6/それぞれの話





 湯船に浸かると、今までの疲れが一気に抜けていくようだった。


 彼の前で色々とぶちまけて、勝手に落ち込んで、泣き腫らした後のこと。


 控えめに「落ち着いた?」なんて聞いてきた彼に苦笑して。

 時間も不味いからと急いで帰った渚は、いつも通り食事を済ませてそのままお風呂へ。


 ようやくひと息つけたような気分になって、ほう、とちいさく息を吐く。


「…………、」


 ぼんやりと浴室の天井を眺める。


 頭の中で反芻するのは肇の言葉だ。

 脳を揺さぶるような一言だった。


 一度、また一度と繰り返すたびに胸がきゅっと締めつけられる感覚。


(……そう、だよね。どうでも良かったら……痛いとさえ、思わないんだ)


 くすりと微笑む。

 思わず頬が緩んでいく。


 はじめて胸の奥の感情を外に出した。

 はじめて心につっかえたモノを誰かに吐いた。


 たぶん、それ自体は誰でも良かったのかもしれないけれど。


 ――答えをくれたのは、誰でもない彼だった。


「……大事だから、痛い……」


 ぽちゃん、と水滴が落ちる。

 音も感触もたしかに拾って意識する。


 公園からの帰り道。

 思えば、雨の音を煩わしく思ったのはいつ以来だろう。

 住宅街の家から洩れる光や音はあんなに鮮明だったかどうか。


 今日の夕飯にしたってそうだ。

 はじめて心の底から美味しいと、そう思って口にした。


 ずっと同じものを食べてきたハズなのに。

 ずっと感じてきたものだろうに。


 はじめてちゃんとした、料理の味を感じた気がした。


「…………」


 正直、ありえないと思っていた。

 なにがどうあっても、に望むモノが来るとは思わなかった。


 出会いは特別でもなんでもない。

 相手は本来あるべき誰とも違う。

 筋書きにすら居るはずのない、ただの人。


 声をかけたのも、勉強を教えてみせたのも――なんてコトはないただの気まぐれ。

 将来やるべきであろうことに備えての予行演習じみた、打算に塗れた関係だった。


(……水桶、くん……か……)


 関係がないのは都合が良かった。

 どうなっても構わないのがちょうど良かった。


 けど――彼の言動、一挙手一投足、すべてが不思議とに刺さってしまった。


 遠く離れた彼方で在った、魂に根付いた古臭い記憶の欠片。

 そこに色濃く残る誰かと、彼の姿が妙に重なる。


 かわいらしく首をかしげる仕種も。

 傍に居ると余計感じる穏やかな雰囲気も。

 機嫌が悪くなると首の後ろを乱雑にかくクセも。


 胸の奥底に仕舞ったはずのものを刺激されてしまって、どうしようもなかった。


(偶々……なんだろうけど。でも、だからこそ……無視できなくて)


 忘れもしない姿を幻視する。


 わがままを滅多に言わない子だった。

 残されたわずかな時間ではじめて願い事を言ってくれた子だった。


 幼い頃から一緒に過ごしてきて、共に育った大切な存在だった。

 同胞だった。


(……でも……うん。……男の子の前で、泣いちゃうとか……)


 思い返して、恥ずかしさにほんのりと頬を染める。


 見て見ぬフリをしてくれたけれど、あんなのはちゃんと気付いてましたと言っているようなものだ。

 下手すぎる気遣いを笑ってしまったのがしょうがないだろう。


 ……そんな男の子に、心をかき乱された上、整理までしてもらった。


「あはは……」


 生まれる前からずっと心はボロボロだった。

 無くしてから先、あとはもう崩れるだけの時間が過ぎた。


 いま体験している奇跡じみたコトも。

 その立場を与えられたことの名誉も。


 全部が全部、どうでもいいことのようだった。

 糸の切れた凧みたいに、惰性で流され続けるだけのような人生。


 ――それが偶然、風に流れて一本の枝に引っ掛かってくれた。


「……あ、はは……っ」


 ずきん、と心臓に杭がうたれる錯覚。


 胸が痛い。

 呼吸が苦しい。

 頬を濡らしたのは湯船よりもずっと冷たい。


 大切なものを失った心は、生きていようと冷えて固まったままだった。


 ……でも、教えてくれたから。


 なんでもない彼が、関係のない彼が、主役でもない彼が。

 この痛みが大事なものなんだって、教えてくれたから。


 抱えた苦しみも辛さも――私が大切に思うが故の、私だけのモノ。

 私だけが感じることのできる、大切な痛みなんだと。


「――ぅ、あ、ははっ……あははっ……」


 馬鹿げた話だけれど。

 ありえない喩え話にすぎないけれど。


 あの瞬間、本当の意味で――彼女は再び心臓が動いた気がした。


 ここに生きていると、ようやく、その意味を実感した気がしたのだ。


「……、……水桶、くん」


 呟く声は静かに響く。

 落ちる水滴は波紋を広げる。


 音に色があるのなら、それはきっと鮮やかだったろう。

 それぐらいの気持ち良さと晴れやかさを持って、彼女は湯船から立ち上がった。



 ――ああ、比喩ではなく。


 まるで世界が、輝いて見える――






 ◇◆◇





 はあ、とひとつため息をつく。


 泣き止んだ渚と別れたあと。

 ちょっと遅くなりながらも帰宅した肇は、ご飯とお風呂を済ませて自室のベッドに寝転がった。

 どうにも落ち着かない原因は言うまでも無い。


(余計なコト……だったかな……)


 今更ながら、思い返してアレはどうなんだろうと首をかしげる。


 二十歳にもならずに死んでしまった彼に大人らしい対応などできない。

 繰り返すように、経験もなにも薄い肇になにが正解でなにが駄目かは分からない。


 知っているコトは狭く、できることも限られた前世だった。


 それでも自分なりに思うことを言った結果――盛大に泣かれたのである。


(……あれ。もしかして、まずい……?)


 さぁっと顔から血の気が引いていく。


 考え無しに心に浮かんだコトを述べたが、相手はあの優希之渚。

 乙女ゲームの主役を張る主人公ヒロインだ。


 今までは勉強だけの関係でとくに気にしてこなかったが、果たして先ほどの一件はどうなることかと。


(でも、流石にあの状態で放っておけってのも酷じゃないかな……)


 むぅ、と考えこむように唸るぽんこつ転生者。


 見過ごせなかったのは勉強だけとはいえ、少なからず関わりのある人物だったからだ。

 ゲームの主人公だからとか、外見が綺麗だからとかは関係ない。


 知り合いがあんなに酷い顔をしているのに、なにもしないでいるのは違うだろうと。


「……大丈夫かな、優希之さん……」


 別れるときはいつも通りの様子だったけれど、それだけに心配だ。


 ――肇としては自分のしたコトの自覚など一切ない。


 落ち込む彼女をちょっと静めたぐらいの感覚で、まさかそれがぶっささっているなどとは夢にも思っていない。

 あまつさえまだ心の問題は片付いていないのだから、これからは攻略対象ヒーローたちの役目なのかな、なんてぼんやり予想しているぐらいである。


 ……繰り返すが。


 水桶肇には、圧倒的に経験というものが足りていなかった。


(……明日、塾に何か……お菓子とか、持っていったほうが良いかな……)


 少年は天井を見詰めながらなんとはなしに考える。


 足りない部分は勉強以外にもたくさん。

 勉強にだってたくさん。


 病気で死んだ十九年というのは、思っていた以上にダメダメなものだったらしい。


「……ん?」


 と、そこで家の外から鳴る低い音を聞いた。


 ゴロゴロと腹の奥に響くような震動。

 雷によるものだ。


 天気はまだまだ下り坂のよう。


 よく耳を澄ませば、微かに降りしきる雨の音も聞こえてくる。


(雷……、)


 そういえば変な誤解もされたっけ、なんて薄く笑う。


 別に本当、雷が怖くておかしな反応をしたワケではない。

 前世でも今世でも、別に恐怖で震えるような原因ではなかった。


 引っ掛かったのは彼女――渚の反応だ。


 確かめるように何度か、パチパチと瞬きを繰り返す姿。

 そんな反応をいつだったか、彼はどこかで見た気がして――


「――あぁ、そっか……」


 不意に思い出した。

 探していた記憶を掘り当てて、思わず口元が緩む。


 なんてコトはない。


 たまたま重なっただけの、意味もない共通点だ。

 まったくもって性格から、何から何まで似ても似つかないけれど。




「姉さんが、そんな反応するんだったっけ」




 その答えにすっきりして、彼は満足しながら頷いた。



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