第3話 懸崖撒手

 アニマーリアワールドという異世界の一部らしいルプスエンパイアにやって来て、早1週間と数日が経過した。


 初めてこの世界に来てからずっとまりは試行錯誤を繰り返しているのだが、人間界に戻る方法が全く見つからなかった。この約1週間で交流を重ねたレオも、なんだかんだ言ってまりに協力してくれていたが、全く進展がない。


「まり、お前…本当に、どうやってこの世界に来たのだ」

「えっと、神社の鳥居をくぐったらなんか来ちゃったというか…」

「『来ちゃった』じゃないだろう。親御さんも心配しているはずだ。何か手掛かりがあれば良いが、これだけ探しても無いようだしな…」


 レオの『親御さんも心配しているはずだ』という言葉に、まりはうっと息を詰めた。


 この世界であっという間に1週間も過ごしてしまった。もしかしたら向こうでは捜索願が出されているかもしれない。


 ただでさえ両親には、以前心配をかけまくった挙句に迷惑をかけたのだ。これ以上心配と迷惑をかけたくないと思っていたというのに…。


 まりははぁとため息をつくと、乾いた土の上にペタリと座り込んだ。レオもまりの隣に腰を下ろす。


「ちょっと休憩…」

「そんな調子ではいつまでたっても家に帰れないぞ」

「でもこれだけ探して、何か見つかった…?」

「…何も見つからなかったな」


 レオもまた、あきらめたようなため息をついた。


「…もしかしたら、手掛かりはスビトー領域にはないのかもしれないな」

「え、なんて?」


 レオがぽつりとつぶやいた言葉がうまく聞き取れず、まりは聞き返した。それに対してレオは一瞬言うべきか迷うような表情をしたものの、結局口を開いた。


「ルプスエンパイアには3種族いると言っただろう?その3種族には、それぞれ保有している領土があるのだ。ここはスビトー族の領域でな。…というより、もう私しかいないのだから、私の領域といったほうが良いだろうな」


 レオは右前足を起用に動かして、土に大きな円を描いた。


「私たちが見ている方向から見て、この円の上部分を北とすると、今私たちがいるスビトー族の領土はここだ」


 そう言うと、レオは大きな円の内部の南東部分に小さな円を描いた。


「それから、テクニカ族の支配する領域が隣のここだ」


 さらにレオは、先ほど描いた小さな円より二回り程大きな円を、スビトー族の領域を表した円の隣の南西部分に描く。続いて、大きな円内部の余った部分――北方向――を右前足で突いた。


「そして、余ったこの巨大な領域が、最も数の多いウーム族の支配する領域だ」

「でかっ!!」


 その大きさを見て、まりは思わず突っ込みを入れてしまった。


 ウーム族の支配する領域はテクニカ族の領域よりも大きく、スビトー族の領域なんて言わずもがなである。


 テクニカ族とスビトー族両方の領土を足してようやく、ウーム族の支配する領域の広さを少し上回れるくらいなのだ。


 目を丸くするまりを見て、レオは苦笑した。


「まあこの地図は簡易版だからな。実際は少し違うが、大体の大きさとそれぞれの種族の領域の位置を把握できれば良い」

「…あれ、そういえば、この、えっと、ルプスエンパイアには、統治している人がいるんだよね?その人はどこに住んでるの?」


 果たして狼のことを「人」と呼んでよいのか定かではないが、まりはこの際問題視しないことにした。


 まりの質問にレオは一瞬首を傾げた後、あぁ、とひとつ頷いた。


「フェラデアのことだな。フェラデアは自分の出身の領土に住処を構えるのだ。今のフェラデアはウーム族出身だからな。ウーム族の領域の…確か、この辺りだったはずだ」


 レオはウーム族の巨大な領域の、北北東辺りを指さした。


「じゃあ、レオがフェラデアになったら、今レオが住んでるところにそのまま住むってこと?」


 まりの言葉にレオは一瞬困ったような顔になった。


「あーまあ、そうなるな。しかし、ウーム族はフェラデアを代々たくさん輩出していてな。ここ7代ほどはずっとウーム族出身のフェラデアが続いている。ウーム族から出たフェラデアは、代々受け継がれている住処に住むことになっているのだ。テクニカ族から出たフェラデアは知らないが…」

「へー…。…なんか面倒くさいね」


 レオの説明を聞きながら、まりはうへぇという顔をした。その時、ふと疑問が沸き上がり、まりはレオの顔を見た。


「あれ、次のフェラデアって、確か3種族の長から決めるって言われてるんだよね?どうやって決めるの?」


 まりの尽きることない質問に、レオはふと遠くを眺めながら答えた。


「現フェラデアの任命、もしくは大きな功績を挙げた者。まあどの程度を大きな功績と判断するのかは、その時のフェラデアに委ねられているからな。実質フェラデアの任命だけで決まっているようなものだ。今頃、フェラデア候補のリュコスとウォルクは、現フェラデアに自分をアピールしようと必死だろうな」

「そうなんだ…」


 ここまで話を聞いてまりは、ん?と、ふと違和感を覚えた。そして、


「あーーーーーー!!」

「うわっ!急になんだ!」


 突然叫んだと思えば思いきり立ち上がったまりを、レオは変な物でも見るかのような目で見た。しかしそんな目線も気にせず、まりはレオに身を乗り出した。


「ダメじゃん!!」

「な、何がだ」

「レオ、フェラデア候補なんでしょ?私のこんないつ終わるか分かんないこと手伝ってないで、大きな功績って判断してくれるようなことした方がいいんじゃないの?」


 そう言った後で、あれもしかして、このまま自分を手伝って人間界への行き方が分かるようになれば、それは大きな功績になるのだろうか、と考えたまりは、しかしレオの顔に浮かんでいる表情を見てハッと息を吞んだ。


 ――レオは、その印象的な紅色の目を鋭く細め、何かに耐えるような表情をしていた。


「…レオ?」


 思わずまりが声をかけると、レオはハッとしてまりを見上げた。


「あ、ああ…。いや、私は大きな功績を挙げるつもりはない。私が――スビトー族がフェラデアに選ばれることは絶対にない。このルプスエンパイアの長い歴史の中で、スビトー族からフェラデアが選ばれたことはただの一度だってないのだ」

「え…なんで?」

「それは…」


 ここにきて、今まで様々な質問に流暢に答えてくれていたレオが初めて言葉に詰まった。


 まりはそんなレオの様子を見て、どうやら踏み込んではいけない領域の話に踏み込んでしまっていたのだということを悟った。


 気づいて、すぐにまりは慌てて笑顔を作り、大きく両手を振った。


「あ、えーと、そろそろ休憩終わろっか!ね、次はあっちのほう行ってみてもいい?」

「あ、ああ。…まり、…すまない」


 レオの苦しそうな声音を聞いて、まりは踏み込みすぎてしまったことを後悔した。


 レオと会ったばかりの頃のような剣呑な雰囲気は、一週間と数日の交流を重ねるうちに無くなっていた。


 しかし、それでもお互いの情報はほとんど持っていない。


 ルプスエンパイアの仕組みについてはさんざん聞いたのだが、レオ自身の話はほとんど聞いたことがなかった。


 それはまりも同じであり、レオには、自分がアニマーリアワールドの外から来て、迷い込んでしまったから帰る方法を探している、くらいのことしか言っていない。


それが2人の距離感だった。


『お互いのことには踏み込みすぎない』


 その暗黙の了解が、自然と出来上がっていたのだ。




 それから5日ほどが過ぎた。


 その日は珍しく朝から雨が降っており、まりは、ルプスエンパイアに来た初日にレオにもらった岩穴の中で、膝を抱えて大人しくしていた。


 この世界に来て2週間と少しが経過していた。その間に、もはやスビトー族の領域は調べ尽くしてしまった。


 やはり数日前にレオが言っていた通り、帰る手掛かりは他の領土にあるのだろうか。


 もしかしたら、フェラデアに聞いたら何か分かるかもしれない。


 …ということを最近よく考えるのだが、実際に行動に移さなかった。


 ――いや、移せなかった。


 他の領域に行くのが、どうしても怖かったのだ。


 数日前に聞いたレオの話では、フェラデアに聞きに行くにしても、ウーム族の領域に入らなければならないのだ。

 ウーム族の誰にも会わなければそれでいいのだが、現実問題それは難しい。


 おまけに、もし誰にも会わずにフェラデアの住処まで行けたとしても、フェラデアとどう話せばよいのか。


 レオは割とあっさりとまりの話を吞み込んだが、フェラデアがレオのように、簡単にまりの話を信じてくれるという保証はどこにもない。


 もしかしたら侵入者として、レオが以前言った通り捕縛されて尋問の刑か、もしくは最悪殺されるだろう。


 そもそもフェラデアに会えるかどうかだって怪しいのだ。


 打つ手なしで、まりははぁ…と深くため息をついた。


 人間界でも2週間少し過ぎてしまっているのだろうか。


 もしそうなら、万が一ルプスエンパイアから帰ったとしても、両親にどんな顔で会えばよいのか分からない。


 怒られるだろうか。


 いや、泣かれる可能性の方が高い。特に母に。――以前だってそうだった。


 思わず暗くなる思考を頭を振ることで追い払い、まりは岩穴の出口に向かった。

 

 雨はつい先ほど、ようやく止んだ雰囲気だった。


 時間はもう夜だが、どうしても外の空気を吸いたかった。


 雨の日は嫌な思い出につながっていて、どうにも気分が塞がってしまうのだ。


 それに、今日はレオと一度も言葉を交わしていない。


 この世界で唯一の知り合いである彼女は、今日は一度も、まりのいる岩穴に顔を出さなかった。


 知り合ったばかりの頃ならいざ知らず、最近は、朝になったら起こしに来てくれるようにまでなっていたのだが。


 ――今日は雨が降っていたから、レオも岩穴の中で休んでいるのかもしれない。

そう思っていた。




月が煌々と輝く夜空の下、岩穴から出てすぐの所で倒れていた、白銀の綺麗な毛並みをぼろぼろにし、体中いたるところに泥を付け、血がにじんでいるレオの姿を見るまでは。






「心配かけたな。…すまなかった」

「………」


 毛並みを整え、傷をなめることで怪我の処置もしたレオは、暗い顔をしているまりを見て、安心させるように笑った。



 ほんの、数分前。


 倒れているレオを見つけたまりは、彼女を背負って何とか自分の岩穴へ運び込んだ。


 意識を完全に失っていたレオは、まりの背中にずしりとした、確かな重みを乗せた。


 かすかに上下していた胸の動きで、何とかレオが生きていることが分かった。


 しかし、今手元には治療道具が何もなかったために、まりには岩穴の中に運び込むこと以外にできることがなかった。


 余りに無力な自分を歯がゆく思った。


 それと同時に、思い出したものもあった。


 雨の名残の残る地面に、泥まみれになって倒れ伏したレオの姿。


 まりがずっと心の中に封じ込めてきた、思い出したくなかったもの。


 その2つの姿が自然と重なってしまい、レオが目覚めるまでの間、まりはずっと体の震えが止まらなかった。



「まり、その…」

「…なんでそんな怪我することになったのか、聞いてもいい?」


 相変わらず暗い雰囲気で俯いているまりの顔は、レオからは見えなかった。


 しかしまりの声音が、明瞭に彼女の気持ちを伝えていた。


 ――怒り、悲しみ、そして、悔しさ。


 それらを感じ取りながら、レオはまりから気まずげに顔をそらした。


「…まりには関係のないことだ。気にすることは無い。この世界では普通のことなのだ」

「たった2週間弱だけど、私、今はこの世界で暮らしてるんだよ?それなのに関係ないの?」


 まりの尖った声にレオは一瞬ぴくっと驚いたような反応をしたが、それでも先ほどと同じ調子で答える。


「3種族同士のちょっとしたいざこざだ。まりは私たちとは違うのだから関係ないだろう」

「ちょっとしたいざこざで、そんな傷だらけになるの?泥まみれになるの?気を失うことになるの?」


 まりのいつにない追及に、レオは目を見開いた。


「…まり、どうした?」

「私らしくない、とか考えてるんでしょ?今まで私が、レオが答えにくそうな質問しちゃったときは、答え聞かずに話そらしてたもんね」


 そう言ったまりは、ようやく顔を上げた。

 レオは、まりの顔に浮かんでいた表情にハッと息を吞んだ。


 いつものまりは、黒色の瞳に無数の星を瞬かせ、レオの話を楽しそうに聞いていたのだ。


しかし、今レオの前にいるまりは、その瞳の黒色が闇を感じさせるほどに濁り、そこに宿しているはずの無数の星が光の粒となってこぼれていた。


「ま、まり…⁉」


 驚愕したレオは慌ててまりに右前足を延ばしたが、まりはふいと顔をそらした。


「…でも、今は聞きたい。レオが言いたくないって思ってても」

「…どうしても、か」

「うん」


 まりのいつになく真剣な目線を受け、レオはしばらく沈黙した後に、はぁとため息をついた。


「分かった。そこまで言うなら話そう」


 レオはそう言うと、改めてきっちりと座りなおした。まりもそれに倣って正座し、レオに向き合った。



 レオの属しているスビトー族は、特殊な出自を持っている一族だった。


 ルプスエンパイアには、もともと灰褐色の毛並みを持つウーム族と黒色の毛並みを持つテクニカ族の2種族しかいなかった。


 しかしある時、その2種族から、白銀の毛並みを持ち、桁違いの強さを持つ異質の狼が生まれた。


 その狼は、あまりの異質さから群れを追い出された。


 それから、ウーム族とテクニカ族から白銀の狼が生まれた時は、その狼は群れを追放されるようになったのだ。


 追い出された狼は独自で群れを作った。それがスビトー族である。


 スビトー族は、このような出自を持つために極端に数が少ない。


 スビトー族の中で生まれる狼もいたが、まれにウーム族とテクニカ族からやってくる狼もいた。


 そしてスビトー族は他2種族から異端の目を向けられているために、彼らと関わりをほとんど持ってこなかった。


 こうして、スビトー族と2種族の間には埋められない溝ができたのだ。


 そして、長年関りのなかったスビトー族と2種族だったが、スビトー族の数が少なくなってきたころ、ウーム族とテクニカ族が手を組み、スビトー族の領土を奪おうと襲ってきた。


 その少し前の時代、スビトー族に理解のあったテクニカ族出身のフェラデアが、スビトー族にも領土を与えてくれていた。


 しかし、それを面白く思わなかったウーム族とテクニカ族の長たちが、侵攻を開始したのだ。


 スビトー族は、異端とまで言われたその強さを駆使して何とか2種族の侵攻を食い止めたが、それでもやはり無傷とまではいかなかった。


 この争いが何百年もの間に何度も続き、ついにスビトー族は、レオを残すのみとなったのだ。



「今日も、その領土侵攻があったのだ。この傷はそのためにできたものだ」


 そう言うとレオはふぅと息を吐くと、まりをまっすぐに見つめた。


「だから言っただろう?この世界では普通のことだと。この争いはずっと、それこそ何百年も前から続いていることなのだ。昨日今日起こったことではない」


 レオはふっと何かを思い出したかのような遠い目をした。


「ウーム族とテクニカ族は普段は仲が悪いというのに、スビトー族という共通の敵を見出せば恐ろしいほど息をぴったり合わせてくるからな。個々の戦闘能力は私1人に遠く及ばないが、やはり数が馬鹿多い。押さえつけるだけで手いっぱいだ」


 まりは話を聞きながら体を震わせていた。前にスビトー族は出自が特殊だとは聞いていたが、これほど特殊だとは思っていなかった。


 つまりスビトー族は、追い出されて群れに加わった狼以外は、ウーム族とテクニカ族の両方の血を受け継いでる狼によって構成されているということだ。後に加わった狼だって、ウーム族かテクニカ族のどちらかの血を引いているのだ。


「レオは、その…」

「私はスビトー族で生まれた。母がウーム族出身で、父がスビトー族出身だった。まあ、言ってしまえばウーム族とテクニカ族の混血だ」


 まりの意図を正確にくみ取ったレオがさらりと答える。そして、その紅の瞳に強い光を宿して、凛とした声で言った。


「でも、私はウーム族とテクニカ族の混血だとは意識していない。私はスビトー族の血を受け継いでいるのだ。スビトー族唯一の生き残り、そして長として、この領土だけでも死守しなければならないのだ。――私が力尽きて、死ぬまでは」





 レオから話を聞いた翌日、まりは、以前レオから聞いた3種族の領土のちょうど境目に来ていた。


 レオからは前から近づかないよう強く言われていたが、あの話を聞いた今となっては、どうしてもいてもたってもいられなかったのだ。


 この行動がどんな結果を引き出すのかは分からない。


 しかし、それでもレオのために何とかしたかった。


 まりはすぅっと深呼吸すると、以前見たレオの簡単なルプスエンパイアの地図を思い出しながら、ウーム族の領土に足を踏み入れた。

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