37/ナギサの七変化





 それはもう、いまとなっては古い時代ぜんせの話。


 彼女がまだ生きていた頃、一度だけ家に泥棒が入った。


 有名企業の社長が暮らす自宅だ。

 金目のモノを狙っての犯行なら世間的に見てそうそう珍しいコトでもない。


 違ったのはその人物が家にある金庫や調度品には一切手を付けず、真っ直ぐ地下の保管庫に向かったコトだろう。


 ……保管庫には死んだ弟の絵を置いていた。


 捨てるコトはできない。

 かといって手放売りに出すコトもできない。


 けれど見ていると、彼女は彼を思い出して泣いてしまうから。

 そんな娘に気を遣って、父親がそこに飾っておいてくれたのだ。


 ――それが盗まれかけた。


 幸いなことに地下の保管庫といえどセキュリティは万全……どころか彼女が輪をかけて厳重にしていたのもあって直ぐに警察が駆けつけて現行犯逮捕。

 弟の絵にもコレといった傷みはなく、事なきを得た。


 その一件が切欠だった。


 愛する弟を失って半年過ぎ。

 すでに精神を摩耗していた彼女に理性など泡のように浮かぶもの。


 冷静な判断などできようもない。

 ましてや父親の声なんて聞こえるはずもなく。



 〝熱い〟



 理由など考えただけで沢山だ。


 第一に先ず、今回もう少しで大事な彼の作品がどうにかなってしまいそうだったコト。

 どこから洩れたのか、彼の絵の価値が広まりつつあるコト。


 父親が仕事仲間と話すうちに、財界での有名人や世界的な財閥にかつて出品した絵の作者が弟だと知られてしまったコト。



 〝明るい〟



 そして最近になって、そんな影も形も捉えられない大物たちからどうか譲ってくれないかと密かに札束を積まれているコト。



 〝あたたかい〟



 彼女にはイマイチ分からなかったコトだけれど、弟の絵は大勢の人を魅了するほどの代物だったらしい。

 単純に上手だな、とだけ見ていた少女には弟が描いた以上の価値など付きようもなかったけれど。


 いや――その価値が付いたからこそ、共通の認識にもなったのかどうか。


 彼女が以前、一度だけオークションに出したモノに至っては億越えの値段がつけられているという。


 もちろん父親が売ろうとしているワケではない。

 父は父で「大切な息子の絵はいくら積まれようと手放すコトはできない」と言い切っていた。


 でも、もしもそんな個人の意思すら無視して、無理やり奪われるとしたら――?



 〝これでいいの〟



 ツンと鼻をつく匂いを嗅ぎながらぼんやりと少女は眺める。


 材質のせいか変化はすぐだった。

 煙に紛れて上るようにひとつ残らずになっていく。


 残しておきたい。

 持っておきたい。

 けれど奪われたくはない。


 顔も名前も知らない他人の手に弟のモノが渡るなんて断固として御免だ。


 だから彼女は、すべてを燃やして――――



 〝……うん。これで、ずっと家族わたしだけのもの〟



 灰の詰まった瓶を大切に、胸へ抱き締めた。







 ◇◆◇







 美術部での一件を境に、馨は昼食を誘いに来なくなった。


 それまでがそれまでだっただけにちょっと大きな変化でもある。

 学年は同じだがクラスが違えば出会う機会は相応に少ない。


 なによりちょっと避けられている気もする肇だ。

 こういうときは無理せず時を待った方が良いのかな……なんて思いながら、最近はクラスの男子や海座貴三葉イケメンやろうやら仲の良い女子らと食事を共にしている。


 そして本日、ようやくその権利を勝ち取ったのは我らが乙女ゲー主人公メインヒロイン渚ちゃんだった。


 それまでいつの間にやらスクラム組んだ男子連中に阻止され、

 ニヤニヤしながらさらっと誘い出した三葉に出し抜かれ、

 わーきゃーと女子陣営にファイアーウォールのごとく防御された果ての勝利。


 方法はとっても簡単イージー


 先ず四限目終了のチャイムが鳴った瞬間に隣の席という利点を生かして彼の手を掴み、割りと大きめ声で名前を呼びこちらに振り向かせる。

 そのあと余計なコトをいわずストレートに「ふ、ふふふたりでお昼しようっ!?」と宣言する。


 この際に「一緒に食べない?」とか「私と食べよう?」なんて曖昧な誘い方をすると彼の天然ポンコツっぷりが発揮され集団グループに発展する可能性があるので注意するコト。


 これだけだ。


 たったのこれだけ。

 ほんのこれだけなのだが――言った後の渚がもう茹で蛸もかくやという赤さになっていたのは言うまでもない。



「よく言った、優希之さんっ」

「ユキノダコ。いやタコノナギサか……?」

RPGゲームにありそうな地名はやめろ」

「結局焦って自分がいちばん恥ずかしいコトしてるってなんで気付かないんだろうな、優希之あいつ

「………………っ!」

「どうしたんだこの前までの勢いは……笑えよ摩弓マユーミ



 そんなワケで弁当片手に中庭まで足を運んだふたりは仲睦まじく昼食と相成った。

 木製のベンチに二人並んで座りつつ食事を済ませていく。


 優雅で静かなお昼時。


 生徒の大半は学食か購買で済ませるためか弁当派はごく少数勢力だ。

 食堂の味が大層良いのもあって余計その傾向は強い。


 それでも彼は偏に料理がそう嫌いというワケでもなく。

 彼女はそんな彼に自然と合わせてしまったような形で件の派閥に身を置いている。


「――え、部活まだ一回も出てないの。水桶くん……?」

「うん。本当に幽霊部員になっちゃったね」

「……顔ぐらい出したほうが良いんじゃない……?」

「そう思ってこの前入部届書きましたーって挨拶行ったんだけど、一言「帰れ」って言われてドア閉められたんだよ。面白いよね」

「…………え、どこが?」

「いやだって……ふふふっ」

「……? ……??」


 本当になんなのだろう、と首を傾げる渚。


 この前からチョロチョロと話に聞いていたが、聞けば聞くほど美術部の部長――聿咲彩と肇の関係性が分からない。


 やる気ないなら帰れというのが描きたくなったら来いという意味で。

 邪魔をするなというのが余計なコトしたら婿に取るぞみたいなコトで。


 あまつさえ帰れとシンプルドストレートに言われても面白いという。


 いや本気でワケが分からなかった。

 よもや彼らはテレパシーかなんかで繋がっているのかと。


「冗談にしても婿にとるぞって脅しはどうなんだろうねー」

「いやほんとにどういう会話してるのそれ。真面目に意味あってる?」

「俺はどっちかっていうと嫁に来てもらいたい」

「いまそういう話してないしどうでもいいから水桶くんの事情コトとか」


 ひと息で言い切りながら渚の脳内はその事情コトでいっぱいだっった。



 〝嫁に来てもらいたいみなおけなぎさ嫁に来てもらいたいみなおけなぎさ嫁に来てもらいたいみなおけなぎさ嫁に来てもらいたいみなおけなぎさ嫁に来てもらいたいみなおけなぎさ嫁に来てもらいたいみなおけなぎさ嫁に来てもらいたいみなおけなぎさ――――〟



 ぐるぐるとタメにもならない思考を回しながら胸中で頷く。


 いや本当どうでもいいけれど、まあまあ語感は悪くないのではなかろうかと。


 どうでもいいけれど。


「……なに。水桶くんは部長と、その……そ、そういう関係になりたい、願望……でもあるの……?」

「あはは、まさか。部長も冗談半分じゃないかなあ」

「そ、そう……なんだ……、」

「でも多分俺が本気になったらソッコーでいただかれる気がする。なんとなくね」


(それは微塵も冗談半分とは言わないのでは)


 くすくすと笑いながら話す肇を余所によろしくないモノを察する渚だった。


 天才特有の超絶理解と天然特有の超絶解釈が合わさって最強に見える。


 実際危ういは危ういので彼女の判断は間違ってもいない。

 間違いなく肇が進学前に渚と出会って交流を深めていなければ三秒ルートだ。


 出会って握手をした瞬間にゲームセットとなるだろう。


 おそらくは。


「まあ俺はそんなつもりないし。そうしたいとも思わないし」

「……部長さん、美人なんじゃないの……?」

「そうだよ。可愛くてスタイルも良いし」

「…………ふぅーん……」


 ずずず、とペットボトルを傾ける渚。


「あ、でも優希之さんのほうが綺麗だよ」

「え゙ん゙ッ!!」


 呑んでいたお茶がちょっと器官へ入りかけた。

 女子らしくない声を出したのは大目に見てほしい。


 不意打ちだ。


 これはいくらなんでもズルいだろう。

 まったくなにが綺麗なのだか。


 そう言われて悪い気はしない――そう、本当に、あくまで一人の女子として? まあ? 綺麗というのは褒め言葉なのであって? 別になんでもないけれど嬉しいものは誰から言われても嬉しいから――赤ら顔の渚である。


 日焼けをしたのでもお酒を飲んだのでもないのになぜ顔が赤いのか。

 その真相は探るまでもなく隣の彼なので犬も食わない。


 ――いや夫婦喧嘩とかそういうのではないが、まったく、ぜんぜん。


「えほっ、げぇっほ……!」

「大丈夫、優希之さん?」

「だっ……だ、大丈夫――――」


 と、顔をあげかけたときだった。


 ふわりと舞い上がった前髪が彼の鼻先を掠めていく。


 ――――なんて、近いあれ、この流れ前もあったような


 死ぬほど近い。


 ていうかもう死ぬ。

 死んでしまう。


 なんというか強い衝撃を与えないで欲しい。

 肇と一緒に過ごす渚はちょっとのコトで昇天するグッピーなのだ。


 鳥だったり魚介類だったり熱帯魚だったりと渚は一体どこを目指しているのか。


 それはたぶん肇のお嫁さんあたりである自分でも分からないでいる


「……っ、……!!」

「……優希之さん? おーい」

「――――み、水桶くんのおたんこなすぅ……!」

「急に凄いコト言う」

「私はグッピー……!」


 温度差ギャップで死ぬタイプの人間です、なんてめそめそ泣く虹目高レインボーフィッシュ


 肇には些か高度すぎるギャグだった。


 このように渚は時々キャパを超えると支離滅裂な言動をしたりする。

 取り扱いには十分な注意が必要だということだろう。


 優希之渚取扱者甲種の資格を取得しているのが望ましい。

 受験の条件はもちろん彼女と一定以上の関係にあるコトだ。


「ほら、落ち着いて。背中叩いてあげるから」

「っ……み、水桶くん……っ」

「大丈夫だからゆっくりねー。深呼吸、深呼吸」

「お、お願いだからなにもしないで……っ、これ以上殴らないで……!」

「優希之さん優希之さん。それ知らない人に聞かれたら俺DV彼氏みたいになるよ」


「なによ、肇。あんたそういう最低男タイプだったワケ?」


 突然降ってきた声に肇が反射的に顔を上げる。

 それにつられて俯いていた渚もぱっとそちらを向く。


 見ればふたりの前にはひとりの女子が立っていた。


……部長なんか変わりました?」

そうだけど、なによさあ、どうかしらね鳩が豆鉄砲を食ったような顔してどうせなら当ててみなさいよ

いや、新鮮だなーってあ、いつもと格好違いますね。綺麗です

ああ、そういうコトありがとうありがたく受け取ってあげてもいいけどところでそれプロポーズのつもり?」

ご遠慮しておきます違いますよ素直な感想です


 群青色をした長髪と細淵の赤い眼鏡。

 伸びた前髪は目元を隠すようで、けれどその実陰鬱さが吹き飛ぶようなキレの良さ。


 いつもと異なった様子はおそらく授業モードだろう。


 普段の部活中はカチューシャで髪を上げて眼鏡もしていないので違和感が凄まじい。


 一、二度見ただけの肇だってそう思うぐらいだ。

 他の部員ならさぞ驚かれるのではないかと。


「ところでその子があんたの彼女? 暴力とか……最低ね」

「いえ違いますって。優希之さんには俺、優しくしてます。ね?」

「………………、」

「どうしてそこで睨んでくるの……」


 色々と複雑な乙女心故だ。

 いまだけはどうか許して欲しい。


 あとなんかさらっと聞き逃してしまいそうになるけれど、一幽霊部員を一部長が名前で呼んでいるの一体どういうコトだろうか?


 とてつもなく気になる渚である。


「肇、あんたいくら感性がひん曲がってるからってそれは……」

「部長も乗らないでください。……ほら優希之さんも笑って。笑顔笑顔。可愛く笑う優希之さんが俺はいちばん好きだよー」

…………っ、…………必死で笑顔を堪える美少女の図

「あれ、今回手強いぞ……!」


 色々と本気で複雑な乙女心故だ。

 今回ばかりはどうか許して欲しい。


 付け加えるならいつまでもそんな真似が効くと思われるのも渚的に癪だ。


 いやもちろん「可愛い」とか「好き」とか言ってくれるのは嬉しいがそれはそれ。

 やっぱり大事な台詞は大事なときに聞きたいもの。


 ……まあ頬がすでにユルユル一歩手前なのはしょうがないとして。


「てか肇、あんたどうするつもり?」

「ちょっと休憩してから教室に戻ります」

「そう、じゃあ私も帰るわ。また今度」

「はい、お疲れさまです」


 ひらひらと手を振って別れる肇と部長。

 その会話は一見通じているように見えてやっぱり通じている。


 具体的にいうと二重の意味が含まれているのだが、それは彼らの感性が似通っているが故のものだ。


 答え合わせは以下のように。


『あんた今日は部活来る?』

『いえ、普通に帰りますよ』

『あっそ。なんか変わったら来なさい』

『ありがとうございます』


 ちょっと理解できなかった。


 なぜ言葉で会話しつつ他の意思疎通が出来ているのか。

 よもや進化した人類なのかどうか。


 謎は深まるばかり。


 ひとつ言える事実があるとすれば、おかしいのは分からない他の全員ではなく彼と彼女のほうだというコトだ。


「………………水桶くん、いまのって……」

「? どうかした?」

「……いや、なんでもない。……というか――」

「??」


(部長からは、下の名前……なんだ……)


 きゅっと、渚は小さくスカートの端を握りしめる。


 彼と彼女が中学時代からの知り合いだったとかそういう話は聞いていない。

 正真正銘この前の部活動見学が初対面だったハズだ。


 おまけにその際結構なコトを言われただろうに、この短期間で肇呼びしたのなまえ


 ……渚のほうがずっとずっと過ごした時間も長ければ関係性も良好なのに。


 だというのに――そこで差が付いているのは、なんとも、こう。

 ままならないというか、なんというか。


 …………なんか、悔しいいやだ


「――ごちそうさまでした。うん、我ながら美味しかった」

「…………、」

「……優希之さん大丈夫? 箸止まってるけど」

「っ、ぇ、あ、うん。だ、大丈、夫……」

「…………、」


 パクパクと食事を再開しながら思考を打ち切る。

 同じ学校になれば少しは良くなるかと思ったコトもあったけれど、実際はそう甘くないのは現実的な問題か。


 敵が多い、障害が多い、上手くいかないコトが多い。


 なにより今更な話だけれど、ジブンはどうにも嫉妬深いらしい。

 少なくとも、彼が他の誰かと喋っているだけで機嫌を損ねる程度には。


「……良いけど、無理しないでね。優希之さん時々危なっかしいから」

「…………私、が?」

「うん。こう、なんだろうね。触ったら崩れそうな感じの時あるよね。絹ごしのお豆腐みたいな?」

「…………なにそれ……」


 おかしな喩えに渚がくすくすと笑みを浮かべる。


 だとするならその優希之渚は相当に脆いのだろう。


 箸でつつけばぽろぽろと零れて掴めない。

 スプーンですくってようやく口に運べるようなもの。


 器用でなければ相手にならないとでも言うような繊細さ。

 たしかにそんなのは割れ物注意の貼り紙でもつけてもらわなくては危なっかしくて仕方ない。


 ――と、自嘲気味に考え込んでいたとき。




(…………え?)




 とん、と肩に乗ってくるなにやら重量を感じた。


 首筋にはほんのり微かに擽るような感触。

 視界の端からわずかに見慣れた髪色が見える。


 それが何かなんて、人肌の温度を感じておきながら分からないほど彼女だって間抜けじゃない。


「っ……ぁ、えっと……水桶く――」

「――――……、」


(……ね、寝てる……!?)


 〝え、うそ、私の肩でぇッ!?〟


 思わず跳ね上がるぐらいの衝撃だった。


 でも動けない。

 離れられもしない。


 寝息をたてる彼の表情はとてつもなく貴重なものだ。


 渚はぷるぷると震えながら固まる。


 こんなシチュエーションは耐えられないと叫ぶ理性と、

 こんな機会は滅多にないから逃せないと心を燃やす本能。


 そのふたつが胸中で死に物狂いの争いを行っていた。


「ん……、」

「っ…………!」


 〝きゃー!みなおけくん きゃーきゃー!!みなおけくんみなおけくん きゃーきゃーきゃー!!!みなおけくんみなおけくんみなおけくん


 なるほどたしかに彼の言も頷ける。


 豆腐だ。

 紛うことなき絹ごし豆腐だこんなのは。


 主に理性と冷静さと落ち着きようとか全体的に。


(私は豆腐……!)


 そもそもどうしてこんなところで寝ているのか。

 大方彼のことだから食事を済ませて眠気に襲われたのだろうが……にしても寝付きが良すぎて困る、いや困らない、やっぱ困る、困らない。


 困る……たぶん、困っている。


 なにをどうして良いかさっぱり分からなくて。


(……ひ、膝枕とかっ……どう、だろ。い、嫌かな……? でも、寝てるし……っ)


 少女の葛藤は、澄み渡る青空に広く溶けていく。



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