5/きっといつか





 自販機でそれぞれの飲み物を購入する。

 彼自身はココアを、彼女には聞いていたとおり紅茶を。


 ちょっと落ち着こう、という肇の申し出でふたりは近くの公園で休むコトにした。


 道すがらにある、遊具も少ない淋しげな庭園。

 その片隅に設けられた小さな休憩所は、屋根があるのも相まってちょうど良い場所だった。


「はい、どうぞ。これでよかった?」

「……うん、大丈夫……えっと、お金……」

「ううん、いいから。いつも教えてもらってるお礼と思って」

「それは……、……ごめん。ありがとう……」


 遠慮がちに受け取る渚に笑って返しながら、彼女の横に腰掛ける。


 雨はまだ止みそうにない。

 幸いなコトに傘もあるしまったく濡れてはいないが、じめじめした空気は馴染むように重苦しさを増していた。


 息が詰まるというよりは泥に嵌まっていく感じ。

 引っ張られて肇まで気分が落ちそうになる錯覚。


 他人である彼でさえそうなのだから、当人の心持ちなんて相当だろう。


 放っておくのは、下策に思えた。


「……、いただきます……」

「うん」


 かちっと蓋を回して、渚がペットボトルに口を付ける。

 こくこくと何度か喉を鳴らす音。

 それを見ながら彼も缶のつまみを起こして、ゆっくりと傾けた。


 いやな静けさに包まれた空間には飲み物の嚥下する音だけが響いていく。


(……ああ、そういえば……)


 ……ふと、思い起こしたのはなんでもないコト。


 前世むかしからずっと、珈琲よりココアのほうが好きだった。

 とくに姉が淹れてくれたココアは格別で、それを片手によく午後の時間を過ごした。


 まだ今に至る前の、遠い彼方で過ぎた充実していた日々の話である。

 そこに大きな未練とかはないけれど、一抹の寂しさは覚えて然るべきだ。


 軽いホームシックみたいなもの。

 離れた故郷を想う、おかしくもなんともない人の性。


「…………、」

「…………、」


 姉はとにかく明るい人だった。

 いつもニコニコ笑っていて、朗らかで、優しく賢い自慢の姉弟きょうだい

 幼い頃からたくさん暖かく接してもらって、病気になってからも支えてくれた。


 その気持ちに救われた事は少なくない。

 他人の温度が心に届くのは彼自身よく分かっている。


 彼がここまで世話を焼いたのはだからなのか、なんなのか。


 そこまで上手くやれる自信はないけれど、ちょっとでもそうなれたらと思った。


「……少しは楽になった?」

「…………うん、ごめん」

「そんな、謝らなくても。……大丈夫だから、気にしないで」

「…………、……ほんと、ごめん……」

「……優希之さん……」

「…………、」


 ざあざあと雨が降る。

 ふたりの間には再度沈黙が訪れる。


 塾の終わり。

 時間は遅い、夜は暗い。

 おまけに悪天候で視界が悪い、路面状況だって最悪だ。


 あまりここに居すぎてはいけないのはどちらも理解している。


 家族のことを思えば、学生である身を考えれば、安全のことを頭に入れるなら。

 こんな風に寄り道せず真っ直ぐ歩いて、大人しく家に帰るのが正しい。


 ……そんなことは、彼も彼女もちゃんと分かっていた。


「…………首」

「……くび?」


 口火を切ったのは意外にも渚だった。


 彼女は悲痛な面持ちのまま、わずかに顔を上げて自分のうなじをトントンと指で叩く。

 どこか力無く微笑みながら。


「あんまり掻いてると、よくないよ。……痕、つくから」

「……そんなことしてた?」

「してたよ、さっき。……無意識……なの?」

「……かもしれない。うん、全然気付かなかった」

「…………そっか」


 もう一度ペットボトルに口を付けて、こくこくと渚が喉を鳴らす。


 飲み物のおかげか座ってゆっくりしたせいか。

 顔色はさっきより格段によくなった。

 指先の震えも瞳孔の揺らぎもない。

 未だ纏い付く、えもいわれぬ雰囲気を除けばいつも通りの彼女に戻っている。


 それに少しだけ安心して、肇はほっと息を吐いた。


「…………昔さ、知り合いの……男の子が、似たようなクセ持ってて」

「うん」

「何度も掻いたんだろうね……その子の首、酷くてさ。もう、傷だらけで」

「そっか……じゃあ、俺も気をつけないとだ」

「そう、だね……ほんと、凄いから。やめたほうが、いいよ」


 そっと自分のうなじを撫でながら、肇はうんうんと頷いた。


 驚いた理由はその傷痕を思い出してのモノだろうか。

 だとすればどれほどの惨状だったのだろう。


 教えてもらったとは言え、まだ見ぬ未来に若干震える純朴少年である。

 そういえば前世でも時たま姉に「それはやめなー?」なんて注意されたような、されていなかったような。


「…………水桶くんは、さ」

「……うん」

「後悔してるコトって、ある?」

「……どうだろ。色々、人並みにはあると思うよ」


 パッと思いつくことはないけれど、前世を含めて探せば十分に出てくるだろう。


 例えばもっとちゃんと勉強していれば良かったとか。

 もっと長く生きていられたらなあとか、動ける内にできることもあったなとか。

 優しい姉を残して先に死んでしまったコトだとか。


「……そっか。私もまあ……それなりに、あって」

「…………、」

「……過去むかしのことを、ずっと引き摺ってて。上手く割り切れなくて……」

「……うん」

「それを、なんか。思い知らされちゃったって言うか……」


 いや、分かってたんだけどね、と弱々しい声で呟く渚。


 肇はあまり詳しくこの世界ゲームを覚えていない。

 せいぜいが主人公ヒロインは誰で、攻略対象者はどんな人物で、こういう話があったか無かったかといった程度だ。


 前世でプレイしたゲームの中のひとつである。

 知識も記憶も勉強と同じくアテになんてまったくならない。


 だから正直、彼女がここまで何かを抱えていたコトは純粋に驚いた。


 ……なんとなく、その立場にあるなら問題なんてないだろうと思っていた。


「どうしたら、良いんだろうね……切り替えるとか、時間が経てば解決するとか……そんなコトだったら、私、こんなになってないのに」

「………」

「自分でも、分かってるんだ。こんなんじゃいけないって。どうにかしなきゃって。……分かってるのにね。いつまで経っても、ずるずる引っ張って……みっともなくてさ……」

「…………、」

「要は、そんな私に気付いて、すごいショック受けただけ。……ほんと、それだけ」


 落ちていくような語尾と共に、渚は折れるよう俯いた。


 視線は休憩所備え付けのテーブルとベンチの間に固定されている。

 なにかを見ているわけではなく、なにかを想っているような瞳。


 肇はその姿をじっと見詰めている。


 隣から覗く彼女の横顔は髪に隠れて全貌が見えない。

 でも表情は手に取るように分かった。

 きっと彼でなくてもそれは同じ。


 それほどまでにいまの渚は、大きすぎる後悔の念に襲われている。


「……ごめんね、水桶くん……変な話……しちゃって。空気、悪くしちゃって」

「そんなこと……」

「いいよ。気、遣わなくても……私が、勝手に喋っただけ、だし」

「…………、」


 他人の事情に土足で踏み込むことはできない。

 知りもしないコトを誤魔化して喋ることなんてできない。


 かれには分からない。


 もちろん生きているうちに後悔はある。

 未練だって少ないながらも、一切無いなんてコトはなかった。

 それらに引っ張られる感覚は分からないでもない。


 けれど、そうやって思い悩む誰かにかける言葉が分からない。


 たかだか十九年、生まれ変わっても十五年。


 人を慰めた経験が、彼には少なすぎた。


「…………、」

「…………、」


 空気は重い。

 世界は沈んでいる。


 公園の街灯が雫を照らしながら淡く輝く。

 一片の光は闇を照らしても人の心までは照らせない。


 当然だ、物理的なモノと精神的なモノは違う。

 内と外、見えるものと見えないもの。

 その違いは正しく隔絶している。


(……もしもこれが、ゲームだったなら――)


 きっと適役が他にいる。

 救われる少女は正しい形で救われる。

 他所からやって来たなにも知らない人間がわざわざ首を突っ込むまでもない。


 は正真正銘ヒーローだ。

 苦痛に苛まれる彼女を助けられるだけの言葉を持っている。

 その言葉が浮かんでくるぐらい素敵な心を持っている。


 肇にそれはできない。


 キャラクターがどうとか、話の都合がとかそんな問題ではなく。

 単純に、そこまでの能力が人として備わっていない。


(――――、…………)


 しょうがない、仕方ないだろう。

 分からないのは当然で、足りないのも当たり前だ。


 彼にはろくな能力チカラがない。

 勉強もイマイチであれば前世の記憶で気の利いたコトなんかを言えるワケでもない。

 乙女ゲームの主人公ヒロインにとって彼は救い人たり得ない。


「……優希之さんは――」


 だからこそ。

 無理をするワケも、ここで彼が苦悩する必要もなかった。


 肇の心は話を聞く前からずっと変わらない。

 揺れる感情があったとしても、自分自身の何かが曲がるワケではないのだから。


「――それを、どうしたいの?」

「…………どう、って……」

「忘れたい? それとも、気にしたくない?」

「…………、」


 返事は無言だった。


 ぐっと噛み締められた口から言葉は出て来ない。

 沈黙は是、という状況がこれほど似合うときもないだろう。


 その回答は声に出さずとも伝わった。




「別に、良いんじゃないかな」




 少女の顔が持ち上がる。

 困惑と、驚きと、ひとつまみの恐怖が入り交じったような複雑な面立ち。


 恐る恐るといった様子の渚に、肇は真っ直ぐ視線を合わせた。


「人間なんだし、後悔するのは当たり前だし。心に残ってるなら、引き摺って当然だと思う」

「……でも、幾らなんでも……ずっと、なんだよ……?」

「うん。けど、焦らなくても良いんじゃない?」

「そんなの……」

「……上手く言えないけど。いつ後悔が消えるとか、割り切れるとか、分からないよそんなの。もしかしたら明日、ちょっとした切欠で軽くなるかもしれないし、もっとずっと先まで抱えていくのかもしれない」


 心の在処に正解はない。

 もとより後悔は先に立たないもの。

 過去に戻ってどうするコトもできない限り、完璧に解決するコトなんて早々できないだろう。


「ならそれまで抱えていて良いんじゃないかな。無理して切り替えなんかしなくても。いつかなくなるまで、思っていても良いと思う」


 少女が瞠目する。

 呆然と彼の方を見る。


 肇は少し照れくさそうに、微笑みながら口を開いた。


「だって、長く引き摺るのは大切な証だ。たぶんそれだけ大事ってことだ。簡単にどうにかできなくて当然だよ。だったら大切な分だけ、大事な分だけ抱えていても良いんじゃない」


「――――――」


 なにもかもが分からなかった。

 戻らない過去を振り返ってずっと嘆いている。


 理性はそれを間違いだと述べていて。

 本能はぐしゃぐしゃに潰れるぐらい痛かった。


 正しいコトが優しいとは限らない。


 立ち直らなくてはと何度も思った。

 このままじゃいられないと考えたのは彼女なりの胸に残った微かな強さだ。


「それでいつか――本当にいつか、どこかで、上手く折り合いをつける日が来たらそれで良いんだ。……ううん、来なくてもいい。だって、大切なものを抱えて生きたんだから。そこまでの毎日が駄目なワケでも、無駄になるハズもないんだから」


 ――本心は、ずっとずっと泣いていた。


 割り切れるワケがない、切り替えられるハズもない。

 忘れてしまえたならどれだけ楽だろう。

 でも、忘れるコトなんてできない、忘れたくなんてない。


 ……本当、その通り。


 思い悩んで、悔やんで、こんなになるまで抱え込んで。

 それだけ彼女にとって――――大切なコトだった。



「大事だから、痛いんだ」



 水桶肇は分からない。


 他人の痛みに寄り添った経験もない。

 誰かに本気の言葉を向けて、そこにある問題を解決できるほど上手くもない。


 彼が言ったのは無責任な先延ばしだ。

 いつか終わる日が来るのなら。

 いつか変わるときがくるのなら――そのときまでそのままでも良いと。


 あまりにも愚かしい、優しすぎる甘い言葉。


「――――――……、」


 でも、それはどこかの誰かに刺さってしまった。

 ちょうど目の前にいる、なんでもないひとりの少女に。


「……そっか……」


 雫は流れる。

 雨は降り続ける。


 今夜は止む気配が一切ない。


 ぽつぽつと肌を濡らした雫が、見える景色を濡らしていく。


「……大事だから……こんなに――痛いんだね……」

「…………うん」


 ――ほんと、気の利いたコトも言えない。


 おまけにぜんぜん優しくもない。


 小さく息を吐きながら、肇はぼうっと天井を見詰めた。


 暗い夜だけれど音は喧しい。

 パラパラと窓を叩く雨音、地面に跳ねる水音、ゴロゴロと唸る雷。


 そこに微かに混じる声は、聞こえていないことにした。


 必死で堪えて押し殺そうとする彼女の努力を、いまは自分なんかが邪魔したくなくて。



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