14/何事も過ぎれば毒
それはまだ、気持ちも落ち着かない翌日のコト。
いつものように塾の自習室でふたり勉強していたところ、ふとお昼時になって肇が教材を鞄に仕舞いはじめた。
「――あれ、水桶くん、もう帰るの……?」
「うん。午後に妹と水族館に行く約束してて」
「へぇ……そう、なんだ……」
というか妹いたんだ、なんて知らなかった事実にうなずく渚。
なるほどそれならあれだけエスコートに慣れているのも納得がいく。
彼の兄妹ならおそらく同じように物静かで真面目な子に違いない。
……なんて想像をしたものの、そのすべてが外れているのを指摘する人間はいなかった。
前者でいえば原因は一緒に引っ付いて歩いていた前世の彼女自身だし。
後者にいたってはどんな妹かなんて言うまでもなく。
「本当は買い物でもしようと思ってたんだけどね。ねだられちゃって」
「……そのわりに、なんか嬉しそうだね」
「そうかな? ……そうかも」
「……そうだよ。花火のときと同じぐらい笑ってる」
「あはは……うん、でも兄妹からお願いされるのってやっぱり嬉しいよ、実際」
「…………そっか」
渚に兄弟はいないけれど、その気持ちは十分理解できた。
彼女だって遡ればひとりの弟をでろんでろんに甘やかした実績がある。
大人しくて元気とはほど遠い状態の男の子だったが、それでも最後にはと頼み事を受けたときの嬉しさは忘れもしない。
込み上げるものが沢山あって、できることはなんでもしてあげたいと思ったものだ。
調子に乗って父と一緒に勢いのまま
「隣町の女子校に通っててね。いつもは家にいないんだけど、夏休みで帰ってきてるんだよ。だから今のうちにって」
「――もしかして南女子? 凄いね、中高一貫でしょ。結構頭良くないと入れないのに」
「そう、凄いんだよ。うちの妹。合格したとき、思わず通知書握りしめてたけど」
「ふふっ……よっぽど嬉しかったんだろうね」
無論、実際のところ了華が「受かってしまったじゃないですか!」なんて絶望で合格通知書をぐしゃっとしたコトなど彼らは知る由もない。
正直駄目だったら仕方ないな、という甘い考えのあった彼女は、それでも受かったという事実を誠実に受け止めて寮生活へ踏み切ったのである。
かの邪知暴虐とはほど遠い超絶激甘溺愛型の兄によって齎された兄中毒を
結果はまあ、お察しの通り。
「だからまあ、今日はうんと甘やかしてくることにする」
「……そうだね。いっぱい言うコト聞いてあげると良いと思う」
「もちろん。じゃあ、そういうわけで」
「うん。またね、水桶くん」
急ぎ足で自習室を出て行く肇に、ひらひらと手を振って渚が別れを告げる。
走り去っていく背中はいつもよりどこか弾んでいた。
遠ざかる足音だってずいぶんと軽やかだ。
それだけで彼の妹に対する気持ちは手に取るように分かる。
かつて渚もそうだったように。
家族に向ける大きな感情は、本当、痛いほどに。
「…………、」
思えばそれは、もしかすると大きすぎたのかもしれない。
仕事をずっと頑張れていたのも。
辛い毎日を明るく笑って過ごせたのも。
しんどいコトだってさらっと乗り越えられたのも。
毎日を当たり前のように生きていたのも。
全部が全部、弟が居たからできていた。
(だから、私は――――)
あの子が居なくなってから、ボロボロに崩れていったのだ。
……いや、それはいまもまったく同じコト。
彼のお陰で少しは持ち直したものの、まだまだ過去は重く引き摺っている。
沈む心、泥に浸かっていく気分。
久々に毒を飲んだみたいな苦しさに顔を顰めた。
わずかに俯きながら、ぎゅっと胸元を握りしめる。
「――――――」
どこまでも暗い気持ち。
嫌なタイミングで、嫌なコトを思いだした。
病気の弟は手間こそ大きくかからなかったものの、色々と世話をする必要があった。
それによって削られた彼女の時間があるのも事実。
プライベートとか、仕事に関係するコトとか。
でも、そうだったとしても彼女は満足していたのに。
その分の時間がこれからどうとか。
弟の分まで幸せにとか、これから取り返していけば良いとか、知ったような口をきく名前もよく思い出せない人たちが――――
「はい、優希之さん」
「っ…………、え……?」
不意に、ぽんと目の前に飲み物が出てきた。
そこらの自販機で売っているペットボトルの紅茶だ。
基本的に彼女が愛飲している――最近は暑さでちょっとだけ選ばなくなっていた――種類のものである。
外で飲むのならともかく、空調の効いた室内で飲む分なら申し分ない。
「……水桶、くん……?」
「昨日の花火のお礼と、今日は先に帰っちゃうお詫び。だから元気出して」
「…………ぇ?」
「なんか、凄い暗い顔してたから。……今はこれぐらいしかできないけど、あと……相談があったら乗るからね、いつでも」
気軽に連絡して、なんて言いながら彼が笑う。
それだけで泥に沈んでいた気持ちが嘘みたいに浮かんできた。
じめじめとしたモノから一転、振り払ったあとの感触はなんだか熱っぽい。
苦しみではなく、暖かさを掴むように胸元を握り直す。
――本当に、彼には助けられてばかりだ。
「……ありがと。でも、大丈夫だよ」
「……そう? 無理しないでね」
「しないよ。……私は、良いから。はやく妹さんのところ、行ってあげて」
「……うん。それじゃあ、また明日ね」
「…………うん」
いま一度ひらひらと手を振って見送りながら、ひとつ小さな息をつく。
すぐそこの、塾の前にある自販機で買ってきたのだろう。
両手で掴んだペットボトルは冷たくて。
けれど、彼の気遣いがなんとなく暖かい。
ひとりになった自習室は静かだ。
今までの経験からすると彼と彼女以外、誰も来ることはない一室。
「…………、」
ふたりで居るといってもお互いに勉強で集中している。
賑やかさなんてない筈なのに、肇が居なくなっただけで妙に物足りないと感じた。
気分はどちらかというと下がっていく。
ほんのちょっと寂しいという感情。
でも、先ほどのモノに比べれば何倍もいい感触だった。
◇◆◇
「――お待たせしました、兄さん」
「ん、できた?」
「はい。ばっちりですよ」
ふふん、と鼻を鳴らしてその場でくるりと了華が回る。
さらりと舞う長い黒髪と、つられて広がる青のプリーツスカート。
上は白いブラウスを着ていて、全体的な雰囲気としては清楚系。
本日は女学校に通うその素性を裏切らないパーフェクトお嬢様スタイルだ。
「では行きましょうか兄さん。時間は有限ですよ」
「そうだね。楽しみにしてたもんね、了華」
「普通です、普通。そういえば塾の方は特に何事もなく?」
「? うん。……あ、優希之さんがちょっと元気なかったっけ」
「またッ!!」
がんっ! とまたもや靴箱に叩きこまれる拳。
ぷるぷると肩を震わせる彼女の力加減はちょっと予測できない。
やっぱり気持ち凹んでいる気はするが、誰も気にしていないので多分気のせいだろう。
「なんなんですかその方はっ。兄さんのことが好きなんですか!」
「うーん……普通に仲は良いと思うよ。一緒に勉強してるワケだし」
「それだけですかっ」
「? まあ、それだけだけど」
「……ならいいんです」
ふんすっ、と胸を張りながら了華が納得する。
絶賛兄離れ治療中の身ではあるが、それはそれとして大事な兄妹である肇に悪い虫がつかないかは心配だ。
家族として純粋に心配なのだ。
決して他意はない。
ましてや兄をどこかの雌猫に取られると思って焦っているワケでもない。
そのあたりの分別はしっかりしてる……と自分では思い込んでいる了華である。
そう、だから寮生活で兄断ち中の身であったとしても、夏休みにふたりで遊びに行くことぐらいは普通のこと。
例えるならダイエット中のチートデイみたいなものである。
「兄さん、ほら早く。出発しますよ」
「そんなに焦らなくても水族館は逃げないよ」
「兄さんは逃げるでしょう」
「俺も逃げないよ」
「じゃあ今日はずっと私と手を繋いでてください」
(――甘えたがりだなあ)
ほんわかした気持ちで了華の手を取りつつ、玄関から外へ出る。
身内の贔屓目にしても彼女は大変可愛らしい。
女子校に入っていなければ同年代の男子から引く手数多だったはずだ。
「…………♪」
(そして凄い楽しそうだ)
余程テンションが上がっているのか、了華の機嫌は鰻上りだった。
指を絡めて握ってきた手をぎゅっぎゅっとしたり。
暑い真夏日だというのにピタッと傍にくっついていたり。
なんなら小さく鼻唄なんて歌っていたり。
こういう姿を見ていると、時間を設けた甲斐があったな、なんて思ってくる。
(……姉さんも似たような気持ちだったのかな)
隙あらば甘やかしてきた姉のコトは今でも強く覚えている。
歩き方さえ見失っていた彼を引き摺り上げて、溢れんばかりの光で照らしてくれた人。
いつも前向きで、失敗してもへこたれなくて、怒られても折れなくて。
些細な悩みもなにも持ち前の明るさでぱっと吹き飛ばしていた強い女性。
自分が大変なコトになったときは迷惑をかけたけれど、それでも最後まで沢山の愛情を振りまいてくれた存在だった。
(――そういえば、なにしてるんだろうな。今まで考えたコトもなかったけど……)
……でも、きっと大丈夫だろうと彼は思った。
水桶肇はまったく知らないコト。
その前でさえ全然気付かなかったモノ。
悲しむことはあれど、あの
(……あの姉さんが沈んだままなんて、考えられないもんなあ)
彼は知らない。
その要素のすべてがたったひとりの誰かによって成り立っていたものだなんて知る由もない。
だからそれは勝手な憶測。
なんの勘違いでもない、当たり前に組み立てた――正しい彼の予想だった。
◇◆◇
すなわち水桶了華は、幼少期からこのような仕打ちを受けてきた。
例えばふたりで歩いているとき。
「ほら、はぐれると危ないからね」
「そうですね」
言わなかったとしても自然と手を引いてくれる。
「――だから珊瑚は歴とした生き物なんですよ」
「へぇ、そうだったの。お兄ちゃん全然知らなかった。……了華は賢いね」
ほんのわずかなコトでも頭を撫でながら褒めてくれる。
「ちょっ、おっき――!? 兄さん迫力! アレ、凄い迫力!」
「あはは。水槽だから大丈夫だよ。平気、平気」
怖い事があったらさっと背中に隠してくれる。
「――――……、」
「あっち行こうか。ペンギンだって、ペンギン。良いよね、可愛くて」
視線だけで色々気付いて、ああだこうだと気遣ってくれる。
「――そうですね、兄さん!」
惨い所業、最低の行為。
酷い仕打ちだ、ありえない。
こんなのではまるで成長できない。
私は兄の近くに居れば居るほどズブズブに溶けてなにもできなくなっていく――
と、本格的にヤバいと感じたのが小学校高学年だった。
……もはや何も言うまい。
「はいこれ、どうぞ」
「だっ、大丈夫です! ぬいぐるみなんて! 私そんなに子供じゃありませんし!」
「良いから良いから。今日の記念だと思って。ほら、ね?」
「……兄さんがそこまで言うならっ」
もしも近くにその関係性について「いや行き過ぎだろ」と言える誰かが居たなら変わっていたのだろう。
だが悲しいかな、偶然かどうか彼らにとってそんな相手はいなかった。
肇としては意図したコトなんてひとつもない。
彼は純粋に兄妹にはこう接するものだという知識が根付いている。
なんもかんもはしゃぎすぎてやり過ぎた姉が悪いのだ、たぶん。
「はい、了華。あーん」
「――――んっ」
「……どう、美味しい?」
「美味しいです! 兄さんも一口どうぞ!」
「じゃあお言葉に甘えて」
妹から差し出されたケーキを口に含みつつ肇が微笑む。
ふたりの間にはのほほんとした穏やかな空気が流れていた。
本人たちにとってはコレといっておかしくもない健全な兄妹で過ごす時間である。
が、それが傍から見ても同じかというと勿論そうではない。
「――み、水桶くんが女の子とデートしてるぅ!?」
「?」
ちょうど近場のカフェで休憩を取っていたところだった。
声をあげたほうを向けば、どこか見覚えのある女子が驚愕の表情で立っている。
私服で一瞬分からなかったがなんてことはない。
普段いつも顔を合わせているクラスメートのひとりだ。
「あれ、
「え、あ、うん! 久しぶり! 元気だった!?」
「うん、元気だけど。いま美術部は部活してなかったっけ?」
「お盆近いから休み――じゃなくて! そ、その女の子は一体!?」
「ああ、こっちは……」
と、肇が紹介するより速く了華が動いた。
そっと椅子の隣に立って、これまた見事なカーテシーを披露する。
独学なのか学校で習ったのかなんなのか、面白いぐらい完成度が高い。
「――はじめまして。肇さんの恋人の了華と申します」
「ッ!?」
「違うからね。了華もそこまでにしておいて。……ごめんね蒔群さん。彼女、うちの妹」
「…………!?」
「……どうも。水桶了華です。兄がいつもお世話になっております」
「……ぇ? あ、うん……そ、そうだったの……、……確かに似てる……」
どこかぶすっとした表情の了華と肇を見比べながら、ふんふんと頷く蒔群女史。
ちょうど偶々ふらっと立ち寄った彼女にとってはとんでもない爆弾だったが――まあそれは置いておくとして。
「仲良いんだねー……水桶くんところ。カップルみたいだったよ?」
「「いえいえそんなこと」」
(あ、これふたりして気付いてないヤツだ……)
なんだかんだとありつつ、賑やかながらも兄妹らしく。
妹とのお出かけは了華の好評を博して、無事終了まで迎えることができたのだった。
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