22/バトラーは突然に
それから、一週間が経って。
十月も折り返しを過ぎた土曜日。
渚は本日、意を決して敵の本拠地へ乗り込むコトにした。
そう――
「――――……」
ぎゅっと鞄の持ち手を握りしめながら校門を睨む。
そもそもどうしてこのような思いに至ったのか。
切欠は夏休み明けの体育祭と、この前の
度重なるイベントで彼女の心はぐちゃぐちゃにかき回されたワケだが――とうのかき回してくれた本人は朗らかスマイルでノーダメージ。
いつも通り変わらぬ様子で勉強するものだから、これはどうかと思ったのだ。
具体的にいうと
(……水桶くんには文化祭に行くと言ってない。一切伝えてもいない。……よし)
満を持して学校の敷地内へと足を踏み入れる。
どういう反応が欲しいかはまあ、一旦置いておくとして。
とにかく自分だけやられっぱなしというのはアレだ。
納得できない。
そう、納得できないので、こうやって鬱憤晴らし……もとい仕返しをさせてもらうのだ。
題して急にやって来てメイド服を見られたのだから、こっちもいきなり顔を出して彼の恥ずかしいところを見てやろう大作戦。
ネーミングセンスについてはお目こぼしいただきたい。
(最低限、びっくりしてほしい。あわよくばあられもない姿を披露してほしい。……いや私が見たいとかそういうのじゃなくて! 彼がどう思うかは二の次であって――ッ!)
うわぁあぁああ――と叫びたいのを心の中でぐっっと我慢する。
接客時のメイド服を見られたのはそれだけ渚にとって大事件だった。
それまでまさか肇が顔を出すと思ってなくて何事もなく心を落ち着かせていただけに、反動でその後がてんやわんやになったぐらいだ。
……あと、あれ以来学校で
ヒトが油断するからとさりげなく彼の話題を出してくるクラスメートも同様、断じてそのままにしてはおけない。
いや本当、渚としては心が落ち着かないのでやめてほしい、切実に。
(――とにかく、今日は水桶くんを驚かせるコトが最優先事項――!)
なんて、彼女が気合いを入れたときだった。
「おっ、すげー美少女いる」
「……ん? 待てあれ
「あ、あの
「なんで居るかは……聞かなくても分かるなぁ、俺……」
「しょうがないね……水桶くんには後でジュース奢ってもらお」
(……?)
遠巻きに渚を眺めていた数名の男子グループが俄にざわつきはじめる。
なんだろう、と顔を向ければバッチリと目が合った。
それも漏れなく全員。
恐ろしいぐらい完璧に、視線が交錯する。
「――なあなあそこの別嬪さん!」
「え……?」
「ちょっと一緒に来てくれない? 僕らに協力すると思って」
「…………あの、私――」
「良いから良いから。遠慮しないで。少しで大丈夫だからさ。ね?」
「…………、」
ぞろぞろと歩いてきた男子がそのまま渚を取り囲む。
あっという間に逃げ場を塞がれた。
同年代とはいえ体格差がモロに出てくる十五歳。
いくらなんでも隙間を縫うように逃げ出すのは難しい。
今朝からこれまで、若干浮き足立っていた渚の気分は急落中。
ここに来て氷点下を突き抜けるほどに失墜している。
「――――――私、用事があるので」
「ふっふっふ。……すっげ背筋がめっちゃゾッとする」
「水桶、よくこんな人とデキてんなぁ……ちょっと尊敬」
「そう怖い顔しないで。とりあえず来てもらうよ」
「はい出発。目的地はあえて黙秘だっ、行くぞ野郎どもッ」
「ッ、だから――――」
……それが、わずか五分前のコト。
「水桶ー! おまえのお姫さま居たから連れて来たぞー!」
「えっ」
「ふぇッ!?」
――かくしてこのように。
致命的な邪魔が入ったせいで、渚の作戦は見事失敗に終わったのであった。
「おい、いまの聞いたかてめえら」
「ふぇっ、だって! あんな凍えきってた美人が!」
「コワー……なに、恋って人を変えるの……魔法なの……」
「ともかく水桶は俺ら全員にジュース奢るべき! 対価だ、払え払えー!」
ドスドスと脇腹をつつかれて「ちょっ、いたっ!?」なんて洩らす肇。
なんてコトはない実に仲睦まじいクラスメート諸君だった。
ちなみに渚は覚えていないが、一度体育祭のときに話しかけて撃沈した集団でもある。
悉く絶対零度の視線で撫で切った名刀・渚。
正式な担い手はいまのところ肇唯一人のみ。
今後増える可能性はおそらくない。
「勝手に連れて来てたかるのはどうなの?」
「良いじゃねえの。ほら、俺ら不審者覚悟で引っ張ってきたワケだし?」
「そうなる予想があるならやめておきなよ……」
「なんだよー、水桶は不満かよー! こんな可愛いお姫さまが要らないってかよー!」
「っ」
ぴくん、と何気ない一言に渚の肩がわずかに跳ねる。
はたして彼はそれに気付いたのかどうなのか。
ほう、と短く息を吐きながらごそごそとポケットを漁りだした。
「――しょうがないなあ……五人分ね。ついでに俺のもお願い」
「しゃあッ、やりぃ! ゴチになります! ココア缶で良いよな!?」
「良いよー……あ、待った。優希之さん用に紅茶も」
「了解、みんな行こー、水桶くんの奢りだってー」
「「「「「えッまじ!?」」」」」
「待って
雪の女王誘拐犯、もとい招待班を除くクラスメートの反応にわたわたと手を振る肇。
いくらなんでも一般的な中学生の財力しか持たない彼にそこまでは無理だ。
頑張ったとしてもせいぜい十人そこら。
それ以上は財布が痛むどころではない、死ぬ。
季節と同じく真冬を迎えてしまう。
「まったくもー……、……それで」
「……っ」
「お姫さまはどうしてここに? 文化祭、来るともなんとも聞いてなかったのに」
「っ!!」
瞬間、渚の脳裡に彼の言葉が反芻された。
――お、おおお姫さま!? お姫さま! お姫さまお姫さまお姫さまお姫さま――!!
なんて破壊力、なんて衝撃、なんて呼び方。
平時であればまずありえない二人称に彼女の心がガクガクと震える。
さながら胸の奥は生まれたての子鹿だった。
産声をあげてバタバタと倒れ行く姿は滑稽で儚い。
「……い、言わなかった、から……っ」
「えー、なんでー。言ってくれても良かったのに」
「っ……こ、この前水桶くんは言わなかった、でしょ……!」
「なるほど事の発端はこっちだったんだ……」
「わ、私、ちょっと怒ってる、から……っ!」
「――はい、ごめんなさい。メイド服すっごい可愛いかったです。あと叫び声も」
「水桶くん……!!」
「ふふっ、ごめんごめん」
くすくすと笑いながら肇が触れるように頭を撫でる。
この前の文化祭以降彼の中でぐぐーんとハードルが下がったのか、希によくやってくれるようになったコトだ。
渚としては正直役得なのであえて特に何も言わない。
彼はなんの問題もなく彼女を撫でる、彼女は黙ってそれを受け入れる。
これぞWIN WINの関係ではなかろうか。
(…………、……それにしても……)
と、そこでようやく渚は肇の服装へと目を向けた。
「――ん? あはは……どうかな? 似合ってる?」
笑顔のままその場でくるりと回転する男子はもちろんいつもと格好が違う。
上は背中側に裾が尾を伸ばすような黒いジャケット。
下は上着同様の色をした学生服のスラックス。
靴もきっかり校舎内なのに上履きではなく
中に着ているシャツだっておそらく学校指定のものだろう。
ひとつひとつあげてみると、まあ、そこまで普段の
――――が、実際目にしてみるとぶっちゃけやばかった。
(えんびふく――!)
思わず言語野にちょっと
燕尾服。
あるいは執事服。
とにかく想像できるモノそのまんまをお出しされた恋する乙女の
今すぐ会いたいどころかもう会っているのだがとにかく総じて一言にまとめるならこうだ。
えぐいなって。
「
「………………、」
「あっ、ちょっと待って。無言でスマホ向けないで。写真撮ろうとしないで。いちおう
「……い、一枚だけ駄目かな……っ」
「駄目なものは駄目です。俺は真面目な優希之さんが好きだよー」
「――そうだよねっルールはルールだもんね! うん!!」
「おぉ、急に元気いっぱいな返事……!」
無意識のうちに少女を手のひらの上でコロコロ転がす天然執事。
歓喜に包まれるなかで将来彼にお酒を与えるのは駄目っぽいと渚は予測した。
行事ごとの空気に当てられただけでコレなのだから、アルコールが入った
というか冗談半分でも気軽に〝好き〟とか言わないで欲しい。
彼のテンション事情を知っているから大打撃で済んだが、それでも威力は高め。
もう惚れていなければあやうく惚れかけるところだった。
この少女、すでに手遅れである。
なお、彼が好きだの可愛いだのと言うのにわりと抵抗がないのは
「……早いけどなにか食べていく? お菓子とかあるよ」
「い、いいの……!?」
「? ぜんぜん、そのための文化祭だしね」
「じゃ、じゃあお言葉に、甘えて……!」
「うん、どうぞどうぞ……――――っと、そうだった」
「……?」
渚を先導しようとした肇が、くるっと踵を返して彼女の前に立った。
すっと腰を折りながら左手を身体の前に。
もう片方の右手は後ろに。
微かな笑みを浮かべながら、どう見ても仕込まれたであろう礼をする。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「――――――」
渚の頭には三つの画像が浮かんだ。
勢いよく胸をおさえつける
ストレッチャーで運ばれていく
救急車に乗って病院へ搬送される
「きゃー! きゃーきゃー!! 見て肇くんがっ、肇くんがぁっ!! あぁあああ!!」
「誰かAEDー、大丈夫大丈夫、蘇生じゃなくて停止に使うからー」
「セーフティーで使えないよぉ……」
「おっ、鍛えた甲斐があったねありゃ。
「うーん、七十点。腰の曲がり具合が、もっとこう。惜しいぜ」
「ウッ……!? ――だ、大丈夫大丈夫、落ち着けあたし……! あれは水桶くん、あれは水桶くんぅ……っ!」
「あいつすげーな。小っ恥ずかしい動作に淀みがないじゃん。そりゃ
騒ぎ立てる女子陣営の声なんて一切耳に入ってこない。
そのぐらいの代物。
あくまで
それは分かっているが――分かっているからこそ――ハンマーが止まらない。
少し早めに開始された除夜の鐘は当分響くだろう。
「ふふっ……どう? 様になってる? クラスの女の子たちにめちゃくちゃキツく練習させられて――」
「す、すごく良い……っ」
「ほんと? ……やった、優希之さんのお眼鏡に適った」
「でもダメ……っ」
「えっ」
それはどういう……? と肇が首をかしげる。
意味は真反対だが込められた感情自体は奇しくも同じだ。
乙女心の複雑怪奇な理論は彼には分からない。
もうちょっとしたら分かるかもしれないが、いまの彼にはてんでさっぱり。
まだまだふたりの関係が進むまでの道程はとても長いので。
(――――どうしよう。私、今日、マトモに生きて帰れないかもしれない……っ)
両手で顔を覆いながら「はぅぁあ……っ」なんて言葉にもならない声を出す美少女。
出会って十分足らず。
早々に致命傷を受けた渚は瀕死の重傷だった。
決め手は見慣れない格好と、似合わない仕種と、聞き慣れない言葉遣い。
あと普段はかけないであろう眼鏡をしているのがワンポイントでアクセントになっている。
彼以外はしていたりしていなかったりなので、各個人に合わせているのだろう。
非常にグッド。
その提案をした人には金一封を贈りたい。
「――――、――――っ、…………!」
「……優希之さん? 大丈夫? あれー……? ……渚お嬢様ー?」
「ッ!?」
「あ、戻ってきた」
「――!? っ!! ……?! ッ??」
(えッいまなんて言ったいまなんて!? 待って!? そんなのアリ!? ダメじゃないかな!? ダメだと思う! うん!!)
内心では元気よく頷きながら、現実では百面相をしている渚お嬢様。
彼女が落ち着いたのはそれから三十分後。
肇たちの教室を出て、適当に校舎内を歩いて回って、自由行動になった彼と落ち合う流れになってからだ。
……結論を述べよう。
――――優希之渚、完膚なきまでに敗北する――――
◇◆◇
――してやられた。
渚は待ち合わせ場所の教室前で佇みながらずぅんと肩を落とした。
肇に仕返しをしようと足を運んだ
それがまさかの開始数分でフルボッコ。
どころか攻め入った先で返り討ちに遭いご覧の有様である。
――――してやられた。
もう駄目だ、勝てるワケがない。
相手は筋金入りの天然混じりな純朴少年だ。
一体どうすれば良いというのか。
百戦錬磨の恋の駆け引きにおける達人がいるのなら教えてほしい。
――――――してやられたぁ……ッ!
ちょっと報復というか、驚かそうというか。
そんなぐらいの魂胆だったのに結果は酷いものだ。
いや酷いのはむしろ彼のほうだった。
なんだ、アレは。
アレが彼の本気だとでも言うのだろうか。
だとするならちょっと抑えてほしい。
あんな様子だとうっかり近くの女子をオトしかねない、渚の贔屓目込みで。
「優希之さんお待たせ――って、このやり取り先週もしたね」
「っ、そ、そう……だね、うん。あはは……っ」
返しながら、チラチラと窺うように肇のほうを見る。
「……? どうしたの、なんか顔についてる……?」
「いや、その。い、いつも通りだな……って……」
「……そんなに良かったの? 執事服」
「うんッ!!」
「おー……なんか、こう、そこまでハッキリ頷かれると照れくさいねー……」
あはは、と若干頬を染めながら彼が笑みをこぼす。
偶発的に入った一発だった。
脊髄反射で応えた勢いが珍しく肇の心を刺激したらしい。
そう、全体的にテンション高めで流されているからアレだが、彼だって一介の男子中学生。
文化祭の出し物とはいえ半強制のコスプレに思うところはあったのか。
珍しく恥ずかしがる肇の顔は新鮮で、ちょっとときめいた。
……繰り返すがすでに手遅れである。
「くっ……誰なのあの娘……! 肇くんとイチャイチャしやがってからに……!」
「どうどう、落ち着きな。たぶん知り合いとかそこらだよ」
「だから体育祭のとき一緒に飯食ってた女子だって。北中のマドンナ」
「――おのれ銀髪美少女許すまじっ! 私の肇くんを返せ! いちおうパネルの部門取れたけど今ひとつだったよ! この泥棒猫っ!」
「いやアンタのじゃないでしょ、名実ともに」
がるるる、と吠え立てるのは未だに引き摺っている美術部の女子だった。
クラスメート数名に押さえられながらふんすふんすと息巻いている。
思えば、体育祭の頃から応援の様子で渚も察してはいたけれど。
それこそ、彼女から見て彼に対する態度がアレな女子が何人か分かったほど。
「塾が一緒ぐらいでなんなの! 私のほうが絵は上手いけど!?」
「アンタの中のヒエラルキーは全部画力で決まってんのか」
「私は自分より画力の高い男子としか結婚しないから!」
「おい誰か口封じろ。ストップだ、ストップ。カメラ止めろー」
「いやでも水桶くんなら大丈夫でしょ! そんじょそこらの女子には靡かないって!」
「さっきの照れ顔を見ておらなかったのかおぬし」
「おのれ銀髪美少女……!」
「その流れ一回やったよ、天丼だよ。もういいって」
(……意外と、そういう感じの子、いるのかな……? 水桶くん……)
「??」
当の本人が気付いていないのは幸いか。
いまは受験シーズンで「勉強があるから」という防御札を貼っている肇だが、これがなくなるとどうなるか分からない。
相手が来るかどうかだけでなく、女子からの告白に何も断る理由がなかった場合、彼がどのような返答をするかが分からない。
それがほんの少しだけ、渚には怖かった。
明確に、胸に痛いと感じたのだ。
薔薇の茎を握りつぶした時のような、トゲの刺さる心の感触。
「――とりあえず、この前は付き添ってもらったし、今日は俺が優希之さんを案内しよっか。なんでも聞いてね、これでも三年間元気に通ってるから」
「…………ふふっ、なにそれ……」
「あ、美術室とか覗く? 出し物で受賞作とか色々飾ってあるけど」
彼がそう訊ねたのは以前――ほんとに結構昔、渚が絵に関して訊いてきたコトがあったからだ。
ともすれば彼女自身だって忘れていそうな何気ないやり取り。
美術が得意というが、実際に色々と絵を描いていたりするのか――という簡単な問い。
それに対して彼は否と答えたのを覚えている。
理由はもちろん、
少しずつ取り戻してきたのは、それから随分経っての最近だ。
だから、ついでにそのあたりも言おうかと思っての提案だったのだが。
「――ごめん、美術室は……ちょっと……」
「…………、あんまり好きじゃない?」
「……うん。絵の具の匂いとか、嗅いじゃうと……気分、悪くなるっていうか……」
「……そっか。じゃあとりあえず、クラスの出し物見て回ろう。
「…………うん、ごめん……」
「良いって良いって。気にすることないからね」
からからと笑って歩き出す肇に、渚もゆっくりと追従する。
「………………、」
絵が嫌いなワケじゃない。
美術室にトラウマがあるのでもない。
授業が受けられないほどの忌避感とまではいかなかった。
ただ、自分から進んで入っていきたくはないだけ。
(…………だって、あれは……)
彼女自身の身に起こったモノとはまた違う。
――乾いた空気と、冷め切った温度。
――あまりにも静かで音のない気配。
――昨日まで熱を持って動いていた命が消えてしまった現実。
いまでも
冬の、ある寒い日のコトだ。
ちょうど買い物に出かけた彼女が家に帰ってきたとき。
油絵の具の匂いが漂う
これ以上ないぐらい幸せそうな表情で、触れて直す必要がないぐらい綺麗に瞼を閉じて。
いってらっしゃいと姉を見送ったあと、おかえりと言うコトもなく。
(………………、)
だから渚は今でも絵の具の匂いが苦手だ。
嫌な記憶を一番に思い出すから。
あれは、大切な人が死んだときの匂いだから。
とてもじゃないけど、こんな日にまで行きたくはない。
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