15/かしこい兎とポンコツ亀





 学生とは言え二ヶ月近い期間は長くも短い。


 夏休みはあっという間に過ぎて、二学期のはじまる九月。


 肇の周りにあった変化といえば帰省していた妹が寮へ戻ったコトと、課題で描いた絵が校内最優秀賞を取ったコト。

 それから、期首テストでようやく念願の学年一位になったコト。


 どうにも勉強漬けだった時間はしっかり身になってくれたらしい。


「――――で、数学はいくつだったの」

「……言わなきゃダメ?」

「……教えないのはどうなのかな?」

「…………七十九点です」

「……頑張って」

「はい……」


 いつもの塾の自習室。


 帰ってきたテストの結果を渚と語らいつつ、肇はがっくしと肩を落とした。


 他は殆ど九十点台後半か、悪くても九十には乗っていたほどである。

 五教科合計でいえば十分すぎる点数。

 実際二位の子との差も比べればたった三点という僅差。


 これ以上はない結果にもちろん彼も喜んだものだ。


 ただひとつ、生粋の苦手科目筆頭に躍り出た数学を除いて。


「……どこ間違えてたの?」

「相似の条件と、三平方とかの図形問題」

「あー……、それは、うん。ご愁傷さま……計算問題のほうは?」

「そっちはバッチリ。夏休み中に必死で解いた甲斐があったかなあ」

「……まあ、慣れるとできるものだしね」


 はあ、とため息をつきながらペンを回す肇に、渚が曖昧な笑みを浮かべる。


 同じ受験生、同じ志望校で下手すればライバルでもある彼女だが、しかし一方で彼の努力を一番近くで見てきたのも彼女だった。

 それが半分報われて嬉しい気持ちと、あと一歩足りなくて惜しいという気持ち。


 そこで羨む心が出ないだけ彼女も相当なものなのだが、当然そのあたりに気付くような人間はここにいない。


「……図形は難しいよね。易しいのだと、すぐパッと解けるけど」

「俺たちは星辰奏だから間違いなく難しいでしょ……」

「まあ、たしかに」

「……そういう優希之さんはどうだったの? 北中もあるよね、期首テスト」

「それ、は…………」


 と、どこか話しづらそうに視線を逸らす渚。


 もごもごと言い淀む様子は見るからに分かりやすい。

 その件にはあまり触れて欲しくないです、と言外に伝えているようだった。


 ちなみにここ数ヶ月の付き合いで肇が培った経験に基づくと、これは本気で拒絶しているワケではなく彼女なりの分かりやすい態度の表れ。


 ちょっとしたモーションだというコトを知っている。


「どうしたの? ね、優希之さん?」

「……いや、うん。私は別によくない、かな……?」

「よくないよ。俺だって教えたんだから。優希之さんのも知りたいなー」

「…………お互い不幸になるだけだよ」

「そんなことないって」


 ニコニコと笑いながら肇が渚に詰め寄っていく。


 珍しいパターンではあるが、彼女も彼女でどこか慣れるところもあったらしい。

 わずかに頬を染めつつ「うっ」なんて洩らしながらも、観念したように息を吐いた。


「……言ってなかったんだけど」

「うん」

「……私、北中むこうではずっと学年トップ……」

「え」

「入学してから一回も下がったことないよ、いちおう……」


 どこか恥ずかしがるように言って、渚が頬をぽりぽりと掻く。


 対する肇は一転してジト目のまま彼女を睨んでいた。

 気持ち椅子を遠くに引きながら、背中を丸めて敵意をぶつけていくスタイル。


 今までただの勉強仲間だと思っていた少女が、まさかの大天才美少女だったという事実に思うところがあるらしい。


「裏切ったんだね……優希之さん……!」

「い、いや、違うから。その、言うタイミングがなかっただけで。……み、水桶くんに教えてもらったところが役に立ってるのは、本当……だよ……?」

「でも俺よりずっと成績良かったんだ。ふーん。そうなんだ」


 へぇー、ふーん、とジト目のままそっぽを向く臍曲がり男子。

 その姿がきっかり一ヶ月程前の了華だれかと似ているのは言うまでもない。


 面倒くさい事情が色々あれど血の繋がった兄妹というコトなのだろう。


「そ、そこまで拗ねなくても……」

「…………五教科の合計は?」

「四百九十六……」

「――――優希之さんなんて知らないっ」

「えッ、ちょっ、なんっ――……っ、そ、そんなに……?」

「つーん」


 それをわざわざ口に出すあたり天然ぽんこつ甚だしいが、肇は肇でわりと真面目にふて腐れている演技をしているつもりらしい。


 別に本気で嫉妬するワケでもないが、それはそれ、これはこれ。

 学力があるというのは素直に羨ましいので、ちょっとした悪ふざけである。


 渚のほうはそれでわたわたと慌てているので作戦は大成功だろう。


 なんだかんだでふたりとも、そうやって絡めるぐらい親交が深くなったというコトだ。


「い、いやその、あの、ごめん……ってなんで私謝ってるの……?」

「…………、」

「ぇ、あぁあじゃなくてっ、だから、えっと……ほ、ほら。水桶くんだって今回一位だったワケだし……! よ、良かった……じゃん? あれ、うん、そう……!」

「………………、」

「それに、ほら。だ、大丈夫だよ。いまの調子なら……」


 あのその、とあたふたしながら渚が口を開く。


「きっと、きっと合格できる、はずだから……っ」



 〝――大丈夫だよ。彩斗はきっと、きっと幸せになれるはずだから――〟



「っ!!」

「わっ!?」


 重なった音を聞いて咄嗟に顔を上げる。

 声をかけるために近くまで来ていた渚と至近距離で見つめ合う。


 間違いなくただの空耳。

 記憶に引っ張られただけの虚しい幻聴。


 眼前の少女にの面影は殆どない。


 眩しいぐらいの日差しの輝きがてんで彼女には足りていない。


「……ど、どうした……の……?」

「――いまの、すごく良かった。優希之さん、家庭教師とかの才能あるんじゃないかな」

「え、なに……いきなり、どういう意味……?」

「……なんだか刺さる言葉だったんだ。俺にとって。だから、ちょっと嬉しかった」

「そ、そう……なんだ。それなら、良かったん……だけど……」

「うん。困らせてごめんね」

「……やっぱりわざと……」


 今度は渚からのじとっとした視線にぺこぺこと頭を下げて。

 ついでに来る前に買っておいた彼女の好物である紅茶を献上して、いつも通り机に広げた教材へと向かい合う。


 そこからはなんてことのない変わらぬ時間。


 やけに喧噪から離れた教室。

 カリカリと響くペンの走る音。

 ふたり分の気配と自然に起こる衣擦れの音。


 あくまで自習室は自習室らしく、その有り様を大事にされている。


「……あ、水桶くん」

「ん、なに」

「そこに土、ついてるけど……」

「……え、うそ」

「本当。首のうしろ、右側あたりに……」

「……微妙に見えない……」


 うーん、と唸りながら肇が首のあたりをパタパタとまさぐる。


 目視では若干見えづらいところになるのか探り当てる気配はない。


 鏡があればまだしも、現役男子中学生である彼が都合良く小さな手鏡なんかを持って来ている筈もなく。

 ここ? それともこっち? なんて見当外れの場所を手で払っていく。


「…………、」

「……っと、どう? 取れてる?」

「あ、いや……、……ちょっと、待って」

「? うん」


 かたん、と椅子を鳴らして渚が立ち上がる。

 そっとその手が彼の方へ伸ばされる。


 ぴたりと動きを止めていた少年は固まったまま。


 彼女は持っていたタオルで、さっと付いていた汚れを拭き取った。


 ほんのわずか、ふわりと優しげな匂いが肇の鼻孔を擽る。


「……うん、これで取れた……」

「そう? ありがとう。ごめんね、手間かけさせちゃって」

「ううん、別に――――……」


 ……と、そこでようやく彼女も自分がいま何をしたか自覚したらしい。

 というか実際に動いた時点では半ば無意識だった模様。


 かぁっ、なんて顔を赤くしながらタオルをパッパッと叩いて鞄に仕舞い、急かされるように席へ戻る。


「……その、別に。お礼言われるほどでも、ない……から……っ」

「そんなことないよ。……でも、どこで付いたんだろう。体育祭準備のときかな……」

「……そ、そういえば……西中はもうそろそろ、だっけ」

「うん。来週の日曜日。北中はたしか、五月の終わりにもう済ませてたよね」

「だね……うちは開催、早いほうだから……」


 彼自身勉強で参加できないところも多いが、用意自体はすこぶる順調だ。


 夏休み前は泣き言に近いコトを言っていたパネル組も無事完成。

 今世紀最大の自信作、と胸を張っていたので大丈夫だろう。


 肇も個人で出る分の種目に関しては説明を聞いて粗方頭には入れている。


 いまのところ懸念点はない。


「……良かったら見に来る? これといって目玉競技とかはないけど」

「そう、だね……時間があったら、行ってみるかも……」

「そのときは声かけてね。できるだけ格好良いところ見せるから」

「なにそれ……、……運動、得意なんだ? 水桶くん」

「そこそこ自信あるよ。こう見えて足は速いから」

「……そうなんだ」


 柔らかく微笑みながら彼の会話に返す。


 ほぼここでの姿しか知らないからか、文系が得意で美術が一番という台詞を偶々覚えていたからか。


 他人を抜き去る勢いで走る肇の画はちょっと想像できない。

 ともすれば少し面白いかも、と思うぐらいミスマッチな要素だった。


「……ん、わかった。来週の日曜日だよね。ちょっとだけ見に行くかも」

「まあ、俺が出る競技自体そんなに多くないんだけどね」

「ふふっ……もう……ダメじゃんそれ……」

「そのぶん力は出し切るつもりだよ。どうせなら優勝したいし」

「……そっか」


 意気込む肇を見ながら頷いて、彼女もいま一度手元へ視線を落とした。


 前を含めても他校の体育祭に行くなんて初めての経験。

 他の誰かを意識して見るというのもそうだ。


 なんせそうするべき相手は昔、最終的に運動なんてさっぱり縁がなくなっていたし。


 ……ああ、でも。


 まだ元気なときは嬉しそうに走っていたっけ、なんて古い記憶を思い出して。

 ちょっとだけ痛みを抱えつつも、若干楽しみになった。


 どうしてなのかは一切不明。


 彼女はまだ、なんの正体にも気付いていない。



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