朝は灰色
@peipei0726
第1話
朝は灰色
「休みか、、」朝、目をあけて呟いた。ああ、だるい。何故昨日まではあんなに休みを待ちわびていたのだろう。仕事は嫌だけど、休日なんてきまって空っぽなのに。なんだろう、とりあえず空気が悪い。部屋を締め切ったまま寝たから、湿りきった生活臭が充満している。あと、息が臭い。口の中が乾いていて、歯の隙間から、歯垢のあのツンとする嫌な臭いが鼻に届く。顔しかめた。寝ころんだまま横を向くと、散らかった部屋がぼんやりと見える。こんなに散らかっていたっけ。そういえば、晩飯に食べた弁当を片付けていなかった。その横には昨晩の自慰のティッシュが放置されている。汚い。となりには脱ぎ捨てた服やビールの空き缶が散らばっていた。臭いに決まっている。とりあえず窓をあけよう。ゆっくりと、まるで90歳そこらのおじいちゃんのように背中を丸めたまま、湿った狭い部屋を横切り、窓までよろよろと近づいていった。窓を開けると冷たい新鮮な空気が流れ込む。まともな空気だ。外はすっかり明るくなっていたようで、子供が遊んでいる声が聞こえてくると、なんだか1日が始まっていないのは自分だけだったみたいな気がして、少ししかめっ面をした後、またよろよろとベットに戻った。力なく座りこむと、しばらく身動き一つせずに時間がたつ。はて、何をしようか、、。歯磨き、着替え、朝食、片ずけ。しかし、どれも面倒くさい。そんな気力は全く湧かない。ボサボサ頭の髪をかきながら周りを力なく見つめる。そうだ、とりあえずタバコだ、、。ベットから身を乗り出し、手で空き缶をガラガラとかき分け、くしゃくしゃになったタバコを見つけて火をつけた。不味い。口はカラカラだし、味もろくにしない。朝はなにをしてもだめだ。朝は灰色。って誰か言ってたっけ。全くうまい言い回しだ。真っ白でも真っ黒でもなく、何の色彩もなく、ただどんよりとした灰色。朝が素敵だなんて嘘に決まっている。やっとベットから抜け出すと、洗面所に立ち顔を眺めた。何て不細工なんだろう。のぺっとしていて平べったい顔をぼんやり眺めた。こんなに気持ち悪かったっけ。きっと灰色の朝のせいに決まっている。まるで能面みたい。しばらくいろんな角度で格好をつけて抵抗してみたが、やはりどれもぱっとせず、結局諦めて真正面からいちばん不細工な膨れっ面をつくってみた。やっぱりこれだ。面白い。一人でケラケラ笑って歯磨きを済ますと、元気が出てきて、外へ出かける準備を始めた。
準備が終わり外へ出ると、まだ町には朝の気配が残っていたみたいで、透き通った空気が辺りに立ち込めていた。以前に誰からか、朝日は空気中に塵が舞っていないから夕日のように赤々としない、と言う話を聞いた気がするが 、全くその通り。朝の世界には淀みがない。家も、電信柱も、歩道橋も、朝日に照らされるとみんな若々しくなる。良い景色を見ようと遠くまで旅行をする人がよくいるけれど、そんなに遠くへ行かなくてもそこら辺に花は咲いているし、元気な木もたくさん立っているし、なにしろ愛着があるから朝に家の近くを散歩すればいいのにと思った。すると、なんだか自分が地元愛みたいなものをいつの間にか持っていたことが可笑しくなって、いけない、いけないと一人で笑う。
今日は珍しく予定があったので、久しぶりに電車に乗って小倉へ向かった。ご飯に誘われているのだ。藤村さんという高校の先輩で、昔から何故か可愛がってもらっている。自分のどこを気に入っているのかさっぱりわからないが、今日のように時々ご飯に誘ってもらっているのだ。正直言って、あまり気が進むわけではないが、特に断る理由も見当たらないし、今日の気分もいつも通りのそんな感じだ。そのせいか、電車を一本乗り過ごしてしまった。待ち合わせのビルに着くと急いでエレベーターにのり、フードコートのある階まで上がる。エレベーターを降りると真向かいの自動販売機のすぐそばに藤村さんがいた。こちらには気づかずに携帯電話をいじっている。
「お疲れ様です、、」
恐る恐る小声で声をかけると藤村さんは顔を上げて「おう、んじゃ飯食うか」とさっそく歩き出した。
「すみません。遅れて、、」
「え?ああ、全然大丈夫」
良い人だ。20分は待ったろうに。なんだか申し訳なくなってきた。
「それよりなんか食いたいとかもんある?俺はなんでも良いけど」
「え、、え〜と」
どうしよう、何か食べたいものを言わなくては。別になんでも良いが、なんでも良いなんて言った手前、決めきれずにだらだらしてしまうことが一番怖かった。それだけは回避しなくては。周りをキョロキョロ 見回すと、人気のないうどん屋が目に入った。地味な佇まいで安っぽいサンプルが陳列棚に並んでいる。うどんが食べたい。そう思ったが一瞬迷った。相手はなんでも良いとは言っているが、横にいる藤村さんが、うどんを好きじゃない可能性が少なからずあるような気がする。運動部っぽい雰囲気の人は、うどんみたいな軟弱な食べ物には食欲が湧かないんじゃないだろうか。どうしよう。うどんが嫌なら断ってくれたら良いんだけど、さっき一度なんでも良いと言ったせいで、しぶしぶうどんを食べる羽目になれば、多少気分を損ねるかもしれない。どうしたものか。
「とんかつ食べたいですね」
隣にあったとんかつ屋に入った。いつもこうだ。相手にすかれたいのかなんなのか、ありもしない自分勝手な妄想に振り回されて、わけのわからない事を口走る。まあ、今回は相手が何も思ってないようだから問題ないか。それに、とんかつはとんかつでもちろん美味しい。
店では二人でとんかつ定食を食べながら、案の定、いろいろなためになる事を聞かされた。僕は相変わらず、はいはいと相槌ばかりする。近ごろ、相槌だけはやけに上手くなっているようだ。別に否定する気はさらさらないが、特に賛同するわけでもないのに、そうですねだの、それは気がつかなかったですね、だの。さも驚いたような顔をして見せたり感嘆してみたり。なんだかいつの間にか、自分が汚れてしまったようで悲しくなった。大人になったのだろうか。そんな僕にはわき目もくれず、藤村さんはしゃべり続けている。今話題になっているのは、最近ニュースになった薬物所持で逮捕された芸能人の話だ。
「大石くん。どう思う?今回の判決は重すぎるっていう声があるけど、俺はそうは思わないね。過去にどんな輝かしい経歴があろうと、どんなに良い人だろうと。悪い事は悪いから悪いんだ。今彼が出来る事は、重罪を受け入れて、このような事が今後二度と起こらないようにするのが役目なんじゃないかな。違うか?」
「いや全くそうですよ。藤村さんが言う通り、情に流されちゃ駄目ですよ」
特に自分の意見があるわけじゃないが、人から言われるとどうもそのように感じてしまう。それより今の自分には、豚カツを食べ終わる前にご飯が無くなってしまわないか、という問題の方がたいへん重大だった。藤村さんとの食事会は、大体いつもこんな感じだ。
藤村さんとの食事会が終わり、一人で電車に乗って家へ帰った。食事会が終わった後、藤村さんから「この後暇か?」と尋ねられたが、僕は「すみません。用事があるもので」と出来るだけ申し訳なさそうな仕草を見せて断ってしまった。特にこの後することなんてなかったのだが、嘘が自然と口から出てしまったのだ。別に藤村さんが嫌いというわけではないが、一緒にいると何故か体が少し疲れる。また一つ、悪いことをしてしまったと思った。電車に揺られながら、藤村さんは何に誘おうとしたのだろうと考えた。何をしたら僕と一緒に楽しめるのだろうか。いろいろと考えたが、当てはまるものは一つとして見当たらなかった。そもそも食事会自体、藤村さんにとって楽しいものなのか、まったく見当もつかない。結局、あの人は僕のように考えすぎない才能があるから何事も楽しいのだろう、という結論に落ち着いた。悪く言っているようにも聞こえるが、それはとても素晴らしいことだと思う。僕は弱い人間だ。
気がつくと、電車は終着の下関駅に近づいていた。いつものアナウンスが流れた後、ガタン、ゴトンとゆっくりと時間をかけて電車が止まる。乗客たちはばらばらと、僅かな時間差を置いて次々と席を立っていった。僕はそれを一部始終眺めた後、いちばん最後に席を立ってホームへと出た。電車を降りて駅のホームに立った瞬間は、独特な気持ち良さがある。狭くて湿った空気の車両から出た途端、辺りの人々の話し声や、大通りの車の音、それらが一斉に鳴り始め、まるでその町の日常に急に放り出されような。異邦人にでもなった気分だ。
駅を出て商店街を歩いていると、通りすがりの店で僕の知っている音楽が小さく流れていたので、思わず嬉しくなって立ち止まった。この曲は大好きな曲で、CDも3枚は持っている。演奏者によってどれも違うが、僕はどれも好きだった。どの人が有名で、どの人が上手いなんてさっぱりわからないが、わからなくても良いと思う。どれも好きなんだから、もうけ、もうけ。こういった好きな曲が思わず街中で聞こえた時は、知ってた筈のその曲より、何倍も何倍も素敵に聞こえてくるから不思議だ。音楽と言うものは決して仲良くなることはできないけど、大好きな、尊敬する人みたいな感じがする。悲しい曲や明るい曲も、明るいのにどこか一瞬、寂しい曲も。どれもこれも書いた人がどんな心持ちで書いたのか分かるすべはないけれど、その印象だけは音になって伝わるのだ。決して作者のほんとうの意図はわからない。でも、それが良いのだ。いさぎよい清々しさがある。それに比べて作家は弱虫。あれやこれや説明して、いつも理屈じみた哲学を並べて。わかってもらえないといけないなんて可哀想で寂しがりやの弱虫。でも、これもまた素敵かな。だって可哀想だもの。
僕は小さい頃からチェロをやっている。腕前はといえば、まあ、何年も長くやっていればこれくらいにはなれるだろう、といった妥当な具合だ。自慢じゃないが、音楽に詳しくない人が聞けば、そこそこは弾けるように見せかける事はできる。音楽は好きで、どちらかといえば聞く事よりも、自分で弾く方が好きだった。しかし、自分にはどうにも感性というものがまったく備わっていなかったようで、たとえどんなに有名な演奏者が名演奏を披露したとしても、僕には何がそんなに素晴らしいのか、さっぱりわからない。芸術性がどうのこうの以前にも、上手いか下手ですらわからなかった。何度も理解しようと努めたが、やはり、芸術というものはなかなか敷居が高いようだ。チェロを弾いている時だって、演奏会に聞きに行く時だって、いつも負い目を感じていた。一度だけ勇気を出して、地元のアマチュアオーケストラに入ったことがあるのだが、週一度の練習に行くたびに、周りの人々はほんとうに音楽が好きで、詳しくて、芸術を理解する感性がある方々ばかりで、僕はそんな人たちを尊敬こそしたものの、自分はここにいてはいけないような、偽物がいっぴき紛れ込んでいるような気がして、三ヶ月と経たないうちに辞めてしまった。後悔はしていない。あのような人たちとほんの一瞬出会えただけでも、すっかり感服して、憧れを持てたことは良い体験だった。
それにオーケストラというのは独奏とは違い、自分の音がほとんど聞こえない。初めの頃は近くで聞く迫力に興奮したものの、一人で弾く種類の楽しさは、ほとんどないことがわかった。この音を大きくしたら面白そうだ、これは悲しい音だから大事に弾いて、あれやこれや、気分に任せてやりたい放題なんて弾けやしない。きっとオーケストラで楽しいのは、指揮者だけじゃないかしら。きっと感性がないのだから、こんな言い訳を考えてしまうわけだ。
それでもチェロを続けているのは、やっぱり好きだからだ。それに僕を教えてくださる先生は、ほんとうに素晴らしい人だ。貴族とでもいうのか、太宰の『斜陽』に出てくる、お母さんのようだと勝手に思っている。ただ単純に礼儀正しいだけとは違い、一つ一つの動きや言動に、優雅で独特な気品があるのだ。決して威張らないし、音楽についてあれやこれや教えてくれた後でも、決まって「まあ、こんな知識なんて覚える必要はないけれど」なんてさっぱりと言っている。立っている時も、足を前後に、まるでバレエダンサーのようにクロスさせて、すっと背筋を綺麗に伸ばして立っていらっしゃる。僕の演奏が上手い具合にいった時には、隣で何やらダンスのようなものをやっていて、おそらくオリジナルの即興ダンスらしく、その動きはバレエとも言えず、社交ダンスとも言えず、思わず視界に入った時には奇妙な動きが可笑しくて、「だめだ、だめだ。見るんじゃない!」と必死に笑いをこらえる羽目になるのだが、やっぱり優雅な気品を感じられて、感心してしまう。きっとあの人こそ、ほんとうの貴族なのでしょう。でもね、先生。男だって、シャイで、ナイーブで、ロマンチストなんですよ。僕の知っている、男の貧乏貴族がそう言っていました。
商店街からバスで家まで帰ると、だいたい15分くらいかかる。バスに揺られながら、ぼー、っと外を眺めて時間を潰した。彦島へ入る橋を渡り、小さなロータリーを周るとバスは公園の手前の赤信号で止まった。窓の外を眺めていると、公園の奥の方に、受験前なのだろうか、教科書を持った高校生らしき青年が、ベンチに腰を下ろしていた。その青年は、手に持っている教科書は見ておらず、何か考えているような顔で、遠くの空を見上げていた。そういえば僕にもあんな時代があった。毎日学校へ通い、今となってはどうでもいい、些細な事に一生懸命悩んでいた、幼い時代があった気がする。ほんの一瞬、あの頃の懐かしい雰囲気、空気の匂いのようなものが蘇って、変な気持ち良さを感じた。まるでかつての自分を、窓の外から見ているような、そんな不思議な錯覚になった。ベンチに座っているあの頃の自分は、今、こうして年をとった自分が外から見ている事に、全く気づいていないのだろう。僕にはたまに、今自分がやっている、日常的ないつも通りの瞬間を、ずっと後になって思い出す事があるのだろうかと、ふと思う時がある。今でも何故か覚えている、ずっと昔にあった、何の意味も変哲もない日常のひと場面が、もしや今のこの瞬間なのではないかと一瞬疑うのだ。その時、それを見ている、未来の自分の姿が頭をよぎる。それが、今、こうしてベンチに座っている青年を見ている自分と重なった。そして、バスに乗って青年を眺めている今のこの自分も、ずっと後の自分がどこかでこっそり、「あんな時代もあったなぁ」なんて言いながら見ているのではないかという気がして、また変な気持ちになった。そんな事を考えているうちに信号は青になり、バスが再びゆっくりと走り出す。そして、さっきまで考えていた何の意味もない事も、いつの間にか忘れてしまった。
家に帰り着くとすぐに電話がかかり、会社の同期から、後で晩飯に行かないかと誘われた。僕は了解して「どうせ行くならお酒の飲めるところが良い」と答えると、彼は「じゃあもう1人誘う」と言って電話を切った。ラジオをつけて時間つぶしを済ませると、僕は会社の同期3人で近くの居酒屋へと向かった。
会社の同期とつるんでいる時、僕は精一杯に駄目人間をやっている。けれど、決して演じているわけではない。もともと僕は立派な駄目人間なので、そういった部分を、ちょっとだけ強調すれば良いのだ。いつも彼らに話すエピソードは選りすぐりの蔑まされた話だ。今日は3人で鍋をつつきながら、昔好きだった女性に思い切り振られた話を披露してあげた。それも、見事なほどみっともなく、自分の醜さを、存分に知らしめられた話だ。少しばかり創作も入れたが、元々の話は本当だし、こっちの方が面白い。彼らは思う存分笑っていた。僕はこの笑い声を聞けば安心する。でも、そんな自分が嫌だ。彼らとはあまり多くを語らえない。人それぞれに個性があって、それはとても面白く、素晴らしいものなのだけど、やはり、かなしいかな。何かを語らうには多少の共感が必要なのだ。彼らには僕の本音を言ったって、信じてもらえないのだろう。信じてもらえるものと、信じてもらえないもの。この二つを隔てている、なにか法則のようなものがあって、誰もがそれを見定めながら人と関わっている。けれど、本当に信じて欲しいものは、大概の場合、信じてもらえないものなのだ。小さな飲み会が終わると一人で歩いて家路についた。気がつくと、悲しい気持ちになっていた。
身体中の眠気をかき集めても、少しも眠れる気がしない。もう夜の11時を回っていた。タバコをふかしながら、かれこれ2時間以上もテレビの前に座っている。テレビも本当に見ているのかわからないような感覚で、単なるころころと切り替わる絵を、何の意味もなく、ただ眺めているといった状態だった。すでにいつもの眠る時間はとうに過ぎてはいるのだが、疲れたような、疲れてないような、変な気分で、眠ろうとする気がなかなか起きない。そうだ、散歩をしよう。うやむやしていて眠れない夜は、散歩をするのが一番なのだ。少し離れた海辺の自動販売機で、好きなジュースでも買って帰れば、程良く疲れて大概はよく眠れるものだ。重たい腰を起こすと、携帯にイヤホンを刺して外へ出かけた。ドアを開けると夜の風が透き通ったように冷たくて、気持ち良い。お気に入りの音楽を聴きながらのろのろと歩きだす。右に行ったり、左に行ったり。適当に。団地の中を歩いて行くと、まだ灯りの付いている家がちらほらと見える。一体彼らはなにをしているのだろうか。あの灯りの中には人がいて、そこにはその人のいつも通りの日常が、いつも通りに流れていて、今、こうして自分が外からそれを見ている事がなぜだか不思議に思えてくる。あの灯りにも、あの灯りにもまた違ったそれぞれの当たり前な日常があるのだろう。家族、一人暮らし、貧乏だったり裕福だったり。そんな事を考えているうちに、急に自分が周りと切り離されたような、一人ぼっちな気がして、寂しくて、あっ、と小さな声をあげたくなった。
細い路地をしばらく進んで角を曲がると、視界が広がり真っ暗な海が見える。人影のない堤防の近くまで行って、ぽつんと一人寂しく光っている自動販売機でぶどうのジュースを買った。この寂しい自動販売機は、僕が訪れて嬉しがっている事だろう。振り返ると巨大な海が暗闇に広がっている。イヤホンを外すと、激しい波の音がこだました。魚じゃなくてよかった。こんな真っ暗な海の中で暮らすなんて、怖くてできやしない。ざばんと波の音が聞こえて、しばらく静かになったのち、またざばんと波の音が鳴り響く。次の波を待っている静かな時間がいちばん怖い。しばらくのあいだ、ささやかな恐怖を楽しみながらジュースを飲んで休憩した。こんなに暗くて怖いのに、ジュースだけは普段と変わらず美味しいものだ。まあ、関係ないか。
一息ついたところで、家に向かって歩き出した。ゆっくり歩きながら、今日あった出来事を一つ一つ思い返してみる。そういえば、今日は藤村さんと久しぶりに会った。いつも通り明るく、テキパキしていて。でも、昔よりもちょっと落ち着いたのかもしれない。藤村さんとの話を思い出した。礼儀のなっていない若者の話、最近のテレビについて、あと、哀れな薬物中毒者の話。薬物中毒の人の話だけが、何故か心に引っかかった。かわいそうに。その人はなにがあって薬物に手を出したのだろうか。きっと自分が想像できないくらい辛い経験をし、追い詰められて、次第にどうしようもなくなって、薬物に溺れたのかも。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。確かに周りに迷惑をかけたり、怖がらせたりしたのかもしれないが、周りにかけた迷惑よりも、その人の苦痛がはるかに上回っていたとしたら、僕は責めることができるのだろうか。迷惑をうけた周りの人は確かに被害者かもしれないが、その薬物依存者だって何かしらの被害者かもしれないし、そういった状況に追い詰めた人がいるのかもしれない。もし追い詰めた人がいたとしても、その人だって何か辛い経験をしてきて心が歪んでいたのかもしれないし。そんな事をしばらく考えていると、何が善くて、何が悪いのか頭の中でぐちゃぐちゃになってくる。ふとどこかで聞いた歌のフレーズが頭をよぎった。「誰も悪くなんてないのに、悲しいことはいつもある」。僕にはわからない。一つの事柄に対して何が善い事で、何が悪い事なのか。本当はそんなもの自体ないのかもしれない。藤村さんは自信を持って、他人に迷惑をかけたのだから悪い事は悪いと、はっきり言っていた。藤村さんを羨ましく思う。わからないでは駄目だ。善いも悪いも、そもそも善悪自体が存在しなくても。これから自分が生きていく中で、わからないで逃げていては駄目なのだ。何かを信じて、それに従って判決をしなくては。逃げる事自体、逃げるという選択だとすれば、やはり選択から逃れる事はできない。判決せざるえないのだ。だとしたら、何かを選択する方が、逃げるよりもはるかに賢い選択なのだろう。しかし、信じる力が今の自分には足りない。泣きだしたくなるくらい、か弱く空っぽな人間だから、いつもいつも逃げてばかりいる。何もないからこそ、何かを信じて頼らなければ。判決をしなければ。人の個性や素性というのは、もともとどんな人間なのかより、何を信じるかによっての方が左右される。会社で上り詰めようとする者、ただ普通にのんびり過ごす事が幸せだと思う者、車好きやら賭け事好き。彼等は元々それを持ち合わせてこの世に生まれてきたわけではない。いつの間にか、それを気づかないうちに自然に信じただけなのだろう。それに比べて自分ときたら、何にもない。オーケストラの事を思い出した。やめなければよかった。最初はよく分からなくても、いずれそれを信じて、生きがいを思い込み、居場所になったかもしれないのに。僕には居場所がない。信じるものがないからだ。だからどこにいても不安で、みんなの圧倒的な自信に押されて、息が詰まりそうになる。自分の周りにいる人は皆、謙虚であろうが、どれほど自虐的な事を言おうが、どこか心の奥底に動かぬ自信があるように思え、誰もがまるで巨大に見えて、自分だけが小さな小人のような感覚になる。意識すればするほど、自分がみるみる小さくなっていき、怯えた目で彼らを見上げているのだ。いつまでもこうして、不安で震えながら過ごしているのが虚しい。友達や先輩と飲みに行けば、彼女を作れだの服装や髪型を変えろだのを言われ。実家に帰れば食生活が悪いだの不健康だの言われ。職場に行けばもっとしっかりしろと言われ。その時その時、自分はただ、はいはい、わかりましたわかりました、とあたかも納得したような素振りで特に言い返す気力も湧かず、右へ左へと流されるばかりである。自分は、生きていない。そう思った。死なない事が生きることではないはずだ。生きる事が生きる事だ。今の自分は生きても、死んでもいない。生きれず、死ぬこともできず、その中間で漂っているだけだ。からっぽな人間。生きたい。ただ生きたい。だが、その生きる、という意味がよく分からなかった。生きるとは何だろう。それは分かりそうで分からない。懸命に考えてみても、視界の端に現れたと思って、はっと目を向けても次の瞬間、どこかへ飛んで逃げてしまうような、不思議でじれったい感覚。見ようとすればするほど、視界からするりするりと逃げてしまう。でも、まれに影が現れる。それはお腹が空いた時、疲れた時、恋をした時、眠くなった時。生は何かを欲求させ、思いを焦がせる。生きたいという欲求は、何かを通じて姿を変えては現れる。その時に初めて、自分の欲求を感じるのだ。だが、それは影だ。生きたいという生本来の欲求そのものではないだろう。ひょっとして生というものは、何かを通じて、姿を変えてでしか感じることができないものなのではなかろうか。どんな欲求も、所詮人間はただ漠然と、向こう側に生の影を感じるだけで、直視する事は到底不可能なのだ。今、自分の中で食欲や睡眠欲なんかよりずっと大きく、ずっと昔から心の奥底に居座っていた影が、この自堕落な生活に苦痛を上げているような気がしても、正体はおろか、果たしてどうすればいいのかなど、てんでわかる術もない。ただ生きたい、と思ってみても分からない。どうしようもない。途方にくれた。どうすればよかったのだろう。今までどうしたかったのか、これっぽっちも分からない。歩みを止め、暖かな灯りの灯った、小さな一軒家を見つめた。温もりを感じると同時に、自分の惨めさが心の底に息詰まるように広がっていく。また、正体のわからない欲求がうごめき、苦痛に顔を歪めた。しかし、これではないのだ。自分の本当に求めているものは、これではない気がする。いつだってそうなのだ。一瞬だけでも本当に、これこそが探し求めているものなのだと思ってみても、よくよく目を凝らして見てみると、やっぱり違うものなのだ。なんて傲慢なんだろうか。目をそらして振り返り、歩いて来た道を見つめた。歩いてきた坂を見下ろすと、さっきまで居た堤防が、いつの間にか小さくなっていて、遠くの海が街明かりできらきらと光っている。その手前には暗闇が広がり、真ん中から細い道がひとつっきり、足元まで続いていた。これまでの自分は、何かを誤ったのだろうか。思い返してみても、どの選択も、どの失敗も、今の自分がどうのこうの思ってみても、その時にはそれしか選択のしようがなかった。ただ盲目に、抵抗などはしなかった。おそらく、何度生まれ変わってやり直しても、同じような道を辿るのだろう。同じような選択をし、同じような人生を歩むのだ。何度生まれ変わっても。何度も何度もやり直しても。もしや今この人生も、実は何百、何千回目の同じ人生なのかもしれない。同じ時に誰かに出会い、同じ時に喜んだり、傷ついたり。ずっとずっと、ただ一寸も変わらずに。途方に暮れた。気の遠くなるような気がする。今、この瞬間に、この街灯の下で同じ事を考え、立ち止まっているのは一体何百回目の事なのだろうか。一つ前の人生も、もっともっと前の人生の自分も、今ときっかり同じように、この場所で絶望したのだろう。そしてきっと、この先の瞬間も続いてゆく。今回こそ抵抗し打ち破りたい。この永遠回帰の輪から抜け出し、完全な創造で新たな道を切り開きたい。そう思った一瞬、心の奥底から新鮮なエネルギーが湧き出てきた様に感じた。そうだ、今こそ打ち破るのだ。今度こそ、自分で自分の人生を切り開いてみせる。だが、そう思ったのもつかの間、今の僕にその力はないと、すぐさま冷静で正しい、冷めた自分がでてきて、また、元の人生に引きずり込まれて行くように道を歩き始めた。家まであとちょっとだ。
それからは、家に着くまで何も考えなかった。気がつくと、もう部屋の前にいる。ドアを開けると生臭い生活臭が鼻についた。そういえば、片付けをしていなかった。部屋に入ると着ていた服を脱ぎ捨て、すぐさま布団の中に潜り込む。なんだか妙に疲れたようだ。目の前には朝に見た昨日のゴミと、さっき脱ぎ捨てた服が狭い床を埋めているのがぼんやりと見える。今日は片付けはいいや。明日になったらさすがにするさ。電気を消して目を閉じた。
眠るときはいつも寂しい。暗くて静かなせいなのか、いやなことばかり考えてしまう。いつの間にやら、なんとも惨めな人間になってしまったものだ。小さい頃は普通に生きて行けば、当たり前に普通な大人になるものだと思っていた。自分だけ、こんなに不幸になるなんて。自分だけなんて考えることは、よくない事だとわかっている。でも、どうしても寝るときは自分だけ、自分だけと、何もかもが思えてしまうものなのだ。けれど、自分にだってもっと別な、いいところがある。きっと。そう信じていなければ、生きてなど行けないのだろう。こうやって自分を慰めようと、一生懸命言い聞かせる。僕にだっていいところがある、誰も気付いてくれないだけなんだ。こんな事を考えるなんて、醜い人間になったものだ。誰かに聞かれたら、腹を抱えて笑い転げるに違いない。気付いてくれないだけだなんて。一人でふふっと笑った。なんだか悔しい。悔しくて、じんわり涙が湧いくる。まるで自分が、暗く悲しい海の中で、一人はぐれた小魚のように思えて、「誰か、助けて、、」と小さな声で呟いて、布団にぎゅっとしがみついた。僕は何のために生まれてきたのだろうか。今この国に、戦争があればよかった。そうしたら、すぐにでも兵隊に志願し、この国のために戦ったのに。昔の兵隊さんは、誰かのために戦って死ねるんだから、僕よりも幸せだったのかもしれない。まだ死ぬ必要のない立派な兵隊さんがいたら、僕が代わってあげよう。痛いのは嫌だし、苦しんで死ぬのはもっと嫌だけど、あなたのために死んであげる。眠気がじわじわ忍び寄り、体がだんだん重たくなる。そのまま、徐々に意識が海の底深くまで沈んでいって、今日の出来事も、一つずつ頭の中から消えてゆく。深くなるごとに、一つずつ、一つずつ。真っ暗な海の底へ、悲しみも、何もかもが消えてゆく。そして、いつしか夢の中へ。
さようなら。もう、お会いすることはないでしょう。おやすみなさい。
朝は灰色 @peipei0726
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます