13/熱を引く余韻





 夜空はいつも通りの群青に戻った。

 ざわめきは蜘蛛の子を散らすように離れていく。


 四十分近く続いた花火の打ち上げは見事終了。


 あとは下るように熱も引いていって、やがて静かな夜になるだろう。


「凄かったねー……」

「……そうだね」


 その例に漏れず、肇と渚も帰り道を歩いていく。


 町の空気はすでに浮ついたものから切り替わっていた。

 残った熱が頬を撫でていくような感覚。

 微かに漂う余韻を味わうみたいに、明るい声があがっている。


 淋しさはない。

 終わりは忌避するものではなく、振り返って良かったと賞賛するものだ。


 そんな様子がどこか、肇の胸にじんと響いた。


「花火……花火かあ」

「……そんなに、気に入ったの……?」

「うん。いや、初めてじゃないんだけどね。なんでかな。こう……とにかく良くて」

「……うん」

「色と光だけじゃないんだよ。音も、形も、こう……上手く言えないけど。久しぶりに、なんか、結構キタっていうか……」

「……うん、うん」


 未だ忘れられないコトを思い返すように彼が空を見上げる。


 瞼の裏に残った閃光の軌跡。

 耳朶を震わせて身体中に響いた音。

 五感で味わう綺麗という感覚。


 まだまだ小さな、蝋燭の明かりにも満たない小さな種火だけど。

 燃えるものが確かにあったのだと、再確認できたのはどちらにせよ進歩だ。


「――あぁ、ごめん。なんか、すっごい変なこと言ってるね……俺……」

「ううん、いいよ。そのぐらい……私は、ぜんぜん……」

「……優希之さんはどう? 楽しめた?」

「……うん。そうだね、楽しめたよ。ちゃんと」

「ふふ、そっか」


 珍しく、分かりやすいぐらい機嫌がいい肇に渚もくすりと微笑む。

 色々と衝撃的なコトはあったけれど、悪かったワケじゃない。


 総評して言えば満足も満足。

 これ以上ないというぐらい充実した時間だった。


 それこそ、このまま別れてしまうのが名残惜しいほどに。


「いいね。やっぱりこういうの。勉強ばっかりじゃこうはならないし」

「……水桶くんは、もっと休んでも良いんじゃない。成績、順調に上がってるんだし」

「どうかな。今だって結構頑張ってやっとってところだけど……」

「…………数学はもっと力入れないといけないかもね」

「うっ、ごもっともです……」


 痛いところを突かれて一転、しゅんとする受験生。


 上位だった一学期の期末でも点数が最も低かったのが数学だった。

 たしかに自力でなんとかなるぐらいの実力はついているが、それはそれ。

 まだまだ苦手科目のレッテルを脱却するにはほど遠い。


 二次関数とか、三平方とか、解けなくはなくても頭はめいっぱい。


「この調子でいったら受からなくはないと思うけど」

「受かりたいよ。ここまでやったんだから。落ちたら色々と申しわけない」

「……受かるといいね」

「優希之さんもでしょ。……もしかして、安全圏だからってそんなコトを……?」

「そんなことないよ。私も精一杯。……まあ、意趣返しの意味は……あるかも」

「えっ」

「……半分冗談だから。気にしないで」

「ちょっと気にする……」


 なにかとてつもない粗相をしたのだろうか、とわなわな震える肇を尻目に彼女はちいさく息をつく。


 時間はかかったけれど、ようやくエンジンがかかってきたというか。

 むしろ心持ちはその逆というか。


 明確に終わったんだな、と実感しだしたあたりで感情は平静を取り戻していた。


 緊張が解けたのではなく、それを覆い隠すぐらいの気持ちに引っ張られて。


「――でも、良かったよ。また見に来られるといいな」

「……そうだね。また――」

「来年とかかな」

「…………来年、かもね。うん……」


 鬼がいたら笑いそうな話。

 まだどうなるかも分からない未来のコトだ。


 そこに思うところがあるのか、渚は静かに視線を逸らした。


 もともとどうして彼女が彼と同じ進学先を目指していたのか。

 最初の頃に伝えた通り、その考えはいまのところ変わっていない。


「…………、」


 しばらくふたりで進んでいると、待ち合わせ場所だったコンビニが見えてきた。

 いまのペースだと五分も経たずに着いてしまうだろう。


 そう反射的に考えたのがいけなかったのか。


 その気はないのに、渚は一瞬――歩く速度を緩めかけた。


(……いや、なにしてるの私……)


 はあ、と自分に呆れてため息なんか出てくる。


 そんなことをしても何の意味もない。

 みっともない、まったくもって情けない。


 弱すぎるにも程がある。


 ……今生の別れというワケでもないのだし。


 綺麗さっぱり花火の観覧は済んだのだから、気持ちよくシメて仕舞えばいいと。


「――み、水桶くん」

「ん、なに?」


 上から覗き込むように肇が顔を見てくる。

 うっ、とたじろいだのは最早彼女にとってそれが兵器じみたものだったからだ。


 ……前言撤回。


 落ち着いたと思ったけれど、視線ひとつで崩れるほど彼女の心はボロボロだったらしい。


「ぁ……そ、その。えっと……」

「……?」

「あの、だから、き、今日は……この辺で」

「え?」

「……え?」


 あれ、と見つめ合うふたり。

 どうにも認識に違いがあった模様。


 場所は前述したとおりコンビニの前である。

 当たり前のように渚はここが別れるところだと思っていた。


 なにせ待ち合わせに指定した地点だ。


 そこで離れずにどこで離れるのか、と。


「……あぁ、そっか、そういう……」

「……う、うん……」


「――どうせなら帰る方向も一緒だし、もう少しだけ歩かない?」


「…………ぇ?」


 予想外の答えに、今度は渚がぽかんと口を開ける。


「? ……あ、もしかして車とか? それなら全然――」

「ぁ、いや、そ、違っ、あ、ああ歩き、だけど……っ」

「……なら、せめて近くまで送るよ。いつものところまで」


 いつものところ、とは塾からの帰りにある分かれ道だろう。


 言うまでもなく彼の家とは別方向に行くことになる。

 そこからまた自分の家まで、となると……無理なほどじゃないが距離はそれなりだ。


「そ、それだと、そのっ、水桶くんだって時間、ないだろうに……っ」

「いやあ、そうなんだけど。……あはは、ごめん、なんか気分上がっちゃって……もうちょっとだけ話したいなって。……、ダメ?」

「――――――っ」


 実際、いつもよりテンションが高いのは渚も気付いていた。


 彼の言った理由は本音そのままで裏なんてひとつもないのだろう。

 そんなのは言うまでもなく分かっている。


 ――――けれど、ああ。


 その言い方は、とてもじゃないが反則だ。


 彼の問いかけに「ダメ」なんて言えるほどだったら、そもそもこんな風に一緒に花火を見ようと誘ってすらいない。


「……み、水桶くんが……そこまで、いうなら……」

「よし、やった」


 ふふっ、と微笑みながら肇が小さくガッツポーズなんてする。


 いつもの彼ならきっとそこまでやらない。

 気分が上がっている、というのは嘘でもなんでもない目に見える変化だ。


 あれだけ瞳を輝かせていたのだから理由だって察して余りある。


 それはきっと、滅多にないだろう彼の姿で。


「……そんなに、喜ぶところ……?」

「ごめん。浮かれてる。明日になったら落ち着くだろうから、安心してほしい」

「……ふふっ、なにそれ……」


 安心して、なんてとんでもない。

 むしろ不安なんて微塵もないぐらい。


 その様子を見られただけで、彼女は今日一番幸せだった。


 ……そう、当の本人だって思い返すまで自覚しなかったほど。





 ◇◆◇





 ぼうっと、ベッドに沈みながら天井を見詰める。


 渚が家の近くで彼と別れてはや三十分。


 一通りやる事を済ませた少女は、深刻な問題にぶち当たっていた。


「…………、」


 はあ、と知らず知らずのうちにため息がこぼれていく。


 楽しかったあとの夜。

 思い起こす映像はどれも色付いていて暖かい。


 それに溺れながら意識を手放しでもすれば最高だっただろうが、目下彼女の頭を悩ませるモノのせいでそんな夢も叶わない。


 理由は単純にして明白。


 別れ際、肇がなんでもないかのようにさらっと切り出したコトだった。


『……あ、そうだ。連絡先交換しておく? 今日みたいな待ち合わせとかだと、色々便利だろうし』

『へぅぇっ!?』


 あんまりにもあんまりな声をあげたのは正真正銘の不意打ちだったからだ。


 許して欲しい。

 というか彼には忘れて欲しい。


 渚自身も聞かれたくて出した声ではないのだ。


 その後、案の定ツボに入ったのかクスクスと笑われた記憶まで蘇ってくる。


(――って、それは、どうでもよくて……!)


 仰向けになったまま、手探りで掴んだ携帯の画面を眺める。


 らしいというかなんというか、登録名は本名そのまま。

 アイコンだってデフォルトのものから変えられていない。


 本気で連絡手段としてしか使っていないと分かるあたり、どうにも。


「…………ふふっ」


 思わず笑う。


 そして直後に盛大な自己嫌悪に陥った。


 ――なんだ、いまの、気持ち悪い含み笑いは――


(ああもうっ、なに、なんなの……! そこまで、荒れるようなこと……!?)


 今度は低く、細く、心を落ち着かせるように息を吐く。


 伊達に長いだけの人生経験があるワケではない。

 誰にも言うつもりはないが、彼女だって現役中学生としては二度目だ。

 こういうときには焦らず、ゆっくり、冷静に考えることができる。


 ……尤も。


(……まあ、思い返すと……)


 ずっと弟にべったりで、狂ったようにはしゃいで、こういった経験が皆無だったのは言うまでもない。

 昔を含めても、同年代の男子とここまで濃い時間を過ごしたのは彼が初めてだった。


「…………、」


 どうしてそんなコトになったのか。

 いま考えてみても不思議で、それこそ出会いだって在り来たりなものである。


 ただそのとき感じた安心感というか、変に穏やかな雰囲気がなんとなく良くて。

 ちょうど受験シーズンで塾に通い詰めていれば、顔を見ることも話すことも増えて。

 それでちょっとボロが出たところに、思いっきり大きな釘をドスンと打ち込まれたようなもの。


「…………っ」


 きっと彼はそんな奇跡に気付いてもいないのだろう。


 だってこんなのは勝手に彼女が刺されただけだ。

 もしも狙ってやっているとするのなら相当な策士である。


 ……まあ、そんなコトができる頭があれば彼はもっと違う方向べんきょうに使いそうだが。


(……そりゃ、分かんないよ。他人同然の男の子との、接し方なんて……)


 ぼんやりと液晶を見詰めながら、再三になる息を吐く。


 メッセージの欄に履歴はない。

 なにせついさっき連絡先として登録したばかり。

 試しになにか送る暇もなく、時間も時間だからと早々に彼と離れた。


 実際は、キャパオーバー気味になった渚が逃げ帰ったワケだけど、そこはいまどうでもいい。


 関係ない。

 一緒にお祭りに行って花火を見て楽しんで、連絡先を交換しただけで限界ってそれ女子中学生としてどうなのかと言われても知らない。


 精神年齢幾つであろうと、彼女は歴とした乙女である。


 たぶん。


(……水桶くん、もう家に着いたかな……)


 たしか以前に肇から聞いた話によると、歩いても二十分程度の距離だと言っていた。


 夜も遅い時間で変に真面目な彼が寄り道なんてするハズもなし。

 とくにこれといったコトもなければ既に帰宅している頃だ。


 なら今はお風呂か、部屋でゆっくりしているか、早めに寝ているか――


(――――……大丈夫、集中。ヘンな想像は、しなくていい……っ)


 赤くなっていく顔から熱を引かせるように深呼吸。

 閉じた瞼をそっと持ち上げて、真っ直ぐ画面を見る。


 眠れない悩みの種。

 折角交換した彼との連絡先。


 ――さて、となるとメッセージはなにを送るべきなのか。


 送るとしてどういう文面がいいのか。

 それともわざわざ送らないほうが良いのかどうか。


 ベッドの上で、少女は真剣に悩み続ける。



(はじめまして……じゃないし。お久しぶり……ってほど時間も開いてないし。やっほー……とか? いやそんな気軽な挨拶したコトないし、できないし……。どうも……ってそれだとちょっと愛想がなさすぎる……。私です……、だからなんなのって感じじゃん……)



 あーでもないこーでもないとウンウン唸る女子中学生。


 普段から物静かで大人びた娘を心配している渚の両親も、いまの彼女を見ればさぞ喜ぶことだろう。

 本人が気付けるワケもないが、その姿はどこからどう見ても年頃の恋する女の子である。


 知らないのは彼女と、その彼女から特別に見られているどこかの天然野郎ポンコツだけ。


「――――――きゃっ!?」


 ……と。


 一心に考え込んでいたところへ突然手元の携帯が震えた。


 離して落とさなかったのは不幸中の幸いである。

 顔か胸の上に飛来するスマホアタックを避ける技術は残念ながら人生二回目でも身に付けられていない。


(な、なに……?)


 恐る恐るといった風に見てみれば、ちょうどその彼からメッセージが飛んできたところだった。


「え?」


 ごしごしと目を擦って確認する。


 見間違いではない。

 幻覚でもない。

 ましてや変ないたずらでもなんでもない。


 本当に、ちょうど、タイミング良く。

 彼女が携帯を覗いていたときに、肇がメッセージを送ってきていた。


(ちょっ、嘘、待っ――いやいや落ち着け、私! 落ち着け、落ち着いて……冷静に……こういうときこそ、冷静に……っ)


 掛け布団を引っ掴んで蓑虫のようになりながら、そっと、そぉー……っと、怯える小動物みたいに内容を確認する。




『今日は誘ってくれてありがとう! 凄い楽しかったよ。浴衣も本当綺麗で似合ってた! それじゃあまた明日塾で。少し早いけどおやすみなさい』




 簡潔かつシンプルな文面は、それでもどこかテンションの高さが透けて見えた。

 だからなのか、自然と頭では彼の声で再生されていく。


 ……面と向かって言っていたならきっと満面の笑みだったろう。


 いつもの純度百パーセント天然モノのきらきらスマイルだ。


 そんなことを考えて、嬉しさと、気恥ずかしさと、あとなんか色々な感情がごちゃごちゃになって身体中を駆け巡っていく。


(――――やばい。なんか分かんないけど、やばい。……というか、返事、どうしよ……なんて返せばいいの、これぇ……)


 ぐるぐると布団に包まれながら渚が悶える。


 悩みの種は増えるばかり。


 結局彼女がメッセージの返信に成功したのはその一時間後。

 考えに考えた末に絞り出した、『こちらこそありがとう。水桶くんと一緒でよかったよ』という短い文章だった。


 なんだかんだで道のりは、やや遠い。





 ◇◆◇





 わずかに遅れて返された内容を見て、肇はくすりと微笑んだ。

 なんだか自分ばかりはしゃいでしまった気がするけれど、彼女も楽しめたならなによりだと。


「――兄さん? なにしてるんですか?」

「ん? なんでもないよ。ほら、塾の子にお礼してただけで」

「…………私を放っておいて勉強の合間に女の子とやり取りですか。ふーん、そうですか」

「だから言い方。ていうか……」


 と、彼は椅子をくるりと回して後ろを向きながら。


「俺のタオルケットでなにしてるの、了華」

「兄吸いです」

「あにす……? ……よく分からないけど、それ、匂わない……?」

「別に。というか兄妹でそこまで気にしませんよ、兄さん」

「あ、そう……」

(計画通り)


 すーはーっ、と深呼吸する妹をどこか不思議そうな目で見遣る肇。


 彼はわりと了華がダメなところまで堕ちているのに気付いていない。

 なんなら最愛の兄を言いくるめてほくそ笑む彼女にすら気付いていない。


(……あれかな。流行ってるのかなそういうの……? でもなあ……それとも了華がおかしい? ……いや、まさかね。お嬢様学校にまで行ったできる妹だし。きっとなんかあるんだろうな)


 うんうん、とひとりで納得しながら机に向かう。


 純粋な学力・知力でいえばおそらく妹のほうが上だし、流行り廃りに敏感なのも間違いなく彼女だ。

 色々と疎い彼には知り得ないコトがあるのだろう、なんて。


 ――まさかそれが姉直伝の溺愛モードによる弊害だということは、肇自身あとにも先にも気付くことがなかった。



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