34/勢い任せに流されて





 ――さて。


 ここでひとつ、他愛もない話をしよう。

 それはまだ少女……姫晞摩弓が中学生だった時のこと。


 物心がついた頃から彼女は絵を描くのが好きだった。


 なにかに憧れたとか、どうしたいとか、明確な理由なんてない。

 強いて言うなら頭の中に浮かぶ彩を吐き出すのが心地良くて仕方ない。


 そんな幼い芸術家が、その道に踏み込むのは当然の道理だろう。


 幼稚園、小学校の頃は並ぶ者なんていなかった。

 なにを描かせても彼女が断トツ。


 絵が上手だと友達にも先生にも褒められた。

 それで気分を良くするぐらいには性格も変わっていなかった。


『…………、』


 中学で美術部に入ってからしばらくして。

 展覧会やコンクールの発表会に顔を出す機会が増えた。


 他人ヒトの描いた絵には然程興味がない。

 いや、厳密には摩弓である。


 どれもこれも似たり寄ったり。

 あまりにも退屈でつまらなくて、とてもじゃないけど楽しめない。


 なんにせよ同年代で彼女に土を付けるほどの相手などいないのだから。



 ――――などと調子に乗っていた過去の摩弓ジブンをぶん殴ってやりたい、と今の彼女は切に思う。



 忘れもしない中学一年の七月二十五日。


 その日も〝県内梅雨の絵画コンクール〟に参加していた摩弓は、とくにコレといった興味もなくぶらぶらと会場を冷めた目で練り歩いていた。


 どうせ自分わたしより上手い学生なんていない。

 こんな無駄なコトで部活の時間を費やすなどもったいないのも程がある。


 三時間も四時間も下手な作品を見るぐらいなら描いていたほうがマシだと――




 そう思っていた彼女の前に、が在った。





『――――――』


 目についたのは一枚の絵。

 そこに飾られた作品の隅から隅まで今もなお彼女の脳裏に焼き付く原風景。


 瞬間、少女の儚い自尊心は淡雪のごとく融け落ちた。


 あとついでに色々ぶっ壊れた。

 こう、女子としてというか、筆を握った人間として。


 〝――――あぁ、そうだったんだ〟


 姫晞摩弓は悟る。


 運命というものがあればこのような感覚を言うのだろう。

 奇跡や魔法じみた陳腐なものではない。


 それは正しく福音じみた輝かしい出会いと衝撃。


 〝わたしはこの色彩イロを拝むために産まれたんですね、神よジーザス


 こうして彼女は一般無名男子、水桶肇の信者ファンとなった。





 ◇◆◇





 そして時は流れ、現在。

 星辰奏学園に入学して二日目のこと。


 六限目のチャイムが鳴って放課後に入ると、摩弓は意を決して立ち上がった。


 昨日はなんだかよく分からないうちに勢いで断られたがそれはそれ。

 約束も取り付けられたしどちらかといえばプラスである。


 なれば今度こそ、今日こそは一緒に部活見学を――と。



「――優希之さんは今日も直帰?」

「……水桶くん、それ意味違うよ。寄り道せず帰る、っていうことじゃないから」

「あれ、そうなの?」

「そうだよ。……出先から会社とかに戻らず家に帰る、ってコトだから」

「なるほど。よく知ってるね優希之さん」

「…………別に」


(ぐっ……おのれ優希之渚ぎんぱつびしょうじょっ。今日も今日とて水桶さんと気軽に話して……!)


 ぐぬぬぬ、とふたりを睨む摩弓。


 一体どういうワケか彼女は知らないが、全くもって認めがたい相手である。

 中学が同じというコトでもないのに親しく接し、あまつさえ先日は頭を撫でてもらうなんて羨ま――けしからん不敬を働いた輩だ。


 目下第一級の要注意人物であるその女子の名前はユキノナギサ。

 惜しいことに摩弓はちょっと彼女とは仲良くなれそうにない。


(でも、その程度で諦めるわたしじゃないから……!)


 がたん、と椅子を鳴らして歩みを進める。


 中学のときはただ只管遠い存在だった。

 いまとなっては身近に舞い降りた奇跡と言って良い。


 目を焼くほどの絵を描いた人は穏やかで心優しい草食系男子。


 正直に白状しよう。


 ――彼は、彼女の好みドストライクのドストレートでハートにずっきゅーんだった。



 〝FOOOOOOOフォーーーーーー!! 物静かな男子サイコー!!〟



 もはや手の届かない天上の楽土ではない。


 憧れカミはいま好きヒトへと変化シンカした。

 こちとら中学一年からずっと追い続けていた背中にようやく手をかけたのである。

 ここまできてぽっと出の女子に掠め取られるなんて言語道断だ。


 水桶肇かれ摩弓わたしのものにする。


 初手の告白は断られたが問題ない。

 所詮はひとつ黒星がついただけ。


 まだまだチャンスは残っていると、少女は意気揚々と声をかける。


「水桶さ――――」



「見つけたよ、水桶くん」



 ――その前に。


 ガラリと開いた教室の出入り口から、ひとりの少年が顔を覗かせた。


 摩弓としても知らない人物ではない。

 というか知ったばかりの人物でもある。


 機会はちょうど昨日、しょんぼりしながらも見に行った美術部にて、一緒に見学へ参加していた同学年の男子。


「え? あれ、君……体育祭の……」

「……久しぶり。見に来るでしょ、美術部」

「あー……うん。そのつもり、だったけど……?」

「なら早く行こう。……時間は、限られてるんだし」

「そう……だね……?」


 淡く輝く栗色の髪。

 前髪の隙間からわずかに光る碧色の目。

 小柄だけど溌剌さより落ち着いた翳りを印象づける佇まい。


 ――その少年と肇のツーショットを前に、摩弓は静かに膝を折った。


 なにかに祈るようにして手を組みながら、黙って顔を伏せる。



二柱の邂逅ゴッド・リンク――!!)



 天才カミはふたつ此処に在った。


「……自己紹介がまだだったね。僕は潮槻しおづきかおる

「あ、これはどうも。俺は――って、もう知ってたね。なんで?」

「わりと一部には有名だと思う、君は」

「へぇ……なんだか照れくさいかも、それ」

「……謙遜は必ずしも美徳じゃないよ、水桶くん」

「??」


(あーッ! なんか分からず首を傾げてる水桶さんもイイ――ッ!!)


 これは摩弓の素直な感想だ。

 彼女も彼女で大抵やられているのだが、実のところコレはあくまで弱火の例である。


 知らぬは当人同士というかなんというか。


 想像したようなぽっと出なんかでは断じてなく、かなり濃い一年間を過ごして共に歩いた強火なぎさは、このとき余裕の無表情でこう思っていた。


(よし、いつもの水桶くんだね。天然キュートで非常によろしいすきです


 どちらも手遅れなのは言うまでもない。


「優希之さんも一緒に来る?」

「――……あ、いや……私は……」

「……そういえば美術室苦手って言ってたっけ」

「…………うん」

「ん、了解。好き嫌いは仕方ないよね」


 眉尻を下げて笑う肇はきっと渚のなにかを受け取ったのだろう。

 それならしょうがない、と言った感じに引き下がって荷物をまとめていく。


 だからその際、彼女と彼――潮槻馨の視線が密かに重なったコトを気付けなかった。


 一瞬の交錯というにはあまりにも濃密なぶつかり合い。


 少女は見定めるような冷めた瞳を。

 少年は温度のない目を向けて、無言のまま睨み合う。



「――――、」

「…………、」



 興味本位で湧いた理由は同じもの。

 けれど、その後の結論はふたりとも真逆だった。


 どこか軽く安堵の色を浮かべる渚と、滲むような嫌悪を隠しもしない馨。


 そこにあった声なき交わりを知るのは当人たちだけ。


「――よし、なら行こっか」


 支度を終えた肇が声をかけると、両者の間に流れる空気は霧散した。


「……そうだね。ついてきて、水桶くん」

「うん、よろしくお願い。――っと、じゃあね優希之さん。ばいばい」

「――、……あ、うん……」


「…………帰ったら電話するから。また後でね?」

「っ、ぇ、あ……っ、う、うん……! ま、また、後で……っ」


 ひらひらと手を振って馨の後ろをついていく肇。

 渚はそれに小さく手を振り返す。


 一方の時間はこうして平和に終わりを告げた。


 ……ではもう一方はというと。


(あ――っ! 神が! 神が神を引き連れて練り歩いてるぅ――!)


 この通り脳内は楽園で極楽でパラダイス。

 エデンとはここにあり。

 祈りを捧げる聖地は目前である――とばかりに俯く信徒まゆみである。


 本来ならそれを止めるべき友人の留奈は見て見ぬフリをした。

 私とこの人は無関係です、なんでもありません、とひたすら視線を逸らす無視っぷり。


 是非もなし。

 行きすぎた奇行は孤立を生むのだ。

 本人の意思にかかわらず。


 ……しかし、捨てるかみあれば拾うかみあり。


 ちらっと摩弓のほうを向いた肇は、ちょっとやばい少女の姿に面食らいながら、ひょいひょいと手招きをした。


「姫晞さんも来ないの?」

「――行きますぅ!!」


「……お帰り摩弓」

「はっ、留奈ちゃんわたし一体……!?」


(仲良いなあ、あのふたり)


 わたわたと慌てふためく少女を温かく見守りながら彼は頷いた。


 初日に色々と巻き起こした珍獣女子だったけれど、肇からして悪い人ではない。

 異性としてそういった情を抱けるかはともかく嫌うような人柄とは違う。


 そういった情を抱けるかはともかく。


 大事なコトなので二回述べておくとして。


「……水桶くん。君、姫晞さんと仲良いの?」

「まあ、そこそこ? ……潮槻くんは、知り合いとか?」

「いや、昨日が初対面だよ。……僕は苦手だ、ああいうひと」

「ひとりぐらいああいう子がいても良いと思うよ、俺は」

「…………そう」


 静かに目を伏せて馨は口を噤む。


 否定も肯定もしない返答はどう思ったからか。

 肇はなんとなくその様子に既視感を覚えた。


 そういえばこんな会話をどこかで……と、脳内の記憶を探ってみて。


(あ、そっか)


 苦労せず、その答えに辿り着く。


(優希之さんと似てるんだな、潮槻くん。……ん、あれ? 優希之さん? 潮槻……?)


 あれれ、とここに来てやっと記憶の切れ端を掴む前世持ち。

 今の今まで忘れていたが、馨の見た目と名前、その喋り方はおそらく記憶に等しい。


(――潮槻くん、二人目の攻略対象ヒーローじゃなかったっけ……!?)


 詳しい設定は肇も忘れたが、画家を志す……みたいな感じの人物像キャラクターである。


 物静かで大人しい。

 普段は滅多に笑わないけれど、好感度が上がると抜群のギャップを持つ笑顔を見せてくれる――という類いのクールな男子だ。


 間違いない。


 薄ぼんやりと浮かんだゲーム内CGスチルともほぼ一致する。

 ならば渚の反応はどうだったのか――と、彼は勢いよく彼女のほうを向いて。



「やーい優希之、水桶くん取られてやんのー」

「……うるさい。私帰るから」

「ははっ、分かりやすく拗ねてんなよな。……もしかしなくてもさ、おまえ、昨日言ってた好きな人って水桶くんだろ。……いや、露骨すぎねえ?」

「っ、海座貴くんうるさい……! ちょっと黙って……!」

「こわっ。そんじゃオレも部活あるから。頑張れ優希之ー、道は遠いぞー」

「っ……この……! ちょっと顔が良いからって調子に……!!」


(――――なるほど)


 いま一度腕を組んで深く頷くポンコツ転生者。


 入学二日目、大変仲良く話す男女の姿は正しくそうとしか捉えられない。

 現実の優希之渚ヒロインが選んだのはクールな美少年ではなく社交的で顔の良いイケメンだったらしい。


 ああいうのが好みだったかー、と感慨深げに天を仰ぐ肇である。



 ……無論、すべて彼の勘違いなのでそんなコトは一切なかった。

 むしろこの思考を読まれた場合、その渚ちゃんヒロインに右ストレートで殴られたとしても文句は言えない。


 天然馬鹿クソボケここに極まれり。





 ◇◆◇





 美術室は十数人の生徒が居るものの、不思議な静寂に包まれていた。


 担当教師の姿はまだない。


 部員数が少ないのは集まりきっていないから……ではなく、自由参加であるコトと先ずもってイマイチ人気のない部活というのもあってだろう。

 盛況の度合いでいうなら廊下を挟んで向かい側、音楽室で活動している吹奏楽部のほうが全然あるぐらい。


 けれども居心地は悪くなかった。


(おー……流石有名校……色々あるなー……)


 ふらふらと肇は画材だったり作品だったりに目を通していく。


 床や壁に染み付くようなごちゃ混ぜの匂いと空気。

 かつての作業部屋アトリエとはまた違ったモノに気分のあがる元画家(無名)である。


 中学の美術室も十分なものだったが、それより一回り大きい教室はなんとも言い難い感覚に満ち溢れている。


 ちょびっとでも疼くものがあったのは幸いだ。

 ほんのちょびっとだけ、ではあるが。


「……入部届はもう出したの、水桶くんは」

「? いや、まだだよ。入るかも決めてなくって」

「…………どうして?」

「うーん……色々あるけど、やっぱり勉強とか? 学力にあんまり自信ないから」


 ――そう、いくら次席で受かったとはいえ肇は元から成績が良いワケではない。


 中学最後の一年を徹頭徹尾費やしてようやく仕上げたのが現状の地位だ。


 なにより彼自身、勉強は好きでもなんでもないコトである。

 このまま放っておけば入試の結果が嘘みたいに成績が右肩下がりとなるだろう。


 そのあたりを心配しての発言だったのだが。


「入りなよ」

「えっ」

「君が入らなくて誰が入るっていうの。……テストで良い点を取るよりずっと役に立つと思うけど」

「えー……それはどうだろう……?」

「…………、」


 前世むかしなら迷わず頷いていたであろうありがたい誘い文句。

 けれど今の肇にとっては微妙で希薄な申し出になる。


 理由は言わずもがな。


 先ずもってしてその胸の蝋燭は一度完膚なきまで燃え尽きている。

 溶けきった創作意欲は時たま火を上げるとはいえ、元通りには戻らない。


 なにより今生で大事なのは貰ったぶんを返していくことだ。


 そう考えると部活をするより勉強に力を入れて、成績を保ちつつ過ごしていくほうが良いのではと思わざるを得なかった。


「で、でも水桶さんっ、昨日!」

「あー……うん。考えてみたけど、やっぱり即決はできないかなー……」

「も、もももったいないです! 入りましょう! 是非!」

「……そんなに……?」

「なんならどっちもやれば良いと思います!」

「いやそれは結構無茶だよ」


 両立するほどの力は肇自身にない。


 ……昨日は前向きに考えるとは言ったものの、どうしてもこればっかりは本人の問題だ。


「正直、いまはそれほど打ち込める気がしなくって」

「……それは水桶くんが、絵に?」

「うん。だからまあ、やるとしても手慰み程度が合ってるかな……なんて」

「…………ありえない」

「……? えっと、どういう……」

「……君がいちばん分かっていない。入れば良い。それで全部済む話だよ」

「えぇー……」


 あまりのごり押しにちょっとどうか、と肇が困ったように苦笑する。

 なにを根拠にそこまで……と内心で戸惑う少年は、数多の複雑な歯車が奇跡的に噛み合ってしまったせいで盛大な勘違いを起こしている。


 主に完成品を売りに出さなかったどころか大事に隠して仕舞い込んでいた前世姉のおかげで。




「――じゃあ入らなくて良いわよ」




 と、そんな風に話していたところへ強烈な一声。


 見れば部員のうちのひとりの女子生徒が、立ち上がって彼らの前まで歩いてきていた。

 リボンの色を見るにどうやら三年生の先輩である。


「やる気のないヤツが居たってそいつのためにも周りのためにもならない。そんなのうちはお断りだから。さっさと帰って」


 びっ、と勢いよく肇に筆先が向けられる。


 ……ちょっと絵の具が飛び散らないか心配だったが、そこはきちんと拭いていたらしい。


 ともかく、そんな御仁の発言に対して他の生徒たちはというと。



「――――ちょっ、部長……!?」

「いくらなんでも言い方キツすぎねえ!?」

「ありゃまずい。超絶ブチギレてんだけど。……え、なぜ?」

「そういうの気にする人じゃないよね、いつも」

「他人に対しての興味関心が湯葉並に薄いからな、うちの部長トップ

「俺が内申評価欲しくて席だけくださいって入部したときも怒んなかったのに」

「私も私も。友達に誘われただけの暇潰しですって思いっきり言ったのにスルーだもん」



 ――などと、割かしフランクな雰囲気だった。


 意外な会話のリレーに「おや」と肇がわずかに目を見開く。

 静かなのはそういう人たちの集まりかと思っていたけれど、もしや集中していただけで結構気安い感じかもしれない。


 それはそれとして。


「――部員あんたらは黙ってて。私はこいつと話してるんだから」

「………………、」

「……なんか言いなさいよ、一年」

「あ、申し遅れました。水桶肇って言います」

名前それぐらい知ってる。……用が無いなら出てって。ここは暇な生徒がくつろぐ場でもなければお気楽な遊び場でもないの。ほら、出口はあっち」


 そう言って一度入ってきた扉のほうを指し示す美術部部長。

 切れ長の瞳と刺々しい態度は美人なのもあって迫力が凄まじい。


 渚とは別方向で他人を寄せ付けない高嶺の花だ。


 儚さではなく苛烈さで構成されたオーラはむしろ薔薇より実際の炎みたいだが。



「すいません部長。俺いま思いっきり描くフリしてスマホ弄ってます」

「ごめんなさい先輩。私めちゃくちゃAirPodsで音楽聴いてました」

「申し訳ないっすキャプテン。模写してるつもりでこっそりジャ○プ週刊少年読んでて」

「許してくれ女将おかみ。ここで飲む午後の紅茶がいちばん美味ぇんだ」

「さーせん部長トップ。こう見えてなんもしてません」

「失礼しましたリーダー。ひとりでバトエンしてました。友達見つけてきます……」

「怒んないでキャップ。……ところでお菓子食べるぐらいならセーフ?」


部員あんたらは良いのっ、もう入ってるんだから好きにしなさい!」


「「「「「「「ありがとうございます!!」」」」」」」



 由緒正しき星辰奏学園の美術部、思ったよりユルユルだった。


「……そういうコトだから。入部希望者じゃないなら出て行って」

「出て行かなくて良いよ水桶くん。見学は自由だから」

「あ、あのっ、全然気にしないでくださいねっ!」

「あんたらも余計なコト言うな。こんなのに無理強いしたところで何の得があんのよ」


(――これはとんでもない状況コトになった……)


 困り果てる肇へと女性生徒――部長の視線が突き刺さる。


 慣れ親しんだ誰かと正反対のものだからか、そこに込められた色は分かりやすい。

 彼としても納得できる範疇の行いだ。


 だからこそ申し訳なさが多分にあるけれど。


「――はい、失礼しました」

「…………、」


 ここは大人しく身を引く肇だった。





 ◇◆◇





「――ていうコトがあったんだよ」

『そう……なんだ……』


 その日の夜。

 帰り際に言っていたとおり、夕飯とお風呂を済ませたところで肇は渚に通話を持ちかけた。


 とりとめのない会話から始まり、彼女の知らないコト……つまり教室から出て別れた後のことを話す肇に、渚も律儀に相づちを返している。


『……厳しい人なんだね、美術部の部長』

「いや、そうでもないと思うよ?」

『…………え、いまの踏まえた上で……?』

「うん。だって――」


 と、彼は続く言葉を口に出そうかどうか迷って。


「――……いや、はっきりとは言えないけどね。なんとなく、違う気がする」

『そう……? まあ、水桶くんがそう思うなら……別に良いけど……』

「それより優希之さんこそ、海座貴くんと凄い仲良くなってない?」

『は? ……んんっ、いや、あの人とは別に……てかそんなに仲良くないし……』

「またまたー」


『――やめて。違うから。冗談でもないから』

「あ、うん。はい、すいませんでした……」


 ちょっとキレ気味の渚にぺこぺこと頭を下げながら謝る。


 どうやらに触れてしまったらしい。


 いくら仲が良いとはいえ異性の友達関係だ。

 なにより乙女の恋愛模様に関してはトップシークレットと相場が決まっている。


 他人の恋路をアレする輩は馬に蹴られるともいうのだし。


 余計なコトはしないのが賢いか、と肇はちょっと落ち込みつつ反省した。

 今日はなんだか妙に怒られるコトが多い。


『良いけど、別に。……それより、部活どうするの。やっぱりそんなコトがあったから美術部、やめておく……?』

「まだ悩んでるかな。個人的には入っても良いんだけど、いまの成績からは間違いなく転げ落ちるだろうし」

『……よくない? ちょっとぐらい……』

「ちょっとで済めば良いんだけどねー……」

『大丈夫だと思うよ。それに……っ、ほ、ほら……こ、これからは、私がすぐ近くに、居るんだし……っ』


 分からないトコは教えてあげられるんだし、と。

 恥ずかしそうに吃りながらも渚が呟く。


 人呼んで希代の秀才。


 入試満点の学園はじまって以来の大快挙。

 新入生首席として化け物とも噂されつつある彼女からの言葉だ。


 きっと聞く人が聞けばとんでもない贅沢だと叫ぶだろう。

 無論、肇だってその感想自体は変わらない。


「そっか、優希之さんが教えてくれるんだ」

『ま、まぁ……私にできる範囲、であれば……だけど……』

「じゃあこれからは優希之塾の塾生だね、俺は。どうぞよろしくお願いします」

『……うちの塾は厳しいよ、言っておくけど』

「どうかお手柔らかに……」


『…………ふふっ』

「…………あははっ」


 ふたりして笑い合う。


 タメになるわけでもなんでもないやり取り。

 特別性なんて微塵もないけれど、それでも十分だった。


 時間は過ぎていく。

 電波越しの会話はそうして長引くように。


 ……夜は更けていく。



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