第35話、裁判官、脅迫
裁判官
フン・ペグルは仕事を終え、家に帰りシャワーを浴びた。冷蔵庫に入れてあった冷えた水を飲み、パジャマに着替えた。絹でできた一級品だ。贅沢にまるで興味のないフン・ペグルだが、パジャマだけはこだわりがあった。色は白、素材は絹、下着は履かず、全裸にパジャマ、そうでなくては、なぜか寝付けなかった。
寝室に入り、いつものように、机の引き出しを開け、月明かりの中、ペットボトルに入ったミミズを見つめた。三日ほど前に入れたキャベツの葉の下にミミズが何匹かいて、それがくいっと首を伸ばしキャベツをつついた。えさを食べて増える。
「こんなに単純なら良いんだが」
引き出しにペットボトルを戻し、フン・ペグルはベットに寝ころんだ。
両隣にいる副判事の顔を思い浮かべた。二人ともおそらく告訴人カカ・カの敗訴判決を出す。老判事のコトト・ピ・キョは、いつものように半分眠ったような顔つきで敗訴判決を出すだろう。まだ若いヌコタ・リはおどおどと周りを見渡しながら、結局は敗訴判決を出す。自分はどちらを出すだろうか。
この裁判は、メイドの死亡給付金を求める裁判だ。カカ・ミの死の真相でも、見習いパン職人の死の真相でもない。メイドの死が城に、つまり雇い主である王に責任があるか無いか、争う裁判である。だから難しい。
第一検事局長側の逆訴訟に関しては、全員無効判決を出すことになると思う。告訴人のカカ・カの訴え自体は妥当だ。そうなってくると、死亡給付金の支払い義務が王に発生すると解釈してもおかしくはないのだが、問題はメイドのカカ・ミが自殺したということだ。自殺を無理強いされた可能性もあるのだが、根拠は薄い。自殺の場合、過去の判例によっては死亡給付金が出ることもあった。もちろん、城の話ではなく、他の民間施設での判例だが、過酷な労働や職場のいじめなど、職場の環境に問題があれば死亡給付金支払いの判決が出ている。今回の件はそれらに当てはまらない。同僚のメイドの証言がそれを裏付けている。あまり当てにはならないが、そんな話は出ていないし、あったとしてもそんなことを証言しないだろう。自殺の動機は不明ということになる。そうなると、給付金を出す必要性はない。告訴人の敗訴ということになるのだが、あの刑事の証言、王が鶏肉代わりにメイドを解体したとなると話は別だ。それが事実であれば有罪も有罪、ということになるのだが、あの話は推測が多すぎる。結局、敗訴判決を出すことになるだろう。
フン・ペグルのまぶたが重くなってきた。机の引き出しから、いつものようにミミズの歌声が聞こえる。
「しーかい、はってん、らーれーらーらー、どうこいほんほん、すうでんぬー」
今日のミミズの歌声は、フン・ペグルの感情に合わせたのか、どこか、もの悲しげであった。
ちょんちょろりー。
フン・ペグルが目を覚ますと、ベットの上で縛られ、腹を割かれていた。まだ辺りは暗い。
「脅しに来た」
フン・ペグルが状況を把握する前に、男が、フン・ペグルの瞳をのぞき込んだ。
「どなたですか? ここで何をしてらっしゃる」
フン・ペグルは体を動かそうとしたが、ロープで手足を縛られていて動けない。
「城から来た。あなたを脅しに来たんだ」
「なにを、言ってるんだ」
時計を見る。深夜一時、確か十一時頃に寝た。
「脅しに来たと言っただろ。あなたは、まだ脅されていない。腹を見たまえ」
フン・ペグルは、首を持ち上げ自分の腹を見た。お気に入りの絹のパジャマが裂かれ、ついでに腹も割かれていた。息をすると臓器が血ぬり動く。
「あ、はぁ? なんだこれは」
目を丸くし男を見つめる。頭が混乱する。腹が割かれている。内臓が見えている。
「痛くはないだろ。ちゃんと部分麻酔しているし、あんたが寝る前に飲む水にも痛み止めと睡眠薬を入れておいた。消毒も一応した。殺しに来たわけでも、拷問しに来たわけでもない。両方得意だけどな」
男はくすりともせず言った。
「早く、治せっ! 何をしている」
大声を出すと、内臓がふるえるのが見えたので、フン・ペグルは、あわてて声を潜めた。
「脅しているんだ。あんたを」
男は、手袋をはめた手をフン・ペグルの腹の中につっこんだ。
「や、やめろー」
男は、別の手にはさみを持ち。フン・ペグルの臓器を切りとった。二カ所。胃だ。少しふくらんだそれを持ち上げ、じっくり眺め、水の入った透明のボールに入れ、胃袋を絞り胃の中のものを出した。少しとけたサザエの肝がピロリと見えた。
「胃袋ってのは、無くても何とかなるものだ。最悪、食わなきゃいいんだからな。問題はない」
「ある! 問題ある! 頼む! 元に戻せ! くそ!」
フン・ペグルはロープをはずそうと、もがいたが、びくともしなかった。
「安心しろ。裁判が終わったら後でちゃんと戻してやる。こちらの要求をのめばな」
男は胃袋を洗い、ビニール袋に入れ、それをクーラーボックスの中に入れた。
「要求をのむから早く元に戻せ」
「いい心がけだ。裁判でカカ・カを敗訴にしろ」
「わかったする。するから頼む」
フン・ペグルはプライドを捨て懇願した。
「軽すぎるな。どうも、あなたは状況を正確に理解していないようだ」
このまま、帰ろうかな。などといいながら男は椅子に座った。
「なぜだ。なぜわざわざこんなことをする。カカ・カの敗訴は決まっている。私がカカ・カに勝訴判決を出しても、後の二人が敗訴判決を出す。多数決でカカ・カの敗訴。なぜこんなことをする。あんたこそ状況がわかっていないんじゃないか」
フン・ペグルは寝る前に考えていたことをぶちまけた。
「三人とも敗訴でなければならない。なぜなら一人でも有罪判決が下されれば、国民は黒と判断する。それはまずい。そうなると大規模な反乱が起きる可能性が高いと、城の社会学者が、なぜかそう予想した。それはまずい」
「そんなもの、当てになるか」
「残念だが、たいがい当たっているんだ」
不思議なことに、と男はつぶやいた。
「軍がいるじゃないか。そうだ。暴動が起きる前に警備を強化すればいい」
「それが問題なのだ。場所が悪い。ここは、城の近くだ。王が一番恐れているのは、暴動を期に城に軍が介入してくることだ。原因がなんなのか、などと軍の首脳部が言い出したらどうなる? なんとしても軍の介入なしに、この茶番劇を終わらさなくてはならない。王が一番恐れているのは、民衆でも、こんなちんけな裁判でもない。軍なのだ」
王の下に陸海空の軍がいる。軍がいる限り、民衆がいくら反乱を起こそうと力で押さえつけられる。だが、軍が反乱を起こしたら、それを押さえつけるものはない。
「法はどうなる。法によってすべてを正しい位置に、押さえておけばいいのではないか。裁判がちゃんと行われることが、この国にとっては一番いいことではないのか」
詭弁であることは、フン・ペグルにもわかっている。法の執行も、結局のところは力だ。法律を破るだけの力があれば法を守る必要はない。法では力のある人間を押さえつけることはできないこともわかっている。だが、フン・ペグルは裁判官だ。
「もし陸軍がこの国の政治に介入したら、法律とやらはどうなる。まともに守られると思うか。この国にとっていいことは、軍人が政治に関わらないようにすることだ」
「ああ、そうだな、その通りだ。約束する裁判で必ず王を勝たせる。軍人なんかに政治は任せられない。だからな、な」
フン・ペグルは懇願した。裁判官としてのプライドなど捨てた。今の状況から逃れられるなら、なんだっていいじゃないか。そう思った。
「ふんふん、いいぞいいぞ。少しはわかってきたようだな。では次の段階にはいるとするか。なぜ、胃袋なのか。その説明をさしてもらおう」
「ああ、ああ、説明はもう、いや、ぜひ、続きを聞かせてくれ」
フン・ペグルは男の顔色をうかがいながらしゃべった。
「よし、では説明をしよう。胃袋を取ったからと言って必ずしも死んでしまうわけではない。食道と腸をつなげてしかるべき処置をとれば、たぶん大丈夫だと思う。では、なぜ、胃袋なのか。もちろん、他の臓器をとってもかまわない、肝臓や腎臓、腸だって、どれをとっても、どれだけとっても問題ない。我々にとってはだがね。にもかかわらず、なぜ胃袋という選択肢を我々が選んだのかというと、これは、我々の意志だと思ってほしい。つまり、あなたの命を取る気はないという意志だ。もし万が一、あなたが我々の要求を受け入れなくても、あなたが死ぬことはない。医者に行きたまえ。あなたが我々の要求を受け入れたとして、その後、我々があなたに胃袋を返さなくても、あなたが死ぬことはない。医者に行きたまえ。あなたが要求をのんでも、のまなくても、あなたの命を奪う気はない、要求を受け入れてくれれば、胃袋は返す。要求を受け入れなくても、胃袋は返さないが、命は取らない。そういう取引を結んだと思ってほしい」
この脅しが、どういう性質の脅しなのか、フン・ペグルにはもう一つよくわからなかった。人の内臓を勝手に取り上げ、殺す気は無いだの言われても、にわかに信じがたかった。
「あまり納得していない表情だな。そうだな、お金でたとえてみようか、あなたは、なぜか強制的に、借金を背負ってしまったんだ。借金取りは言う。地道に、こつこつと利子と元本を返すか、一発で返すか、どちらか選びなさい。一発で返せるものなら返したい、だが、あなたには、一発で返すだけの金がない。借金取りは言う。安心しなさい、裁判で少しばかり便宜を図ってくれれば、金はいらない、借金も帳消しだ。さぁ、どうする。こつこつと日々、つらい借金生活を送るか、一発で借金を返し、まあ、すぐには直らんだろうが、元からある胃袋を取り戻すか、こつこつか、一発か。さあ、どちらを選ぶ」
身勝手すぎる話だ。理不尽といってもいい、強制的に借金を負わせるのが問題ではないか、と思ったが、そんなこと言えば何をされるかわからない。どちらにしろ、この場では、彼の要求をのむしかないではないか。
「わかった。要求をのむ。だから良いじゃないか、今すぐ、わたしの胃袋を返してくれ、な」
フン・ペグルが優しく語りかけると、男の表情は曇った。
「まだ、よくわかってないようだ。胃袋は、無罪判決を出さない限り返さない。それをまず、頭にたたき込むように、いいか、この脅しは、暴発を防ぐためにあるんだ。もし、致命的な臓器を我々があなたから取り上げた場合、あなたは疑心暗鬼になる。約束を守っても返してくれないんじゃないかと、不安になる。そこであなたはやけになって、我々との約束を破る可能性が出てくる。それは困るんだよ。だが、もし胃袋なら、あなたが疑心暗鬼になる必要はない。最悪、我々が約束を守らず、胃袋を返さなくても、あなたが死ぬことはない。医者に行けばいい。この脅しは、あなたに余計な心配をさせないために、胃袋という、わりと何とかなる臓器を選択しているんだ。あなたが約束を守って死ぬことは絶対にない。そういう脅迫なんだよ」
ひどい話だ。ひどい話だが、とりあえず、なんにしろ命だけは助かる。なんだか知らないが、フン・ペグルは、ほっとした。
それから一時間ほど、男はこの脅迫について語り、フン・ペグルは城守に奇妙な友情を感じた。一度交わした約束は守らなくてはいけない。約束を守らなくては彼が大変なことになる。この脅迫、いや、この約束さえ守れば、すべて丸く収まる。そんな気になった。男は、麻酔薬と抗生物質と睡眠薬を点滴し、フン・ペグルの食道と腸を、それぞれ縫合し、腹を閉じた。それから目覚まし時計をセットし、また会おう。と手を振り、去っていった。
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