第9話
たしかに乙女と龍はおとなしい。だが、いくらおとなしいといっても龍は龍であり、月光に照らされた姿は恐ろしいものがある。また乙女は乙女で、亡霊であるから、ダブルの恐怖であった。
にもかかわらず、蓮子は蓮田の中にいると、不思議と心が落ち着くのだ。蓮の生命エネルギーによって、守られているからだろう。
思えば、子供のころから蓮子はこの蓮田でよく遊んだものだ。──裸足で蓮田の中を歩きまわり、蓮の実を食べながら、泳いでいる小魚を手づかみにした。
蝉の鳴いている遇蓮寺の本堂で、蓮子は和尚と話をした。
──家の裏の蓮田に四阿を建てたこと。乙女と龍が現れたこと。そして継母が乙女と話をしたこと。継母は昔、庄屋だった岡野村家の末裔であること。などを率直に話した。
いつもは冷静な和尚が、ため息を漏らして天井を仰いだ。蓮子もそれにつられて天井を見上げたが、このとき気のせいか、天井の龍の目が、ギロリと自分を見たように蓮子は感じた。
「蓮田に四阿を建てるとは、あなたも思い切ったことをしたものじゃな」
和尚は蓮子を凝視して言った。
「あなたが見た乙女の霊は、間違いなく人身御供にされた娘の霊じゃ。わしは以前、あなたにこの天井絵の話をしたが、そのときは人形と言ったと思うが、じつはこの天井絵は、人身御供にされたその娘さんの供養のために描かれたものでな」
「やはり人身御供にされた女性は、人形ではなかったわけですね」
和尚はうなずいた。
「あなたにショックを与えたくなかったからじゃ。しかし、もうそんなことを気遣っては為にならない。あなたの命にかかわることじゃから」
「私の命にかかわることですか──」
「そう。まあ大丈夫だとは思うが、しかし相手は人間ではない。恨みを抱いて、この世を去った娘なのだ。あなたと同じくらいの年頃じゃった。──よりによって上沢家の子孫であるあなたが問題の蓮田に四阿を建てた。それによって、召喚されたわけじゃ。四阿というのは結界の一つで、結界に入れば悪魔から守られることもあれば、悪魔を召喚することもできる。龍神は悪魔ではないが、岡野村家の娘を人身御供にするとき、わざわざ四阿を建てて龍神を呼んだ。四阿ごと燃やしたが、その四阿が、今の時代になって突如出現して、彼女たちは戸惑っているはずじゃ」
「私、どうしたらいいのでしょうか? 彼女たちは、じっと私を見ています。しかし、ただそれだけなのです。私に危害を加える雰囲気はまったくないのですが」
「だから、戸惑っているのじゃ。あなたに対して恨みがあるわけではないし、といって、四阿がある以上、霊界とつながっているから誰かがその四阿に行くたびに、彼女たちは呼び出されるのじゃ」
「では、四阿に行かなければいいのですか?」
「まあそういうことじゃな。近づかなければ、何も起こらん」
「それでは、四阿を建てた意味がありません。七月の満月の夜──もう明日の夜ですが、私はその四阿で月見をしたいのです」
「あっはっはっは!」和尚は笑った。「あなたも変わった娘さんよな。あなたのお父さんも、ちょっと変わった人やったが、詩などを書いておって──まあ、わしの考えでは大丈夫だとは思うが。というのは、ソーダ水のグラスにその姿が映っておって、あなたに何も手を出していないということだから。ただ気になったのは、あなたの義理の母が、夜中に四阿で彼女とひそひそ話をしていたことじゃ。さらに、その義理の母が、岡野村家の子孫というのが。──わしは数年前にあなたのお父さんを弔った。そのときわしは、あなたの兄から、父は義母と一緒に山に登って父だけが滑落死したというのを聞いて、ちょっと奇妙に感じたものじゃ。今回あなたから義母は岡野村家の子孫というのを聞いて、より強く懸念を持ったな。岡野村家は昔からあなたの家と仲が悪い。あなたが蓮田に入りたいというのなら、わしは止めたりはせんが、用心だけはしなさいよ。──そうだ、あなたに数珠を授けよう。その数珠はわしの知り合いの修験者から貰ったものじゃが、とても霊験がある。魔除けとして、蓮田に入るときはいつもその数珠を手首にはめていなさい」
と和尚は本堂の釈迦牟尼仏の蓮華台の下から、青色の数珠を取り出して、蓮子に手渡した。
数珠はラピスラズリか青水晶で作られたものらしく、手にずっしりとした重みを蓮子は感じた。
この数珠によって、蓮子は俄然勇気を得た。満月の夜は必ずこの数珠を持って、四阿に向かおうと、蓮子は心に決めた。
蓮子は、和尚と話をしたことで、心がだいぶ軽くなって、家に戻った。
次の日、満月は今夜だが、蓮子はそれまでにもう一度あのワンダーサークルへ行ってみることにした。
というのは、ワンダーサークルの神棚に龍の図がかかっていたが、岡野村家の土蔵の壁にも龍が浮き彫りにされていて、それは遇蓮寺の天井絵と瓜二つで、しかも乙女まで描かれていた。そのことから、干ばつの雨乞いの儀式は、岡野村家にとって決して忘れ去られるものではなく、岡野村家が続くかぎり語り継がれるものである。それはつまり、上沢家に対し憎悪の炎を保持することであり、蓮子はあえて相手の敵陣に踏み込んで、様子を探る作戦に出たのだ。
なぜなら、このままいけば、遅かれ早かれ蓮子は継母たちによって抹殺される。この満月の夜が、最大の山場と蓮子は見た。というか、早く決着をつけたかった。
──継母たちが、先に手を出せば、その時点で父の死は継母たちの犯行であったと確定される。
要するに蓮子は、自分を囮に使う計画なのだ。
蓮子は、今回はバスをやめて自転車でワンダーサークルへ行った。もう正体を隠す必要はない。
ワンダーサークルの男は蓮子を見て、意外にもにこやかな顔をした。
「この前は私の家に偵察に来たね」穏やかな声である。「君が何者で、何しに私の実家にやって来たか、だいたい分かる。妹から話を聞いた。こうして見ると、君はお父さんとよく似ているね。顎の真ん中が桃のように割れている」
「じゃあ私の父に会ったことがあるんですか?」
「いやまあ──」男は余計なことを言ったと思ったのか、咳払いをした。
男が言うように、蓮子と父は、顎の真ん中が軽く凹んでいる。しかし、それは近くで見なければ分からないことで、つまり男が父たちと山登りに同行した証拠であった。
蓮子は、あえてそのことを質問しなかったが、したところで、男が正直に答えることはないだろう。それよりも蓮子が聞きたいのは、神棚のこと、龍の図である。
「あの神棚は、龍を祀っているのですか?」
蓮子は神棚を指さした。
男はギロッとした目で、蓮子を見た。
「たしかに龍を祀っているよ。君は私の家を見ただろう。土蔵の側面に龍が浮き彫りにされているのを」
「はい。驚きました。まるで遇蓮寺の天井絵みたいで──」
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