第五章 第二節

 ラウンジには指令を始め、作戦サポートの若い男性。ジョナサンとノルン、そして少尉が集まり最後にムムが『全員そろッタな』と存在を示した。

「ミスター・ジョナサン……」

「少尉。お嬢様は無事です。応急処置が早かったのが功を奏しました」

「それは、よかったです」

「私からしてみれば、肋骨にヒビが入っているのに普通にしているあなたの方が心配ですよ」

 少佐の体は機内の救護室に安置されていた。少尉も帰還後検査を受けたが、体中の銃弾による掠り傷と、二人を庇いながら着水した衝撃でヒビの入った肋骨以外、これといった問題はなかった。

「いいかな。二人とも」

「ええ」

 指令に呼びかけられ、少尉は座る。

 それに倣い指令も座り、促されたノルンも座る。若い男はぎくしゃくと立ったままリモコンを持ち。ジョナサンは「お茶を淹れてきます」とラウンジを後にした。

「頼む」

 指令が低く震える声で言う。若い男がリモコンを操作してスクリーンに映像を映した。

「ボートの発表に対して、世界の動きは二つに分かれた」

 左右に表示される幾つかの企業と国家。

「ボートに寄り、その力の恩恵を受けようとする勢力。そしてその流れを恐れ対抗する勢力」

 左側に表示された三つの国家と四つの軍事企業がピックアップされる。

「二十分前。三大国主導のもと、その三国と契約を結んでいる企業が協力し、初の大型合同作戦が展開された。ボートの独立武装国家を潰す為だけにだ」

「    」

 総兵力が数値として表示され、少尉は言葉を失った。

『……こノ戦力、海底マで削るツもリカ?』

 その衝撃を、ムムが言葉にする。

「それで、結果はどうなったんですか?」

「…………」

 指令は次を促した。

 スクリーンに表示されたのは、手振れの激しい高画質の動画。

 地上と海上から放たれた無数のミサイルが、夜闇の向こうで淡く浮かぶ洋上プラントに向かっていく。

「――っ⁉」

 そして、それらは空中で次々と爆発した。畳みかけるように逐次発射されるミサイルも、全て空中で無に帰している。

「巡航ミサイルを、空中で全て迎撃したというのですか――⁉」

「それだけではない。二の矢に用意された突入部隊も、全て海上で迎撃された」

「一番接近した部隊でも、プラントまで六キロで沈みました」

 若い男が眼鏡を直してそう付け加えた。

「その後もステルス機による高高度爆撃とヘリ部隊低空侵入の混合作戦が実行されたが――」

 指令は首を振った。同時に新しい映像が表示される。有名な動画サイトのものだ。

 白い空間に等間隔で配置された正十二面体。それらが収束する中央に置かれた黒い箱。その前にボートが立っていた。

「おはよう、全世界の諸君。さすがにもう分かっただろう」

 映像の中でボートが声を出す。

「まあ、訳も分からずってのは少し可哀そうだからね。種明かしというこう」

 叩いた両手を広げて、空間を示す。白と黒のコントラストの世界を。

「これらが何か、熱心に世界事情を追っている者なら、ピンとくるだろう?」

『カロープカ・ナヂェージダ――正体不明の武装集団に破壊さレタと聞いテいたガ』

 ムムが即答する。

「何ですか? あれは」

「世界最高の性能を持つとされいるスーパーコンピューターです。ウスチ=ネラの山奥で開発されていましたが、数週間前に強奪されました。彼と彼の私兵によって」

『世界最高ノ量子コンピューターとモ言わレテいルが、詳細は謎ノマまだ』

 技術分野二人の解説に、指令が咳払いでもって割って入る。

「重要なのは、彼がこれを使ってモスクワを核攻撃しようとしていることだ」

 その言葉が言い終わるより先に、唐突に椅子が動く音がした。

「あ、あれがあれば、そんなことまで出来るの……?」

 そこにいた誰よりも、ノルンが一番驚いていた。

「ああ、あの動画で彼自身がそう言った」

「そ、そんな――」

 不可能です、言いかけて彼女は口を噤む。

 別れ際にボートが言った言葉。

 彼はノルンに「君は必要ない」と言っていた。それはつまり――

「もう既に――私を遥かに上回っているというの……?」

 頭を抱えて独り言を言っているノルンに、半ば置いてけぼり状態な二人。

『なア、話の全容ガ掴めナいンダが』

「…………」

 ずっと外野として関わってきたムムとは対照的に、少尉にはある考えが頭に浮かんでいた。

「彼が開発したゲームチェンジャー兵器――〈ラプラス〉の能力は、未来を予知すること……」

 その考察が正しければ、これまで起きたすべての事実に、彼が吐いた言葉の全てに、理屈が通る気がした。迎撃能力の高い現代では不可能な超長距離ミサイル攻撃が可能だと思えた。

「概ね、その認識で間違いはない」

『冗談きツいナ』

 少尉の考えを否定する者はいなかった。

「だとしたら、あの黒いのは私の妹――ってことになるんですかね」

 そしてノルンの憔悴した声で、大体の解が示された。

『オイおい、つマリあの暗視装置のブらっクボっクスもオ前なノか? いヤそれ以前ニ、オ前は未来ガ見えルトでも言うノか』

「そう、ですね。そうとも言えます。私の脳の……機能と、言いますか」

 ムムの畳みかけるような。質問に、ノルンは自信なさげに応える。

『少尉――』

「彼女の言っていること、少なくとも嘘とは思えません」

『マジか……まじなノカ……なるほどだから暗視装置とマイクロドローン、それからカロープカ・ナヂェージダ』

「あのマイクロドローンも何か関係があるんですか?」

『アア、そこノが言ってイルこトが確かナら、マず課題になルのハ演算能力ダ。その、はずだ――』

 理解の速いムムは即座に兵器に関する考察を組み立てて、逆に質問をした若い男に解説した。

『人間の脳機能ヲ小型化・携行可能ナ兵器に置き換エテ使うノは、ケっこう……いヤかナリ現実的ジャなイ』

 そう結論し、そして『未来を見るナンて処理をシヨうってンなら並ノPCでモ不可能ダ』と付け加える。

「ですが、ホテルで戦った敵は、充分にその機能を使えていると感じましたが」

 少尉も純粋な疑問を上げる。同時に自分に発言に妙な引っ掛かりを覚えた。果たして機能を充分に使いこなせていたのだろうか。思えば、時折その機能に振り回されているようにも感じた。

『そコで、暗視装置とマイクロドローンなんダロウ。あそコまデ過剰にマいクロどろーンがばラ撒かれてイタのは、暗視装置と通信しナガら大規模な仮想大脳を作るタめだっタンだ』

 そこまで説明されて、若い男は初めて合点がいったようだった。しかし少尉は渋い顔をする。

『マあ細かい理屈は私にモわカラん。そもソも未来予知自体が現実的じャナいんだシな』

 ドウなんダ、とムムはノルンに話を振る。

 それまで黙って俯いていたノルンは、おずおずと話し始めた。

「詳しいことはわかりませんが、ボートが研究していた時から演算能力は一つの課題だったと思います。それから――目の数が多ければ多いほどいいとも」

『目の、数?』

「はい。私のこれ、実は未来予知とはちょっと違うんです。ラプラスの悪魔ってご存じですか?」

『んまあ、何とナクは』

「自分もそんな感じです」

「何ですか? それ」

 最後に応えた少尉に、皆の視線が行く。

「確定した未来を計算によって観測することができる概念上の存在の事だ」

 事の全容を知っていたらからこそ黙っていた指令が少尉に説明した。

「私の脳と、この瞳にはその機能があるらしいんです」

『…………えエっとツマり、お前の眼にハ通常見えなイヨうな情報が見エテいて、そレを脳が計算しテ未来を見せてイルと、そウ言いタイのカ』

「らしい、です」

「らしいってそんな――だってラプラスの悪魔は否定された仮説じゃないですか」

 理屈の世界で生きてきた二人があからさまに困惑した。

 少尉と指令はその力を身近に実感していたため、理屈以上に理解できる部分があった。

「私も、そしてボートも詳しくはわかっていないんです。私には至って普通にモノが見えますし、脳も普通に機能しています。ただ物事の結果が並行して見えるだけで」

 ノルンの言葉にスピーカー越しのムムが仰け反りながら『わからないものをわからないまま使う、か』とぼやくのが聞こえた。

「奴は元々、モスクワの研究所でこの兵器を研究していた。だが、我々が襲撃する前に自らの私兵を用いて研究所を襲い、あらゆるデータを持ち去って行方を眩ました。後に残っていたのは隠れていた彼女と、ソフィアだけだった」

「ソフィアは――彼女は研究所で私の身の回りの世話をしてくれていました。幼い頃からそこにいて、私に優しくしてくれたただ一人の人でした」

 最期のぬくもりの、その名残を思い出すようにノルンは頬に手を当てる。

「研究が打ち切りになって、研究所ごと国から切り捨てられて、私には研究所が襲撃される未来が見えた。だから、私は彼女を庇って一緒に隠れていました」

「そうか」

 指令はノルンの背中に回そうとした手を、そっと引く。

 彼女がこの少女に優しくする姿を見ていて、見ていたからこそ、それが彼女にとってどれだけ辛い選択なのかは理解していた。そのつもりだった。

 偶然人と違うことが、運の悪い巡り合わせで世界を危機に陥れる。

 そんな現実、普通の少女には耐えられない。否、どんな人間だって受け入れられる訳がない。

 まして、そんな現実に加担していたら、普通は目を背けるのが身を守る判断だ。

 彼女はそんな常識を振り切ってノルンに寄り添い続け、いつだって「貴方のせいではない」と言い続けたのだ。罪滅ぼしだとしても。そんな苦痛ある選択を最期まで突き通した彼女を、指令は心の底から理解することは叶わなかった。

『問題ハ』

 静まり返ったラウンジに、ムムの声が投げかけられる。

『これカらどウスるかだ。ダロう?』

「ああ、そうだな」

 指令がそれに呼応した。

「ですが、現実はかなり絶望的ではありませんか?」

 若い男は眼鏡を直すが、カチャカチャと手が震えてあまり意味を成していない。

「圧倒的に不利ではあるが、まだ終わっていない。幸か不幸かボートの存在が我々では手に負えなくなったからな。これからは組織の全面協力を受けられるというわけだ」

「だが、あの〈ラプラス〉による迎撃力――そもそもあの海洋プラントは何なんですか? ただの海洋プラントとは思えない」

 少尉も頭を切り替える。あれだけの防衛設備を備えた海洋プラントなど見たことも聞いたこともない。

「あれはまだ合衆国が合衆国だったころに建設したものです。表向きは国連の海洋環境調査プラント。その実態は来るべき次世代戦争に備えての海上要塞でした」

「だが戦争が来るより先に恐慌が訪れ合衆国は散り散りになった。その結果所有者のいないアレやああいった大国の遺物が太平洋上には点在している。あの要塞は中でも取り分け固く大きく大規模で、かつ完成されたものだ」

 若い男と指令が説明する。

「そんなに強い拠点なら、どこかの企業が所有していてもおかしくはないのでは」

「そこはもちろん、あの要塞にも弱点があるからだ」

「弱点、あるんですか?」

 ノルンだけではない、そこにいた若い男を除いて誰もがその言葉に強く惹かれた。

「ああ。拠点を大きくしすぎて維持費が膨大になってしまったことだ。それこそ全方位から攻め込まれれば侵入を許しかねないほどには。故に、それを防衛するための弾薬費およびそれを運用する費用も現実的じゃない」

『アれそれっテ――』

「そう。〈ラプラス〉によって概ね解決している」

 未来が見えれば、必要なところに的確に無駄なく資材を費やすことができる。

 おまけに最強にして最終の兵器を市場で独占すればその純粋利益は兵器ビジネスを根幹から揺るがすものだ。少なくとも人類文明が滅ぶまでは維持できるだろう。

「さらに要塞自体の耐久性が核戦争を意識して建造された為、直接的な攻撃は効果が薄い」

「…………」

 もはや誰も言葉が出ないほど状況は絶望的だった。

「どこに……我々に勝てる要素があるんですか……」

 少尉の表情は見るからに渋くなった。

「――――勝機は、あります」

 絶望を晴らす一言が、そこに一本垂れ下がった。ゆっくりと顔を、声のした方へ向ける。

 そこには、強い眼差しで少尉を見るノルンがいた。

「ああ、組織の力と、それから君たちの力があれば、僅かにだが勝機はある」

『ドこから湧クんだソんな自信――』

「それは、いいことを聞いたね」

 ラウンジの入り口から、凛とした声が投げかけられた。

「少佐!」

「皆水臭いね、私をほっぽって話を進めるだなんて」

 発言こそいつもの少佐だが、彼女の瞳は鋭く気迫が満ちている。

「足はもう大丈夫なんですか」

「ああ、この通り」

 少佐は普通に歩行し、少尉の隣に座った。

『実はずッと救護室ニ音声を繋いデイた』

「ムム……」

『悪いトは思ッテいナいぞ』

 そして、後からラウンジに訪れたジョナサンが熱い紅茶を皆の前に置き、話が進む。

「それで、具体的にはどういう算段なんだい」

 紅茶を一口、それから少佐が切り出す。

「ああ。まず、前提としてあの要塞を外部からの攻撃で落とすのは不可能だ」

「となると、内部からですか」

「ああ。この場合はボートの抹殺およびあのコンピューター――〈セリブラム・ラプラス〉とでもするか──それの破壊が必須事項となる」

『暗視装置の方ハどうスルんダ』

「それなら、君自身が無効化する方法を見せていくれたではないか」

 指令はムムの質問にあっけらかんと応えた。

『あー』

「――? どういうことだい?」

 ホテルでは一人分の通信しか復旧されていなかったため、少佐は事情を知らない。

『少尉ニ通信を繋イだ時、通信機ヲ使ッて奴らノねットワークに侵入しタ。その時一時的にダガドローンをくラッキングしたンだ』

「所詮は機械。侵入さえできれば破壊できるということですね」

 若い男が眼鏡を直して胸を張る。ムムの『ふん』という息遣いも聞こえた。

「では、〈セリブラム・ラプラス〉の方も同じように破壊できるのでは?」

「ああ! 確かに! あなたなら可能なのではないのですか⁉」

『あーそレなんダが』

 興奮気味の若い男に対して、ムムは急に委縮する。

「すでに世界中の技術者が試して、オフライン状態で起動していることが確認された」

「なんだぁ」

「やはり我々が侵入して、ムムがハッキングできる状態にしないといけないようだね」

『いヤ、すマナいがソれはムリだ。〈ラプラス〉だケナら同じヨうにでキルだろウが』

「え、そうなんですか? ムムさんってすごいはっかーなんですよね」

 ノルンが純粋に疑問をぶつけると『んンむゥ』と奇妙な唸り声が聞こえた。

『本体ノ方の――実はアれのセキュリティを構築しタの、私っぽイんだ』

「そうなんですか」

 言って、少尉は紅茶に口をつける。

『アあ、今いろいロ調べてたラ数年前匿名でセきュりティ構築を依頼しテきた奴ノ正体を見つケテな……どうヤらソイつが関ワってイタのがカロープカ・ナヂェージダの開発らシクて』

「そう聞くとむしろムムが適任に思えるけどね」

『大変心苦しいが私ニモ……といウカぶっチャけ人類にハ無理な設計にナってる』

「え、どういうことですか?」

 若い男がぽかんとした顔で尋ねる。

『こノ輸送機の内部ネットワークと同じ防衛システムっテ言えバ、二人は理解しテクれルか』

 そこまで聞いて少佐は「あー」と目線を泳がせた。少尉はカップをゆっくりと置くと溜息をつく。

「……確か、AIによるファイアウォール自動生成システムでしたっけ」

『せ、正確ニは、自己学習型ファイアウォール自動生成アルゴリズム……』

「正式名称を聞いているじゃないんだよ」

『す、スマン』

「そ、それってすごいんですか?」

 おどおどした様子でノルンが聞く。

『自分で構築シたセきゅリティに自ら侵入を試みテ脆弱性を補いなガら常に強ク、全く違うセキュりてィを構築すルしステムだ。私のAIカら生み出シた』

「となると、やはり物理的な破壊が必要か」

「多分、並みの工具では破壊できないと思います……」

 若い男が自分の端末で外装のカタログスペックを見せた。今回の騒動を受けて研究所が公式に出したものだ。

「……組織から工作班の人員を借り出さないといけないな……」

「どうしてこんなもの作ったんですか?」

 ふと、少尉は頭に受かんだ疑問を口に出した。

『か、金払いガよかッタかラ――小国の国家予算位ヲ、前払いデ一括――』

「いえ。もういいです」

 これ以上何を聞いても話は前に進まない。それよりも

「どうやって侵入するかです。まずはそこを考えなくては」

「そこは、少尉さんの出番です」

「わ、私ですか」

 まさか自分の話になるとは思わなかった少尉は言葉に詰まった。

「はい。少尉さんは『祖父殺しのパラドックス』って――ご存じないみたいですね」

「『祖父殺しのパラドックス』? また否定された理論かい?」

「はい」

 ノルンの背筋がぴんと伸びる。力のこもった小さな拳が両膝の上で白くなる。

「話の腰を折ってすみません。それ、何ですか?」

「ん? ああ、元々は過去に戻って自分の両親が生まれる前に祖父を殺したらどうなる? っていう思考実験だよ」

「それって……どうなるんですか?」

「そこは、もう否定されている。数理物理学によって」

「指令もお詳しいですね」

 少佐は指令をからかいながら紅茶に口をつける。指令は「まあな」と先を受け持つ。

「簡単に言うと、現在が確定している時点で過去に介入しても、大きな改変はできないと結論づけられた。祖父を殺そうとすれば『祖父を殺そうとした奴がいた』という事実は発生するが、それは必ず失敗に終わるという訳だ」

「なるほど。それがどう関係してくるんですか?」

 感心した顔で少尉はノルンに向き直る。彼女は何かを反芻するように頷いてから話し始めた。

「思い出してください。私の眼の機能――『ラプラスの瞳』について」

『目ニ見エる情報を計算しテ未来を見る――ッ!』

「つまり、君は確定した――いや、確定していく過去から確定した未来を見ているという、そういう解釈でいいのかな」

「はい」

 いずれは話す事になる。だからその時が来るまで彼女は心の中で何度も繰り返し話した。

〈ラプラス〉と〈祖父殺し〉の話を。

「もともとボートは、未来に重大な介入ができない兵器を開発してました。それでも未来が見えるというのは十分強力だったからです。過程には介入できるので」

 はっきりと、しかし慎重に言葉を選択し紡ぎだすノルンを見て、指令と若い男は黙る。

「ですが、彼は気づいてしまった。自身が未来に介入できることに。詳しい理由は知りませんが、彼があんなことをしたのはこれが一番大きな理由だと思います」

 その言葉に、少佐は珍しく言葉に詰まる。

「ま、待ってくれないかな。ノルン君。君さっきと言っていることが真逆だよ」

「〈祖父殺し〉とは一種の能力です。彼自身が持ち、そして彼が提唱した」

『何をいッテ……過去が確定スレば、未来が確定すルと示しタノはお前自身ダぞ』

「確定した過去にも、未来にも介入し、改変できるとしたら」

 言ってノルンの瞳は少尉を真っ直ぐ見つめる。

 思わず前傾で聞いていた顔が後ろに引き、自然と背筋が伸びた。

 この少女は、たった一人で三人を圧倒していた。

「これが、私が考える勝機です。ホテルで一緒に行動して、私は少尉さんに〈祖父殺し〉の力があると確信しました」

 少佐がゆっくりと首を曲げる。少尉を見る目が、いつもの何かを見通す目ではない。疑念の色だ。

「そうなのかい?」

「私に聞かれても――ノルン、さん――つまり貴方には、常に私の死が見えていたということですか?」

「いいえ。違います」

「では――」

「私が〈祖父殺し〉の人――ボートや少尉さんといる時は、分岐した結果が同時に見えます。時間が経つと共にそれは減っていって、やがて一つの結果だけが残ります。見えているうち半分の未来では、死んでいましたが……」

「……戦闘中は、あなたに生かされていたということですか」

「できるだけそうなる様にしてはいましたが、やはり一つ一つの選択のたびに無数に結果が分岐するので……確実に少尉さんが生き残れるという自信はありませんでした」

 そこまで聞くと、少尉は黙り込んだ。

 無数に浮かんでは消えていく疑念と思考が纏まらず言葉が出ない。

 今まで選んできた――逃げるという選択の数々が唐突に重みを伴って自分を圧し潰そうとしているような気分だった。

 逃げ続けたからこそ自分がここにいるという自覚はあった。しかし、間違え続けたから今の世界があるのかもしれない。

 そんな現実がどこかに存在するとしたら。

「――少尉」

「――っ」

 肩に手を置かれて我に返った。しかし、思考は夜の海のように不明瞭なままだ。

「す、すみません、少佐」

「君とボート。今正しいのはどっちだ」

「そ、それは、わかりません――」

「いいや。わかりきっているさ」

 いつもより声色強く、強い力で肩を掴む。両肩を掴まれて、正面から少佐の顔と向き合う。

「君だ。間違いなく」

「そ、そんな――」

「君がノルン君を助けに飛び込んだ時。私は君の選択を誤りだと考えた。だが現実はどうだ?」

「――っ、そ、それは」

「改めてすまなかった少尉。君の選択は間違っていなかった」

「い、いえ、独断専行をしたのは私です。皆さんの選択こそあの場では最良でした」

 脳裏に思い起こされたのは、ソフィアの言葉。無意識を信じる、誰の為でもなく。

「未来を見て、選択的に未来を変える人間と戦うには――戦って勝つには同じことをしなければ不可能です」

「ほらね? 君の選択は間違っていない。いいね」

 ぐっと、肩を掴む手に力が籠る。痛みのない、心地いい熱がそこに伝わる。

「そ、そう言われても――」

「勘違いしているようだが、何も君の背中だけに未来が託されたわけではないぞ」

 静かに見守っていた指令が口を開いた。

 見れば、ソファにゆったりと体を預けて、しっかりとソーサーを持って紅茶を飲んでいた。

「彼女の力には限界がある。どれだけ理解不能な能力だとしても、しっかりと脳には負担が掛かっているのだから」

「そういえば――」

 言われてみれば、戦闘中の彼女の表情は苦痛に歪んでいた。

 ノルンに視線を戻せば、彼女はいたずらがバレた子供のような表所を浮かべていた。

「まして、二人してゴムボートに乗って敵に突っ込めばすぐにその子の脳が焼ききれてしまうだろう」

 紅茶から離した目線は真剣そのものだ。

「だからこそ、全力の支援が必要だ。その子に降りかかる火の粉を減らすために」

 少尉は改めてノルンの方に顔を向けた。正面から真っ直ぐ見据えられ、恥ずかしそうに目線を動かしている。

 これだけしっかりしているのに、節々に見られる反応は見た目のままの少女のそれだ。

 その視界の隅で、もう一人のもっと小さな少女が立っているような気がした。

 視野外でぼやけて見えていても、その子が笑っているのが分かった。

「――つまり、あなたは私と共にあの戦場に飛び込むというんですか」

「足手まといになるのはわかっています。それでも、私はあそこへあなたを連れて行かないといけません」

「……ここからモニタリングしながらというのは」

「実際に肉眼で見ている方が良く見えるんです。それに――」

「それに?」

「い、いえ、何でもありません」

 さっと顔を逸らすノルン。連動して、黒い長髪がするりと揺れた。

 視界の隅に映った短い黒髪の少女は、笑ったまま言う。

「――もう、決まった?」

 そんな最期を迎えられたら――今それがはっきりとわかった。

「――ああ。そういうことか――」

「は、はい? 何か言いましたか?」

「いえ。なんでもありません」

「そ、そうですか」

 ゆったりとカップを持ち上げた。

 その、今までに見たことのないほど穏やかな横顔を、少佐はじっと見ていた。何かを言いかけて、しかし口を結ぶ。

 その横顔から目を逸らすと、視界に映った若いと男をからかって気を紛らわすことにした。

「随分緊張した面持ちだね。何かあったのかい?」

 ついさっきまで指令に何かを耳打ちしていたのは視野の範囲内ぎりぎりで確認済みだ。

 男は酷く動揺していた。

「え、ああ、いやえっと……」

『脈拍上がッてるゾ。優等生』

「そ、そんなことはっ――」

「いや、いい。私が話そう」

 指令は立ち上がり、大きく息を吐く。これまで聞いたことのない明確な溜息だ。

 瞳も先ほどまでの熱いものとは違う。ネクタイを緩めると腕時計を取り机に置く。

「先ほど彼の端末に連絡があった」

「連絡があったって、どこから」

「コンコルディアからだ」

「コンコルディアって……組織から?」

 皆から離れて背を向ける指令を見るノルンの眼が薄鈍色と鈍色を入れ替えて鈍く光る。

「組織はデータを介してやり取りしないのでは。確かにここは地上とは断絶されているけど」

 少佐は「世界を統べる組織の機密意識もまだまだだね」と紅茶を啜る。視線は指令から外して棚に並んだブランデーを見ていた。

「…………」

「指令? あの、まさか――」

 何も言わずに俯いた指令を心配そうにノルンが見ていた。

「――すまない」

「謝罪はもういいですよ。それより早く作戦を立てましょう」

「そんな――」


「組織は、この案件を――――ボートの任務を終了すると決定した」


 パシャリ、と液体が飛び散る音がした。お湯が出す特有の、少しくぐもった音だ。その音に、カーペットにカップが落ちる音が隠れていた。

 それらに、すぐ追いついた音があった。

「どういう意味だい指令」

 少佐の震える声だ。いたって落ち着いた雰囲気で、カップを拾う。

 しかし、ソーサーに乗せる瞬間、それが小刻みにカチャカチャと音を立てた。

「……そのままの意味だ。組織は、ボートの存在とそれに付随する世界に動きに一切関与しないことを決定した」

「だが、アレを野放しにしたら世界が危険なんだろう。今はっきりと証明されたじゃないか」

「組織は、世界の運命は決したと見ている」

「――だったら‼」

「その上で、この結末こそ世界のあるべき結末だと決定した」

「ふざけるな!」

「少佐!」

 指令の胸倉を掴んだ少佐の動きは、とても太腿に銃創がある人間とは思えない速さだ。

「あなただってわかっているはずだ‼ あれが世界に流通すれば! 確実に迎撃されない核が発射されれば! そんなものを扱う人間がっ、世界を滅ぼしたいと本気で考えている人間が未来を変えられるとしたら!」

「…………」

「それが分かっていて諦めるというのか⁉」

「少佐……」

 その場にいる誰もが、様々な理由で動揺を隠せないでいた。

 若い男とノルンは、激しく激昂する人間に対して恐怖に近いものを。

 少尉は、それまでと違う生き物を見ているような気分を感じて。

「……すまない」

「――ック――このっ――」

 ただただやるせない、眉間に皴を寄せた表情を向けられ、少佐の手の力が緩む。

「組織が諦めるというならッ! 私達だけでやってやる!」

 指令を突き飛ばし、その反動でふらつき咄嗟に少尉が支えに入る。

「放せ少――いや、支度をしろ少尉。ノルン、君もだ」

 名指しされ、ノルンは口を開いたものの、乾ききって張り付いた喉から声が出ない。

「少佐。やはり足が――」

「私はいたって正常だ!」

 強力な力で地面に叩きつけられる。

 次の瞬間には指令の靴が視界に映った。その視界に倒れる少佐がスロー映像のように入り込む。

「少佐――小――」

 彼女の、酷く青白い顔が映りこんだ。



「立て続けにいろいろありましたからね。さすがのお嬢様も、限界だったのでしょう」

 ベッドに横たわる少佐を見る。苦しそうな表情に、濡れた銀の絹糸が張り付いていた。

 そっと人差し指でそれを払い、少尉はジョナサンに聞く。

「本当に、感染症の類ではないんですね?」

「ええ、はい。その点は問題ございません。昔から動揺すると熱が上がるお方なのですよ。こう言ってはなんですが、要は知恵熱の類ですね」

「そう、なんですか……」

「ええ。昔は体がそこまで丈夫ではありませんでしたから」

「では、なぜ――」

 ジョナサンは穏やかに笑うとベッドに背を向ける。

「それは、お嬢様から直接お聞きになるのがよろしいでしょう」

 静かに告げると、音を立てずに去っていく。

「解熱剤を投与しました。すぐにいつものお嬢様に戻りますよ」

「…………そう、ですか」

 少尉もそれに倣い、静かに冷却材を小さな額に乗せた。

「………………まったく、昔から彼だけには狸寝入りが通じないね」

「起きていたんですね」

「ああ」

 ゆっくりと瞼を開けた少佐が手の甲を冷却材に乗せて「はぁ」と熱のこもった吐息を漏らす。

「すまない少尉。あんなこと」

「いいえ。大丈夫です」

「いくら動揺していたとはいえ、あんな横暴。指令にも悪いことをしたね。彼も、同じくらい苦しいはずなのに」

 どこか虚ろな瞳で暗い天井を見上げ、ぼんやりと言葉を繋ぐ。

「どうして、そこまでこだわるんですか?」

 何も聞かずに休ませる。そういうこともできただろう。

「誰の目にも、彼が世界を滅ぼすことは明らかなのに――もう、私達には戦う力がないのに」

 熱を持って潤んだ瞳が、ゆっくり動き少尉を見た。出会った時と変わらない真実を射抜いている眼だ。

「私はね、愛しているんだよ。人類を」

「それは――」

「伊達や酔狂に聞こえるかい? でも、本心だ」

「すみません」

 そう言うと少佐は少し笑った。

「私の家系は代々歴史の研究家でね。分野も時代も地域も違うけど、その家の者は様々な歴史を研究して、それを本に纏めていた」

 それから、静かに語りだす。少尉の心に自然と反響する、凛とした少し低い声で。

「家には先代たちが書いた歴史書が壁一面に敷き詰められていて、どの本棚にも人類が築いた歴史が詰まっていた。私は物心つく前からそれらに触れて、ずっとそれを読んで育ってきた」

「………………」

 その声を邪魔するまいと、少尉は黙って聞いていた。

「そのうち、心に毒が流れ込む。その血と共に脈々と受け継がれてきた、人類を愛してしまう――人類が築いたものを愛してしまうという毒が」

「……どうして、歴史の研究家にはならなかったんですか」

「どうして……多分、研究し尽されていたから――いや、純粋に守りたいと思ったからだね」

「守りたい……」

 その信条は、およそ自分の人生で浮かぶことのなかったものだ。

「不安定なバランスの上で、皆必死で藻掻いている。少しでも、誰かかが不和を生み出せば崩れ去ってしまうのに」

 ゆっくりと、少佐の首が少尉に向かって傾く。

「私の無理なお願い、聞いてくれるかな」

 熱を持った苦しそうな瞳の奥に、確かに燃える意思。

「――――難しいですね。あなたのお願いを断るのは」

「知ってる。私はずるい人間だから、君は断れないと知っていた。君の体は戦場を欲している」

 少尉は言葉を失った。だが、穏やかに訪ねた。

「やはり、知っていたのですね」

「ああ。優秀な指導者の下で訓練され、強くなり、幸か不幸か生き残ってしまった少年兵の中に――ごく僅かにそうなってしまう子がいるというのは、知っていた」

「軽蔑しますか」

「いいや」

 否定しながら、震える手で少尉の手を包んだ。熱く、少し硬くて、それでも透き通るように美しく長い指先から力を感じる。

「それでも、君の心の奥には、人間を嫌いになれない部分があると思った」

「そんなまさか――」

 反射的に、手に力が籠る。

「やっぱり、まだ気づいてないみたいだね。今回は、その隙間を私にも――私の願いにも貸してくれないかな――」

 少佐の手が力なく零れ落ちた。

 垂れ下がりきるその瞬間、反対の手で掌を掴んだ少尉は優しく握りながら言葉を漏らす。

「でも――俺は世界の救い方なんて知らない」


「私もです」


「聞いていたんですか」

 背後の扉が空き、ノルンの声がした。

「すみません。私も、少尉さんにお願いがあってきました」

「もう世界が終わるからですか? 私には人の願いを叶える――」

「違います」

 力強い否定が、彼女がまだ諦めていないことを――まだ、その意思が折れていないことを少尉に伝える。

「……聞くだけなら構いませんよ」

 握った少佐の手をタオルケットの中に仕舞うと、立ち上がった。


「――私を、あそこへ連れて行ってほしいんです」

「…………」

「……あ、あの……」

 できることなら、彼女の望みを優先させたい。それが少佐の願いを叶えることであり、そして自分の願いを叶えることに繋がるからだ。

 これだけ小さな子供が、全力で真剣に臆せず立ち向かってくる。

 少年兵が勇気と勘違いするものとは違う、真の強さをぶつけてくる。

 それなのに、少尉はまだ心のどこかで、振り切ったものに袖を引かれていた。

 彼女を伴ってあの要塞に挑むこと自体は、できる。でもそれは無理筋だ。なにより

「死にますよ。今度こそ」

「――っ」

「あそこはボートの独壇場。そこにいる兵士の使う〈ラプラス〉は今まで戦ってきたものとは比べ物にならないでしょう。何せスーパーコンピューターと通信できるのでしょうから。それにホテルで使用されていたマイクロドローンも確実に使用されているでしょう」

「そ、それは――」

「実際のところどれくらい何が変わるのかは私にもわかりません。でも、あなたという存在がありながら、あんなものを作ったということは、あなた無しでも大丈夫なようにということでしょう。そうでなければ組織はもっと早い段階であなたを巡ってボートと戦っている」

 畳みかける。まるでノルンの決断を挫くように。

彼女が戦場に行かなければ彼女が死ぬリスクはほぼなくなる。少なくとも今すぐに死ぬことは――そうなれば、戦場に行くのは自分だけで済む。

彼女の命を繋いで自分とボートだけが死ねば――

「――いや、それも現実的ではないですね」

 通路の壁に寄り掛かって、ノルンを見ないようにそっぽを向いて小さく吐く。

 彼女を連れて行かなければ自分は死んでしまう。でも自分と共に彼女が行けば、確実に死んでしまう。脳が焼き切れるのが先か、それとも防ぎきれない敵の攻撃によってかは分からない。

「それでも――! 私は行かなくちゃいけないんですっ!」

 だが、少女の意思は変わらなかった。

「どうしてそこまで?」

 目を合わせられない。彼女を、認める訳にはいかない。

「あれを生み出してしまったのは、私のせいだから」

「それは――あれを開発したのは、ボートです」

 こんな子供が、自分と違うなんて、認められる訳がない。

「違います。そうではないんです」

「ですが――」

 頼むから、逃げてくれと、心で祈った。君は逃げてもいいだと、叫びたかった。

「私がいなければっ、私が、生まれてさえいなければ、こんな目も――あんなものも生まれはしなかったんです!」

「――――」

「だから、私はあそこへ行かなくてはいけない。生まれるべきではなかった妹を、私が殺してあげなくちゃならない」

「ち、違――」

「そして、最後に私が死ねば、世界は――」

「やめろ」

 静かに、大きな声は出すまいと、必死で感情を殺したつもりだった。それでも、自分の震えた声が通路に反響して耳に届いた。

「――っ! 少尉、さん?」

「やめてくれ」

「で、でも私――」

 それでも口を閉じない少女の両肩を掴んで言葉を遮る。まるで海岸で怒りに任せて掴みかかった時のように。

「どうしてそんなに簡単に決断できるんだ⁉ 逃げればいいじゃないか! 自分の命がなければ世界が平穏に戻るって、どうしてそう言い切れるんだ!」

「わ、わたしは――」

「君の為に死んだ彼女は何だったんだ? 君を匿い続けた指令は? その意味は?」

「――私だって‼ ……私だって死にたくなんかありません……」

「――ッ!」

 気づけば、その子の瞳には涙が覆っていた。

 それでもノルンは、涙を流すまいと顔を上げ、少尉を真っ直ぐ見ている。

「でもっ――でもそうしないといけない……きっとこれは、私が生まれた時から決まっていた運命のようなものだったんです」

「な、何を馬鹿な――」

「でも、私一人ではできないんです。だからあなたの力が必要なんです」

「俺の、力?」

 その言葉に、我に返る。自分の力とはつまり、ボートが持つ力。

 その意味は、ノルンの苦渋の決断と重なって、自分の成すべきことが明確に示していた。

「……そうか、結局そういうことなのか……」

「少尉さん? な、何を――きゃっ」

 ずっと背負ってきたものの重みが何の重さだったのか分かった。それを降ろす方法も。

 この感情は、歓喜だ。

「しょ、少尉――」

「ありがとうございます。俺は、必ずあなたを送り届けます」

「え、えっと――少尉、さん? えっと、その――」

 大の大人に、それも男性に強く抱きしめられたことのないノルンは、状況がうまく呑み込めない。もちろん少尉の言っていることなど半分も聞こえていない。

「そして、必ず見届けさせます。その最後を――」

「あ、ありがとう、ございます?」

 そして、その後に――自分の辿り着くべき、長い旅路の終着点がある。

「く、苦しいです――少尉さん」

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