第19話 アルプスの山々からの幻聴
健康回復に励みつつ、慣らし運転的な魔力操作を重ねて、だいぶいい感じになってきた。
全身に網の目のように張り巡らされた魔導軌道。
その中で、澱みなく自在に魔力を循環させる。流す魔力に緩急や変化をつけて、加速したり減速したり、太くしたり細くしたり。力加減は魔力操作の基本だから、いろんなやり方を試している。
こういった操作を、息を吐くようにできるようになったら、魔術の行使が少なからず楽になるはず。
でもその前に、待望の床上げデスヨ。ベッドの住人にはオサラバさ。
ほぼ寝たきりで、食べては吐いていた。発育状態は最低で、年齢相応には育っていない。以前よりマシになったとはいえ、依然、手足も体幹も細く血色も悪い。
実は、まだ鏡を見たことがない。だって怖いから。
今の俺って、たぶんムンクの『叫び』に近い気がする。酷く不安を想起させるあの絵画は、ミイラがモデルじゃないかと言われていた。
ただでさえ不気味な魔眼で見て、もしあれにそっくりだったら、トラウマもののダメージが入りそう。
それでも食事量は順調に増えてるし、キングサイズの天蓋ベッドで、軽いストレッチや腹筋スクワットも始めている。
でも、その程度の運動じゃあ、まだまだ重力には逆らえない。立てるかな? それすら微妙。でも、まずはやってみないと。失敗してもいい。
「誰も手を出さないでね」
心配気に見守る人たちへの牽制。予め言っておかないと、すぐに手助けしてくれちゃうから。
まずはベッドの縁に腰掛けて、子供の手には太く感じる、水晶に似た支柱に両手で掴まった。すべすべしているから、抱きつくような感じで。
尻がずり落ちないように気をつけて、両足を下に伸ばし、柔らかい毛織物が敷かれた床に足裏をつけた。
角質化とはいまだ無縁の小さな足で、床の感触を確認する。これなら、もし転んでも痛くないかも。
「よいしょっ!」
立ちあがるために、気を吐いて下肢に力を入れた。今までろくに使っていなかった筋肉や関節に、垂直方向の負荷が一気にかかる。
ぷるぷるぷるぷる。
そんな音が聞こえそうなほど、下肢が激しく震えている。絶賛、生まれたての子鹿ちゃん。くっ、この足がもっと強ければ。
『なによ、意気地なし! 一人で立てないのを足のせいにして!』
へっぴり腰での掴まり立ちに、遠いアルプスの山々から叱咤激励が届いた。
ええい、ままよ。支柱から手を放して、そこから一歩、二歩踏み出す。
『た、立った! ……リオンが立った!』
『それ、全然面白くないから』
更なる幻聴に加えて、記憶の底から、前世の姉の容赦ないディスり声が、追い討ちのように甦る。いろんな意味でかなりキツい。
脚がガクガクして、今にも膝がカクンと折れそうだ。分かっていたけど、これは酷い。明らかに要リハビリですネ。
「おおっ! リオン様が、ご自分の足で歩かれている!」
「ええ、ええ。私はこの日が来ることを堅く信じていました!」
「あのお小さかったリオン様が! これほど立派になられて」
周りは本人以上に大騒ぎで、飛翔する感嘆符が目に見えるよう。それに、まだまだ小さいからね。
「リオン様、誠におめでとうございます!」
たったこれっぽっちの事で、みんなが拍手してくれて、こみ上げる情動に身を震わせ、涙をこぼす人までいた。
いや、なんか。なんて言ったらいいのか。うん。みんな、本当にありがとう。
苦労したよね。仕事とはいえ、すぐに死んでしまいそうな子供の世話を、諦めず、根気よく、熱意を持って続けてくれた。
もう、感謝しかないです。
自分の足で立ち上がったこの日に、日本人だった
なんてね。とうに吹っ切ってますって。
俺が倒れるのではないかと、乳母たちがハラハラしてる。早くも身構えてタックルしかねない体勢だ。三交代制のはずなのに、なぜか全員揃ってるんだよね。
えっ? 心配し過ぎて休めない上に、貴重な瞬間を見逃したくなかった? それは申し訳ないというか、なんか照れ臭いデス。
余計な心配をかけるは嫌なので、すぐにベッドに戻り、焼き芋コロコロ体操をしながら、今後の行動指針について考えることにした。
毎日欠かさずやるもの
・魔術の鍛錬
・身体の健やかな育成(規則的な生活・栄養摂取・軽めの運動負荷)
座学と実学
・年齢相応の教養(貴族的なものも含める)
・一般常識の確認
・生きていくのに不可欠な知識の習得
機会があれば
・不明な能力の確認
・据え置きしていた分体の作製
・家族と交流?
おまけだけどとても大事
・転生者であることを隠す
ざっとあげただけでも、こんなにあった。転生者であることを隠すのは、言うまでもなく身の安全のためだ。
迂闊に質問もできなくて、この世界における転生者の立ち位置は未だ不明。俺より先に転生した、かつての同級生たちへの警戒が必要だ。
そう。今思えば、警戒したくなるような人間関係だったね。
できる限り波風を立てない。
それが前世における俺の行動理念だった。長いものには巻かれる。本音では納得していなくても、周囲と同調したふりをする。
処世術と言えるほどスマートではなく、優柔不断、八方美人と言われても仕方ないくらい、保身に走っていた。そんなだから、前世の学生生活では、
試験前に貸したノートが、タライ回しにされて戻って来ない。それが常態化して、貸す前にコピーを取るようになったのは、いつからだっけ?
雑用係でしかないクラス委員や、早朝や放課後の当番を押し付けられたり、班でやるはずの買い出しに誰も来なくて、一人で行ったこともあった。あの時は、さすがにやり切れない気分になって。
あれ? なんか、目にしょっぱい汁が。なんか転生前より緩くて困る。
腹が空いて仕方がないと、売店でたかられるのが嫌だった。だから、牽制のつもりで、早起きして早弁用の弁当を作ってやった。男の手弁当なんて気持ち悪いからいらない。そう言われるのを期待していたのに、なぜか美味しいと喜ばれて、何度も作る羽目に。
うん。アホだ俺。涙ポロリ。パシリ過ぎだし、奴らのママかよ。
でも、おかしなことに、当時は文句も言わずにやってたんだよ。友達だから。ただそれだけの理由で。
口先だけは巧みで、調子よく人を利用する。強引で、自分本位で、理不尽な要求であっても、同調圧力を味方にすれば言ったもの勝ち。
残酷な彼らは、学校という閉鎖的な場所で、群れて楽しげに泳いでいた。要らなくなったら、互いに素知らぬ顔で背中を向けるのに。
じゃれ合うだけ。いつでもポイ捨て可能な浅い人間関係。諦めるのは、身勝手な彼らではなく、言い返せない自分だった。それどころか、楽しくもないのに共に笑っていた。
分かってたさ。彼らは、本当の意味での友達ではないって。
でもさ、学校に居場所が必要だった。ハブられるのが嫌だった。誰かと一緒にいたかった。自分だけが
だから、妥協することに慣れていったんだ。
弱虫だったのは自覚してる。いくら学校が伏魔殿でも、自分次第で、もう少しやりようはあった気がするから。まあそれも、こうなったら今更だ。
生まれ変わった以上、過去の負債は持ち越さない。すっぱり縁を絶ち切ってやる。ただ、俺がそのつもりでも、いざ彼らと接触すれば、実害を受ける可能性は大いにある。
なにしろここは、魔術や
俺にアイがいるように、彼らも特典を持って転生している。上手く活用すれば、相当有利に立ち回れるはずだ。なにしろ、生まれてすぐに能力が使えるのだから。俺とは違って。
彼らは非効率を嫌っていた。要領だけはとてもよかった。俺が何年も痛みと闘っている間に、さぞかし成長したに違いない。
早成型の門を潜った、杵坂、柳、小酒部、御子柴の四人。能力と技能に◯以上がついていて、特典として
順成型の門は、左坤と乾井の二人。◯か△がついていて、特典は
辰巳のときは、門の情報を確認する前に意識を失った。だから、全く予想がつかないが、最後のやり取りもあって、あいつには二度と会いたくない。
迂闊に前世の文化の真似事をしたり、あるいは、見聞きした際に過剰に反応したりすれば、自ら転生者であると暴露するようなもので、露見リスクが半端ない。
転生者の危険度を計るには、職業についてもっと知らなきゃ。
俺の存在に気づかれないように、知識チートは慎重に。
情報収集と選別が必須だ。
一般常識を調べまくって、現地人として知っていてはマズいもの、表に出すとヤバい知識や技術を要確認。これ大事。
前世の
幸いにして、地位も資産もある家に生まれたので、生活にあくせくしなくてもいいし、勉学の機会も十分に得られるはず。
自分自身を鍛えて、積極的に学ぶ。うん。当面はそういう方針で。
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