後編:銀河鉄道の海
「齋藤先輩、お疲れ様でした」
22時頃にバイトが終わり、コンビニを出て帰ろうとしたとき、そう話しかけてきたのは、バイトの後輩の遠藤綾音だった。近所の都立高校に通っている女子高生だ。黒髪のポニーテールで、良くも悪くも器用な子だった。彼女が来ている黒色のコートは、夜の暗闇に溶け込んでいた。彼女とは今日のシフト時間が同じだった。僕はコンビニの横に歩きながら
「おう、そっちもおつかれ」
と返事をした。そして、コンビニの横に立ち止まった。遠藤は僕の隣に来た。
「先輩、今日も来るのギリギリでしたね」
と彼女は僕を見上げて微笑んでいた。彼女は僕より頭一個分ぐらい身長が低い。
「慣れればそんなもんだよ」
「まぁそんなもんですかね。先輩、ギリギリですけど、遅刻はしませんよね」
「言われてみれば、自分でも不思議なもんだな」
「まぁ、先輩らしいですけど」
「なんだそれ」
「なんだかんだ、ちゃんとしてるじゃないですか」
「そうかな」
「そうですよ」
そう、僕は信頼されている。人は、僕に期待する。けれど、僕は自分がいかに愚かで怠けた存在なのかを知っている。もう、やめてくれ。その思いは、言葉にならずに、僕の心に熔けてゆく。他人から見た自分と、僕から見た自分の差が、僕は高い壁に囲まれてるかのように窮屈で、息苦しかった。
冬の夜は、底までしんと冷えていた。空気は澄んでいて、心地よかった。灰色の雲の間から、わざとらしく輝く冴えた満月が、僕を
「あの…少し、相談に乗ってくれませんか」
遠藤は、弱々しいけれど力強い声で言った。
「遠藤が相談なんて珍しいな…もちろん聞くよ」
僕は空気を和らげようと、取り
「先輩は、生きるのに疲れたことってありますか?」
僕の偽りの笑顔は、一瞬で崩れた。この瞬間に、僕は仮面を剥がされ、部屋で1人でいるときの怠惰で堕落した自分に一気に引き戻された。
「疲れる、か…」
そこで、言葉が詰まった。
僕も、疲れているのだ。義務感で生きることに疲れ、無気力に日々を過ごし、その怠惰な日々の中でも罪悪感が湧いてくる。僕は、もう、疲れ切っていたのだ。
「私はもう、疲れちゃいました。何をやっても、ダメなんです。頑張っても、頑張っても、姉が上にいるんです。私は…ずっと劣等感を抱えてきました。劣等感から逃げたくて、私は部活も勉強もせず、バイトをしながら何かやりたいことを探していました。でも、何かをやりたいと思っても、姉がやったらもっとできるんだろうなと思った瞬間に、私はまた劣等感を覚えるんです。もう、疲れたんです。劣等感を覚えることも、姉を憎む自分に嫌悪感を覚えることも」
彼女は俯きながら、少し笑っていた。諦めの微笑、とでも言うのだろうか。その笑顔からは、生命力をまるで感じなかった。
「どうすればいいのか…俺も、分からない。俺も今、たぶん疲れてるんだ」
「…先輩も、そうなんですね」
「悪いな…相談に答えられなくて」
「いや、逆に安心しました。私は、1人じゃないって」
「……きっと、みんな疲れてるんだ。生きるって、大変ことだから」
「そうかも、しれませんね」
「なぁ、遠藤」
「なんですか?」
「海、見に行かないか」
「海、ですか…」
「うん。今なら、どこまでも行ける気がするんだ」
「……なら、私も一緒に行きますよ」
「ありがとう、遠藤」
「いえ。いつかきっと、こうなる運命だったんですよ」
「俺も、そんな気がするよ」
僕と遠藤は、駅へと歩いた。言葉は、交わさなかった。言葉がなくても、僕達は繋がっているように思えた。それは赤い糸なんてロマンチックなものじゃなくて、重い、重い、鎖だった。
線路沿いの道を歩いていると、前方から、電車が走ってきて、通り過ぎて行った。澄んだ、冬の夜の中で、電車の音が、どこまでも響いてゆく。走り去った後の静けさが、悲しかった。
夜の電車は、空いていた。僕と遠藤は、ぽつんと、2人で端の席に座っていた。静かな車内で、電車の走る音だけが響いていた。暗い夜の街を抜けて、電車は海辺へと進んでゆく。僕は、今乗っているこの電車が、どこまでも走る銀河鉄道のように思えた。銀河の果てまで、行けるのだろうか。
どれぐらい経っただろう。僕達は、いつの間にか目的の駅に着いていた。電車をおりて、僕達は、海へと向かった。
海辺の道は、肌を突き刺すような寒さだった。潮の匂いが、鼻を刺した。道の脇には、葉を散らしきった真っ黒な裸の木がずらりの並んでいて、足元には、枯葉が積み重なっていた。静かな夜の中で、僕達が踏む枯葉の音が、美しかった。
堤防に上がると、暗い夜空の下に広がる、
透き通るような暗い紫色の夜空には、燃えるように煌めく星々が散っていた。そういえば、僕は、ずっと思っていた。星になりたいと。
遠藤は、突然、僕を横から抱きしめた。母親に
「私、実は先輩のこと、好きなんですよ」
「……そうだったのか」
「だから、先輩となら、私、1歩が踏み出せると思うんです」
「…俺も、1人じゃ踏み出せなかった。遠藤となら、きっと大丈夫って、思えるんだ」
遠藤は、抱きつく腕をほどいて、僕の手を握った。強く、しっかりと、握っていた。想いが、込められていた。
末期の目、なんだろうか。澄んだ星空の下に広がる、暗い海で、静かに揺れる波が、何よりも、美しいものに思えた。全身を現した、煌めく満月は、笑っていた。
「行きましょう、先輩」
「あぁ…行こう」
僕と遠藤は、手を繋いだまま、息を合わせて、1歩を踏み出した。
大きく羽ばたいて、暗い海へと、飛び込んだ。ばしゃんと、大きな衝撃を受けて、海の中へと入った。
何も、見えない。音は、聞こえない。息が、出来ない。僕と遠藤は暗い、暗い、海の底へと沈んでゆく。
けれど、僕達は、あの澄んだ夜空へと昇って行ってるような気がした。銀河の果てへと、飛んで行ってるような気がした。
僕達は、銀河鉄道に乗って、どこまでも、進んで行った。
銀河鉄道の海 文学少女 @asao22
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