第53話、ドブゾドンゾの歴史


 この国は、昔は二十程度の部族に分かれていました。その頃は、今のような一つの国というような形にはなっていません。農業や林業、漁業が主だった産業でした。人口は正確な数字はわかりませんが、当時の最大都市であったドピレレでおよそ五万人の人口があったと言われていますから、全部あわせて、人口は今の三分の一、一千万人程度だと推測されます。

 海からの潮風の所為で、沿岸部分は作物の栽培に適さず、日照りが続くと、砂埃で足下が見えなくなったとあります。比較的肥沃な内陸の四つの平原、ダレヘク平原、スブレレ平原、コイワレ平原、テレジス平原、をいくつかの部族が奪い合いを繰り返していました。残りは、漁業を中心に海岸部分で生活を営んでいました。

 生活は楽ではなかったでしょう。ですが、今のように、飢饉が頻繁に起こるほどではなかったはずです。人口が少ない分、食べるものはそれなりに確保できていたはずです。

 変化が起こったのは、南西のドセオセ海岸に難破船が漂着してからです。貿易船でした。当時のドブゾドンゾでは、難破船という物はすべて取得物として、その支配地域の財産になっていましたが、その時のドセオセ海岸を支配していた部族長、シフリドクが難破した貿易船の乗組員を救助し、船の修復を手伝い、食料を与え彼らの国に返したのです。それに感謝した貿易商はその礼として、絹や鉄器といったドブゾドンゾでは手に入れることのできない物を送りました。シフリドクはそれに味を占め、大型船の建造に着手しました。商団の船の修理を手伝った際、その船の構造を盗み取った言われています。数年かけ、船を完成させ、海外との貿易にこぎ着けました。そのもくろみは見事に当たり、一財産築くことに成功しました。それに脅威を感じた内陸地のいくつかの部族が、交易品である毛皮や薬草をシフリドクに渡らないよう邪魔をしました。シフリドクは怒り、彼らに戦を仕掛けました。シフリドクは貿易で手に入れた武器と金で雇った傭兵を使い最初は優位に戦いましたが、平原の奥地にはいると、デレル族を筆頭に騎馬を使った猛攻に遭い、大敗しました。シフリドクはジャラレに砦を築きました。戦局は膠着状態になりました。シフリドクは他の平原部族からの交易品を確保しようとしましたが、主要な道をコイワレ平原連合に押さえられているため質のよい交易品の確保には至りませんでした。膠着状態になったコイワレ平原連合とシフリドクの戦いを尻目に、北の岬のセレ族がスブレレ平原の一部族、カパレ族と手を結び、貿易を始めました。カパレ族は貿易で手に入れた武器を手に南下し、四つの平原をすべて支配しました。シフリドクも降伏をし、カパレ族セリ族連合の傘下に入りました。最終的には武器と兵を持ったカパレ族が国を統一し、カパレ族の部族長が王になり、ドブレレ王国を設立しました。最初の王国です。

 ドブレレ王国は貿易により国を富ませました。その一方で内地と港周辺の格差が広がり、交易品の確保のため、動物の乱獲と鉱物の採掘が行われました。ドビフレレ王の治世の時代に、この島にしか生息していない、ダガダ山羊、デグモン鳥、ベクテモン小型ワニなど、十三種類もの固有種が絶滅したと言われています。また、銅の採掘のため、山は切り崩され、川と海が汚れました。周辺では病がはやったといわれています。

 四代目ドビフレレ王の治世になるころには、銅は取り尽くされ、貴重な動物も居なくなり、貿易は細りました。そこで、山や森を開墾して米や麦といった穀物類を増産し輸出に回すようになりました。問題は日照りや長雨で穀物が不作になった場合、輸出向けの穀物の値段にあわせ、食料の値段が高騰してしまうことです。商人の買い占めも行われ、内陸地では飢え死にする者も現れました。

 この頃になると、外国の文化が入り込み、様々な宗教や学問が伝わり、名字と名前を分けて使う人が増えるようになりました。牛や豚といった外国人が好む家畜が飼われるようになったのもこの時期です。

 四代目ドビフレレ王治世の末期、タラ・ベプスという一人の学者が投獄され獄死しました。この人はずいぶん行動派の学者さんだったようで、全国を渡り歩き、様々な場所で、この不平等の是正について解いて回ったそうです。腹を空かせた人たちが、道ばたに倒れ、木の皮で飢えをしのいでいるというのに、港では犬でさえうまそうな肉を食っている。王は国民を切り売り美食にふけっている。そう説いて回ったそうです。その結果、投獄され、三十二歳という若さで獄中死しました。その話を聞いた民衆が激怒し、暴動が起こり商店の焼き討ちがおこなわれました。スブレレ平原を中心に起こった暴動は、瞬く間に広がり、やがて宗教団体テクレレン会が、暴動の中心的存在になっていきました。このテクレレン会は、自然崇拝の部族宗教でしたが、海外の宗教の知識を入れ、教祖の神格化に成功し、急速に信者を増やしていきました。ドビフレレ王の配下、グステン将軍が軍を率い、テクレレン会の排除に動きましたが、テクレレン会は信者と暴徒を引き連れ、山城にこもりました。最終的にテクレレン会の教祖ペント・カルは処刑されました。

 ドビフレレ王国は続発する暴動で国が荒廃しました。農作物の不足、暴徒の盗賊化、貿易品のさらなる減少を招き、一部貿易商が海賊化し、外国船をおそうようになりました。外国船保護のため海軍が補強され、ペレ・シスコ提督が海賊船の取り締まりを行いました。

 王の力の衰えを感じたコイワレ平原とテレジス平原の各部族長は、同盟を組み、ドビフレレ王国からの独立と解放を目指しました。

 テレジス平原連合は、スブレレ平原にてテクレレン会の信者狩りを行っていたグステン将軍に襲いかかりました。軍を分散していたグステン将軍は苦戦をしいられたものの、それを撃退、テレジス平原の山間まで押し返しました。しかし、スブレレ平原内ではテクレレン会の残党信者の反乱、テレジス平原連合との戦いでグステン将軍は身動きが取れなくなりました。

 その間、コイワレ平原の部族が、ドビフレレ王国首都ドビフリルに向かっていました。ドビフリルは北の港、ツレホリルから南へ三十キロほどの地点にありました。ツレホリル海へ流れるアタ川沿いに作られた都市ドビフリルは天然の要害でした。ドビフレレ王はそこに立てこもり、援軍を待つ戦略をとりました。

 野戦において無敵を誇るコイワレ平原の部族も、ドビフリルの堅さに手も足も出ませんでした。コイワレ平原の部族は一計を案じ、軍を二つに分け、北のツレホリル港を奪う軍と、グステン将軍を背後から襲う軍に分けました。

 そのことを知ったドビフレレ王はツレホリル港に援軍を送るため、川門を開けツレホリルに向け援軍の船を出しました。門が開き、援軍の船が何艘か出た後、上流に隠していたコイワレ平原の船が援軍の船と川門を襲いました。油を使って火を放ち、門と船を焼きました。

 北に向かっていたコイワレ平原の騎馬隊は、急ぎ南へ戻り、ドビフリルを攻めました。川と陸、両方から攻められたドビフリルは落ち、ドビフレレ王は殺され、ドビフレレ王国は滅亡しました。

 それから、コイワレ平原の部族はツレホリルの港を押さえ、スブレレ平原にいるグステン将軍をテレジス平原の部族と共に攻めたてましたが、グステン将軍の巧みな用兵術と生き残ったドビフレレ王国兵の所為で敗戦を重ねました。海軍のペレ・シスコ提督もグステン将軍に加わり戦局を混乱させました。

 グステン将軍は、生き残ったドビフレレ王の三男を王にしてドビフレレ王国の復興を目指しましたが、三男は病死、ドビフレレ王国復興をあきらめ自らが王を名乗りました。それに反対した海軍のペレ・シスコ提督が反乱を起こしグステン将軍を殺害、自らは王と名乗らず、曖昧な地位のまま、軍とテレジス平原を奇妙に納めました。ペレ・シスコの妻が政治をしていたという説もあり。ペレ・シスコの妻女政治とも言われています。この時期、五年ほどの話ですが、どのような政治形態で国を治めていたのか、ほとんど資料が残っていません。

 その頃、コイワレ平原とスブレレ平原では、八個の部族を中心にした共和制を採用し、クレヘケ共和国を設立しました。

 ペレ・シスコ統治の五年間は、内乱らしい内乱も起きず、クレヘケ共和国との戦の記録も残されていません。統治から五年後、ペレ・シスコの妻が亡くなりました。その後、ペレ・シスコは一方的に降伏を宣言し、「海の魚は勝手に泳ぐ」そう言い残し、部下を連れ、船でどこかへ旅立っていきました。クレヘケ共和国はテレジス平原を併合し、国を統一しました。

 クレヘケ共和国は貿易の拠点を北のツレホリル港と南西のトリムシタにしぼり、貿易会社に期限付きの貿易をおこなわせ、利益の分配を行い、農作物輸出の制限をかけました。農地の開拓を行ない、灌漑施設を作り、川の上流の水を使うことによって海岸近くの農地の塩害を和らげました。これらの政策によってクレヘケ共和国の国力は徐々に回復していきました。しかし貿易の拠点である北のツレホリルと南西のトリムシタをコイワレ平原系の部族が独占したため、貿易の利益を得られない南東のテレジス平原系の部族は不満を抱き、密貿易を行いました。そのことを知った、コイワレ平原系の部族は部族会議で、密貿易をおこなっていたテレジス系部族を非難しましたが、テレジス系部族はそれを無視して、密貿易を続けました。それに怒ったコイワレ平原系の部族がテレジス系の港に焼き討ちをし、船を沈めました。その報復にテレジス系部族は南西のトリムシタを襲おうとしましたが、返り討ちにあいました。テレジス系部族はクレヘケ共和国からの独立を決め、密貿易商団をとりまとめていたコペ族の部族長バエンが王になり、ドバエン王国を設立しました。クレヘケ共和国ができ、三十年後のことです。

 ドバエン王国のバエンは出身部族のコペ族を王族とし、他の部族との差違をはかり自らの権力基盤を固めました。大規模農園を優遇し、小規模農園に重税を課し、小規模農園者の土地を取り上げ国有化し、小作人制度による大規模農園化に成功し、生産性を向上させました。それによって余った農作物を輸出に回し多額の利益を得ましたが、その利益の多くは一部の部族や王族が手に入れました。

 一方クレヘケ共和国では、貿易に制限をかけていたため、貿易品の値がドバエン王国産の物と比べ高くなり、輸出額が減りました。そのため、ドバエン王国征伐の案がクレヘケ共和国の部族会議で何度も出ましたが、貿易の利益を得ていないスブレレ平原系部族の反対意見が出て否決されました。

 ドバエン王国征伐の話を聞いたバエンは、スブレレ平原系部族の不満分子を扇動、宗教団体テクレレン会の流れをくんだハ・クレレン会と手を結び、スブレレ平原周辺を中心に揺さぶりをかけました。

 クレヘケ共和国は抗議デモを行なうハ・クレレン会に手を焼き、デモ参加者とハ・クレレン会信者の逮捕に踏み切りました。ハ・クレレン会の教祖はドバエン王国に亡命し、ハ・クレレン会信者の救出を願いました。バエンはクレヘケ共和国に信者解放の嘆願書を出しましたが、クレヘケ共和国はそれを無視しました。スブレレ平原系の部族の中でも独立の気運が徐々に高まって来ました。

 その頃、ペレ・シスコの息子と名乗る海賊団が出没し北のツレホリル周辺を荒らし回っていました。これはドバエン王国の陰謀という説もありますが明らかではありません。海賊団は数年暴れ回った後、いなくなりました。その後ペレ・シスコの息子を名乗る海賊団がいくつか現れ、"自由の海"といったペレ・シスコとその息子の物語を書く者も現れました。

 それから……。


「先生、私も、自由の海は読みましたし、ペレ・シスコには海の男として強いあこがれを持っています。大尊敬しています。で、先生は、先ほどからなんの話をしてるんですか。この国の歴史を朝まで語り尽くすのですか」

 ハス・レシ・トレスは社会学者の話を遮った。

「すいません、しかしこの国の歴史そのものを話さなければ、多少の脱線はありましたが、理論だけを話してもその理論に至る過程を話さなければ、ご理解いただけないのではないかと思うわけでして」

「わかりました。なるべく、手短に話してください」

「はい、努力します」

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