第三章 第二節
≫B1バーラウンジ 23:56:29
直接的な照明のないその空間は、例えるならば夜の海で満たされた水槽だ。
それぞれの机に不等間隔に配置されたキャンドルの淡い光が、その場にいる人間の口元と艶が出るまで磨かれた一等な木目の机を照らしている。
中世の黒魔術集会にでも迷い込んだのかと錯覚するが、その感覚はあながち間違っていない。
究極の匿名性で交換される情報は人間に奇跡をもたらす技術の悪用。まさに魔術に対する黒魔術である。
そして、今宵もその闇に一滴落ちる銀の魔女が一人。傍らに灰色の従者を携えて、怪しい微笑を絶やさずに黒い水面を滑らかに進む。迷いなく。
カウンターに座ったその美女は、後ろに控えた男に向かってわずかに口を動かした。顔のない男は、首肯すると闇に溶けて消えた。
「――私は長らくここに通っているが、貴女のような美女に会うのは初めてだ。驚いたよ」
美女――少佐の隣に座っていた男が、そう話しかけた。
「ええ、今日初めてあなたに会いに来ました」
「光栄だよマドモアゼル。同業者かな?」
男はそう言いながら人差し指をぴんと立てた。合わせて、カウンターに控えたバーテンダーが動く。
「ある意味では、そうとも言えます」
「私が知っている人間以外に私のことを知っている方に出会えるとは――いやはや、奇妙なこともあるものですね」
少佐の方に体を向けていた男がカウンターに体を向けて両手を握ると、人差し指で親指の付け根を叩く。
警戒されている――無理もない。少佐は自然な仕草で髪の毛を耳にかけながらイヤリングに触れた。
(――音が一回。餌にかかったな)
少尉は離れた位置でキャンドルに照らし出される二人のシルエットを眺めていた。
イヤリングが拾った音を小型の無線機で聞き、状況を開始する。
「警戒する必要はありません。あなたは、あなたが想像している以上にこの世界では有名人です」
闇の中で相棒が動く気配を感じた少佐は、カウンターに出された青いマティーニを手に持つ。
「それは初耳です。何しろ仕事一筋な人間でして」
男も、自分の前に出された別のカクテルを手に持った。
「だからこそ、明日のパーティーにあれだけの人間を呼ぶことができた」
「…………」
「口元に動揺を見せない。さすがです」
「私を殺しに来たのかな? だがロシア人には見えないな」
「殺す? とんでもない。むしろその逆です」
「逆?」
「我々を、あなたに同行させていただけませんか」
「まさか、君たちは傭兵なのか?」
「ええ、それもフリーランスの」
ボートは一瞬、考えるそぶりを見せた。
個人という名目で活動しているボートにとって、フリーの傭兵はマイナスイメージにはならない。
むしろ少佐は足が残らない都合のいい手駒として宣伝していた。
「……いや、申し訳ないが今回は護衛を付けるつもりがないんだ。君は何かを勘違いしているようだが、明日のパーティーはそんなに物騒なモノではないよ」
「警備隊を出動させるのにですか?」
「そこまで知っているのに、誰がそれを行ったかは知らないのか」
(――確か、モナコでそれなりに顔の効く財閥の長男……だったか)
少尉は一仕事を終えて、通信の内容を聞いていた。
ちなみに長男の依頼で出動する警備隊の総指揮は、フランスでの仕事で少尉と少佐が自信と権威を粉々にした特殊部隊の男であった。
まさか警備隊に異動していたとは――
「重要なのは、命を狙われる自覚のある人間がいることです。狙うには十分だと思いますが?」
「……だとしても、私には不要の存在だ」
「自分の私兵を余程信用しているようですね」
「……何か勘違いをしているようですね。私は私兵を持つほど豊かな人間ではないですよ」
「六時の方向、四時の方向、それからカウンターの向こう側に一人」
「…………」
「ただの客ではありませんね。かと言ってあなたの仕事仲間とは思えない。歩幅、体重移動のバランス、手先の癖まで並みの傭兵ではない」
「…………」
「特に、後ろでこっちを見ている彼……歩くときに右腕がほとんど動いていませんでした。元は将校クラスでしょうか?」
「…………」
男――もといビールクト・ボートの表情はうかがえないが、笑っていないことは確かだった。
「――ギリギリ及第点、と言ったところかな」
「理由をお聞かせ願えますか」
「彼らは金で雇った傭兵ではない。志を共にした同志だ」
「…………我々は」
「――?」
「その同志に、加えていただきたのです」
「君は――」
ボートは淡い光に浮かぶ少佐の瞳を、初めてまっすぐ見た。
「私が何を目的に動いているか知っているような口ぶりだな」
「目的は、存じ上げません。ですが、行きつく先は、おおよその予想がついています」
「何だね、話してみたまえ」
「――ただ一心に、己が全てを懸けて破滅へと邁進している」
「…………」
「私はそういう人間をずっと探してきたのです。同じ穴の狢は、見ればすぐにわかるでしょう?」
「…………そうだとしても、君たちの実力を私は知らない」
「本当に、そう言い切れますか?」
少尉は二人の声がわずかに震えていることに気付いた。おそらくは違う理由からだろうが、その真意は不明だ。
「気づいているんでしょう?」
「何に」
「このカクテル……睡眠薬が入っていますね」
そう言うと、手に持った青い液体を目線の位置に称える。
「何のことだかさっぱり」
「味や香りは確かにマティーニですが、普通青色にはならない。おそらくは睡眠薬を溶かした時にこうなったのでしょう。味とアルコールで大抵の人間は誤魔化せるのでしょうが、私は味覚が優秀なので」
説明が終わるとボートはわざとらしく笑った。
「だとしたら、なぜ君は眠らないんだ? それにここで君を眠らせたところで、私が君をどうにかすると本気で思うのかい?」
「いいえ。おそらくは眠らせたまま放置して退散するつもりだったのでしょう。この薬には健忘症の症状が出ることがあるので。薬が効かないのは――私が大抵の薬物を克服しているからです」
「ハッタリだ」
「本当にそう思いますか?」
(――ハッタリですよ)
少尉は心の中で注釈を入れた。
実際は両耳に着けたイヤリングを通してムムがバイタルデータをモニタリングして、強めの電気を流して意識を保っているだけだ。
それはそれとして頭は働かないはずなのだが、少佐は何のカラクリか、恐らくは精神力だけで理性的に会話している。はっきり言って人間を超越している。
そして、遂に少佐をボートから引き剥がそうと私兵の一人が肩に手を懸けた。カウンターの向かい側にいた男だ。
「明日だけでも構いません。それで私達の信念と実力を測ればいい」
しかしその手を軽く捻るだけで、座ったまま私兵の一人を制した。
「……まるで何が起きるか知っているような口ぶりだな」
手首を捻られた男は地に伏して完全に身動きを封じられている。体勢をその状態にしなければ手首に無理な力がかかり痛めてしまうためだ。人間の体を熟知していなければできない動きだ。
そして、ボートと男はまるで少佐が手の力だけでねじ伏せているように感じるだろうが、これも違う。少佐は座ったまま全身の骨を連動させて、体重が一点に乗る様に動かしていた。東洋の武道でよく見られる体の使い方。
「……君の近くにいた男はどうなんだ」
「それに関しては……残りの私兵が加勢に来ていませんね?」
「まさか」
ボートは思わず振り返った。
ボックス席のソファに座る一人の男。うなだれる様にして眠るその男の前に少尉が座っていた。
「友人の気配に気づけないとは、あなたの部下も中々ですね」
少佐が私兵の注目を集め、少尉が二人を気絶させていた。彼女の計画だ。
少尉は少佐がボートと会話をして、周りの私兵を惹きつけている間に、二人を気絶させていた。
最初に無線で送られた合図は、ボートが私兵に送った警戒態勢の合図を少佐が示したもの。そのタイミングでいつでも動けるように体制を変えた三人の内二人を少尉は狙った。
「なるほどな」
そう言って、ボートは少佐に微笑みかけた。
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「どうして成功したのでしょう」
エレベーターに乗った少尉は隣に立つ少佐にそう聞いた。
「どうしてだろうね」
「少佐もわからないのですか」
「もう少し続けていれば、確実に成功する自信はあった。でもあのタイミングでの心変わりはちょっと予想外だったかな」
「貴方がどういう構想を描いていたか、私には全く見当がつきません」
ただ分かったことと言えば、少佐がやはり人間離れをしているということだけだ。
これに関してはバイタルをモニタリングしていたムムが認めたのだから紛う事のない事実だ。
「何はともあれ、これで明日に繋が――」
「少佐!」
膝下が急に消失したように、少佐はバランスを崩した。咄嗟に少尉が支えていなければ倒れていただろう。
「あぁ、すまないね。電気がないとやはり眠気がキツイね」
「むしろこの状態でもまだ意識がある方がおかしいと思いますが」
少佐は少尉の肩にもたれかかると、頭を胸にうずめる。
「ありがとう、少尉。優しいね、やはり君は」
およそ初めて聞くような、弱った少佐の声。それすらも、美しいと感じてしまう。
「……俺は別に、倒れて怪我でもしたら明日に響きます」
「私が倒れる程度で怪我するとは思ってないだろう?」
「それは――」
少尉が口籠るとエレベーターが上昇する音がやけに大きく響く。 耳に熱を感じるのは、きっと急上昇して気圧が変動したからだろう。
そんなことを、知ってか知らずか少佐はからかうように話しかける。
「見た目より逞しい腕をしているね。さすがは軍人と言ったところか――明日までこのままでもいんだよ。多分忘れちゃうんだろうし」
「…………置いていきますよ。ここに」
少佐を掴んでいた力を弱めると、慌てて「うそうそ冗談ジョーダン」と舌をぺろっと出した。
「まったく――冗談を言う元気があるなら問題ありませんね。後は一人で歩いてください」
「ああ、待て待て。足に力が入らないのは本当なんだよ。からかって悪かったって」
「ムム」
『嘘じゃナイぞ』
「信用無いなぁ」
そこまで聞いて、少尉は少佐を肩に担ぐ。
「……もうちょっとこう、ロマンのある抱え方があるんじゃないかな」
「文句を言っていると落としますよ」
「ふふ、ありがとう」
部屋に戻った少尉は、思ったより軽い彼女の体を寝室に投げ込む。それから、自分もシャワーを浴びて眠ることにした
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≫展望テラス ??:??:??
深夜に展望テラスに出ても、広がる視界には深い暗闇がうねっているだけだ。
闇をわずかに視認できるのは、それが波を起こす時に白むから。そこに光がわずかに反射して、生物的な不確定さを感じる。
「ボートさん。なぜ、あの二人を?」
「…………」
冷たい風を浴びながら、琥珀色の液体で満たされたガラスを手に持ったボートはしばらく何も答えなかった。
「……あの女」
「――?」
「私と同じ目をしていた」
「同じ目?」
部下は首を傾げる。
「少なくとも私には、そう見えた」
「それは――」
「だがそれ以上に」
ボートは言葉を遮ると、屋内にいる部下の方へ振り返る。
「あの男だ」
「あの女の、部下の?」
「私と同じ世界の人間だ。間違いない」
不敵に持ち上がった口元に、部下はたじろいだ。
「また、目の話ですか」
「いや、あの気配。あの男の笑顔。間違いない」
「ああいう人間は、この世界でないと息ができない人種だ」
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