銀河鉄道の海

文学少女

前編:無気力と怠惰

 僕はまた、「人間失格」を読んでいた。

 煙草たばこで僕の憂鬱な頭を空っぽにして、ただ小説の文章を追いかける。太宰の心地よい文章を読んで気を紛らわせ、僕はまだここまでは落ちぶれていないという醜い安心を得る。

 電気はつけず、窓から差し込む日光を頼りに読み進める。日光は、ろくに掃除をしていない僕の部屋に漂うほこりを、僕に見せつけてくる。汚い光景のはずなのに、僕にはダイヤモンドダストのように澄んでて美しい光景に思えた。

 このままじゃいけないと思いながらも、僕はただ無気力で、怠惰だった。酒の酔いが覚める瞬間は最悪だ。その瞬間、僕は外から僕自身を見つめる。そして、僕の堕落した救いようのない現状がそこにはある。激しい虚無感が僕を襲い、僕はますます憂鬱になる。

 その憂鬱を、僕は煙草と「人間失格」で紛らわせる。そうやって繰り返すうちに、僕を襲う虚無感はますます強大になり、僕の心を奈落の底へと沈める。心と体が重くて仕方なかった。

 大学に行かなくなったのは、1か月前の秋頃からだった。突然、自分の中の何かがプツンと切れた。生きる上での義務感というか、責任感というか、急にそれが消失したのだ。両親の言う通りに、僕は幼い時から勉強をした。両親の期待通りに、国立大学に入学した。みんなの思う通りに、大学でも勉強はした。全て、義務感でやっていたことだった。

 義務感が無くなった今、大学にも行かず、ただバイトと遊びに出かけるのみの毎日だった。日々、罪悪感がつのるばかりで、今にも発狂しそうな激しい衝動が僕の心でうごめく。それでも僕は何もしない、何も出来ない。ただ無気力で、怠惰なのだ。僕は近頃、これが僕の本質なんじゃないかと思うようになった。


 腹が減った僕は、第二の手記まで読んで一旦本を閉じた。何もしていなくても、食欲は湧いてくる。僕はこの食欲が嫌いだった。やかんに水を入れて、火をつける。しばらくすると、沸騰を知らせる、高い、不快な、やかんの鋭い音が、僕の耳に刺さった。僕は火を止めた。そして、やかんのお湯をカップラーメンに注いだ。

 携帯のタイマーが三分経ったことを知らせ、僕はカップラーメンをテレビの前のテーブルに持って行き、胡座をかいて座った。食事の時間は苦痛だった。

 僕は何もしていないのに食事をするというのが、なんだかすごく違和感があって、罪悪感があった。ただ食欲を満たすための食事は、とても恐ろしい。テレビをつけて、僕はカップラーメンを食べ始めた。

 通販番組が流れていた。胃の奥底から吐き気が込み上げてきた。僕は喉に込み上げてくるモノを必死に抑えた。僕は咄嗟とっさにチャンネルを変えて、ニュース番組にした。酸味が喉を焼くようだった。机を見つめながら、僕は荒い呼吸を繰り返した。

 通販番組が、僕にとって一番恐ろしいものだった。仮面を被った、本音を一切言わない人達が会話をしているあの空間が、震えるほど恐ろしくて、心臓の輪郭をそっと撫でられるような寒気を感じるほどおぞましいかった。

 感情に全てが支配されている人間が恐ろしいように、感情が一切見えない人間もまた、僕には恐ろしかった。


 カップラーメンを食べ終えると、時刻は16時45分になっていた。窓から差し込む光は傾いていた。長い僕の影が、玄関の方にすうっと伸びていた。17時からのバイトに行く必要があった。

 その前に、僕はテーブルから煙草を手に取り、一服をする。外に出るには、僕にはまず一服が必要だった。一服して落ち着くことで、心の区切りをつける。吐き出した煙は、窓から差し込む夕日に照らされて、ぼんやりと輪郭がオレンジ色に染まり、天井にひゅるりと昇ってゆく。僕はそんな煙を、ぼーっと眺めていた。

 煙草を吸い終え、僕は重い腰を上げて立ち上がった。16時50分だった。僕のバイト先はここから歩いて5分のコンビニだから、問題ない時間だった。身だしなみを整え、僕は玄関のドアを開けた。朱色の空が、どこまでも広がっていた。街は、暗い影に覆われていた。僕の心も、陰っていた。

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