36/ゴーストハジメはじめました
――美術商である父に、幼い頃から色んな場所へ連れて行かれた。
大小様々な博物館、展覧会、オークション、アートフェア。
国内外問わず足を伸ばして幾多もの作品を見る日々。
それは忙しないけれど、心の奥底に沈んだ微かな暖かさの名残。
〝いいかい、馨。見る眼を鍛えなさい。どういうものが価値を持つのか、どういったものが優れているのかを分かるように。それがきっと馨の力になるはずだよ〟
名画はどうして名画と呼ばれるのか。
価値ある美術品がどのような理屈でその価値を付けられたのか。
古くから込められた歴史。
貴重な資料情報。
当時にしかなかったものの残滓。
死によって二度と表われないが故の唯一性。
理由なんて人と同じく千差万別だ。
ただ今まで無事に在るだけで酷く大事なものだってある。
長い年月を得た先達たちはそうやって評価される。
……では直近のモノはどうだろう。
創作の敷居が下がった現代では質の良いモノだって沢山だ。
少しネットを探せば綺麗で素敵な作品があふれている。
それは等しく評価されるけれど、それだけのコト。
綺麗なだけでは価値がつかない。
上手いだけだと埋もれて沈む。
あまりにも残酷だけど、その分、浮かんできたモノはいっそう眩しかった。
――そんな人になりたかった。
幸いにも絵の才能がそこそこあって、毎日の練習も欠かさない意欲がある。
描けば描くほど実力は上達して、中学に上がる頃にはそれなりに有名にもなって。
父親からも「良いものだ」と太鼓判を貰ったものだから。
このままいけばそうなれると思っていたけれど。
……人生はそんなに甘くなかったみたいだ。
画力が停滞してきたのはいつからか。
壁よりも先に天井が見えてきたのはどれぐらいからか。
なまじ必死に努力するたびに薄らとそれが見えてきて折れそうになる。
なにより一定の領域に達した時点で我ながら確信した。
――ああ、己は。
きっと歴史に名を残せるような、そんな大それた才能などではない――と。
……だから、それは見た瞬間に分かった。
色使いがどうとか技法がなんだとか、そういった理屈では表せない神秘性。
その気はなくとも目を奪われる、見るものを魅了する輝きに近い。
ただ鮮やかで綺麗なカタチ。
あれは良いものだ。
言葉にすればそんな程度の、陳腐なぐらい素敵な絵画。
――いまこの瞬間、この場所に、この年代に。
美術商の息子として産まれた意味を分かった気がした。
ああ、きっと自分は。
これに出会うために、生きてきたのだと。
…………さて。
胸に秘めた「己は生み出す側じゃない」という悩みと、本物には勝てないでいるという厳しさ。
それがいつかどこかの世界では高校まで抱えたものであり、とある少女によって解決されるべき事柄なのだと――
彼自身が、知る由もない。
◇◆◇
入学してから一週間も過ぎると、新参者たちの空気も落ち着いてきた。
すでに各クラス内での交友関係も出来上がってきた頃。
男子はまあ一部イケメンやら物静かなタイプを除いて全体的に幅広く。
女子はそれぞれ小さなグループに別れて、というのはそういうらしさかどうか。
ともあれ雰囲気も固まってきたところで、学園にはある噂が流れつつあった。
――どうやら一年生にとんでもない美男美女がいるらしい。
活発的な先輩たちによる話だ。
もちろん美男というのは先日「死ね」と渚からストレートな物言いを受けた海座貴某で、美女というのはそれを言った張本人である優希之お嬢様である。
ふたりの仲は付き合いのある肇からしても普通に宜しい。
この前スナック菓子のポテトチップを二枚口にぶち込んで「ユキノドリのクチバシ」と遊んでいたぐらいだ。
なおその後に彼の頬へ咲いた綺麗な紅葉については見て見ぬフリをする。
いや、腰の入った良い平手だった――という感想は心に秘めておくとして。
そういう関係性だからまあそれなりに話題を呼んだワケだ。
お似合いのイケメンと美少女は並んでいるだけでそりゃもう眼福。
そのまま一年の話題になるかと思いきや……なぜか、そうなぜかきゃーきゃーと騒がれていたふたりの噂は沈黙した。
もっというと海座貴少年へのアタックが強くなって渚のほうがスンッと沈静化した。
どうしてなのかは本当に分からない。
肇としても不思議な事態だなー、なんて教室で彼女の口へポッキーを突っ込みながら思ったものだ。
……その際、周囲から「餌付け」「飼育員水桶」「優希之係」「やっぱユキノヒヨコじゃん」「クチバシもう一回いっとくか」なんてあがった声がほぼ正解を導くのだが……憐れなことに少年へは届かなかったよう。
「――あ、そういえば潮槻くん」
「……? なんだい」
そんなある日のコトだ。
今日も今日とて馨に誘われて準備室で昼食を摂っていた肇は、なんでもない様子で――本人としては心底なんでもない――口を開いた。
「俺、やっぱり部活入らないでおこうかなって」
さらっと。
まるで「ちょっと忘れ物したんだ」みたいな気楽さで。
昨日の話をするような気安い物言いで。
「………………はぁ!?」
これに思わず椅子から立ち上がるほど驚いたのが馨である。
なにせ彼にとっては認めざるを得なかったほどの大天才。
現代でこれ以上の作品を描ける逸材はふたりとして存在しないと、幼い頃から鍛え上げられた審美眼で確信した人物だ。
それがあろうことか部活をせず、やっぱり学生の本分は勉強だよねー、なんて笑いながら言っている。
これが冷静のままで居られるだろうか。
いや、ない。
「――ま、待ってくれ水桶くんっ、だ、だって君っ、この前部長は――」
「? 部長がどうかしたの」
「嫌ってるワケじゃないんだろう……? だ、だったら別に入部してもっ」
「うーん……いまはダメだと思うかなー」
「な、なんでっ」
「残念なことに描きたい欲がなくって」
からからと笑う肇は決してふざけているワケではない。
ましてやなにか隠しているとか、複雑な事情があってとかでもない。
本心を偽るようなコトなど微塵もない気持ちの良い笑顔。
正真正銘、本気の本気でこの男、それだけの理由で帰宅部になろうとしている。
――――信じられなかった。
馨としては、その全部が分かるだけ余計に。
「……あ、ありえない……っ」
「いや、楽しそうではあるんだけどね、部活」
「っ、な、なら入れば良いじゃないか。そうすれば――」
「でも、やる気はないけど部活だからとりあえず、ってのは違うと思うし」
長期休暇の宿題や授業の一環でならともかく。
部活動自体は生徒による自主的な参加によるものだ。
学園も担任教師も入部自体を強制してはいない。
届けがあるのなら早く出せ、とせいぜいせっつかれるぐらいである。
肇としても部活動の参加実績が欲しいとか内申点をあげたいやらの下心は薄かった。
なんなら家で予習復習やっておけば意外と授業もついて行けるんじゃないか、とこの一週間で思い始めていて。
「――じゃあ、君は……これからはもう描かない、とでも……?」
「描きたくなったら描くよ。中学の時もそういうタイミングあったから。いや、良かったなあ……優希之さんと見た花火」
「――――――…………、」
はあ、と重苦しいため息をつきながら肩を落とす馨。
いくら芸術面で埒外の化け物といえど一週間も昼食を同じくすれば分かってくるコトだってある。
自己主張のない容姿をしているせいで勘違いしそうになるが、肇自身はどちらかというと
彼は彼なりに完成した……ともすればこの歳にしてはできすぎている……
右も左も分からない赤子ではない。
わりと嫌なコトは拒絶するし、ダメなことはダメというし、無理なことは無理という。
たしかにズレているところは沢山あるけれど、根本的な部分でのブレは殆ど皆無。
徹頭徹尾安定した状態。
良く言うならしっかりとした、悪く言うなら面白みのない精神性。
肇の心を震わせるには、絵というのはちょっと古かったらしい。
「そんなわけで美術部には入らないつもり。……あ、でも美術室自体は使いたいから、後で部長に挨拶しに行こうかな」
「……部員じゃないけど、たまに描きたくなったら使わせてくれって……?」
「まあ、そんな感じ?」
「――――じょっ……冗談じゃない……、いくら君でもそんな要求が通るワケないだろう。また怒られるのがオチだ。……大体部活っていうのは――」
「無理だったらそれはそれで。頼むのはタダだし」
「良いわよ別に」
そうして放課後。
件の内容を話した肇に、美術部部長は二つ返事で答えた。
(なん――――ッ)
「ただし入部届だけ書いといて。幽霊で席だけ置いときなさい。そのほうが都合つくし。先生には私から話通しておくから。あと私の邪魔もすんな」
「邪魔って?」
「余計な口きいたり周りうろちょろしたり話しかけたりすんなってコト。とくに手ぇ動かしてるときに変なコトしたら許さないから。覚えておいて」
「あ、はい。分かりました。……いまは大丈夫なんですよね?」
「大丈夫じゃなかったらあんた今頃どうなってたと思う?」
「ありがとうございますっ」
がばっと腰を折ると、頭上から「よし」とだけ声が聞こえてくる。
変な話だが彼女はそれで納得したらしい。
同じ感覚派同士繋がる部分がある模様。
むしろ思考のおかしさでは感覚やら理論やらというより
「――っ、ま、待ってください……!」
しかしながら、それで納得いかない人がいるのも事実だ。
「……なに? えっと……一年の……ごめん誰だっけ」
「っ、……潮槻、です。そんな形で入部なんて、僕は認められません」
「シオヅキ。私が良いって言ってるから良いのよ、そんなの。大体うち、こいつ以外に何人幽霊居ると思ってんの。私が把握してる人数だけでも五人は部活来てない」
「し、しかし……っ」
「とにかくあんたの出る幕じゃない。というか水桶が普通にみんなに混じって部活するとか私がイヤだから」
心底軽蔑する、といった視線を肇へ向ける
が、それはそれでキッパリやっぱり変な方向性の反応だ。
咄嗟に声を上げた馨はなにも間違っていない。
彼の気持ちは察してあまりある。
いくらなんでもひとりの生徒への対応としてその形は認めがたいものだ。
当然のごとくこれが普通の部活動なら論外の代物。
――だがここは星辰奏学園美術部。
顧問の教師が居るとはいえ、生徒の自主性を重んじる学園ではほぼ形だけ。
実質的に部長の自治領みたいなものだ。
「……え、うそ。部長が後輩の名前ソラで言ってる……!」
「同級生の私ですら未だに誰だっけとか言われるのに」
「つうか多分部員ひとりも覚えてもらってねえ」
「マジで興味関心ないからな、うちの
「あたしも自己紹介したあと三十分でもう一回名前訊かれたなー……」
「そう考えるとあの一年生けっこう凄い子なのでは」
〝けっこう〟どころか頭のおかしいレベルなのは言うまでもない。
「そもそも、どう見たってこいつ拘束して無理矢理ケツ叩いてどうこうってヤツじゃないでしょ。気が向いて描くほうが性に合ってる」
「……俺だけじゃなく部長だってそうじゃないですか? なんとなく」
「私は部活が好きだから。勉強と迷ってるようなあんたと一緒にすんな」
「ごめんなさい」
「……てか
「あ、はい。お疲れさまです」
「ん、お疲れ肇」
ぺこりといま一度頭を下げる彼を部長はひらひらと手を振って見送る。
そこからは一秒もしないうちに彼女だけの世界だ。
筆を握り直してキャンバスと向い合った少女が、目を細めながら手を動かしていく。
「名前呼び……。もし、部長ー? よもやあの一年生くん好きなん?」
「いや別に。あっちから告って来たら結婚ぐらいしてあげるけど」
「ワケ分かんない返し来たなこれ」
「いま一瞬なに言ってるか俺も理解できなかったわ」
「待ってさっきの日本語? カムチャッカ語とかではなく?」
「えっ、まさか部長も水桶さんのことが!?」
わーきゃーと騒ぐ美術部員プラスアルファ。
主に大声を出しているのはここ最近
……いや、彼女は悪くない。
というか渚も渚でとくにコレといったことはしていない。
ただ少し前から輪をかけて肇が渚に構うようになったからである。
同じ空間に居るというだけでそのダメージは計り知れないのだろう。
「流石世界の
「この前うちの親父が部長の絵、四百万で落札してたの笑ったんだよなー。……いや月々の振り込み増やしてくれよと」
「――てか話しかけてこないで。気が散る」
「これだもんなあ、天才学生画家……」
「…………、」
馨はぐっと人知れず奥歯を噛み締める。
理解不能で意味不明。
はっきり言ってまったく得心いかない。
いまの部長の発言がどうこうではなく――彼と彼女の思考とやり取り全てがだ。
継続は力なり、途切れさせるコトなく努力するからこそ実になるもの。
だというのにたまに描けば良い、あまつさえ幽霊部員扱いだなんて馬鹿げている。
それこそありえない思考回路だ。
そんなもので良い作品が出来上がるワケがない。
(……っ、今まで美術部にもいなくてあれだ。だから、部活で毎日描くようになれば)
彼の才能はもっと輝くと、そう信じているのに。
(――水桶くん……っ)
強く、固く、拳を握り締める。
嫉妬しているワケではないけれど。
その実力は妬むほどの領域にはないけれど。
でも、もどかしさは決してなくならない馨だった。
◇◆◇
「そんなわけで部活に入るコトになったけど部活に行かないコトになった」
「……うん、意味が分からないね」
はあ、と息を吐きながら渚が紅茶を嚥下する。
放課後、一度来てから味を占めてしまった喫茶店にて。
声だけかけてくる、と美術部に行っていた肇を律儀に待っていた渚は、今日も今日とて彼と一緒に帰るコトになった。
星辰奏学園に入学しておよそ一週間、すでに習慣になりかけている
「……この前、やる気がないなら帰れって言われたんでしょ? なのにそんないきなり人が変わったみたいに……」
「だからだよ。やる気ないなら来るな、描きたいときに来いってコト」
「…………水桶くんは美術部の部長と副音声で会話でもしてるの……?」
「絵描いてる私に話しかけて良いのは恋人だけだからって言われたときは本当に申し訳ないと思ったけど」
「いやどういう会話してるの本気で」
副音声である。
心の会話とも言うかもしれない。
なにはともあれ当人たち以外には関係ないところだ。
「……でも、凄い人なんだよね。部長の先輩……」
「そうなの?」
「うん。私もあんまり、知らなかったけど……
「へー……」
ずずず、とドリンクのココアを啜りながら聞く。
どうでも良いけれどほんのちょっぴり昔の彼の名前に似ていた。
性別も違うし本当響きだけだけれど。
それはともかく。
「どうりで。俺、あんな凄い絵はじめて見た」
「……そうなの?」
「うん。自分のがもうド下手くそに見えちゃうぐらい。いや常日頃から上手いとも言えないんだけど」
「…………ふーん」
頷きつつ、渚はなんとはなしに携帯を手に取った。
ブラウザアプリを立ち上げて画像検索でささっと件の部長の名前を打ち込んでみる。
一発ツモだったのはそれだけ知名度があるからだろう。
適当なサンプル画像を開いて、どこか重ねるように見るコト数秒。
「……私はたぶん、これより凄いの見たコトあるけどね」
「え、どんな?」
「水桶くんが知らないヤツだよ、きっと。……これから先もずっとね」
「……?」
再度ココアを飲みながら肇が首を傾げる。
遠い世界のもう戻らない過去の話。
いつしか消えてなくなった残骸の原形。
真実を知るのは果たしていつになるのか。
(……そうだよ、そう……二度と誰にも知られないんだ。だって、私が――――)
その先は、あえて彼女も考えなかった。
いちばん嫌な時期をわざわざ思い出すコトもないだろう、と。
彼の前で十分に強くなった心持ちで。
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