第4話 5
イリアはオディール家の使用人である。
母親が平民の為、姓はない。
――そして。
誰にも言っていない事だが、父親はオディール伯爵である。
王都の下町の花屋で働いていた母が、オディール伯爵に見初められ、愛人として囲われたのが馴れ初めだと、イリアは聞かされている。
だが、相手は気の多いオディール伯爵だ。
イリアが三歳になる頃には、彼はすっかり来訪することはなくなっていた。
それでも母は彼を愛していたのだろう。
イリアが十歳になる頃、彼女はあまりにも短く、そして恵まれていなかった生涯を終えるのだが、それでもオディール伯爵の来訪を待ち続け、彼との再会を待ち望みつつ逝った。
ひとりになったイリアは、母が遺したオディール伯爵からの贈り物――父と母の名が刻まれた指輪を持って、オディール伯爵家を訪れた。
養ってもらおうというつもりはなかった。
子供のイリアが働ける口などなくて。
だから、せめてお屋敷で働かせてもらおうと考えたのだ。
――意外な事に、オディール伯爵はイリアを覚えていた。
この時ばかりは、自身の珍しい白髪と赤い目に感謝した。
伯爵はイリアを娘として家に迎え入れてくれようとしたのだが、イリア自身がそれを拒否した。
下町育ちの自分が、貴族令嬢としてなんて、やっていけないと考えたのだ。
――使用人として雇ってください!
そう告げるイリアに、オディール伯爵はあまり良い顔をしなかったものの、それでも外に放り出すよりはマシと考えたのか、その要望を受け入れてくれて。
ちょうど同い歳のアレクの専属侍女として仕えさせてくれた。
伯爵は、情を交わした女には執着の薄いようだが、自身の子供にはことのほか甘い人物だった。
他の使用人の目のないところでは、お菓子をくれたりもした。
アレクについて、学園に通えるのも、従者だからというより、娘に学をつけさせたいという想いがあるのだろうと、イリアはそう感じている。
その想い自体はありがたいのだが。
(……まさかこんな事になってるとは、伯爵様も思ってないでしょうね……)
放課後の教室で。
ゴミ箱に捨てられた自分の体操着を見下ろし、イリアはため息をつく。
色チョークでまだらに染まったそれを拾い上げて、粉を落とす為に手で叩く。
「やだ。捨てられたものを拾ってるわ」
「平民ですもの。ゴミ漁りはお手の物でしょ」
クスクス笑う女子の声。
イリアは唇を噛んで、聞き流した。
反論したところで、階級を盾に取られて、自分が悪い事にされるのだ。
ならばこのまま耐えて、彼女達が居なくなるのを待った方が良い。
叩いても叩いても、運動着についたチョークは落ちてくれない。
今から洗ったとしても、明日の体育の授業には間に合わない。
このまま着るか、生乾きで授業に出るか――そんな事を考えている自分に涙が出そうになる。
……なんでこんな事になったのだろう。
――平民のクセに、アレク様にべったりで鬱陶しいのよ!
――勇者のアレク様は、もっとふさわしい人をそばに置くべきなのよ!
過去に女子達にかけられた言葉が、脳裏に蘇る。
(……わたしが平民だから? アレク坊ちゃまが勇者だから?)
涙で歪んだ視界の中、イリアは自問する。
「おいおい、君達。
そんなトコでなにしてるんだい?」
と、そこによく聞き慣れた声。
「――あ、アレク様!」
視線を向けると、教室の入り口にいる女子達に、アレクが声をかけていた。
「へ、平民がゴミ漁りをしていたもので、みっともないと注意しようかと……」
「そ、そうです! わた、わたし達、今来たところで」
そう言い訳する女子達に、アレクは教室の後ろにいるイリアに目線を向ける。
イリアは咄嗟に体操着を背後に隠した。
アレクの目が憎悪に染まって細められる。
「オディール家の使用人がみっともないマネをするんじゃない!
ただでさえ平民を従者にしている、俺の立場も考えろ!
まったく、父上もなにを考えておまえみたいなヤツを……」
教室に響くアレクの叱責に、イリアは思わず身を縮こまらせた。
「……不快なものを見せたね。
行こう。お詫びにお茶でもご馳走させてもらうよ」
と、アレクは女子達の腰に手を回し、そのまま教室を去って行った。
「くっ……うぅ……」
泣いちゃダメだと思うのに。
溢れ出る滴が床を濡らしていく。
アレクも昔からああだったわけではない。
学園に入学する前――勇者として認められる前は、それこそ兄妹のように接してくれていたのだ。
なんでも言い合えたし、大事にしてもらっているという実感もあった。
……けれど。
すべては野外研修のあの日から――まるで運命が違えたかのように、イリアの人生は反転した。
魔獣の群れを退治した実績を認められたアレクは、冒険者ギルドのスカウトに応じ、冒険者になった。
学園が休日のたびに、王都口外の森林に分け入って魔獣討伐に向かう。
イリアは、そのたびに囮にさせられた。
死を覚悟したのも、一度や二度ではない。
一番辛いのは魔獣を倒す為に放たれる魔法に、イリア自身も巻き込まれる事だ。
――逃げ遅れるお前が悪いんだ!
そう言って、アレクはイリアを
世間では勇者と持て囃されているアレクだったが、イリアにとってはひどい主人でしかなかった。
けれど、恩があり、優しくしてくれるオディール伯爵を思えば、嫡子であるアレクを悪く言う事もできなくて。
イリアの心は――恩と痛みの間に挟まれて、今にも押し潰されてしまいそうだった。
――誰か……
言葉には出せないけれど。
(わたしを助けて……)
チョークまみれの運動着を胸に掻き抱いて、イリアは心の中で叫ぶ。
そんな時だった。
カチャリと。
軽い金属音がして、イリアは涙を拭ってそちらを見た。
――掃除用具入れだった。
そこから。
「……すべて見させてもらったわ」
真紅の髪をなびかせて、美しい少女が姿を現した。
イリアはあっけに取られる。
「――シャ、シャルロッテ様!? な、なんで……」
相手は王位継承権すら持つ、公爵家のご令嬢である。
(そんなお方が――そ、掃除用具入れから?)
イリアは混乱している。
だが、シャルロッテはそんな事お構いなしだ。
掃除用具入れから出て来た直後とは思えない、優雅な足取りでイリアに歩み寄り、床に座り込んだ彼女に手を差し伸べる。
「あなたの噂を耳にしてね。
ちょっと調べてみたってわけ」
そう告げて微笑んだシャルロッテは、イリアを立ち上がらせて、運動着を受け取る。
「ああ、これは洗っていては明日の授業に間に合わないわね。
明日の朝、替えを用意するわ」
「へ? へ? そ、そんな事してもらうわけには……」
「私がしたいのよ。受け取ってくれるわよね?」
有無を言わせない微笑みであった。
「ああ、あと、さっきガタガタとくだらない事を言ってた子達だけれど、彼女達の席ってどこだったかしら?
私、興味のない人の顔は覚えられないのよね」
「そ、そこと、そこです」
訊ねられるままに、アレクの席の左右を指さすイリア。
「そう……」
シャルロッテは指された席まで優雅に歩を進め。
――ドン、と。
机の天板に拳を叩き込んだ。
真っ二つに砕け散る。
「あとは、ここだったかしら?」
「ち、ちが――」
たった今砕いた机にすぐ後の席に、華麗にターンをキメて、その勢いそのままに机を蹴り上げる。
宙で錐揉みした机は、天井に突き刺さった。
「あら、やだ違うの? まあどうせ彼女もあの子達のお友達でしょうし、大差ないわね。
こっちが正解だったかしら?」
「いえ――!」
再びシャルロッテの脚が孤を描き、机が壁に突き刺さる。
「じゃあ、こっち」
「シャ、シャルロッテ様、待って!」
「こっちね!」
無茶苦茶であった。
シャルロッテが手足を振るうたびに、机が宙を飛び、あるいは砕かれて木くずと化す。
「まあ、これだけやれば、どれかが正解よね」
と、シャルロッテが呟いた時には、アレクの机の周囲は空白地帯となっていた。
「どう? すっきりできたかしら? 私はすっきりしたわ」
さもありなん。
これだけ暴虐の限りを尽くせば、さぞかし気分爽快だろう。
それはそれはイイ笑顔で訊ねるシャルロッテに、イリアも思わず吹き出す。
「ようやく笑ってくれたわね。
イリア・オディール」
「え……」
イリアの表情が凍りつく。
シャルロッテの表情は確信を得ているようで。
(その事は伯爵様以外、知らないはずなのに――)
「なん、で……」
その呟きに、シャルロッテは髪を掻き上げて胸を張る。
「私は聖女よ?
知ってる? 聖女の耳は地獄耳なのよ。聖女なのに、ね」
シャルロッテはクスリと笑って見せて。
それからイリアの両手を引っ掴む。
「私ね、色々と計画を立てて来たのよ?
アレク・オディールの心をバッキバキに叩き折る為にね。
最初はあの男の取り巻き共を奪って、ドヤってやるつもりでいたのだけれど、ヤメたわ」
(アレク坊ちゃまを? へ? へ?)
イリアはますます混乱した。
けれど、そんな事お構いなしに、シャルロッテは続ける。
「あんな女達を奪ったところで、私の品性が疑われるだけだもの。
それよりも、もっともっと良い事を思いついたの。
だから、お友達になりましょう、イリア・オディール」
なにが「だから」なのかがまるで理解できないまま、イリアは両手をシャルロッテによって上下に振られる。
(わ、わたしが聖女様のお友達に?)
戸惑うイリアだったが、しかし続けられた言葉で、観念することになる。
「聖女の友人はイヤかしら? 私はぴったりだと思うのよ?
ねえ、勇者イリア。そうは思わない?」
(……ああ、この方は――本当にすべてお見通しなんだ……)
イリアはぎゅっと目をつむり。
深い吐息と共に、目を開いてシャルロッテを正面から見た。
「――わかりました」
いろいろと訊きたい事はあったけど。
まずはうなずかなければ、話を進めさせてもらえそうになかったから。
こうしてイリアは、シャルロッテの友人となったのだった。
聖女様の距離の詰め方は、すごくエグいと思いながら……
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