第8話
しかし蓮子という名前は伊達ではない。蓮の中にいてこそ、蓮子なのだ。じつを言うと、蓮子の全神経は蓮の地下茎と繋がっている。
蓮子は物心ついた頃から、蓮田に心を惹かれ、成長するにつれて、ますますその想いが強くなった。はっきり言って蓮田は、蓮子にとって母のような存在である。大袈裟ではない。なぜなら、蓮子はこれまで、日々の苦悩を、実の母には告げず、すべて蓮田の底に沈めてきたからだ。蓮田は、それを喜んで吸収してくれた。
この蓮田において人身御供にされた乙女なら、幼い頃の蓮子を知っている可能性もある。しかし、蓮子は今まで乙女の姿も龍の姿も見たことがないのだ。ということは、今回蓮子が蓮田に四阿を建てたことによって、乙女たちが霊界から呼び出された、ということになる。
龍が怖いといっても、蓮子には蓮という植物が味方についている。そのうえ、その花が咲き誇る季節となったのだ。四阿に行かない選択は蓮子にはなかった。
好奇心の強い蓮子は、天井絵に纏わる岡野村家を、一度、目にしておく必要を感じた。昔は庄屋だったというから、さぞかし立派なお屋敷に違いない。継母の買い物がいつも遅いのは、ワンダーサークルだけではなく、この実家に立ち寄っている可能性もある。
蓮子は、今度もインターネットを使って岡野村家を調べた。すると、この地域に岡野村という苗字は一軒のみで、地図を見ると、蓮子の家から七キロほど離れた郊外にあった。交通の便が良くないので、蓮子は自転車で出かけることにした。
平日だが、学校は夏休みに入ったところだった。
岡野村家は、たしかに立派なお屋敷で、土蔵があり、お寺のような大きな門構えであったが、妙にひっそりとしている。人の気配がまったくしなかった。
蓮子は、岡野村家の敷地に入る勇気も理由もなかった。で、自転車で家の周りをぐるりと一周することにした。
せっかく来たのだから、ゆっくりと時間をかけて、そしてときどき自転車を止めて岡野村家を眺めた。
この家も蓮子の家と同じように田園の中にあるが、民家は蓮子の家より多少点在していた。
ふと、前方から来た乗用車が蓮子の前で急停止して、運転席側の窓がするする開くと、サングラスをした、例の髭面の顔が現れた。ワンダーサークルの男である。
男は片手を窓から出して、
「おい君! 君はこの前私の道場に来た人だろう」
蓮子は、ビクッとした。バツの悪い気持ちにもなった。
考えてみれば、木曜日で、ワンダーサークルの休日であった。
蓮子は、素直にうなずいた。
男は、すでに蓮子が上沢家の人間であることに気づいているはずだ。だから、蓮子がこんなところを自転車でうろちょろしているのを怪訝に思ったに違いない。
しかし男は、ニヤッとしただけで、あえて詰問することもなく窓を閉めて車を走らせた。
車は岡野村家の駐車場へと入った。
蓮子は、それを確認した。それだけでも、ここに来た甲斐があった、と自分を納得させて家に戻った。
継母がさらに監視の目を強めた。夏休みだから蓮子は一日中家にいるのだが、部屋にいても、どこからか継母に覗かれている気配があった。
蓮子は、この夏、継母と決着がつくような予感がしていたが、父が継母によって殺されたと判明した場合は、その敵を討つ考えもあった。
昼間、蓮子は思い切って四阿に入り読書を試みたが、しかし、乙女や龍のことが気になって、少しも文章が頭に入らなかった。そして、頻繁に頭を上げて辺りを見回すのだが、それらしき影はどこにも見当たらない。夜にならないと霊は現れないのだろうか。
と思っていたら、目の前のテーブルの上、ソーダ水が入ったグラスに乙女と龍が映っていた。
蓮子は、驚いて本を落としそうになったが、恐怖感はまったく感じなかった。というのも、乙女たちは、おとなしく蓮子を見ているだけだったから。
これによって、蓮子ははっきりと乙女に復讐心はないと見た。乙女が上沢家の先祖によって、火あぶりにされたのは遠い昔のことであり、今の世の蓮子に恨みを抱く筋合いはないのだ。──継母がいかに唆したとしても──でなければ、幼い頃から蓮田の中で遊び惚けていた蓮子など、とっくの昔に殺されていたはずだ。
七月の満月の夜が近づいていた。蓮子の心はそわそわとして、どうしてもその夜は蓮の花に囲まれた蓮田で、月を眺めたいという思いが強くなった。実際それが、蓮田に四阿を建てた一番の目的であったのだ。
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