7/雨のち曇り のち――
例えばそれはどこかに埋めたタイムカプセルみたいに。
掘り起こしたモノに付いてきた土がパラパラと落ちていくみたいに。
懐かしい思い出が蘇る。
依然として雨音のうるさい夜のコト。
彼はまだ、深い眠りの中に居る――――
◇◆◇
彼に物心がついた頃、すでに父親はいなかった。
身近にいる頼れる大人は母親だけ。
たったふたりで生きていく毎日。
それが幼い彼にとって世界のすべてだった。
『……大人しくしてて』
母親は忙しい人だった。
昼間はずっと留守にしていて、帰ってくるのは決まって夜遅く。
食事は最低限用意してもらったものがある。
幸いなコトに空腹や栄養不足で困るコトはなかった。
普通の生活を続けられるほどに稼ぎはあったらしい。
長い間ひとりになるのはすこし寂しいけれど、彼にとってそれ自体は苦痛じゃなくて。
『――おまえさえいなければ』
困ったのは夜の間。
お酒を飲んだ母親は振り切れたように手が出た。
理由はなんとなく、子供の彼には分かりそうで分からないコト。
自分を捨てた父親に似ているから、と癇癪を起こしながら怒鳴っていたのを覚えている。
見えるところは傷だらけで、見ないところも痣だらけ。
それが六歳までの記憶。
当たり前の、なんでもない日々は呆気なく終わった。
いつも通りに朝から仕事へ向かった母親。
昼はひとりご飯を食べて、それからずっと大人しく待ち続けて。
でも、彼の母親は二度と戻って来なかった。
後から聞いたところによると、車に撥ねられて即死だったらしい。
『……今までなにもできなくてすまなかった』
次に出会ったのは真面目そうな雰囲気の、がっしりとした大人の男性だった。
特徴で言えば鏡で見た彼の髪の毛と瞳の色がまったく同じ。
初対面ながらどことなく不思議な感覚を覚える相手。
話を聞いていると、どうにもその大人は母親の言っていた
難しいコトはそのときよく分からなかったけれど、彼の出自は結構複雑な事情があったようで。
けれど怪我を見て顔をしかめながら、優しく抱き締めてくれたその人のコトはすぐに信頼できた。
『――君が
そして二人目の――人生において三人目の家族は、太陽みたいな人だった。
『良いんだよ、遠慮しなくて! もう家族なんだから!』
『彩斗! ご飯だよ! ふふっ、こう見えて私、もう料理できるからね!』
『大丈夫? 怪我、痛くない? ……放っておいちゃダメだよ!? もう!』
『困ったコトがあったらなんでもお姉ちゃんに言ってね。彩斗のためにできることならなんでもやっちゃうんだから!』
『えっ、これ彩斗が描いたの!? 凄い凄い! 上手だね! 将来は画家さんかなー!』
『はい、これ彩斗の分。ふたりで半分こしよ!』
『ゲームする? やってみる? いや殆ど私の趣味だけど! これとかね――』
人生に於いてターニングポイントがあるのなら、彼にとっては間違いなくそこだった。
教えてもらったコトは沢山ある。
例えば、誰かと一緒に過ごす時間の楽しさ。
殴られることのない夜の気楽さ。
他人に優しくされることの温かさ。
なにより――普通に立って生きるコトの幸せ。
それだけで、彼の生きていく時間は満ち足りていた。
『彩斗が元気なら私も良いの! いつか分かるよ、彩斗も!』
『本当、笑うようになったよね。はじめに
『彩斗ー、最近仕事がつらくてー! 聞いてー! 慰めてー!』
『かけがえのない家族なんだもん! ずっと一緒に居られたら最高でしょ!?』
姉と出会ってから心は晴れやかだった。
小学校はとくになんの問題も無く卒業して。
中学校は勉強に苦しみながらも推薦枠を取って無事進学。
いざ高校生活――というところで、身体に異変が生じたワケだ。
最初はただの体調不良から。
段々と学校へ行ける日が少なくなって、それでも週に何日かは登校して。
あまりにもおかしいと父親にも姉にも心配されて、一度大きな病院で結構な検査を受けてみれば――――まあ、見事に健康とはいえない状態になっていた。
『大丈夫だよ、彩斗! お医者さんが治療してくれるって! すぐ良くなるからね!』
『お見舞い持って来たんだ! りんご、食べられる? 待ってて、いま切って上げるからね!』
『彩斗ー、痛いときは我慢しなくていいんだよー。そういう顔ぜんぜんしないから分かんないけど、本当に大丈夫? なにかあったらすぐお医者さん呼ぶんだよ?』
『……もうちょっとしたら良くなるよ、きっと。うん、大丈夫』
『彩斗、起きてる? あ、無理しなくていいからね! うん、横になってて』
『…………大丈夫だよ。彩斗はきっと、きっと――――』
病状がどうだったとか。
治療の具合がどうだったとか。
入院生活でどんなに苦労したかとか。
そのあたりは彼の記憶の中で新しくも薄い。
酷さでいえば母親と過ごしていたときのほうが鮮明だし。
印象でいえば姉がちょこっとだけ元気をなくしていた姿の方がインパクトがあった。
ひとつ言える事があるとすれば。
昔のキズが駄目だったのか、もともと身体が弱かったのか。
よくなるコトは、一向になかったという事実だけ。
『……あのね、彩斗。落ち着いて、よく、聞いて欲しい――――……』
あと一年も生きられないかもしれない、と言われたのは十七歳のときだった。
治療は続いているものの進展は見られない。
体力も落ちる一方で、身体的にもう限界が来ている。
長くはないと言われたとき、不思議と彼はそれに納得した。
心のどこかで「やっぱりそうなのか」なんて。
『――ごめん。ごめんね、彩斗。ごめん――』
あれは一体なにに謝っていたのだろう。
なにも悪くないのに、ずっと『ごめんね』なんて呟く姉。
それが見ていられなくて、どうしようもなくて。
でも、それだけ想ってもらえているコトは分かったから。
最後ぐらい、ちょっと欲張りたい気持ちが顔を出した。
『父さんと姉さんと過ごした家で、ずっと絵を描いていたい』
ちょっとした我儘だ。
彼自身、それが通るとは微塵も思っていなかったけれど。
結局、色々な条件が付け加えられて願いは叶った。
そこから先はなんてことない。
病院から家に戻って、父と姉が勢いで通して作った家の
不思議なコトといえば絵を描き始めた瞬間、体調が格段に良くなったことぐらいだろう。
定期的に家に訪れてくれた医者が信じられないといった様子で話していたのを思い出す。
きっとあの瞬間、彼の蝋燭は激しく燃えていたに違いない。
だからずっとずっと描き続けて。
なにかに取り憑かれたように筆を握り続けて。
たまにスランプに陥って姉と一緒にゲームしたりなんかして。
なにもかもを忘れて思うがままに内側にあるイメージを吐ききって。
これ以上はない幸せな生活を送った二年後。
医者の宣告より一年も長く生きて、少年は静かな眠りについた。
たった十九年の、満ち足りた短い生涯だった。
◇◆◇
どうにも今日はお天道様の機嫌が良いらしい。
翌日になると雨はパッタリ止んでいた。
いまだ鼠色の雲は空を覆っているが、朝から一度も降り出してはいない。
念のため傘を持って来ている肇だが、いまのところ使わなくても済んでいる。
「…………、」
いつも通りの塾がはじまる前の時間。
到着した自習室にまだ彼女の姿はなかった。
肇の方が早く来たのは今回が初めてでもない。
今までも何度かあったコトだ。
本来なら気にするほどでもないのに、どうしても不安になるのは昨日の件が尾を引いているせいだろう。
(……いや、落ち着こう。まだ大丈夫。まだ早い。大丈夫、大丈夫……だよな……?)
ざわつく心を落ち着かせながら席につく。
別に本編と一切関係のない彼が渚に避けられたところで問題はないのだが――それはそれ、これはこれ。
ゲーム本編はゲーム本編、現実は現実だ。
一緒の塾で勉強しているだけとはいえ、関わりがある以上無視はできない。
なんだかんだで人間関係は重要である。
「…………、」
教材を開いてペンを持って、手の中でくるくると回す。
いつもなら直ぐさまノートに向かうペン先は今日に限って迷子だ。
やはりというかなんというか、まったくどうして落ち着かない。
このまま自習室に来なくなったとすれば、今後どんな顔で彼女と一緒の授業を受けていくのかと――
「…………あ」
からり、と控えめにドアが開かれる。
咄嗟に目を向ければ自然と肩の力が抜けていった。
待ち人は図らずもこちらを見て、ちいさくペコリと頭を下げつつ。
「――どう、も」
「……うん」
「…………、」
「…………、」
微妙な空気。
固まったような沈黙。
別れる前と違ってまったく言葉が出て来ない。
会話が続かない。
じっと、お互いに遠慮がちな視線をぶつけ合う。
……口を開いたのは、昨夜同様渚のほう。
「あのっ……えっと……、……昨日は、ごめん」
「え、いや……こっちこそ、余計なコト言っちゃって」
「う、ううん! 全然、余計じゃない。うん……凄い、その……助かったって、いうか」
「そ、そう……かな……?」
「うん……だから……えと、そのっ……あ、ありがとう……ね。水桶、くん」
「……それなら、よかったんだけど」
軽く息を吐きながら、内心で胸をなで下ろす。
距離感は曖昧なところだけど、少なくとも評価を下げるほどではなかったらしい。
ここまで教えて教えられての関係を続けておいて嫌われたとなると肇だって傷付く。
その心配がなくなったことに安堵するのはまあ、自然な反応と言えた。
「……考え無しで言っちゃったから、嫌われたんじゃないかって――」
「そ、そんなことないから! 嫌いとかじゃ、ない! ……うん、違う……」
「本当に?」
「ほ、本当! む、むしろ結構、その、感謝してるって、いうか……」
きゅっと、学生鞄の持ち手を強く握りながら渚がこぼす。
「だから、大丈……夫……です……」
「……どうしていきなり敬語?」
「え、あ……その……えっ、と……?」
「――あははっ」
「!? な、なんで笑うの……?」
「うん、いや……」
なんだかこのやり取りは覚えがあるなあ、なんて。
くすくすと笑いながら肇が渚のほうを見る。
ひとりでうだうだ考え込んでいてもいけない。
彼女も同じだ。
彼も彼で掴めなかったように、向こうだって測りかねている。
「チョコ持って来たんだけど、食べる?」
「ち、チョコ? なん……急に、どしたの……?」
「……甘いもの食べたら元気でるかな……って」
「わ、私そこまで子供じゃないけど」
「じゃあ、要らない?」
「…………もらう」
おずおずと隣まで来た彼女に包装を開けて「はい」と差し出す。
きちんと返事をしてくれたあたり、甘いもの自体は嫌いじゃなかった様子。
渚がひとつ摘まんだのを確認して、肇もひょいっと口に放りこんだ。
そこまで高くも貴重でもない市販のチョコレート。
味はほんのり苦くて、けれどもそれ以上に甘かった。
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