第2話 半信半疑

「…誰だ」


 穴の壁に反響して響いた、耳に心地よい落ち着いたアルトの女性の声が目の前の白銀の狼から発せられたことに、まりは最初は気が付かなかった。


 そしてようやく気が付いた時には、衝撃のあまり声が出ず、体も強張って動かなくなった。

 

 そんなまりの様子に、狼が不愉快そうに鋭い眼光をまりに向けながら顔をしかめた。


「お前、テクニカ族の手下か?それともウーム族の手下か?」

「て、テク……何て?」


 ようやく動いた口からは、かすれた声でそんな言葉が出てきた。我ながら間抜けだとは思うが、実際ものを考える機能が全く仕事をしてくれない。


 銀の狼はじっとまりを見つめた。鋭い眼光で睨みつけられるような視線を受けたまりは、背中に冷や汗がたらりと流れるのを感じた。


 状況から見て、ここは恐らく、いや100%この狼の巣だろう。まりはたまたまとはいえ、狼の縄張りに侵入してしまっていたのだ。


 目の前の狼の体からちらりと見える鋭い爪を目にして、まりはゴクリと唾を飲み込んだ。


 あの爪にやられたらひとたまりもない。


 この場所は、まりが膝立ちしてやっと天井に余裕ができるようなところだ。まして広さはそれほどあるとは言えず、正直白銀の狼とまりが一緒にいるだけでもうほとんどスペースは無い。


 つまり、狼に襲い掛かってこられたら、まりには逃げるための手段がないということだ。回避することもできずに攻撃を受けなければならない。


 永遠のようにも感じられた時間は、狼のため息と共に唐突に終わった。


「…どうやら、テクニカ族かウーム族が何やら変な物でも作ったのかと思ったが、そうではないようだな」


 白銀の狼はそう言うと、まりに視線を投げた。


「お前、いったい何者だ?なぜここに入ってきた。ここが、スビトー族唯一の生き残り、レオの住処であると承知しているのか」


「…えっと、知らなかったです。不法侵入に関しては、ごめんなさい。でも私はただ、私がいた場所に帰らないといけなくて、何か手掛かりはないかって探してたら、この場所にたどり着いたんです…」


 はたして狼相手にですます口調の必要があるのか分からないが、この狼の醸し出す圧倒的なオーラにあてられてまりはすっかり委縮していた。


 とにかく早くこの場から離れたい。


 しかし、もしかしたら話ができるのはこの狼だけかもしれないとなると、超常現象状態のこの状況でも耐えなければならない。


「お、教えてください。ここはどこで、あなたは誰?」


 まりの言葉に、狼はきゅっと眉を寄せた。…ように見えた。


「お前、常識ということを知らないのか。人にものを尋ねる前にまず自分が名乗るものだろう」


 しゃべる狼に常識について疑われた!!


 と、少し心外!と思いつつも、狼の言うことは最もだったため、しぶしぶ自分の口を開いた。


「私は朔陰まり。正直、自分がどこから来たのか説明できる自信がない…です」


 まりが名乗ったのを聞いて、狼は相変わらず警戒した様子で名乗った。


「私はレオ。スビトー族唯一の生き残りだ。そしてここはアニマーリアワールドの一つ、ルプスエンパイアだ」

「…は?」


 あまりのことに、まりは本当に思考が停止するのを感じた。


 レオと名乗った狼は、今何と言った?


 アニマーリアワールド?

 ルプスエンパイア?

 

 超常現象にしても程度というものがあるだろう。


 これでは本当に異世界ではないか。


 あの神社の言い伝えは、はったりでもなんでもなく、本当のことだったということか。


 あまりのことにめまいを起こしそうになった。


 しかし、こんなところで倒れているわけにはいかない。


 今自分の置かれている状況をもっとはっきりとさせる必要がある。


「あの…アニマー?何とかワールドとか、何とかパエリアについて教えてくれませんか?」


 まりの質問に、またしてもレオはじろりとにらみを利かせてまりを見た。


「アニマーリアワールドと、ルプスエンパイアだ。パエリアではない。はあ…お前、本当に何も知らないのだな。やはりテクニカ族やウーム族が絡んでいるという線は薄そうだ…」

「あの~…」


 何やら一人で考え事に没頭しているらしいレオは、まりのおずおずとした声にハッとした顔をした。


「ああ…お前、この世界についてどのくらい知っている?」

「何も知らないです」


 レオの問いにまりは即答し、そのあまりの速さにレオが一瞬驚いた顔をした。しかしそれは本当に一瞬のことで、またすぐに元の不愛想な顔――そう見える――に戻った。


「…どうやら本当に知らないようだな。まあ、知っていたらわざわざ私のところに来るわけがないな…。仕方がない。この世界で何も知らないのは命に関わる」

「い、命に…⁉」


 レオの『知っていたらわざわざ私のところに来るわけがない』という言葉に引っかかったが、それよりも後に出てきた言葉のほうが衝撃的で、まりは思わず身を乗り出した。


「き、危険ってことですか…?」

「それ以外に何がある。命に関わると言えば危険に決まっているだろう」


 平然と返された言葉に、まりはふらりと地面に手をついた。



 それから聞かされたレオの話を簡単にまとめるとこうだ。


 まず、この世界の全体は、まとめて『アニマーリアワールド』と呼ばれている。


 そして、アニマーリアワールドにはたくさんの動物の国があり、今まりのいる世界がその内の一つ、狼の支配する領域・ルプスエンパイアである。


 続いてルプスエンパイアについてだ。


 ルプスエンパイアには、3つの種族が存在している。


 灰褐色の毛並みを持つ、最も数の多いウーム族。


 黒い毛並みを持つテクニカ族。


 そして、白銀の毛並みを持つ、最も数の少ないスビトー族。


 さらに、その3つの種族を束ねているのが、頂点に立つ『フェラデア』と呼ばれる一匹の狼だ。


 『フェラデア』というのは名称のようなものであり、代々3種族の頂点に立つ者に受け継がれてきた名前だ。


 そして現在、ルプスエンパイアはここしばらく緊張感漂う状態が続いている。


 というのも、現在のフェラデアが自身の命が残り少ないことを悟り、次のフェラデアを3種族の長の誰かに継がせると宣言しているからだ。


 そのフェラデア候補が、ウーム族のリュコス、テクニカ族のウォルク、そしてスビトー族のレオだ。


 最も、スビトー族は出自が特殊な種族であるがために数が少なく、今ではレオしかいない。


 …らしい。



(こ…これは、とんでもない世界に来てしまった…!)


 まりはレオの説明の一つひとつを噛みしめながら、またもや冷や汗を流した。


 どうせ異世界に飛ばされるなら、もっと楽な世界に飛ばされたかったと、どうしようもないことを思ってしまう。

 その前に、異世界に飛んでしまったことを嘆くべきなのだが。


 にしても、レオの話では、アニマーリアワールドには他の動物が支配する領域もあるらしい。


 どうせ同じアニマーリアワールドに飛ばされるのであれば、わざわざ肉食の狼の領域ではなく、草食の小動物の世界に行きたかったと思ってしまう。


 考えてもどうしようもないことなのだが。


「それで、お前はどこから来たのだ。少なくともルプスエンパイアに住んでいるわけではないだろう。明らかに種族が違う。そもそもアニマーリアワールドに住んでいるのか?」


 レオの質問に、まりはうっと言葉に詰まった。


 もちろんアニマーリアワールドという言葉もルプスエンパイアという言葉も初耳だ。

 そして自分が来た場所は人間のいる世界だと言って、目の前の白銀の狼は納得してくれるのだろうか。


 言葉に詰まったまま何も言わないまりを見て、レオははぁとため息をついた。


「まぁ、言いたくないなら仕方ないだろう。『自分がどこから来たのか説明できる自信がない』とも言っていたしな」


 レオがどうやら自己完結してくれたらしく、まりはほっと息をついた。


 しかし、じっと鋭い眼光を向けてくるレオに3度目の冷や汗を流す羽目になった。


「な…何か」

「いや…。そうだな。敵意は感じないな。今までの言動を見ていても、ウソをいているようには感じなかった…」


(そりゃあ、ウソはついてないし…)


 レオが何やらぶつぶつと言っていることに対して心の中で突っ込みを入れつつ、まりは狼の言動をひやひやしながら見守った。


 狼の判断1つで、まりの命が吹き飛んでしまうかもしれないのだ。退路がほとんどない今、狼の機嫌を損ねてしまってはまずい。


 やがてレオはもう一度ため息をつくと、まりを胡散臭そうに見てからくいっとあごを出口の方向に動かした。


「仕方がない。私の領土にある住居を提供してやろう。ついて来い」


 そう言って、レオは床に膝を抱えて座っているまりの横をするりと通り過ぎると、穴の中から出た。まりも慌てて体の方向を転換させ、四つん這いで白銀のふさふさのしっぽを追いかける。


 岩の外に出たまりとレオが緑の乏しい土の上を少し歩くと、すぐにレオのいた岩より大きな岩が現れた。


「ここなら私の住処よりも大きいからお前でもゆとりを持って体を休められるはずだ。お前が自分の住処に戻れるまで提供してやる」

「え、えっと、ありがとう…ございます」

「今日はもう休んだほうがいいだろう。陽が沈んで危険が増す。夜に外をうろうろすると、ウーム族やテクニカ族の連中に襲われる可能性もあるからな」

「お、襲われ…⁉」


 さっと顔を青ざめさせたまりを見て、レオは呆れた顔をした。


「だから言っただろう。危険だと。まあ、お前の姿はこの世界では明らかに異質だからな。もしかしたら捕縛して尋問の可能性もあるが」

「ほ、捕縛、尋問…!!」


 めまいがしそうだ。

 しかも相手は狼だ。いや人間相手でも十分怖いのだろうが。


 ムチを持ってべしべしと床を叩き、椅子に縛り付けられている自分を尋問する狼たちの群れを想像してしまい、まりはぶるりと体を震わせた。


 レオの言っていたウーム族やらテクニカ族の狼たちには会わないほうがいいだろう。


 レオに案内してもらった岩の穴は、確かにレオのいた巣よりも広くて天井も高く、まりでも十分に入ることができた。


 自分の巣に戻るレオを見送り、体を横たえたまりは、緊張の糸が切れて急激に襲ってきた眠気に抗えず、そのまま眠りに落ちたのだった。

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