16/ささやかな口約束





 天高く馬肥ゆる秋――というにはまだ暑さの残る日曜日。


 空は見事に雲ひとつない模様。

 気持ちの良いぐらいの快晴にて、本日は絶好の開催日和と相成った。


 昨今、熱中症や年々上がる気温などで色々と物議を醸している夏休み明けの体育祭だが、盛り上がりと比例して高まる温度はなんだかんだで良い感じだ。


 乾きはじめた空気を震わせてわあっとあがる歓声。

 そこらに舞い踊る砂埃。

 マイクを越しで響いていく放送部の実況。


 学校内だけという小さく狭いものだが、それでも祭は祭。

 この極小空間は十分な活気に満ち溢れている。


『――次の競技は男子百メートル走。男子百メートル走です。出場する選手は待機場所に集合してください』


「百メートルー! さっさと出る奴行ってこーい!」

「あらかた運動部連中だろ、任せた」

「ははは、かけっこ頑張れ! 取るなら一位だぞ、一位!」

「男子のあとはすぐ女子だからな! そっちも準備しとけよ!」

「そんぐらい分かってるわよ!」


 やいのやいのと騒ぐクラスメートたちは実に賑やかで微笑ましい。


 言ったように中学校生活最後の数ある一大イベント。

 最高学年というのもあってそれぞれ様々な角度から関わっている行事でもある。

 込められる気合いも一入というものだろう。


「水桶も百メートルだったよな?」

「そう。ということで行ってくるよ」

「行ってらっしゃーい! 頑張ってねー!」

「水桶ぇ! おまえ最低でも三位には入れよー! 得点配分ガクンと変わるからなぁ!」

「あはは、やれるだけやってみる」


 ひらひらと手を振って自分たちのテントから出て行く。


 彼らの中学の体育祭はクラスごと三チームに分かれての競い合いだ。

 それぞれ一組が赤色、二組が青色、三組が黄色というイメージカラーのもと毎年団名を決めて各集団は結成される。


 ちなみに肇たちが所属するのは一組、赤の団。

 名前は団長自ら発案した〝紅鏡こうきょう〟。

 どうでも良いが最近鬼退治の漫画にハマっているらしい。


「はい、じゃあ出走順に並んでくださーい。一レーンと二レーンが赤。三レーンと四レーンが青。五レーンと六レーンが黄になりまーす。はいはい、早くお願いしまーす」


「おっ、水桶こっちこっち。儲けもんだぜ、隣見てみろよ。全員文化部だ」

「そういう三亜樹みつあきくんも吹奏楽でしょ」

「ばかやろう吹部すいぶは楽器持ったりするから力つくんだよ。新聞部とか美術部には負けん」


「けっ、言ってろ下手くそトロンボーン。おまえこれで俺が勝ったら今度の校内新聞で演奏会は音外しまくってたってこき下ろしてやるからな」

「フェイクニュースゥ!」


「水桶くん。また暇になったら美術室顔出してね。教えてもらいたいこともあるし」

「うん、落ち着いたらちょっとお邪魔させてもらうかも」


 最近、時間があいた時に少しずつではあるが筆を握り直しはじめた彼である。


 理由はもちろん夏期休暇中にあった祭と花火だ。

 受験が終わるまで触らずにいようと思っていたのだが、前世からの本能じみた意欲には逆らえなかったらしい。


 偶々あった美術の授業で、これまた偶然油絵の画材を見てしまい、なんだか不思議な事に抑えが効かなくなって、結果はこの通り。


 時々ちょろっと場所を借りて、昔を懐かしみながら手を動かしていたりする。


「水桶、俺とおまえでワンツーフィニッシュだ。いいな?」

「できるの? 三亜樹くん」

「当たり前だよ。五十メートル何秒だと思ってるんだ」

「いくつだったの?」

「七秒三。水桶はどうだったっけ」

「六秒七ぐらいだったかな。勉強ばっかりでちょっと落ちてるかも」

「見事な帰宅部詐欺だな。期待してる」


 なお、同順番の他文化系四人が泥のような視線を送っていたのは言うまでもない。


 たしかに身体能力が重視される百メートル走だが、それはそれとして競技内容はただ走るだけ。

 ちょっと全力で駆け抜ければ二十秒と待たずに終わるぐらいの短時間種目。


 それを狙って運動嫌いの彼らも参加したのだが、悲しいかな時にはこういうコトもある。

 神の名の下に人は皆平等なんて言うが、才能と素質は平等ではないのだ。


「それじゃあ次の組、並んでくださーい。手前から赤、赤、青、青、黄、黄でーす」


「水桶いちばん端いくか? ちょっと隣あけとくわ。抜くとき楽だろ」

「そこまでしなくても……余計プレッシャーになるよ、もう」

「どんと行け。はっはっは、こりゃ勝っちまった。勝っちまったわぁ」

「……ちょっと足かけるか? あいつだけ」

「やめときなよ……」


 言いながら、それぞれが所定の位置についていく。


 百メートル走のコースはスタートからゴールまでストレートだ。

 借り物や障害走と違いトラックではないため、シンプルに真っ直ぐ走ればいい。


 条件は誰もが同じ。


 ぐっと構えながら、歓声に混じった放送の声を聞く。


『位置について』


「…………、」

「しゃあ、キタぁ……っ」

「うわやべ、今更緊張してきた」

「あはは……いや僕めっちゃ場違い……」

「こけろー、まじこけろー」

「せめて三位……四位……五位……?」


 息を吐く、視線をあげる。


『ヨーイ……』


 ――わずか離れた場所で、ピストルの音が響いた。


『スタートしました先頭は……赤団紅鏡! 続いて同じく――』


「えっ、マジ? だれだれ!?」

「トップ水桶! 次に三亜樹! おぉー速え速え!」

「紅鏡ファイトー! フレーフレー!」

「おまえら集中しろ集中! 応援声出せー!」

「そこは元ネタ的に全集中じゃねーの?」

「残念ながら比良元くん鬼滅き○つ読んでないんだわ」


 無心で駆け抜ける。

 十メートル、二十メートルなんてあっという間。


 それぞれの団のテントを横切れば色々な音が耳に入った。


 一度身体が乗り始めると狭まった視界もにわかに広くなる。


 前方、隣に追いすがる気配はなし。


「よしよし行ったれ水桶! 帰宅部で鍛えた足が光ってんぞー!」

「それ鍛えてるって言わねえよ! いやぶっちぎりだけど!」

「肇くんいいよー!! 格好いいよー!! 最高だよー!! なんでパネル協力してくんなかったのー!?」

「あんたはいつまで引き摺ってんのよ!」


 ……まあ、そんな声も聞きつつ。


「おいおい三亜樹後ろォ! 他の奴来てる! もっと離せ離せ!」

吹部ウチのエースが必死で走ってんのウケるな。最後頑張れー」

「元部長ふぁいとぉー、応援してますよー」

「クソが女子割合多めの吹部だからってだけで後輩女子から応援されやがってあのボケぇ! 羨ましいぞー!」


 騒ぐ声を後方に置いて足を動かす。


 今日はなんとも良いもの。

 澄み渡る空模様も、頬を撫でる熱を帯びた空気も、あふれんばかりの声援も、すべていつかは手からこぼれ落ちた夢物語。


 それがいまは全力で味わえる。

 自分の手足で動いて走って、駆けて回って体感できる。


 たったそれだけ、ほんのそれだけ。


 けれどもそれだけで、生きている意味は十二分に満ち足りた。



(――――……ん?)



 ふと、半分以上を越えた頃。


 視界の隅にどこか気になる影を見た。


 生徒用のテントとは違う。

 保護者観覧者・外部からの見学者用のテント近く。


 そこに佇む、ひときわ目を引く少女の姿を視認する。


(…………、よぉっし――――)


 いま一度気合いを入れ直す。


 終着点はもう目前。


 銀糸の髪を揺らす誰かは彼方で見守るように。


 一段と速度を上げながら、肇は真っ先にゴールテープを切った。


『赤団一着! 一人目です! 続いて……僅差で青団二着! 赤団二人目は惜しくも三着! あっとここで黄団も届きました四着! さらに――』


「やったー! 水桶くん一着おめー!」

「きゃー! 肇くんこっち向いてー! パネル見てー!! 描きたくならない!?」

「笑えるぐらい断トツ。つか最後ちょっとブーストしなかったあいつ?」

「ははは、まっさかぁ」


「あぁあああ三亜樹てめぇ!?」

「なに抜かれてんねんぼけぇー! いてまうぞゴルァ!!」

「ナイスナイス! 流石だよー、吹部ウチ王子様エース素敵ー!」

「先輩ー、良かったですよー、めちゃ必死で。あと思いの外格好良くて。あははっ」


「お疲れお疲れ! はい二人とも頑張ったってことで! 次の組の応援行くよ!」


 ぽてぽてとゆっくり歩きながら肇は息を整える。


 久方ぶりの全力疾走は思ったよりも疲労が凄かった。

 勉強で体力が落ちた、というのはあながち冗談でもなかったよう。


 荒い呼吸をくり返しながら、ふぅ、と体操服を引っ張って汗を拭うよう顔にあてる。


(……ちょっとだけ、って言ってたのに……)


 くすくすと笑いながら遠く目立つ少女のほうへ視線を向ける。


 今はまだ午前の部、体育祭もはじまったばかりのところだ。

 先の彼女の言い方ならもう少し遅くにちらっと顔を出すだけかと思ったのに、意外にも朝からということだったらしい。


「…………ふふっ」


 人差し指と中指。

 手を二本指立ててあげながら、渚のほうへ向けて笑う。


「……えっ、なに、だれっ……わ、私……!? こ、こう……?」


 どこか慌てたような様子の美少女。

 遠すぎてなにを言っているかは聞こえないが、最終的には彼と同じように「ぴーす」と返ってきた。


 ちょっと控えめに手を上げながらというのがいじらしい。


 まあ、なにはともあれ伝わったようで。


「……あぁ? 水桶おまえ、なにしてんの……」

「いや、塾の知り合いが来てたから。挨拶」

「知り合いぃ……? ……もしかしてあれ、あそこのめっちゃ綺麗な子? テント横の」

「そうそう。銀髪の女の子」

「――良かったらちょっと紹介してくれ」

「いいけど、後でね」


 お互い雑に肩を組み合いながら団のテントに向かって歩いていく。

 なお、その後三亜樹某は同部活の後輩女子に囲まれて拘束されソレどころではなくなったのだが、結局渚と話してもなんらコトは起きないので何も問題はなかった。


 彼が解放されるのは十月の演奏会、そこで無事任期満了の退部なのだ。





 ◇◆◇





 ――第一印象は、日陰に揺れる草花みたいな落ち着きよう。


 視線の流れや、手足の動きひとつを取ってみても驚くほど緩やか。


 容姿はまあ、なにをどう判断するかはともかく普通っぽい感じ。

 ピアスもあけていなければアクセサリーもない、所謂自然体が一番似合う朴訥さ。


 雰囲気は穏やかで、一緒に居るとなんだか安心するような、懐かしさがある人。


 けれど少し接してみれば、そのどれも浅い表面のものだと気付けるだろう。


 渚は知っている。


 落ち着いているのは彼がぼんやりしているだけで、緩やかなのも生来の性格がどちらかというとマイペース気味だからだ。

 本当の彼はパッと明るく笑うし、他人を照らす元気の良さがあるし、はしゃぐときは子供みたいに顔をほころばせる。


 普段がこう、ぼんやりとしているだけに、その表情はひときわ眩しく思えるほど。


 ……普通っぽいだなんてとんでもない。


 彼女にとってアレは、なんていうか――――


(…………、)


 肇の出場した競技が終わって、渚はぼうっと空の日差しを眺める。


 予想とは反して、彼の走っている姿はなんとも似合っていた。

 らしくはない、ではなく、ああいうのも良いな、というのが感想。


 なにが良いのかは地雷っぽいのであえて深く考えない。


 けれど、不思議なぐらい胸に突き刺さったのは事実だ。


(……うん。だから、その。つまり……)


 顔は真剣そのものだったけれど、目はやっぱり輝いていた。


 それで独走するのだから見ていた彼女こっちだって気分が上がってしまう。

 そのあとのピースサインにしたってどうにもズルい。


 でも、たまにしか見られない固い表情で風を切っていた彼は、こう、上手くは言えないけれど、とても魅力的に思えてしまって。


 ……まあ、その、率直に言うと。


 今日の彼は――――




「優希之さんっ」

「ひゃわぁっ!?」


 急に名前を呼ばれて、びくんっと肩を跳ねさせながら反応する。


 なんか前もこういうコトがあったな、と想起しながら振り向けば予想通りの人物。

 そもそも、渚としては声を聞いた瞬間から分かっていた。


「……み、水桶くん……」

「おはよう。もう見に来たの?」

「え、あ、う、うん……その、ちょうど、暇だった……から……」

「そっか」


 くしゃりと笑う肇の顔にはポツポツと汗が浮かんでた。


 ほんの百メートルとはいえ全力で走った競技のあと。

 まだまだ落ち着くには至っていないのだろう。


 体調不良なんかに思えないのは偏に彼の気分を感じ取ってのコトだ。

 花火のときとはまた違う方向で、しっかりテンションは高めである。


「……タオル、貸そうか? その、汗、凄いけど……」

「いや、良いよ。テント戻れば自分のがあるし」

「そ、そう……だよね……」

「――で、どうだった、俺。ちゃんと格好良かった?」

「へ?」


 不意打ち気味な質問に間の抜けた声がこぼれる。


 彼としては冗談交じりの軽口として。

 彼女としては図星を突かれたような刺さりようで。


「ぁ、えと、それ、は……っ、た、たしかに速くて、凄かった、し……っ」

「うん、」

「い、一着、だったし」

「うん、うん」


 満足げにうなずく肇。

 きっと彼は渚の胸中に渦巻く混沌を一ミリも完治してはいない。


 それでもなんとか、彼女は絞り出すように吐き出した。


「――――か、格好良かった……です……」

「おー……優希之さんに言ってもらうと、なんかくすぐったいね。しかも敬語だし」

「な、なに……もう……っ」

「ううん。でも頑張った甲斐があった。よかったよ」


 からからと笑う少年は、渚の賞賛を額面通り真っ直ぐ受け取って喜んでいる。

 その裏に潜むものがあるというコトを見落として綺麗に失念している。


 然もありなん。


 同じ塾の生徒として親交を深め、仲良くなった肇はほぼ忘れているが、もともと渚は他人を寄せ付けないオーラを遺憾なく振りまく美少女だ。

 当然ながら対人関係における相手との距離も相応に遠い。


 そこにちょうど噛み合うというか、偶然入り込んだというか、わりと特別な形で突き刺さったのが彼である。


 その理由も中身を知ってしまえば当然と言えば当然なのだが――ともかく。


 通常は淀んだ泥みたいな瞳で冷め切った感情のまま人を捌く少女が、誰かさんにだけ偉く柔らかい反応をする特別性を――とうの本人はまったく気付かないワケだ。


 ……これで渚がその気なら怒っても良いだろうが、なんの因果か彼女も自身の気持ちに明確な答えを見つけられてないあたり似たもの同士というか、前世云々というか。



「――おやおや。これはどういう状況?」

「えっ……」



 と、そこで不意に第三者の介入があった。


 渚から見て肇の向こう側。

 彼の背中からにゅっと生えてきた人影に目が行く。


 さっぱりとした雰囲気の、見るからに妙齢の女性だった。


 太股あたりまで届くかという茶髪交じりの黒髪に、空よりも海に近い青の瞳。


 顔には赤縁の眼鏡をかけていて、けれど翳りは微塵も感じさせない。

 服装は至ってシンプル、無地のTシャツに動きやすそうなジーンズだ。


 その人がじっと、渚のほうを興味ありげに見詰めている。


「肇、あんたなにしたの。この子は?」

「別になにもしてない……っていうか、来てたの」

「そりゃあ来るわよ。当たり前でしょう? あんたの晴れ舞台なんだから」

「晴れ舞台って……それはたぶん言い過ぎ」

「なによ。まるで来てもらって嬉しくないって感じね」

「……嬉しいよ。ただちょっと恥ずかしいだけ」

「素直でなにより」


 うんうん、と頷きながら彼の頭をくしゃくしゃと撫で回す女性。


 当然ながら渚の頭は大混乱である。


 一体なにがどうして、どうなって、どういう状況で――


 ――つまりどんな関係? という最大の疑問が頭を占める。


 同時につきん、とどこか胸が痛む感触。


(っ――……って、あ、いや……待って。でも。もしかして……)


「――あの、水桶くんのお姉さん……ですか……?」


 一か八かで問いかける。

 なにがどうして一か八かなのかは置いておいて。


 その女性の髪色と瞳は、なんとなく彼のものと重なるように思えたからだ。


「……ね、聞いた肇。聞いた、いまの」

「うん、聞いたよ。そんなに肩揺らさなくても」

「お姉さんですって、お姉さん! いやー参っちゃうなーもう! まだまだ私も女捨てたもんじゃないわねー! ねぇ、肇!」

「俺に言わないで……というかいつものコトでしょ……」

「あら、何度言われたって嬉しいものよ? こういうのって」

「あっそう……」


(な、なんだろうこの反応……)


 正解なのか不正解なのか分からず首をかしげる渚。

 が、それに気付いたのか女性はふと彼女のほうを向いて。


「――どうも。肇の母親です。いつも息子がお世話になってる、でいいわよね?」

「…………えッ」


(待ってめっちゃ若――――!?)


 ばっと弾けるように彼へ視線を投げると、どことなく疲れた様子で頷かれる。


 お姉さんではなく、《s》お義母かあさん《/s》。

 違う、お母さん。

 いまの間違いにこれといった他意はない。


 ないったらない。


「……ちなみに母さんは今年で三十六だよ、優希之さん」

「ッ!?」

「ちょっと。女性の年齢をそう無闇矢鱈に言うもんじゃないわよ。デリカシーのない」

「……あっ、えと、その、ゆ、優希之渚……です。む、息子さんとは塾で、あの、勉強、教えてもらったりとか、してて……!」

「あぁ! ……コイツから聞いてるわ。この前一緒に花火見に行ったでしょ。いやぁどんなガリ勉ちゃんとぶらついてたのかと思ってたら、まさかこんな子とねぇ」

「えっ、あの、いや……?」


 このこの、なんて脇腹をどつかれる肇はすでに無抵抗だった。


 嫌がっているというよりは半分諦めの境地。

 もう母さんの好きにしてくれ、といった感じの態度である。


「あんたも隅に置けないじゃない。どこまで行ったの?」

「そういうのじゃないよ母さん……」

「――あらそう。なんだ、格好のゴシップかと思ったのに」

「もう……、というか父さんは? 一緒じゃないの?」

「そこでカメラ構えてるわよ」


 言うが早いか、パシャリと一枚切り取る家族専門の写真家。


 これまた渚視点ではどことなく彼と似通った、穏やかな雰囲気の男性だった。

 肇自身に覚える妙な安心感はないものの、見ていてトゲのない空気が如何にも優しげ。


 けれどスラッと伸びた手足だったり背筋だったりが違和感なく格好良い。


「父さん……」

「こういう時こそ一眼レフの使い所じゃないかな。だろう、母さん」

「どうかしらねー? ……まーた変にソレ気に入っちゃって……」

「……父の日に高いカメラ贈るからだよ、母さん」

「だってあの人が先に母の日で私が目ぇ付けてた真珠のネックレス渡してきたのよ。それもうんと高いの。仕返ししてあげるのは当然でしょうっ」


「――優希之さん。こういうのが犬も食わないって言うからね」

「あはは……その、良い夫婦なんじゃない……かな……?」


 ああだこうだと言い始めた両親を背に肇と渚が笑い合う。


 その場の空気は実に悪くない。

 家族同士仲が良いのは喜ぶべきことだ。


 父親と母親が揃っていて、兄弟姉妹がいるなら尚更。


(……そう、あんな風に――)


 自分が腹を痛めて産んだ息子を殴りつけて、片目の瞼やら耳やら左手の小指やらを駄目にしていたどこぞの駄目人間ははおやなぞ言語道断。


 その点に関しては、彼女も今世に感謝できる。

 渚だって家族仲はいちおう良好だった。


(……まあ、顔が良いからってだけで結婚して、詐欺師の男に唆されてお金パクって逃げようとしたヒトだし。父さんが家にいなかったら酷いものだったし。本当……偶然そのお腹にいただけで、なにも悪いコトなんてしてないのにな……)


 ――そこまで思い返して、これ以上はやめようと頭を振った。


 なんにせよ遠い昔に終わったコト。

 わざわざ古い記憶を掘り起こしてまで腹を立てる必要もない。


 結局はまともに育児もできないまま事故で死んで、最後までこちらに迷惑をかけただけのものだ。


 たったひとつ、あの世に最愛の彩斗おとうとを産んでくれたコトだけは一万歩譲って感謝してあげても良いが。




『――次の競技は借り物競走。借り物競走です。出場する選手は待機場所まで集合してください。繰り返します――』


 ふと、流れてきた放送に肇が反応した。

 どうにも騒いでいるうちに幾つかプログラムが進んでいたらしい。


「あ、もう行かなきゃ」

「……出るの? 借り物競走」

「うん。それじゃあまたね、優希之さん。父さんと母さんも」

「はいはい。しっかりやんなさいよー、肇ー」

「いっぱい撮るから頑張って活躍してくるんだよ」

「…………、」


 ひらひらと手を振って見送る。

 遠く去りゆく背中は何度か目に焼き付けたものだ。


 だというのにちょうど、感傷に浸るような真似をしていたからか。


 彼方にまで遡る、誰かの後ろ姿が不気味なぐらい重なって――


「……で、優希之ちゃんだっけ。うちの息子とはどうなの?」

「へぁっ!? あ、いえ! その、そんなっ、私なんか、ぜんぜん……っ」

「えー、どうなのよ。なんだかんだで気は利くでしょ、あいつ。昔からそうなの」

「そっ……それは、その……はい……」

「母さん、あんまり若い子をからかっちゃ駄目だよ。まあ僕も気になるけど」

「えぇ……っ」


 その後、次の競技が開始するまでの数分間、渚が質問攻めにされたのは言うまでもない。



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