第2話、訴状管理局
ドブゾドンゾの裁判制度は、検事と民事の境目があいまいで、検事裁判を金銭的に解決することもあり、まれなことだが、民事裁判で懲役刑になることもある。ドブゾドンゾの国民なら誰でも、誰をも告訴できる。
首都であるゾドン市の市役所に、訴状管理局が一つある。訴状管理局は各種訴状を受け付け管理するところだ。
デホ・ツ・エは壁に掛けられた時計をちらちら見ていた。デホ・ツ・エは訴状管理局の訴状受付けをやっている。訴状管理局は仕事の始まりが遅く、仕事の終わりが早い。給料に関しても、恵まれている。仕事の内容も、書類のチェックが主な仕事で、何の責任も充実感もないが、仕事上のストレスは皆無と言ってもいい。デホ・ツ・エはこの仕事に満足していた。
そろそろ終わりだ。デホ・ツ・エが机を片付けようとしていたところ、一人の男が封筒を持って、訴状管理局のガラス戸を開けて入ってきた。
デホ・ツ・エは舌打ちをした。男の持つ封筒に、訴状が入っていると考えたからだ。案の定、男はまっすぐデホ・ツ・エの元にやってきた。受付終了時間三十分前、断る理由はまるでない。
男は黙って、封筒から分厚い訴状を取り出した。デホ・ツ・エは、ため息をつき、それを受け取った。
男の名はカカ・カよくある名前だ。職業は漁師、これもよくある職業だ。どうせ油泥棒にあっただの、船がぶつかっただの、くだらないことだろうと、デホ・ツ・エはそう考え、さらに読み進める。要求は死亡給付金の請求、その請求相手は……。
「王……」
言葉を失った。
あり得ない。何かの間違えではないかと、三度見直した。間違いない。請求相手の欄には、王の名が書かれていた。
「こ、これはなんなんです?」デホ・ツ・エは震える声で聞いた。
「訴状だ」
カカ・カは平然と言った。そんなことはわかっている。そんなことを聞きたかったわけではない。
「こ、こ、こ、これは受け付けられません」
デホ・ツ・エは書類を返した。
「なぜだ」
「なぜって、あんた、何を言っているのかわかっているのか!」
デホ・ツ・エは大声を出し立ち上がった。他の職員がぎょっとしてデホ・ツ・エを見る。慌ててデホ・ツ・エは椅子に座った。
「書類に不備があるのか?」
「不備、不備もくそも、こんな訴え認められない」
デホ・ツ・エは声を抑えた。
「何が問題だ。俺は訴状を書いた。あんたはそれを黙って受理すればいい」
「受理だって」
デホ・ツ・エは、恐れおののいた。この書類を受理するということは、自分のサインをこの書類に書かなくてはいけない。自分の名前がこの訴状に残る。そんなことになったら、自分は自分は、どうなるというのだ。
「早くしてくれないか」
カカ・カはいらだった声を出した。
「と、とにかく、精査しなくては」
デホ・ツ・エは下を向き、訴状をめくった。まるで頭に入らない。何度も何度もめくる。その間どうすれば、この状況を打破できるのか考え続けた。まだかまだかと、せっつくカカ・カを無視して、デホ・ツ・エはとうとう三十分間、訴状をめくり続けた。受付時間終了のチャイムが鳴った。
「申し訳ないですが、時間が来ましたので、また明日来てください」
デホ・ツ・エは祈るように言った。
「なぜ明日、来なくてはいけない。そっちで書類を預かっておいてくれ」
「い、いえ、それは困ります。また明日来てください」
「なぜだ。たっぷり見ていたじゃないか、書類の受理になぜそんなに時間がかかる」
「と、とにかく、明日来てください」
デホ・ツ・エは必死に訴状を突き返した。肘をつき、祈っているようにも見えた。
「わかった。明日、朝一番に来る」
カカ・カはそう言い残し、訴状管理局を後にした。残されたデホ・ツ・エは顔を伏せ、じっと椅子に座っていた。他の職員がデホ・ツ・エに話しかけたが、何も答えず、頭をひたすら振っていた。
訴状管理局にデホ・ツ・エ以外、誰もいなくなったあと、デホ・ツ・エは立ち上がって、ふらふらと訴状管理局を出た。
夜、デホ・ツ・エは、最近できたばかりの大通りまで歩き、車をじっと眺めていた。真新しいアスファルトの上を、車が何台か通り過ぎる。ドブゾドンゾでは車を持っている人間は少ない。王の親族か重要官僚、もしくは、その妻ぐらいなのものだ。デホ・ツ・エは、それをじっと眺めている。赤い車が現れた。それほどスピードは出ていない。中年の女性が運転をしている。
あれで行こう。デホ・ツ・エは車に向かって飛び出した。
次の日の朝、訴状管理局が開くと同時に、カカ・カは訴状管理局の扉をくぐった。昨日来たときと同じ受付に行ったが、昨日の男とは違う男が座っていた。
「訴状を持ってきた。早くしてくれ」
カカ・カは訴状の入った封筒を受付けの男に渡した。受付けの男は怪訝な顔をして受けとった。昨日来ていた男じゃないかと思ったからだ。中の訴状を見、もう一度見、なぜ昨日、同僚のデホ・ツ・エの様子があんなにもおかしかったのか受付けの男は理解した。ちょっ、ちょっと待ってくれ。受付けの男はそう言い残し、上司のもとへ飛んでいった。一人残されたカカ・カは、待合室の椅子に座り、鞄から取り出した本を読んだ。
三十分ほどして、訴状管理局の局長がカカ・カの元へやってきた。
「あの、とりあえず、こちらに来ていただけませんか?」
カカ・カは案内されるまま、訴状管理局の中の一室に通された。黒い革張りのソファーと中央に机があった。中には局長とさっきの受付けの男が立っていた。
「とりあえずお座りください」
カカ・カは黙って座った。
「ああ、あの、この訴状の件なんですが、その、引っ込めてもらえませんかね」
局長は訴状を指さした。
「だめだ」
カカ・カは言った。
「そこを何とか、わかってらっしゃるでしょ。今なら私どもの方もねぇ、無かったことにして差し上げられますよ」
局長は周りを見渡し、へへと笑った。追従するように受付の男もへへと笑った。
「わからない。無かったことにしてもらっては困る」
局長の笑顔が引きつった。
「そうですよね。ただ無かったことにしてしまっては困りますよね」
と言い、局長は手を受付の男に出した。受付の男は懐から封筒をとりだし、局長の手に乗せた。
「こちらと、交換と言うことで、ね」
局長は金の入った封筒をカカ・カに差し出した。
「だめだ」
「まぁ、そう言わずー。お困りでしょう。とりあえずね」
「俺が困っているのは、あんたらが訴状を受けとらないからだ」
局長は再び、手を出した。受付の男が再び懐から封筒を出し、局長の手に乗せた。
「これで、これでどうーだ」
局長は、金の入った二つの封筒を差し出した。
「裁判官を呼んでくれ」
カカ・カが言った。
「な、なぜです」
「直接裁判官に訴状を渡す」
訴状管理局は書類の不備を確認し、訴状を裁判官の事務所に送るのが仕事だ。それを事務方が各裁判官に振り分け、裁判を行なう。そういう仕組みになっている。
「呼べるわけがない」
「なら俺が直接裁判官に手わたす。訴状管理局で訴状受け取りを拒否されたと言ってな」
局長は青ざめた。訴状管理局は裁判を円滑に行なうために存在している。もし、その訴状管理局が、訴状の受け取りを拒否したなど裁判所の耳に入れば、局長の責任問題になりかねない。
「あんた、あんた何をしたいんだ」
「裁判だ」
こいつは本気だ。局長はやっと理解した。いたずらでも金銭目的でもなく、本気で王を相手に裁判を行なうつもりだ。
「裁判なんてしてどうする気だ。誰を相手に訴えているのかわかっているのか!」
局長が真っ赤になって怒鳴った。
「訴状を読んだだろ。王を訴えているんだ」
カカ・カは平然と答えた。
「たかだか、たかだか死亡給付金で、王を訴えるというのか! それならこの金を受け取れ! こっちの方が多いぞ!」
局長は封筒を握りしめた。
「いらん。それはあんたらの金だ。俺は王を訴えたいんだ。なんの問題がある」
ない。死亡給付金の請求をすることも、そのために王を訴えるということも、書類上、法律上、なんの問題もない。ただ、局長以下、訴状管理局の人間の立場が、問題なのである。この国には不忠罪という法律がある。王に対して、悪意ある噂を流したり、批判や敵対行動を起こした場合、それを不忠行為と断じ、それを行なったものは厳しい処罰を下される。また、それを幇助したものにも同様の厳しい罰が与えられる。今回の件、訴状管理局の面々が恐れているのは、不忠行為幇助の罪である。つまりカカ・カの訴状を通した場合、カカ・カの不忠行為を幇助した罪に問われる可能性があるということだ。そもそも不忠行為という考え方そのものが、きわめて曖昧な定義で判断されるため、不忠行為幇助罪はそれに輪をかけ曖昧な定義で処罰される。実際、二十年ほど前、ここの訴状管理局でそれが適用されたことがある、という話を局長は聞いたことがある。その時どのような処罰をおこなわれたのか、なにが問題になったのか、誰も知らなかった。ただ、王族関係の訴状に巻き込まれたという話だけは残っていた。
「私たちはどうなるんだ! 私たちを巻き込む権利があんたにあるのか!」
局長は初めて本音をしゃべった。受付の男もうんうんとうなづいた。
「訴状をあんた達に渡す権利は俺にはある。ここは訴状管理局だろ。訴状を渡して何が悪い」
正論だった。局長は半分浮かせた腰を落とした。
「わかりましたよ。あなたは何にも間違っちゃいない。我々は訴状管理局だし、あなたは書類を持ってきた人だ。書類に不備もない。受理するのが当然なんです。なにがどうなろうと、それが仕事なわけですから、どうしようもないんですよね」
局長は受付の男を見た。受付の男は、おびえた顔で後ずさった。局長はしぶしぶ自分のペンを出した。
「そういえば、昨日の受付けはどこにいる」
カカ・カは、ふと思い出した。
「病院です。昨日の夜、たまたま交通事故にあったそうでね。入院中です」
局長は疲れた顔で答えた。うらやましい、いや、わざとか、この件から逃れるため事故にあったのか。
「俺は昨日もここに来た。そいつのサインをそこに書けば、いいんじゃないのか」
局長の顔が明るくなった。
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