16 渡る舟

 幽体での探索は、慣れてみれば案外快適だ。


 実体と同じ感覚で動けるのに、排泄や口渇などの生理現象が起きない。寒くも暑くもない。身軽に動けるのが最大の利点かな。


 この階層はとても静かで、待宵のような獣型の住人を、たまに見かけることがあるくらい。


  黄昏時には、ときに冥界の住人とすれ違うが、彼らにはそれぞれ目的があるようで、ニアミスしてもすぐに立ち去ってしまう。


 嚮導神の加護【幽遊】。幽明境界内のフリー通行許可証。おそらくこれが、安全の担保になっている。


 それでも最初の頃は警戒しながら動いていたけど、一度も危険な目に遭うことはなく、今は少しばかり肩の力を抜いて散策するようになった。


 この花畑は通路であり、庭であると同時に、情念の昇華という一種の浄化槽的な役割を果たしている。


 死者の魂が、死の間際まで抱えていた負の情念。その重たく暗い感情が、美しい花に生まれ変わって昇華される。魂の再生に相応しい、粋なはからいだと思った。


 さて。


 待宵いわく、ここは走るのに最適な場所なのだとか。散歩に出かけると言って前方に走り出した待宵が、かなり時間が経ってから逆方向の後方から戻ってきた。


 ここって平面? それとも球状?


 そこがはっきりしない。待宵に聞いても、階層の中心部以外は全て繋がった庭だという返事だった。


 試しに待宵のお散歩コースとは垂直方向、かつ中心部から遠ざかるという方に向かって歩き続けたら、ある場所から先に進めなくなった。脚を動かしても、ルームランナーに乗っているみたいに、景色が全く変わらない。


「これってどういうこと?」

 

《空間が閉じているときに生じる現象です。つまり、ここが階層の外縁です》


 なるほど。答えが出た。花畑は円盤状に広がっている。それもバカでかいスケールで。


 その一方で、待宵が言う中心部には「残響冥路」と呼ばれるものがあるらしい。


 「残響冥路」は顕界と冥界を繋ぐ直通路であり、死せる魂の通り道でもある。層状に重なっている幽明境界の各層を貫通していて、この通路を通る間に死者の魂は穢れを落とし、生前の記憶を失って、魂の再生への前準備を済ませるという。


 そう聞いたら近寄り難く感じて、中心部へ行くのは避けていた。でもどうやら「残響冥路」の近くに、他の階層へ移動するための乗り物があるらしいんだよね。


 花畑にも飽きてきたし、広大な花畑の全てを見て回るつもりもない。やろうと思ったら、相当な時間の浪費になるだろうから。


 それに、すぐ下の階層に門が集まっている場所があると待宵が言うから、そこに行ってみたくなった。


「待宵、階層の中心部に案内して」


 門を背にして花畑を突っ切りながら、ひたすら真っ直ぐ進む。時間を惜しんで少し急ぎ足で。


 そうやって、随分と歩き続けたように思う。延々と続くように思われた景色に、ようやく変化が現れた。


「滝みたいなのがある。あそこが中心部?」


 緩い下り坂が続くその先に、左右視界いっぱいを塞ぐような、滝のようなものが見えている。緩やかな流れがある何かが、厚みがある壁として聳えているのだ。同時に、ボーっという低く唸るような音も聴こえてきた。


 この重低音って何?


 死者の雄叫び、断末魔の声なんてフレーズが浮かんだが、耳を澄ませて聞くと、港に停泊する船が一斉に汽笛を鳴らす「除夜の汽笛」に似ている気がした。


 先導するように歩いていた待宵が、滝に向かって勢いよく駆け出した。花が散ってネガティブシャワーが巻き起こる中、俺も少し足を速めた。


「待宵、お待たせ!」


 滝の少し手前で、お座りして待つ待宵と合流した。ここまで近づけば、さすがに分かる。目の前の滝が何からできているのかが。


「これ全部、泡だ。泡の滝? 下から上に、凄い数が流れている。いったいなんだろう?」


 泡の大きさはバラバラで統一感はない。ピンポン玉サイズもあれば、バランスボール大の巨大なものまである。共通しているのは、その形が真ん丸なのと同じ方向に流れていることくらいだ。


 そして、泡の表面には、とりとめもない映像が映し出されていた。


 どこかの風景や見知らぬ男女、子供や老人、動物や食べ物まで。ひとつひとつ、どれも違っていて同じものはないように見える。


 地面から湧き出て、上空に昇っていくのは花と同じ。だけど、その先が見えない。


「ダメだ。どこに消えているかは、霞んでいて見えないや」


 途中で弾けてしまう泡もあったが、残った泡は上空に広がる霞の中にグングン吸い込まれていく。


 視線を泡の滝に戻した。この奥に「残響冥路」が通っているのか。


 目を凝らしてみても、滝の向こう側は見通せない。無数の泡が分厚い壁のようになっていて、視界を大いに妨げている。


 こんなのが立ち塞がっていたら、これ以上自力では先に進めない。階層を移動する乗り物って、どこにあるんだろう?


「待宵。乗り物のある場所って分かる?」


『ワウゥ!(待て)』


「ここで待っていればいいの?」


 ここ最近、アイの通訳なしでも待宵と念話が通じるときがある。まだ片言で語彙が足りないが、明らかな進歩だ。


『バウゥゥバウバウ!』


《渡し舟が来るそうです》


「渡し舟? そんなのがあるんだ!? それを利用すれば安全に移動できるってこと?」


『バウッ(そうだ)!』


「そういえば、この泡の正体って何か知ってる?」


『バウバウゥゥバウゥ(流れ……死……)! バウバウバウ(……喰う)!』


《泡の奔流は、死者の魂に宿る記憶が剥がれたもので「空獏の饗膳」と呼ばれているそうです》


 なにそれ。怪しいを通り越して怖いよ。あの大量の泡を、衰え知らずの吸引力で喰らうなにか。泡が消えていく霞の中に、とんでもないものが隠れていそうだ。


 それほど待つこともなく、足元から微細な振動が伝わってきた。


「地震?」


 振動は徐々に強くなり、唐突にゴンドラのような舟が壁を割って現れた。


 舳先へさきに、柄の長いオールを手にした猫耳の小柄な生き物が立っている。


 あれが渡し守り?


『バウバウッ(夢……)!』


憧夢どうむと呼ばれる、船頭を生業にしている種族だそうです》


 舟全体が姿を現したら、地面の揺れが収まった。泡の壁から抜け出た直後は宙に浮いていた舟が、高度を下げて地面にめり込むようにして停止する。


 夢魔の視線が、すぐに俺にロックオンされた。


 ――五キル鮟?イィ 荵励k縺ョ? 


《料金は5キル黄貨。舟に乗るかと尋ねています》


 なるほど、こういうのにキル貨を使うのか。


「行ってみたいけど、ちゃんと戻ってこれる?」


『バウバウウ! バゥゥバウ(……来る……)!』


《客を察知すれば、すぐに舟はくるので便利で楽だそうです》


 配車サービス付きの無線タクシーみたいなものなのかな? 往復のキル貨が用意できれば、この舟に乗ってもよさそうだ。


 あれ以来チェックしてなかったけど、【管理台帳】を見てみよう。


 職業:【門番ゲートキーパー@】

 固有能力:【施錠】【開錠】【哨戒】【誰何】

 派生能力:【管理台帳】


【管理台帳】

  ◆出入管理 利用者数

  [朔月門]☆: 14,142 人

  ◆通行料金 

  [朔月門]1往復:1キル黄貨 徴収総額:14,142(1,414,200 クルス)

  ◆資金 1,414,200 クルス


「えっ!? 何この人数」


 予想以上にお金が貯まっていた。それは嬉しいけど、延べ人数にしても利用者数が多過ぎる。でも考察は後だ。とりあえずここは。


「乗ります!」



 舟の周囲を、ブクブクと泡が昇っていく。

 子供の頃に飼っていた金魚は、毎日こんな景色を見てたのかな?


 最初は泡に映る情景を眺めていた。でも、あっという間に通り過ぎちゃうんだよね。だから、巧みに櫂を操る船頭さんを、つい目で追ってしまった。


 憧夢は猫耳だけど、いわゆる獣人とは違う容姿をしている。背は低くて、俺よりも小さい。肌は緑がかった灰色で、顔が結構怖くて目がギョロっとしている。猫耳がなければ小鬼みたいだ。よく見れば、猫耳の間に二本の小さな角があるから、余計にそう思える。


 でも、船頭としての腕は確かのようで、舟は泡の流れに逆らって、滑るように下降していった。舟型のエレベーターって感じ。乗っていたのは、それほど長い時間ではない。


 不意に泡の壁が大きく割れて外に出た。視界は明るく、目の前に広がるのは風光明媚な緑あふれる景色だった。


「乗せてくれてありがとう!」


 降りるときに声をかけたら、憧夢の口が大きく裂けて、下顎に生えた牙がむき出しになって、より怖い顔に見えた。

 ちょっとビクッとしてしまったけど、若干目を細めて眉尻が下がっていたから、たぶん笑ってくれたのだと思う。


 俺も笑い返して、泡の中に戻って行く舟に手を振って見送った。船頭は何人もいるそうで、帰りも同じ人になるかどうかは分からない。また逢えたらいいな。


 さてさて。


 身体の向きを変えて泡の壁を背にして立つ。そして、「彼ら」と視線を合わせた。幽明境界に知り合いなんていない。当然、初対面の相手だ。


 人数は二人。確かな足取りで、こちらに近づいてくる。いったい何者だ?


 ……デカい。


 二人のうち一人は、まだ少年と言っていい容姿をしていたが、もう一人の背がとても高かった。おそらく身の丈は二メートル越えで、俺の倍ほどにある。


 さきほど別れた憧夢が小鬼だとしたら、大鬼というのが相応しい。筋肉質で絞られた身体は、いかにも身体能力が高そうに見える。


 警戒しているのが分かったのか、彼らは俺の二メートルくらい手前でピタリと足を止め、一人が口を開いた。


 ――ヨクキタ チイサキ ヒトノコヨ

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