39/実は貴女のコトですよ?
肇が帰宅する頃には、すでにあたりは暗くなりかけていた。
日が長くなってきたとはいえまだまだ春先の四月終わり。
日中の時間も気温もこれからが本番。
寒さはないけれど汗をかくほど熱くもない。
心地の良い暖かさだっていまだけの特権になる。
貴重な一年の大事なひとときだ。
「――――……、」
靴音を鳴らして廊下を歩いて行く。
死に物狂いの――本当に一瞬死にそうなときがあったが――創作は終わった。
今日描いたものには
そう日付も立たないうちに表層……指触乾燥は終わるだろう。
中まで乾くとなるともう少し時間が必要ではあるけれど。
(にしても……)
過去一番の速さだった、と彼は振り返りながら微笑んだ。
なるほど骨や神経に異常がなければ人の身体はここまで動くのか、と今更ながら再認識したぐらい。
それほどまでに指先は思い通りに
脆く震えることも弱く痺れることも、ましてや痛みに刺されることもない健康体。
その本領が遺憾なく発揮されたのがさっきのコト。
それだけで肇はもうニヤけるぐらい嬉しかった。
久しぶりに、飛び跳ねてしまうほど楽しいと思ったのだ。
「……ふふっ」
思わず笑う。
静かな廊下には彼の声がいやに響く。
現在時刻は六時過ぎ。
学園の生徒にとっては微妙に曖昧な時間帯だ。
熱心に活動する運動部にとってはまだまだこれからというもので、
まあ勉強との両立も重要と捉える文化部的にはもう解散しているところ。
そのせいか校舎の中は喧噪が絶えている。
聞こえてくるのは窓の外から響く野球部やサッカー部のかけ声と、ひとり歩く彼の靴音のみ。
「――――…………、」
ほう、と忍ばせるように息をつく。
一度吐き出せば頭はそれなりに落ち着いた。
六限目を終えたときのような我慢ならなさは流石に残っていない。
思考はまったくなんとはなしに冷静だ。
……けれど、その余韻はじんわりと胸に広がっている。
一瞬灯ったと思った蝋燭の火だけれど。
どうやらそれはまた違う二本目になってくれたらしい。
(我ながらスイッチが入ると凄いな、俺。もう次になに描くかしか考えてない)
ああ、これは駄目だろうな、と肇は直感した。
なにが駄目かなんて言うまでもない。
これほどまでの感情。
これほどまでの熱量。
普通の人間なら持て余さなくてどうするか。
そんなものは彼だって同じコト。
きっと成績は急転直下だ。
悩みの種はそのままのとおり解決に向かうだろう。
色んな意味での
(……でも、先ずは新作の前に、ひとつは片付けないとね)
とりあえずは心残りから。
くすりと微笑んで、肇はいつの間にか止めていた歩みを再開する。
その技に一切の弛みなし。
輝きは溢れんばかりにより増した。
天性の素質は身体が違うとも魂が覚えていたのか。
なればこそ、ひとりでもその事実を知っていれば確信しただろう。
今までの作品なぞ所詮は飛び抜けて絵が上手いだけの一学生。
故に今日、あの瞬間、あの場所で。
(一週間もあればできるかな……? いやでも、前は数ヶ月かけてようやく一枚ってところだったしなー……まあ、今回がちょっと調子良すぎたのもあるんだけど。うん)
誰かさんみたいに頬が赤くなっているワケではないけれど。
いまだに熱っぽさは血流に乗って広がるみたいだった。
繰り返すようにプスプスと燃え燻っていたものは完全に別物になっている。
描いた本人がそんな状態。
であるのなら、周りで見ていた部員らがどう思ったかなんて至極簡単だ。
ましてやそれ以前の彼を知っている人間ならば。
(さて、鞄、鞄――っと)
ガラガラと扉を開けて一年一組の教室に入る。
この時間まで残っている生徒はひとりもいない。
だからだろう、照明はついていなかった。
薄暗くはあるけれど、窓から差しこむ明かりで室内は見渡せる。
そのまま肇は真っ直ぐ、自分の席に向かって――
「…………ぅ」
「へっ!?」
びくぅ! と珍しくその肩を跳ねさせた。
原因はひとつ。
不意打ち気味に耳をついた微かな声音。
瞬時に驚いて飛び退きながら、肇は教室の電気スイッチをフルでプッシュする。
誰も居ないはずの暗い室内。
影に埋もれた常夜の闇。
そんな場所に隠れ潜んでいたのは――――
「…………優希之さん?」
「…………ん――」
どこからどう見ても知り合いの銀髪美少女だった。
「……なんで帰ってないんだろう……」
部活があるワケでもなし、とため息なんかついてみる肇。
そんな彼の心境を知る由もない渚はぐっすり眠ってしまっている。
椅子に座ったまま机に置いた手を枕代わりにするように。
よほど良い夢でも見ているのか、すぅすぅと心地良い寝息をたてながら。
(…………ん?)
と、そこで彼は渚の隣――自分の机に視線が向かった。
授業終わりに直ぐさま飛び出した後のことだ。
筆記用具も教科書もごちゃごちゃで、帰る支度なんて全く出来ていない。
明かりを付けてみればよく分かる。
肇の席は荒れに荒れ放題。
――の、ハズだった。
「…………、」
実際は違う。
彼の机には綺麗に中身の詰まった学生鞄だけが、ぽんとひとつ置かれている。
肇自身が片付けた記憶などさらさらない。
絵を描くのに熱中していた己が途中で抜け出すコトもない。
なにより集中はしていても記憶はたしかだ。
事実、彼はいまになるまで一切ここには戻ってきていなかった。
だというのにどうしてもう帰り支度が済んでいるのか。
……その答えは、訊かずとも律儀に待っていてくれた眠り姫がこれ以上ないほどの証拠だろう。
(――まったくもう……)
ふわりと呆れるように笑いながら、そっと彼女の肩を揺さぶる。
「優希之さん。起きて、もうとっくに帰る時間だよ」
「ん……、……あと五分……」
「こらこら。六時過ぎちゃってるから。あんまり遅くなると危ないんじゃない?」
「…………、……――――ふぁ……」
「……おぉ、おっきいあくび」
「――――ぇぅ……?」
上体を起こしながら、こてん、と首をかしげるゆきのちゃん。
十五歳の少女にあるまじき油断した姿と、十五歳の少女らしいいじらしさを内包した実に素晴らしい一枚だった。
思わず肇は携帯のカメラ機能を使おうかと手が伸びかけたほどである。
なんなら彼らしく描いてみてもいい。
タイトルは「ねむねむゆきのちゃん(じゅーごちゃい)」だ。
「…………、……みな、おけ……くん……?」
「ん、おはよう優希之さん。もう夕方だけども」
「……………………いま、私」
「カワイイお口だったね?」
「――――――――ふみゅぅ……っ」
ぽん、と爆発したのは昼間の不発弾か。
頬を真っ赤に染めた渚が折角上げた顔を腕枕に戻す。
彼女はもう泣きたかった。
なんでこんな、どうしていま、なぜこのタイミングで――?
ぐるぐると頭のなかで渦巻く思考は出口の見えない迷宮に近い。
乙女回路は混線必至のスクランブルモード。
よりにもよって彼に間抜けな大欠伸を見られたのが失態すぎる。
あまりにも恥ずかしすぎる。
いっそ記憶を消してほしい。
彼も彼女自身も。
「……荷物、まとめてくれたの?」
「――――…………うんっ……」
「ありがと。いまのは見なかったコトにするから、顔上げて?」
「っ…………じ、じゃあ言わないでよ……っ」
「ごめんごめん。……帰ろ、優希之さん。いつものところまで送るよ」
そう言って肇がいつも通りの眩しい笑みを浮かべる。
明るさを塗りたくった太陽みたいな屈託のない表情。
単純なコトに渚の意識はそれで覚めてしまった。
ゆっくりと上げた顔で、彼のほうをぼんやりと見詰める。
……普段の態度から「どうして私はこんな人を好きになったんだろう」なんて思うコトがないと言えば嘘になるけれど。
でもやっぱり、考えれば考えるほど「だから好きなんだ」が増えていくあたり結局負けているに違いない。
「………………うん」
彼の申し出にちいさく答える。
軽い誘い方はふたりで築いてきたものがあるからこそだ。
ほんと短く、たった二文字。
泡のように仄かな響きで告げられた文句はだからこそ価値がある。
一緒に帰らない? なんて気遣うような言葉じゃない。
……それがやっぱり、渚は良いのだ。
なによりも、誰よりも。
◇◆◇
「――そういえば、どうして待っててくれたの?」
「えっ……あ、いや……も、もしかしたら早めに戻ってくるのかなーって……」
「……あぁ、俺がなにも用意せずに出て行ったからだ」
「う、うん……、……結局、待ってる間に寝ちゃって、こんな時間になっちゃったけど……」
「……気を付けてね。あんなところで寝てたら風邪ひいちゃうだろうし」
「ご。ごめん……」
「それに優希之さん可愛いから心配だよ。男子はみんな獣だからね……!」
「……っ、……み、水桶くんはそれ、どうなの……っ?」
「――さあ、どうだろう?」
にこにこと笑いながら問い返す獣かもしれない男子。
尤も性欲云々についてはともかく、件の分野についてはあながち間違った評価でもないのだろうが。
息をするコトも忘れて筆を動かし続けるのは理性をへし折る本能の凶悪さである。
走るために生まれた
それを火傷というのなら、まあ、焼ける部分こそ違えど似たようなものか。
「そっ、それより……えっと、なに……してたの……?」
「部活。久々になんか描きたくなっちゃって」
「……へぇ……そう、なんだ……」
「…………優希之さんの
「え……?」
「………………、」
言おうか言うまいか迷って、肇はどこか繊細な口ぶりで呟いた。
春の気温にそのまま溶けこんでしまいそうな火照り声。
彼の目は真っ直ぐ渚を捉えている。
その鮮やかな黒瞳が射貫くように彼女を映す。
まるで空に上るシャボン玉を見るみたいに。
「子守唄」
「……えっ、あっ……」
「良かったよ。こう、じーんと来た。鼻唄だったけどね?」
「っ、わ、忘れて……! それも忘れて、ぜんぶ忘れて……!」
「あはは。最近、優希之さんそういうの多くない?」
「み、水桶くんと居るせいだからっ」
「えー」
ふいっと顔を逸らす渚を見て、肇はささやかな笑みを浮かべる。
特別性があるのは出会ったときから知っていた。
なにせ優希之渚はそういう立ち位置にあって然るべき人物そのもの。
無意識のうちにそういうものだろう、と納得していた部分も多い。
でも思い返してみれば当然の帰結。
一度満足してからずっと無くしていた気分が蘇ったのはいつだったか。
ほんの微かな感触でも覚えはじめたのはどの時期だったか。
今日のコトは偶然でもなんでもない顕著なだけの話だ。
……そう。
いつだって、彼の琴線を震わせる、
燃料に、原動力になっていたのは――――
「……ね、優希之さん」
「……? うん。なに……?」
「いま、楽しい?」
風が吹く。
前髪がつられて揺れる。
肇は微かに口元を緩めながら訊いてきた。
脈絡はない。
けれど自然と吐き出された不思議な問いかけ。
対する渚はそれをぽかんと呆けた顔で見詰めている。
色々、急すぎて、ワケが分からなくて。
「……えっと……?」
「しんどくないかなってこと」
「しんどく……?」
「例えば、学校通ったりとか、勉強したりとか、帰りに寄り道したりとか。あと、俺と一緒にいたりとか?」
「…………それは別に、ぜんぜん……苦でもないけど」
「じゃあ楽しいってことだ」
「……………………まぁ、そうなるかな……」
そっか、と彼は嬉しげに笑う。
おかしなコトだ。
楽しいかと訊いてきたその人のほうがよっぽど楽しそうに見える。
くすくす、くすくすと。
口元をおさえて笑い声を洩らす男子。
「……ちょっと笑いすぎじゃない……?」
「いや、そうでもない。そうでもないよ、うん」
手放すように声は止んだ。
そっと彼はいつも通りの落ち着いた顔に戻る。
それで一旦空気はリセット。
……話しながら歩いていたせいか、時間はずっと経っていた。
すでに周りは薄らと夜の気配が濃くなっている。
しばらくもしないうちにパッタリと暗くなるだろう。
頭上にはぼやけながらも浮かぶ淡い玻璃の色。
尾を引いた雲がコントラストとしてなんとも良い。
「……うん」
肇は目を閉じながら頷いた。
それこそ普段は渚がやる方な、眩しいものを見た風なまばたきをして。
「今夜は月が綺麗みたいだ」
そう独りごちる。
渚はそんな彼を静かに隣から見上げた。
ちょっとびっくりするのもあって。
いや、期待するのは馬鹿らしいと知ってはいるけれど。
なにせ
流石に有名なワンフレーズとはいえ、意図してそんな代物を使えるほど立派で賢く気の回るような男ではない。
でも。
ほんのちょっぴり。
すこしだけ、気になるものだから。
「…………夏目漱石?」
「よく知ってるね」
「そりゃもちろ―――――」
――――マテ。
イマ、コノ男、ナンテ、言ッタ――――?
「――――――なぬ?」
「……昔にね、教えてもらったんだよ」
ぴしっ! と芯から
本当の本気で珍しい。
彼にはとてもじゃないけど似合わない、眉尻を下げた気弱な面を強く出して。
「私はあなたのコトが大好きなんです……って。俺のこと抱き締めながら、教えてくれた人がいたんだ」
「…………、」
その言葉に石化を解いてムッとする渚である。
乙女の嫉妬はメドゥーサの呪いさえはね除けてみせたらしい。
「……ふーん……」
「もう会えないんだけどね。こう、後ろからぎゅーってさ」
「へー……、…………どうせ女の人なんでしょ」
「まあ、そうなんだけど」
「ほら、やっぱり」
むっすー、と余計頬をふくらませるジェラシーの化身。
肇が嬉しそうに語ってるのもあってその不機嫌さはひときわ強い。
さぞかしそれはイイ思い出なんでしょうねー、なんて率直に拗ねているぐらいだ。
……それでもまあ、可愛らしいものなのは変わりなかったが。
「でもまあ、それはそれで」
「…………?」
「やっぱり大事なのは今だと思うんだよ、俺は」
「――――…………、」
――――嗚呼。
こういうところがあるから、きっと彼は眩しいんだろう。
「ね、優希之さん」
「…………そう、だね」
「うん。だからね、本当に――――」
いま一度、肇は夜空を高く見上げながら。
「今夜は月が綺麗なんだ」
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