38/再浮上と、それと
『――――♪』
ぼんやりと、どこかで聞いた音を耳にする。
揺れる意識は水に浮かぶように曖昧だ。
いまがどこで、なにがどうかもあやふやな夢見の心地。
叩き起こされた理性が覚めるまであと数秒といった寝起きの余韻。
彼は目を瞑ったまま寝ぼけている。
暖かい春先の空気が髪を撫でていく。
理由なんてそれで十分だった。
食事を済ませて腹が満たされたコト。
それと、肇自身も気付いていなかったけれど、最近の自主勉強で睡眠時間がちょっと削れていたコト。
細かな要因が重なって、いつの間にやら眠ってしまったらしい。
「――――♪」
(…………、姉さん……?)
うっすらと目を開ける。
ぼやけた視界に懐かしい景色が広がっていく。
聞き心地のいい微かな音色。
どこか楽しそうに響いていく声。
さらさらと髪を梳かすような暖かさ。
いずれにしろ大切な感覚が充満したいつかの空気。
「――――……、」
「
音が重なった。
声はダブるように響いている。
その
眼は暗い
「
瞬間を彩る夢の跡。
身体についた目と心の奥に秘めた
それがいやにどうして呼び起こされる。
一秒。
彼はぼんやりと、少女の太股の上から世界を視た。
二秒。
彼女はどうしていいか分からず、名前を呼んで静かに小首をかしげた。
三秒。
――目を覚ました水桶肇は、弾かれるように飛び上がった。
「ひゃっ!?」
姿勢を崩した渚の手首が優しく握られる。
そのままくるっと位置関係を変えられて、そっと腰に手を添えられた。
彼女があっと驚いている間にふたりは見事逆転。
渚はベンチを背に見上げるように、
肇は小柄な彼女の体躯を逃がさないようじっと見詰める。
もれなく距離は酷く近い。
(――――えっ、ちょ、あの、これ――!?)
「み、みな、水桶っ、くん……!?」
「――――――、」
ぐぐっ……と、渚の上から身体を押しつけられる。
間近で向けられる視線はひたすらに強い。
ともすれば瞳の奥まで捉えられてしまいそうな急接近。
ふたりの間はもはや垂れた髪が肌に触れるほど狭まっていた。
……つまり、こう、なんというか。
端的にいって――――渚は彼に、現在進行形で押し倒されている。
学園の、中庭の、ベンチの上で。
(――ま、待って待って待って。ステイ、落ち着け私……! み、水桶くんがいきなりこんなコトするワケないでしょ、常識的に考えて! うん! だから、落ち着――――)
つぅ――と。
彼の右手が渚の頬へ優しく添えられる。
〝――――んにゃあッ!?〟
C-4は無事起爆した。
ぼんッ、と音をたてて破裂した渚の頭は赤一色。
血色の良いどころではない熱を伴ってパクパクと口を動かすしかできない。
さながら餌を待ち望む池の鯉みたいに。
「み、みみみ、みなっ、みなおけ、水桶くんッ!?」
「――――……」
そうっと銀髪が持ち上げられる。
分からない。
渚には彼のしたいとするコトが分からない。
シてみたいとするコトがまったく分からない。
いや本当なんのことだか。
一体全体どういう行為なのかさっぱりだ。
そう、さっぱりなのである。
……言い訳がましいとはいえ、彼女がさっぱりと言えばさっぱりなのだ。
どうかそのように捉えてほしい、切に。
「…………、」
「ぇ、あ、あのッ……こ、ここ、学校……ていうか中庭……!?」
「…………優希之さん」
「えッ、あ、はっ、はいっ!!」
びくびくぅ! と押し倒されたまま肩を跳ねさせる渚。
答えながらもきつく目を瞑ってしまったのは羞恥心からか。
右手はがっしりと手首ごと掴まれていて動かせない。
左手はちょうど背もたれと自分の身体に挟まれている。
足だって下手にはずらせない。
だって、いま彼女の身体の真上には。
至近距離には、妙に真剣な顔をした肇が居て。
「君は――――」
どくん、と心臓が息をする。
ひときわ高い
それは一体どちらのものだったのか。
彼は彼女から目を離せない。
彼女は開かれた唇を黙って見ているしかない。
たしかな瞬間。
たしかな答え。
いつか起こりうるひとつの訣別。
肇の口は、ゆっくりと言葉を紡いで――
「――――」
被さるように鐘の音が響く。
昼休みの終了と、五限目のはじまりを告げる予鈴だ。
どうやら彼が眠っている間にそこまで時間が経っていたらしい。
……開かれた口がそっと閉じられる。
その先の言葉は簡単に吐けるものでもないように。
「みな、おけ……くん……?」
「……ごめん、なんでもないや。教室に戻ろ?」
「ぇ……あっ……う、うん……?」
ふるふると首を振って肇は立ち上がった。
そんな彼に手を引かれて、渚もベンチから腰を上げる。
いま一度表情を見てみればもういつも通り。
先ほどまでの空気は嘘みたいにない。
ただ穏やかで緩やかな、ちょっと
ほっと、胸中で胸をなで下ろしかけたのは気のせいか。
「ごめんね、なんか寝ぼけてたっぽい」
「あっ、い、いや! 別に、その、ぜんぜん……」
「……でも優希之さんだってあんな物欲しそうな顔しちゃダメだよ?」
「えッ、あ!? い、いいいいいや私っ、そんな!?」
「ごめん冗談」
「――――っ、――――!!」
「あはは、痛いってば」
ぽこすかと弱々しい拳で右肩を殴られつつ肇は歩いていく。
繰り返すがそこに変わった様子はない。
よくも悪くも素直は彼は軽くない衝撃を受けて隠せるほど器用じゃないだろう。
疑問も確信も当たり前の態度と共に掠れて消えた。
ならばこそ残るのは密かに抱えたものだけ。
――浮上したのは意識と共に。
広がるように燃える熱に
待ちきれないと震える指をいまは意図的に握りしめた。
……ああ、なんてコト。
これでは部長に謝らなければならない、と肇はちいさく微笑んだ。
あの夏祭りより高く、花火よりも激しく。
今までのすべてを軽く凌駕していくような
酷くもどかしい。
これを吐き出せない一瞬一秒の全部がもどかしくて、そして。
――――なにより愛おしい、彼に芽吹いた原初の鼓動。
◇◆◇
なんだかんだで肇の気質は真面目なほうに傾く。
緩い部分はたしかにある。
抜けているところだって片手の指では数え切れないぐらいだ。
けれど押さえるところは押さえようとするし、大事な部分はきちんと大事にするのが彼の基本的な考え方。
――そんな彼をして、午後の授業はまったく集中できなかった。
(――――――、)
理由は単純。
意味も明白。
これ以上ないほどの答えに彼は確信の手応えだった。
気を抜けばそわそわと指を動かしている。
いつもは大切に噛み締める教師の言葉もいまばかりは耳を通り抜けていく。
よもやこんな調子では授業を受けるべきではない。
そんなコトは彼も分かっている。
ぜんぶ自覚して承知の上だ。
……けれど、分かっているからといってどうにかできるなら、それはあくまで常識の及ぶ範疇の出来事に過ぎない。
(――――――――――――、)
同時に、彼は知らない。
ぜんぶ自覚などしていない。
いまとなっては誰も知る由もない事実。
死後、別の場所でかの人物はこう呼ばれた。
名のある画家の再来。
あるいは現代美術におけるオーパーツ。
またはダイヤモンドより価値のあると認められた油彩の宝石職人。
若くして散った短命の天才、
父親である元翅崎グループ社長の翅崎
すなわち、ただ絵を描くためだけに産まれてきた神の御子。
後に五十年経ってもその技能に追いつけないとまで言われた正真正銘の絵描き狂い。
――それがなあなあではなく、明確な創作意欲に突き動かされてる。
〝早く、早く、早く――――〟
最低限の理性で逸ろうとする身体を押さえ込む。
握りしめた拳から血が滲んでいようと彼は気にした様子もない。
然もありなん、それはいつぞやの歩けないほどの激痛を誤魔化した爆発的な衝動だ。
出血程度の軽傷ならなんら感じるところではないだろう。
〝はやく〟
いつの間にかシャーペンを持つ手はカタカタと震えていた。
教師の話は依然として頭に入ってこない。
板書は黒板を写すだけで精一杯。
考え事なんてひとつもできないでいる。
……本来、湧き上がるものは時間を経てば落ち着くものだ。
ましてや学校、授業中。
昼休みにぽっと灯った明かり程度ならそのうちに消えてくれる。
けれど違う。
コレは異なる。
彼はある一点において非常に頭のおかしい人物だ。
時間が経てば経つほどに気持ちは抑えられなくなる。
抑圧されたその分だけ堪えきれず膨らんでいく。
しぼむ気配などさらさらない。
すでにその気力だけで言えば
なぜか。
……当然、だっていまの彼には縛るものがない。
足枷になっていた身体の弱さと病気の辛さがてんでさっぱり。
これでは意識はひたすらに集中力を増していく。
それこそ加速するように。
「――っと、えー……では今日の授業はここまで。ちゃんと次までに復習しておくように。分からないコトがあれば後で先生に聞きに来ること。じゃあ、号令係」
「起立――」
六限目が終わる。
挨拶をして教師――古文の担当――はスタスタと廊下へ。
同時に、勢いよく立ち上がる人影がひとつ。
「――っ」
「!? ぇ、あ……水桶、くん……?」
「――――――」
鞄も持たずに教室を出る。
ルールも忘れて廊下を走り抜け、階段を駆け下りていく。
放課後特有の憩いの空気が伝播するより速い。
周りの声などお構いなしとばかりに肇は目的地へ向かう。
すでに熱は全身へ行き渡っていた。
どころか脳まで焼くほどのもの。
勢いのまま足は二階へ。
そこからは下りるのではなく、廊下を通り抜ける。
目指すのはもちろん――――美術室。
(――――、)
と、走りながら前方に立つ誰かの姿を捉えた。
なんの因果か教室の扉を開けて少女がひとり佇んでいる。
部長だ。
分かっていたのかなんなのか、薄く笑いながら彼女は肇のほうを見ている。
「
「
「
「
美術室に入ってすぐ、キャンパスの構えられた席に座る。
近くの机には所狭しと
筆やパレットはもちろんナイフと各
油絵具、筆洗機にクリーナー、サーフェスコート
とりあえず最低限のものは置かれている。
「
「
「
「
下書きは要らない。
アタリは取らなくても問題ない。
余程手は動く。
いちいち震えていた
なにせ二時間も授業を受けたあと。
下絵なんてすでに瞼の裏に焼き付いている。
あとはそれを写すだけだった。
その程度は肇にとってなんら難しいコトじゃない。
「失礼しま――って、あれ、部長? 早いですね」
「え、なに。部長もう来てる? ……おや、そこの彼はいつぞやの」
「っ、み、水桶さんもしかして来てます!? 居たー!!」
「ちょっと声大きいぞ摩弓ちゃん。いちおう静かに」
「すいません!!!!」
「うるさっ!? なんの騒ぎだコレ……ん? あ、例の一年生くんか?」
過去最高に筆が乗っている。
まばたきすら忘れて手を動かしていく。
肇の眼球は開始一分と待たず既に血走っていた。
鬼気迫るというのは正しくこういう
かつて中学時代に打ち込んだときも、
入試のときに発揮されたそれも嘘みたいな過度の集中状態。
その意識に余人の入り込む隙間はない。
完全に彼ひとりだけの隔絶した世界。
「気になるなら見ときなさい。
「…………本当ですか? それ」
「いやまさか……天下の聿咲彩に勝てる学生なんて……」
「あっはっは。冗談きついなー部長。……冗談ですよね?」
「み、水桶さんの手元! 見てみたいです!」
「てか部長はなんでそこでベガ立ちしてるんすか?」
「べ……は? なに?」
「あ、なんでもないす。後方腕組みしてるのはどうしてかなー、と」
「そりゃあ私が気になるからに決まってるじゃない」
「…………、」
その一言で顔を出した美術部の面々はしんと静まり返った。
興味がなければ名前すら刹那で忘れる我らが
そんな彼女が明確に「気になる」といって後ろから見守っている。
答えなんてそれで十分。
なにも彼らは自分たちのトップが持つ実力を疑っているワケではない。
「…………まじで?」
「……俺見てくる……」
「あ、私も私も。そこまで言われると」
「まあ一年生の実力確かめるには良い機会……なのかな?」
「単純に部長が褒めそやす技量がどんなものか興味はあるけども」
「……
「
答えながらも手は止めない。
いまはコンマ一秒の
脳裡にはより強く鮮明にイロドリが浮かんでいる。
湧き起こったのは複雑怪奇な色と形だった。
ただ示し合わせたようにパズルのピースはカッチリと嵌まっている。
それは肇もまだ知識として理解していない真実の断片。
「……え? これどういうヤツ?」
「わかんねえ。てかなにしてんだこの子。全体図が見えねえんだけど」
「はっや。手の動きバケモンじゃん」
「は? そこでその色使っ……、えぇ……なんでそうなるの……?」
「…………、」
――空には太陽が迫っている。
日差しは強い。
影が伸びていた。
疎らにこぼれるのは光か雪。
融け出した中にまた別のモノが見え隠れしている。
立地はどうだろう、分からない。
東から日は上る。
いまは何時ぐらいだろう。
夜みたいに穏やかな氷上の海。
少女は踊りながら立ち尽くして
「……どうしたんですか、みんなして」
「あ、潮槻。おまえも見ていくか? 一年生が変なの描いてるけど」
「一年生……? いや、僕は」
「み、水桶さんですよっ、潮槻さん!」
「っ! ――ちょっと通してくださいっ」
「あっ、おい押すな。待てって」
指先から滴るのは雫。
汗、涙、涎――いいや
日差しに人が溶けている。
熱気は草原となって彩を歪ませる。
空は眩しく透き通るような
たったひとり、銀糸の髪を振りながら黒髪の少女が
くすくすと、どろどろと。
花火みたいでなんとも綺麗だ。
「――――――……」
「潮槻。おまえこれなに描いてるか分かるか? 形は整ってきたけど」
「…………いや」
「部長はどうなんですか?」
「逆になんで
「俺らは悪くないです。たぶん部長がおかしいです、はい」
ふと、身体にちょっと異変が起きた。
肇の指先が微かにブレる。
目が乾いている。
動悸が激しい。
関係ない。
どうでもいい。
いまは手を動かすのが最優先。
その精度は一ミリでも落としてはいられない。
奥歯を噛み締めながら不調のすべてを飲み下す。
時間は砂が落ちるように。
「……ねえ……やけに静かじゃない?」
「たしかに。なんでだろうな」
「みんな集中してるからだろ?」
「なるほど……、……いや待て。違うそうじゃない」
「――おい水桶くん息してなくね?」
「え? いやいやまさかそんな。……そんな……、……あれ?」
「呼吸音聞こえねえんだけど……ちょっと誰か止めたほうが……」
「絶対止めんな。これ部長命令だから」
「いや人の命かかってそうなんですけど!?」
一時間、二時間と経って。
極限まで研ぎ澄まされた集中が継続していく。
いや、さらにその鋭さを増していく。
「ちょ、ちょっと失礼! ……あ、心臓は動いてる」
「こら。あんたら邪魔すんな」
「そんなコト言ってる場合と違いますよ部長! 誰か保健室から酸素スプレー持って来て!」
「あー、俺このあとの展開なんとなく分かっちゃった……担架いる?」
「念のためAEDも準備しといて! 一階の事務室前にあるから!」
「あんまり余計なコトしないでよ。いま良いところだから」
「部長!! あんまりですその態度は!!」
――ちなみに余談ではあるが。
つまり何が言いたいかというと、美術部の皆さんはえらく優秀だ。
「――――――」
そして、彼の宣言したとおりようやく三時間が過ぎようとした頃。
ちいさく、細く。
ほう――――と、肇は途絶えていた息を吐いた。
「…………できたぁぅッ」
そのままふらっと後ろに向かって倒れこみながら。
「あっぶな!? 構えておいて良かった!」
「脈ある!? ……ある! 心臓動いてる! 酸素はやく! 貸して!!」
「なんか既視感あるなって思ったら一年のときに部長がやらかしたコトありましたねこれ! あのときも凄い大変だった!」
「ふーん……まあまあ良い出来じゃない?」
「ちょっと部長も絵なんか見てないで手伝って!」
「絵なんかって……あんたらの目節穴なんじゃないの?」
そんなコトを言っている場合ではないのだが、事実彼の描いたものはこれまでの作品と一線を画す代物だった。
過去の受賞作もコンクールの優秀賞も劣って見えるぐらいの完成度。
たかだか学生の中でも飛び抜けていたモノは、完全にかつての輝きに埋め尽くされている。
すなわちオークションに出せば短時間で八桁は行く、
死後その貴重性が上乗せされれば億単位にまで届く――
――――
「……ぇ、ぁ…………」
「だ、大丈夫水桶くん!? これ見える!? 何本!?」
「……? に、二本……です……」
「親指立ててるから三本だよ! ダメだ! 酸素いくよ!」
「もごもご……?」
「大丈夫大丈夫! 水桶しっかりしてるから!」
こてん、と可愛らしく首をかしげる肇は当然のごとく気を失ったとは思っていない。
あれなんか寝てる間に凄い誤解されていないかな、ぐらいの心持ちだ。
めちゃくちゃな阿呆である。
同時にめちゃくちゃな才能を発揮したワケだが。
「――――なん、だ……これ……」
ぽつりとこぼしたのは馨だ。
彼は肇の書き上げた絵を呆然と見ている。
……心を掴むには
それ以上ないというのは今までの画で散々理解できる。
ならば、そんなハードルを軽々と飛び越えていったのは。
「ねぇねぇ肇。あんたこれタイトルは?」
「うーん……
「おぉ、たしかに。やるわねー」
「ふふっ、ありがとうございます」
くしゃりと笑う肇。
珍しく満面の笑みで返す彩。
当然ながら他の全員がその反応を理解できなかった。
いや、たしかに凄いは凄いのだけれど。
これの一体どのあたりが〝たしかに〟という感想へ繋がるのかと。
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