彼の卵

灰崎千尋

彼の卵

「君に、僕の卵を抱いて欲しいんだ」

 そう言う彼は、いつも通りの真っ直ぐな瞳で私を見ていた。今しがた飲み干した缶の安酒に酔っているわけでも無いようだ。

「お前の、卵」

「そう」

「お前と、誰の?」

「誰も。僕がひとりで産む、僕の入った卵」

 ぷしゅり、と新しい缶を開け、彼はまた一口飲んだ。

「君と出会って、ええと、八年くらいになるはずだけれど、君は良い感じに渋みが出たよね」

「変に濁さなくて良い。オジサンになったよ、間違いなく」

 彼の言わんとすることはわかっている。日々体の衰えを感じ、体臭などを気にするようになった私にひきかえ、彼は出会った頃と一つも変わらない。剥きたての果実のようにみずみずしい肌、丸く澄んだ瞳、薄い体。毛先まで艷やかな黒髪は小さな頭をつるりと包み込む。そういえば、彼の髪が伸びたところを見たこともなかった。

「お前は、何も変わらない」

「そう。見た目にはね」

 彼はまた缶をあおる。控えめに主張する喉がごくりと上下する。

「僕はこの姿のまま、とても、とても長いこと生きているのだけれど。老いはしない代わりに、脆くはなってくるんだ。だから崩れてしまう前に、僕は僕を産み直さなくちゃいけない」

 彼がそう言うのならば、そうなのだろう。私は彼に対する長年の疑問が───問うたが最後、彼が私の前からいなくなる予感がしてぶつけることができなかったそれが、一つ解けていくことに安堵した。だからひとまず、新たに湧いてくる疑問には目を向けないことにした。

「卵はもうあるのか?」

「いいや、まだ。君が了承してくれるなら、今ここで産ませてほしい。卵を産んでしまったら、今の僕は無くなってしまうからね。」

 さらりと言う彼の言葉に、私の体はびくりと強張った。

「無くなる、のか」

「そりゃそうだよ。同じものが二つ、同時にあったらいけないもの」

 彼はそう言ってクスクス笑う。何がおかしいのだか、私にはわからなかった。

「だけど卵の中の僕がちゃんと育つまで、君に抱いていてほしいって話」

「卵の抱き方なんて、私は知らない」

「大丈夫、君はいつも通りでいてくれれば良いんだ」

 そう言って、彼はぐっとこちらへ身を乗り出すと、上目遣いに私を見つめた。

「いつも通りに、僕をこの部屋に置いて、君は君の生活をして、ときどき僕のことを考えてくれたら、それで良い」

 ガラス玉のような瞳の中に、私が映っている。情けなく狼狽えた顔をして。彼の方は瞬きもせず、うっすらと微笑みを浮かべたままだった。

 彼はきっと、始めから私の答えを確信していたのだろう。それは何も、初めてのことでは無い。だが未だこの羞恥心に慣れない私は、彼から顔を逸らし、「わかった」と、かさついた声で答えるのが精一杯だった。だからその答えを聞いた彼がどんな顔をしていたのだか、私は知らない。


 彼は缶の残りを飲み干すと、「それじゃあよろしくね」とだけ言って、自らの寝床にうずくまった。まるで大地に接吻するかのように膝を折り、しなやかに背を丸め、深く息を吸う。その息を細く長く吐き出しながら、彼の顔は苦しげに歪んでいく。いつもは涼し気に弧を描く眉を寄せ、瞼をきゅっと閉じ、力んだ体が小さく震えていた。ああ、彼は本当に産むのだ。彼の卵を。いったいどんな卵を。どうやって。私はただじっと待ってもいられず、彼と同じような表情をして、彼の背に恐る恐る触れた。未発達な翼のような肩甲骨。それを覆う肉はじんわり温かい。私はただ、おろおろとその背をさすっていた。

 やがて彼は「あ」と小さく喘いだ。その形のまま大きく口が開く。その中から舌の赤ではなく柔らかな白が覗いた。私は思わず背をさする手を止め、その白を凝視した。彼の口を押し広げて、徐々に白い曲面が見えてくる。そこからはほとんど一瞬だった。彼が顔の前に広げた両手の上に、ぬるりと音もなく球体が落ちた。彼は顔だけで私の方を振り返り僅かに唇の端を上げた、と思った時には、彼の姿は無くなっていた。

 彼の体がぼやけて溶けたようにも、砂よりも細かな粒になったようにも、その粒を球体が吸い込んだようにも見えた。そこに体があったことを疑いたくなるほどにあっさりと、彼は消えた。しかし存在の証は目の前にある。卵だ。

 彼がいつも頭を預けていた枕の上に、白い卵が我が物顔で収まっていた。


 その卵は、鶏の卵よりは大きく、私のこぶしよりは小さく、奇妙に柔らかかった。肌触りが、遠い昔に水族館で触れたイルカの肌に似ている気がした。しっとりとなめらかで、張りと弾力があり、鈍いツヤを放っている。殻というよりは膜のようなものに包まれており、一面の白に阻まれて中身を知ることは叶わない。そっと持ち上げてみると、確かに重さがあった。この重さは、いったい彼の何を表しているのだろうか。

 肝心なところは何もわからぬまま、何も問えぬまま。私はいつだって臆病だ。

 いつも通りに、と彼は言った。だから親鳥のように卵を温める必要は無いのだろう。けれどじわじわと広がってきた喪失感から逃れようと、卵を胸に抱いてみた。人肌よりもぬるく、脈拍が聞こえることもなく、頼りない感触は何も埋めてはくれなかった。いっそ不快でさえあった。それでも私は、彼の卵に縋っていた。


 彼との出会いはとても曖昧だ。

 いつからか近所で見かけるようになり、声をかけられて顔見知りになり、道端で缶やカップの安酒を飲み交わすようになり、それが私の家になり、いつの間にか住み着くようになり。私がそんなことをする相手は、後にも先にも彼だけだ。

 彼は私の全てを見透かしているかのようだった。私の嫌がることは決してしなかった。しばしば私の心の内を言い当て、しかし踏み込んでは来なかった。八年も経つが、気ままな同居人であり続けた。それが私にはひどく心地よく、同じくらいにもどかしかった。


 彼の卵は育っていった。

 私は彼に言われた通りに卵を抱いた。つまり彼の卵を家に据え、私の生活を続け、ときどき彼のことを想った。実にそれだけで、卵は人間の赤子ほどの大きさになった。

 あとどれくらい、こうしていれば良いのだろう。

 私はそれすらも知らない。一週間か、三ヶ月か、五年か、それ以上なのか。彼に尋ねれば答えただろうか。しかしその答えが何であっても、私は惨めったらしく卵を抱き続けるのだ。だからこの質問に意味は無い。

 卵は不気味に白いままだった。膜はぶよぶよとして、私の手を跳ね返してしまう。

 私は彼を知りたかった。それ以上に知るのが恐ろしかった。知れば、彼と私の間にある途方もない隔たりが突きつけられてしまう気がしてならなかった。だが今でさえその隔たりは、充分過ぎるほど厚い。

 彼は一人きりで卵を産んだ。卵を抱く私は番でも父でも無い。今からでも私の精子をぶちまければ魚のように受精しはしないだろうか。卵に刃を突き立てて裂いたなら彼のことが少しでもわかるだろうか。育ちきる前の彼を取り出したなら私だけのものになるだろうか。

 いいや。いいや。私は決してそれをしない。彼を永遠に失うくらいなら、決して。彼はそれを知っている。だからこそ彼は、私に卵を托したのだ。


 ゆえに私は、ただ彼の卵を抱く。寝床に卵を寝かせ、私が生きるに必要なだけのことをして、彼のことをずっと考えている。


 

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