしまうぐらい、調子という調子が崩れまくっている。


 ――おかしいとは思っていた。


 いくら現実の世界とはいえ肇は原作ゲーム登場そんざいしない名前の人間キャラクターだ。

 それなのにどうして付き合う上での特別感があったのか、これまで彼女はあまり深く考えてはこなかった。


 ……思い返せば当然のコト。


 外側がどうであれ、培ってきたモノがなんであれ。


 生まれ落ちた時点から中身が彩斗かれであるのなら特別でないハズがない。

 彼と出会ってしまってそう感じないワケがない。


 ――ヒントは散りばめられている。


 近付くだけで感じ取れる雰囲気。

 傍で一緒に居て心地良く思える波長。

 ところどころの所作に表れる微細なクセ。


 そして決定打になった桁外れの描画センス。


 ……学生レベルだから、なんてとんでもない。


 それは売りに出せば一瞬で高値がつくような。

 その道で食べていくには一切苦労しないような怪物レベルの才能だ。


「あ――あぁあ……っ、ぁ、あぁ……!」


 ――彼はそれに気付いていない。


 外野からなんて言われようとその認識を覆してはいない。


 それもまた当然だった。


 なんせ誰も知らないだけで、彼には明確な結果が出ている。

 過去にそうなったという事実を受け止めている。


 ――ひとつも売れなかったという、誰かの吐いた苦しまぎれの嘘を信じ続けて。


「あぁああぁああっ、あぁあああぁあ――――」


 思い出は走馬灯のように。

 壊れた頭を映像だけが鮮明によぎっていく。



 〝あ、名前まだだっけ。俺は水桶肇って……言います〟


 〝だったら大切な分だけ、大事な分だけ抱えていても良いんじゃない〟


 〝大事だから、痛いんだ〟



「あ、あぁっ――――」



 〝太陽みたいに笑う人。付き合うなら、そんな人が良いなって〟


 〝いいなあ、花火〟


 〝――で、どうだった、俺。ちゃんと格好良かった?〟


 〝うん、優希之さんはやっぱりそれが一番似合ってる。可愛いし〟



「あぁあぁっ、ああぁあああぁ――――」



 〝大丈夫、大丈夫〟


 〝幸せだろうね。それこそ、一度限りでもう十分満足しちゃうぐらい〟


 〝――――お帰り、優希之さん〟


 〝あははっ、あった! あったよ優希之さん! ちゃんと受かってた!〟



「あぁあぁああ――――――――!」



 〝やっぱり大事なのは今だと思うんだよ、俺は〟


 〝――――それなら、良かった〟




「っ――――…………!!」




 ココロが砕けそうだ。


 頭は割れんばかりに痛い。


 精神状態の悪化だろう。

 えづくほど胃酸がのぼってくるのが分かる。


 ともすれば渚自信、壊れそうなぐらいひとまとめに引き裂かれていて。


 だから、本当。


 なにもかもが、てんでさっぱり。

 一切合切。


 まったく、わからない。


「………………ぅあ……っ」


 想いは複雑に絡み合った紐みたいに。


 驚き。

 喜び。

 悲しみ。

 苦しみ。

 混乱。

 困惑。


 ――かき混ぜられた胸の液体はドロドロとしていて気持ち悪い。


 口に指を突っ込んで無理やり吐き出してしまいたいほど。


 けれどできない。

 それをしたところで彼女の腹が空くだけだ。


 精神的なものはどうやったって即席で直らない。


「なんで……っ」


 この世界に彩斗おとうとがいるという事実は嬉しい。

 /なんで。

 彩斗おとうとがまた絵を描いているというのは喜ばしい。

 /なんで。

 その心根もなにも歪んでいなかったのはすぐ分かった。

 /なんで。

 彼女が違うワケもない、そんな事実に心から湧き上がってくるものがある。

 /なんで。


 なのに/なんで。


 どうして。

 よりにもよって。



 それが――――かれだった。





「――――なん、でぇ……っ」





 わからない。


 わからない。


 わからない。


 軽くなったと思っていた。

 立ち直りつつあると思っていた。


 肇の言ったとおり、無理をせずとも良くなるいつかは成されたのだと。


 そう感じていたのは、ぜんぶ、間違いだったのだろうか――?



「わ、わたっ、わた、し、は……っ」



 影は伸びていく。

 抑えつつあった心が酷く傾いた。


 自覚して思わず顔を覆った少女に誰がなにを言えるのか。


 ――彼のコトは好きだ。


 頭のてっぺんから足の爪先まで惚れ込んでいる。


 だから渚の胸は高鳴って。

 己の恋心に散々振り回されて。

 その温かさにことごとく救われて。


 本当に、本気で、踏ん切りがつきかけていたのに。


 ……もしもそれが勘違いなら。


 そうじゃなかったとするのなら。

 ただ彼の中にあった彩斗おとうとの影を追い続けていただけというなら。



「っ――――……」



 ああ、それは。


 なんて醜悪で、


 最低な、


 前世かこを引き摺ったままの陽嫁じぶんで――――



「はじめ、くん…………――――」



 わからない。

 いまの渚にはなにもかも。


 冷静であるなら余程答えも出ただろう。

 落ち着いていれば時間と共に導き出せもしたハズだ。


 けれど彼女はそのどれも失ってしまっている。

 それほどの衝撃を受けた事実を前にマトモでいられる人間がどこに居よう。


 ただ胸に残ったのは残酷なまでの結果。


 ……夜は更けていく。


 少女の慟哭は途切れない。


 鉛筆で書き殴ったみたいに解答欄は塗り潰された。


 どうすればいい。

 どんな顔をして会えばいい。

 どう話をすればいい。


 どうして続けられると思っている。



「……っ」



 もう無理だ。

 限界だ。


 苦しくて辛くて。


 涙が止まらない。


 こんなに思い悩むなら。

 こんなに胸を掻き毟るなら。


 ――こんなに痛むのなら。


 そんな真実、彼女は知りたくもなかった――





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