21/胸に抱える痛いもの





 ほう、と中庭のベンチに座って渚はひと息ついた。


 肇と共に回っていた北中ジブンの文化祭。


 飲み物を買ってくるから、と駆けていった彼とは別に彼女は休憩中。

 それもこれもいきなり来て一緒に回ろうとか言い出した誰かさんのせいだ。


「…………、」


 予期しなかった幸運は、けれど予定にないぐらいの体力を奪っていった。

 たった一時間ちょっと歩き回っただけでもうへとへとである。


 どうしてかなんて言うまでもない。


 先の焼き鳥事件を発端に、行く先々で気分の上がった肇が勝手な――そう、非常に、渚からしてみれば目に余る、極悪非道にすぎる――振る舞いをするものだから、その対応に追われてのコトだ。


(ケーキ食べさせてこようとしたのは本当、どうしようかと思った――)


 はあ、とため息交じりのモノを吐きながら項垂れる。


 渚たちと同じくカフェ的な出し物をしていた別クラスでのこと。

 テーブルに運ばれたデザートを、肇は当たり前のようにスプーンですくって彼女のほうへ向けてきた。


 はい、あーん……などというそれはもうコッテコテな台詞で。


(あれはない。ないない。いやほんとない)


 比喩じゃなく渚は死ぬかと思った。

 心臓が胸を突き破って鳩時計のごとく飛び出るかと思った。


 本日何度目かの混乱に陥ったのも仕方ない。


 いきなりそんなコトをされて驚かない女子ヒトはいないだろう。

 しかも推定惚れている男子ヒトにだ。


 ご褒美なんてもんじゃない。

 あれは拷問だ。


(……まあ、水桶くんもそこは自覚してくれたけど……)


 流石の肇も互いの距離感としてどうかと気付いたのか、その際に渚の対応を待たずスプーンを引っ込めた。

 なんでも「いつも妹にしてるから、つい」というコトらしい。


 成る程つまり彼はいつも自分の妹に「あーん」なるものをしているというコトになるのだが、それは非常に羨ま――――ではなく。


 客観的に見るとちょっと、あれだと思う渚である。


(うん……うん、そこまで行くと、甘やかしすぎじゃないかな……水桶くんも。いくら妹が可愛いからって、そんなコトまでしなくても)


 大体、聞いたところによると中学二年で南女子――中高一貫のお嬢様学校――に通う非常ひっじょーに良くできた妹さんだという。


 ならば幾らなんでもひとりでご飯を食べられないなんてコトはない筈だ。

 つまり妹のほうから強請っているか、彼が進んで世話を焼いているかのふたつ。


 肇の猫かわいがりな雰囲気からして渚は後者だと判断した。


 そしてあわよくば妹殿むこう側は内心それに辟易としていてほしい。

 いや、していると思う。


 なにせ年頃の女子が年齢の近い兄にモノを食べさせてもらうなんて、どう考えても恥ずかしくて受け入れがたいだけだろうし。

 兄妹仲を取り持つために仕方なく、そう仕方なく受け入れているだけだろうと。


(私だって彩斗おとうとに「あーん」なんて――――……結構、頻繁に、やってたケド……それはあくまで彩斗が病気でしんどそうだからであって)


 健康体であるのならわざわざ手を貸す必要もない。

 自分で出来ることなら最低限自分でさせてあげたほうがいい例もある。


 よって、彼の妹に対する態度は極度の甘やかしだ。

 将来に影響するほどの代物だ。

 これはあくまで正当性を持った、決して感情的ではない、ごくごく普通の観点から見たただの指摘。


 まさか好きな人の妹に嫉妬しているとか、そういうのでは、ない。


(だからこれは、妹さんのことも考えて、そう思うのであって……)


 ――余談ではあるが。


 そんな風に必死で理由を探して考えている御仁なぎさが、前世では病気になる前から弟を猫かわいがりして「あーん」なんて日常茶飯事だったコトは隠しようもない事実だった。

 それどころか過度のスキンシップも愛の言葉もなにもかも弟最高マジ世界一アヤト・イズ・ベスト!の精神で注ぎ続けたのは知る人ぞ知る秘密だ。


 優希之渚おねえさま、ここに来て過去の自分を棚上げする。




「――お、いたいた」

「あら、ほんと。あなたの言った通りね」

「そうだろう? 俺の感覚は当たるんだぞー」

「こういう時だけね?」


 ふと、聞き慣れた声に顔を上げる。


 見れば校舎のほうからこちらに向かって、手を振りながら歩いてくる人影があった。


 ひとりはやけに砕けた感じの、スラッとした細身の男性。

 もうひとりは渚に似て落ち着き払った様子のお淑やかな美人。


 どちらも彼女が毎日よく見ている顔である。


「……お父さん、お母さん?」


「来たぞー、なーちゃん! パパが来たぞー!」

「うるさいわよあなた。周りの人に見られてるわ」

「はっはっは。ママ、今日ぐらい良いじゃないか。文化祭だぞ?」

「あなた?」

「はいッ、申し訳ございませんッ」


 ずざっ、と一秒で土下座のモーションに入る優希之パパ。


 家庭内のヒエラルキーが垣間見える一瞬だった。

 中庭の芝生の上だろうとノータイムでその判断ができるのが美しい。


 おそらく全国土下座選手権があったなら上位に食い込めるだろう。


「余計目立つからやめて。立って」

「はいッ」

「……どうしたの? いちおう、文化祭は無理して来なくてもって言ったのに」

「いや、いきなりパパ仕事空いちゃってさー。ちょうど良いから、ついでにね?」

「この人が勝手に有給取ってたのよ。私にも言わずに。渚は知ってた?」

「ううん、いま初めて聞いた……」

「そりゃあ届けは昨日出したからな! パパも今朝母さんにはじめて伝えた!」


 課長は笑って送り出してくれたぞ、なんて歯を光らせながら言う係長ナンバーツー

 トラブルで大炎上しない限りはそれなりに緩い、けれど締めるところはきっちり締める職場らしいのだが真相は如何に。


「……お父さん携帯鳴ってるよ」

「ん、そうだな。まあアレだろ、適当な知り合――――わぁい、部下からだぁ……」

「あなた、そういうことあまり言わないほうがいいわ」

「ごめん、ちょっと電話出てくる。――もしもし優希之です。うん、うんいいよ。でも手短にね。うん……、えッ!? 発注ミス!? ……大丈夫? ごめん詳しく情報教えて。えっと、まず先方の納期が――」


 にわかに離れて、父親は小声にしつつ電話口とのやり取りを続ける。


 あれが所謂仕事モードなのだろうが、普段が普段だけにどうしていつもあんな風に落ち着けないのかと思ってしまう母子である。

 いや、別にいつもの態度は嫌いではないのだが、渚として思うところがないワケでもないので肯定はしない。


 とくにお酒を飲んでからのウザ絡みはちょっと見直してほしい、家族として。


「――うん、うん。じゃあそういうことで。課長には言った? まだ? そうだね、すぐ報告あげて。大丈夫、怒られてもサポート回ってくれるから。とりあえずそれでよろしくね。またなにかあったら連絡して。はい。はーい、お願いしますっ」


 電話を切ってふぅ、と父親がわざとらしく額の汗を拭う。


「――さて! じゃあなーちゃん、ハグいこう!」

「いやだけど……」

「ふぅ゛う゛ん゛ッ」

「あなた。シンプルに中三の娘にそれはないわ」

「でも……っ、でも、スキンシップは唯一なーちゃんの温度を感じれるから……っ」

「お父さん……」


 そもそもその「なーちゃん」とかいう謎の呼び方をやめてほしい、と渚はわりと切実に思った。


 小学生ならまだしも彼女は御歳十五歳の中学三年生。

 来年にはもう高校生だというのに「なーちゃん」は、「なーちゃん」は。


 百歩譲っても「渚ちゃん」とかそのあたりにしてほしい。


 父親からちゃん付けで呼ばれるというのも彼女にとってはむず痒かったが。


「……そもそも、名前――」


 ついぞ、その感想を口にしようとした時だった。


「――お待たせー、飲み物買ってきたよ優希之さん」


「っ」

「ん?」

「あら?」


 突然現れた男子に両親の注目が集まる。


 渚は顔さえ向けられない。

 恥ずかしさではなく、今度は現実から目を背けたい思いで。


 いや、まさかというかなんというか。

 持っているというかそうでないというか。


 よもやここまで信じられないほど戻ってきてほしくないタイミングで戻ってくるコトある? と。


「……あっ、優希之さんのご両親ですか?」

「あらあら、そういう貴方は……」

「ちょっ――」

「水桶肇って言います。優希之さ――えと、には塾で色々勉強を教えてもらって」

「――――――っ」


(な、名前っ、仕方がないとはいえ名前――――っ!)


 カッと頬を赤く染めながら胸中では心臓バックバクの渚だった。

 先述の鳩時計ならもはや巣に戻るコトもなく破壊され飛び立っている。


 何気なく、さらっと言ってのけたが下の名前で呼ばれたのはコレが初。

 ファースト、トップ、はじめて。

 正真正銘、彼の口から聞いた最初の瞬間。


 意識するなというほうが、ちょっと難しい。


「……あ、そうだこれ優希之さんの分。紅茶」

「……っ、あ、ありがと……」


(いや、べ、別にそこは名前、でも――)


 まあ、そんな言えもしない要望は置いておいて。


「良いから良いから。……もしかして邪魔しちゃった?」

「う、ううんっ、……そ、そんなことない、から……」

「……そう?」


 なら良いんだけど、と頬をかきながらいう肇。


 らしくもなくその声には少し自信がない。

 仲の良い渚の親とはいえ、さしもの彼もこういう状況では緊張する模様。


 偏に家族との時間がどれほど大事なコトか理解しているからだろう。


 前世も今世も、肇にとって血の繋がりというのは等しく大きい。


「……まあ。まあまあ! 見てあなた、あれ」

「――――、君ぃ……」

「? あ、はい」

「水桶くん、と言ったね……?」

「はい、そう……です、けど……?」


 瞬間、ちょうど飲み物を渡してカラになった肇の手を優希之父おとうさんが包み込むよう掴んだ。


「――水桶くんッ!!」

「え、あ、はいっ」







「――――ありがとう……ッ」

「……え。あ、いえ、そんな……?」


 急な感謝にワケも分からず首をかしげる天然男子。


 理解できないのは無理もない。

 彼のあずかり知らぬところではあるが、実のところ渚の両親は滅多に表情を崩さない娘に一抹の不安を抱いていた。


 ――このまま自分の殻の内側に閉じこもっていってしまったらどうしよう。


 その考えはなんとなくでも生きようとした彼女によって杞憂に終わったが、だとしても笑顔の乏しい年頃の子供というのは心配だ。

 普通に育って、普通に健康で、普通に友達や知り合いもいて、これといって致命的なモノはない渚だが――ただ一点彼女の両親はそこを懸念していた。


 それがいま、ここで、この瞬間。


 完膚なきまでに晴れたのである。


「それじゃあ渚がよく言ってた塾が同じ子って貴方なのね」

「? あ、はい。そう……なの? 俺のこと?」

「っ……お、お母さんっ」

「勉強頑張ってる子がいるって。まさかそれが、ねー……?」

「ありがとう、ありがとう……ッ」

「? ??」


 なにかを察してあらあらうふふと微笑む母親に、感謝を繰り返しながらぶんぶんと肇の手を握って振り続ける父親。


 怖いのはこれが三分と待たずにできた惨状であること。


 正しくインスタント地獄である。

 お湯を入れるまでもなく関係者を集めれば完成だ。


 味のほどはたぶん苦くて辛くて食べられたものじゃない。


「ねぇねぇ水桶くん。高校はどこにするつもりなの?」

「えっと、いちおう星辰奏に」

「そうなの? うちの娘と同じじゃない」

「はい。それで渚さんと一緒に勉強するようになって。理数系とか苦手なんで、結構教えてもらったりして助かってます。渚さん、凄く頭が良くって」


 キラキラと笑顔でいう肇はとっても生き生きしていた。

 シンプルにこの状況を純粋な意味で楽しんでいる。


 たぶん本当に悪意も打算もひとつもない。

 娘さんが凄くて凄くてそれはもうお世話になってます! と伝えたいだけ。


 渚はもう胸が痛い、心が苦しい。


 名前呼びのたびに心臓がはち切れそうだ。


 ――誰か助けて。


「そうそう、渚、成績良いのよー。だから進学先も星辰奏があってるのかなと思って……水桶くんはどうして志望校に?」

「その、少しでも良いところのほうがタメになるかなって思って……後々、恩返しもできるのかなーと……」

「……ええ。そうね、とっても……うん。良いと思う」

「素晴らしい、素晴らしい……ッ」


 ぐっと親指をたてて謎のジェスチャー……もといサムズアップをするご婦人。


 いっぽう一家の大黒柱は未だに興奮冷めやらぬ様子で彼の手を振り続けている。

 疲れるわけではないが、あまりにも慣れない状態に「これいつまでやるんだろう……」と疑問に思う肇だった。


「――――ッ、水桶くん!!」


(あ、止まった)


 がばっ、と顔を上げながら暴走機関車なぎさパパが両手でいま一度肇の手を掴む。


「は、はい」

「いつでもウチに顔を出してもらって構わないからね!」

「ッ!? ちょっ――」

「? はい、ありがとう、ございます?」

「待っ……!?」


 突っ込む暇もない超特急の会話だった。

 渚としては赤面したままバッバッと振り向くしかない。


 おそらく正しい意味で伝わっていないコトだけが救いだ。


 肇としてはいつでも遊びに来てってことかな? ぐらいにしか思ってないだろう。


「落ち着いて、あなた。……ふふっ、渚ね。水桶くんのこと話すようになってから、少し明るくなったのよ。これでも」

「そう、なんですか?」

「ええ。ちょっとずつ笑うようにもなって。だから、静かな娘だけど……今後もどうかよろしくね?」

「お、お母さんっ!」


 照れまくった渚が母親の服をぐいぐいと引っ張る。


 そんな態度ですら滅多にないコトなのか。

 父も母も顔を真っ赤にした娘を前にニコニコ顔だった。


 ついでによろしくとお願いされた男子ポンコツも笑顔のまま。


 広い校内でもここだけは限定的に笑顔の花が咲き乱れている。


「も、もう良いからっ、ほら、水桶くんにも悪いしっ」

「あら、渚ったら……でもそうね。私たちは他のところでも見て回りましょう、あなた」

「そうだねママ。それじゃあ楽しんで、なーちゃん! 水桶くんも娘をよろしく!」

「はい、わかりました」

「み、水桶くんもそんな風に笑顔で答えなくていいからっ」


 ふたり手を繋ぎながら仲睦まじい様子で両親が去っていく。


 残されたのは疲れきってため息をもらす少女と。

 先の流れに秘められた事情コトなど知らないようにひらひらと手を振る少年。


「……明るくて良い親御さんだね、なぎ――んんっ、優希之さん」

「…………そう、だね。……私も……そう、思う……」


(――べ、別のいまのは言い直さなくても……)


 そう思った渚だが、やっぱり口には出せなかった。





 ◇◆◇





「――でも、そっか」

「?」


 父親と母親の背中が見えなくなったところで、ふと肇は微笑んだ。


 渚の隣に並ぶようベンチへ腰掛けながら、片手に持っていたココアの缶を開ける。


 なんとなくいつかの思い出を呼び起こすような景色。

 天気の具合も時間帯も、周りの騒がしささえ違うけれど、彼女の心に浮かんだ記憶はたしかにそれだった。


 緩やかな視線がゆっくりと渚を向く。


「俺と話すようになって明るくなったんだ、優希之さん?」

「えふッ」


 げほっ、ごほっ、と咽せる女子中学生。


 あやうく飲んでいる紅茶を鼻から噴き出しかけた。

 すんでのところで制御したのは花も恥じらう乙女の最低限の意地である。


 というか、彼の前でそんな失態を犯したくはないという一心で。


「大丈夫?」

「だ、だい、じょぶ……っ」

「……ふふっ、けど、なんでそんなにビックリしてるの」

「――っ、だ、だだ、だって……っ、み、水桶くんが、いきなり、そんなコト……」


 息を整えて彼のほうを見上げると、視線が合った。


 ――これまでドキドキとパニックの連続で意識していなかったが。


 文化祭の空気にあてられた彼の表情は実に良い。

 自分たちの体育祭ほど乗っているワケではないけれど、相応に気分はあげている。


 だからだろう、その雰囲気は平時より酷く柔らかいものだった。


 いつもならすぐに目を逸らしてしまう渚が、つい見つめ合えたぐらいに。


「なんとなく俺も思ってたよ」

「え…………?」

「優希之さん。最初に会った頃に比べて、元気になったなって。あの時はもうちょっと、なんていうか……参ってるみたいだったから」

「…………そっか」


 きゅっと、手元のペットボトルを握りしめる。


 胸に込み上げるのは色々なもの。


 気付いていたんだという驚きと、そこまで見ていてくれたという喜びと。

 出会った頃のわたしはどれだけ酷かったんだろう、という落胆。


 言わずもがな。


 死んだ弟のコトをずっと引き摺って、惰性で生きてきた人間の様子など――考えるまでもなく最悪以上の死体以下だ。

 きっと死にかけの老人のほうが、まだマシな顔色をしていたに違いない。


「……どう、いまは」

「……どう、って……?」

過去むかしのこと。まだまだ、重い?」

「それ、は――――」


 ――考えて、全身に枷を付けられたような錯覚が襲う。


 辛うじて呼吸は平常を保てた。


 流れる血は鉛が混じったみたいに気持ち悪い。

 心臓が不規則に動いて、変な汗まで出てくる。


 指先の震え、視線のブレ、染みのように広がる胸の奥底に沈む想い。


 そっと、彼女は首に手を当てた。


 いまのかのじょには、そこになんの痕もないというのに。





「大丈夫、大丈夫」

「っ」



 そんな、暗く深い意識に囚われそうになったとき。


 不意に頭上へ置かれた温かさが、渚を現実に引き戻した。


 ぽんぽんと肇の手が柔らかく髪を撫でる。


「前も言ったけど、それでどうっていうことはないからね。そのままでも、そうじゃなくなっても。それまでずっと抱えてても。優希之さんは、優希之さんで良いから 」

「――――…………、うん……」

「ごめんね、嫌なコト聞いちゃって」

「……いいよ、そのぐらい……これは、私の問題、だし……」

「うん、ごめん」

「………………、」


 肇はなにも変わらない考えを伝えてくる。


 引き摺っていても良い。

 抱えていても構わない。


 いつかどうにかなるか、ならなくともそうまでして歩いた時間に意味があると。


 優しすぎて卑怯な言葉を、当たり前みたいに繰り返しながら。

 それが彼女の胸にいまも深く刺さっているコトなど、知りもしないで。


「……まだ、私にとっては……重いよ。うん、ずっと重い……」

「……うん」

「…………でも、大丈夫。あの頃とは、違うから……」

「……そっか」

「だから、大丈夫。……大丈夫、なんだよ、私……は……っ」

「……わかってるよ、優希之さんだもん」


 どうでも良ければ、なんとも思わない。


 悲しむのは大切だからだ。

 辛いのは大事だからだ。

 苦しいのは必要だからだ。


 それだけ大きいものだから、欠けたときの痛みも大きくなって当たり前。


「だから……もう……少し、だけ……っ」

「……うん。わかってる」


 彼の温度を頭に感じながら声をひそめる。


 方向性でいえば正反対。

 でも形であればまったく同じ。


 大事だから痛い。


 それは古い記憶で愛した誰かの喪失も。

 新しい今の胸を占める誰かへの想いも。


 変わらない、変えられない、変えたくない――只一つのかのじょのものだ。


 優希之渚かのじょだけの、かけがえのない想いなのだから。




「……もう大丈夫?」

「…………も、もう、ちょっとだけ……」

「そっか……」


 ちなみに、この機に乗じて延長を申し込んだとしても彼女は悪くない。

 相手がしてくれるというのだから、ちょっとそれに甘えただけだ。


 悪いコトでは、まったくない。



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