魔王の挑発、勇者の屈託
戸松秋茄子
本編
雄鶏の鳴き声が合図だった。
あのけたたましい鳴き声とともに、わたしたちは剣の稽古をはじめたものだった。愛犬が目覚めるよりも早い時間、あの巨大な毛玉が餌と散歩の催促でうるさく吠え立てはじめるまでの貴重な時間を、われわれは剣に費やした。
――さっむ。
この時期、あの子ならそうぼやいたことだろう。しかし、身体はおのずと裏庭へと向かう。白い息を吐き、雑草の霜を踏みしめながら準備運動をはじめる。それがあの子の、わたしたちの習い性だった。
――ねえ、いつになったら真剣で相手してくれる?
木剣での鍛錬に飽いたのか、あの子はよくそう口にしたものだった。十年早い、とわたしは返す。そういうことは師の型を正確になぞれるようになってから口にするものだ。身体も剣術も未熟なお前では怪我をするだけだろう。
――怪我するってどっちが?
あの子はいたずらっぽく口の端を吊り上げる。血色が薄い唇から尖った歯を覗かせるようにして。
――十年って言うけどさ、その頃にはあんたももう立派な老いぼれじゃないか。いや、生きてるかどうかだって怪しいね。仕立て屋の親父みたいに急病で倒れることだってあるだろ。魔族ならいざ知らず、人間は三〇過ぎたら後は余生だって、あんたいつも言ってるじゃないか。いつイフリート様のお世話になってもおかしくない。だからこうして剣を教えてるんだって。僕が、一人でも生きて行けるように。自分の身を守れるようにって。
そんなに俺と斬り合いたいか、とわたしは尋ねる。
――当たり前だろ。
あの子は笑顔になり、翡翠色の瞳に好戦的な光を宿らせる。光の加減によっては血の色に染まることもある不思議な瞳だった。色素が薄いまつ毛に縁どられた、丸く大きな瞳。王都の宝石商だって魅了するような、神秘的な瞳だった。
――未だに実感が沸かないんだけどさ、あんたはそのご自慢の剣技で魔王を討伐した勇者様なんだろ? それが本当なら、誰だって手合わせ願いたいもんなんじゃないの? 少なくとも、剣に生きる者ならさ。
何が剣に生きるだ、とわたしは苦笑する。たかだか五年かそこら学んだくらいで剣の何が語れる。剣を語りたくば、鍛錬に集中しろ。
――はぁい。
あどけない声が脳裏にこだまし、そしてわたしははっと我に返る。
冬の早朝。まだ薄暗い空。入院している王立病院の裏手だった。
誰もいない。針葉樹がさわさわと歌うだけだ。
太刀筋が乱れ、脇腹の傷が疼く。痛みに思わず蹲り、わたしは膝をついた。吐血。地面を染める赤色があの日の惨劇を思い起こさせる。
――×××!
わたしを呼ぶ声。あの子の声。そこに別の声が覆いかぶさってくる。かつての仲間の声が。
――魔王……!
それがあの日、目覚めたものの名だ。わたしのすべてを奪ったものの名。かつての仲間と愛犬、それにあの子を奪っていった――
――どうした、勇者。剣を取れ。もう一度、我を殺してみよ。
あのとき、剣を取っていれば――そんな可能性を振り払うようにして、わたしは首を振る。地面に手を突き立ち上がる。王都で学んだうろ覚えの算術を呪文のように唱える。
――できぬか。
失望したような声。そして魔王は手をかざした。魔族が魔力の衝撃波を放つときの構えだ。それが自分に向けられたものだとわかっていても、わたしは避けることさえできなかった。ただ茫然と立ち尽くしていただけだ。血の海から拾い上げた、あの子の左手を掴んだまま。
魔王、と口にしてみる。魔王。そうだ、魔王だ。それがわたしからすべてを奪ったものの名。わたしが一度は殺したものの名。わたしがもう一度殺すべきものの名。
殺される度に生まれ変わり、魔族の胎から生まれなおすという魔王。北方の島を根城とする魔族たちの首魁。勇者が討つべき仇。
魔王、ともう一度口にしてから、今度はあの子の名前を呟く。といっても、わたしがつけた便宜上の名前だった。本当の名前はいまとなってはわからない。ある雪の夜、あの子の母親が口にしたのを一度聞いただけだ。それはわたしには聞き馴染みのない異国の響きで、どのように表記するのかもわからなかった。彼女はわたしに赤ん坊だったあの子を託すと、その場で息絶え、それきり物言わぬ屍となり遂せてしまったのだから。
あの夜、親子を襲った追剥連中と彼女の屍を残し、わたしは血が点々と連なる雪道を引き返した。利き腕には血の滴る愛剣を、もう片手には泣きわめく赤子を抱いて。
思えば、命あるものを切ったのはあれが最後だった。いまからおよそ十年前。年子の弟が家督を継いだ実家から逃げ、放浪していた頃のことだ。いるかどうかもわからない追っ手を撒くようにして、定期的に拠点を移していた頃の。
魔王を斬って以来、剣を遠ざけていたわたしだが、護身用の剣は常に持ち歩いていた。いや、護身用、という用途は後から考えたものだ。
意識の上では剣を遠ざけていたつもりでも、実家を抜け出すとき無意識に持ち出したのはやはり剣だった。それだけのことだった。実際にその剣をどのように使うかまでは考えていなかったと思う。つまり、追剥連中を斬り伏せるまでは。
赤子とともに新たな拠点へと移り、ようやくそこで己が剣と向き合う時間ができた。追剥の血を拭うと、途方に暮れた男の顔が刀身に映り込んだ。
天涯孤独のあの子を今後どうしたものかと頭を悩ませた。俺が育てるのか、と自問する。それは魔王を討つよりも非現実的な任務のように思えた。
なあ、何の義理があるっていうんだ。お前はただ通りがかっただけだ。あの子の母親を殺したのは追剥連中であって、お前ではない。それどころか、お前は母子を助けようとした。立派じゃないか。え? 誰がそれ以上を求められる? 赤子なんてもらったところでお前には何の利益もない。継がせるべき家督もなければ、子供に手伝わせるような家業があるわけでもない。生活はお前ひとりで十分回る。赤子はむしろ重荷だ。そうだろう? なのになぜ持ち帰った。あの場に置き去りにしなかった? いや、いまからでも遅くはない。捨ててしまえばいい。
ああ、その通りだとも、とわたしは剣に答えた。しかし、捨てるのは簡単だ。いつだってできる。だからもう少し考えさせてくれ。赤ん坊だって何かの役に立つかもしれない。鳥たちを見てみろ、彼らはなぜ子を産み育てる? せっせと巣の材料を拾い集め、卵を温める? ぎゃーぎゃーやかましいだけの雛たちに餌を運ぶ? 一見、不合理だが、そこには何か我々の見落としている見返りがあるのかもしれない。
そうして、雛鳥の世話がはじまった。雛はわたしの見立てでは二歳前後に見えた。たまに故郷の言葉らしきものを口にしたが、それはあくまでひとつかふたつの単語を反復するにとどまった。言葉の意味は図りかねたが、おそらくは母親を意味するのだろう、ふいに泣き出し、ある特定の単語を連呼することがあった。そんなとき、わたしは対抗するようにしてこの国の言葉を連呼するしかなかった。大丈夫、とか、どこが悪い? とか、ねんね、とか、よいこ、とかそういう言葉だ。
はたして、この子がこの国の言葉で話す日は来るのだろうか。あの子を寝かしつけると、いつもそんな疑問が沸きあがったものだった。身体が大きくなってもずっとあのわけのわからない言葉で不満を訴え、力いっぱい暴れるのだとしたら、いよいよ手に負えないのではないか。そう考えた。
結果としてその心配は杞憂であり、気づけばあの子は自ら立ち上がって歩くことを覚え、この国の言葉を断片的に操るようになった。わたしは自分のことを何と呼ばせたものかわからず、いま名乗っている名をそのまま教えた。そのせいだろうか、物心つく頃には育ての親を呼び捨てにする生意気な子供が出来上がっていた。
――××。
あの子はいつもわたしをそう呼んだ。腹が減った、退屈だから何か話してくれ、服がきつくなった、犬って生き物が飼ってみたい、あらゆる要求をその一言に込め、それを察してもらえないと不機嫌になった。
――××。
ある猛暑の朝、庭で木剣を振るっているとそう声をかけられた。なんだ、と訊き返す。すると、あの子は犬の顔を撫でながら続けた。
――剣っておもしろい?
あのときわたしは何と答えたのだろう。なんであれ、あの子は剣に興味を持ち、わたしはあの子の師匠になった。護身の術、生きる術を身に着けさせるという名目で。
自分が死んだ後のことを考えるようになったのは、その頃のことだと思う。あの子が一人でも生きられるように、剣をはじめ生活の術や社会の仕組みを教えるようになったのは。
――あんたはさ、なんで家督を継がなかったわけ? 貴族だったんでしょ。
田舎のな、とわたしは答えた。貧乏貴族もいいとこさ。
――勇者を輩出した家には富と栄誉が約束されるって話だけど。
そう、だからこそ、父は息子を王都へと送り出したのだ。本来なら家督を継ぐべき長男坊を勇者に仕立てようとした。物心着いたころから放っておけば虚空で木の枝を振り回していた長男坊を。試みに剣の師範をつけたところ、めきめきと腕を上げ、その才覚を保証された長男坊を。
――どうしてまた弟に譲ったのさ。
最初からそういう話だったんだ、とわたしは答えた。あいにくと剣以外はからきしだったからな。ただ剣を振るえればいいという、頭のおかしいガキだったんだ。家督は聡明な弟に継がせ、俺は王都に厄介払い。あわよくば勇者に選んでもらって家名を上げてもらう。そういう取り決めだったんだ。
――あんたはそれを了承したわけ?
言っただろう。剣を振るえればなんでもよかったんだ。それに、勇者に託されるという王剣にも興味があった。王族が代々受け継ぎし伝説の宝剣だな。歴代の勇者はみな、この王剣を手に魔王討伐に向かった。王剣は、言わば王の代理なんだ。王に代わって魔王を討つ。そのための武器だな。
――代理っていうなら、勇者もそうなんじゃないの?
たしかにそうだ。それゆえの栄誉でもある。でも、その栄誉は常に王のそれと紐付けられているんだ。王剣と勇者。どちらが欠けても魔王は討伐できない。わかるか。勇者だけじゃ魔王は討伐できない。必ず王剣の、王の助けがいるんだ。
――なるほど。そういう
あの子は皮肉っぽく笑ったものだった。
――その王剣なんて言うのもさ、どうせ飾りなんでしょ? むしろお荷物なんじゃない?
お荷物というならその通りだった。王剣は最新の技術で作られた剣と比べると鈍重で、切れ味も悪かった。魔族領に乗り込んでからは、魔王にとどめを刺す以外の用途で使ったことはない。わたしはずっと王都一の刀鍛冶が打ったという剣で戦っていた。
また、そのようにしても、王が同行させた記録係は何も言わなかった。おそらくは、あらかじめそのように命を受けていたのだろう。寡黙な彼女は淡々と戦闘の記録を綴るばかりだった。
王都への凱旋後、彼女はその記録を王へと提出したはずだ。その記録は誰がどこでどう手を加えたのか、派手に脚色された形で絵物語となり、歌劇の題材となった。一部の関係者を除いて、国民の誰もが、わたしが王剣で戦い抜いたと信じているはずだ。
――王剣とか王ってさ、けっきょくなんなの? 精霊王だっけ。そいつが王家の始祖なんだよね。精霊と自在に対話し、その力を借りることができた。そして打たせたのが、かの王剣。だけどその王剣に特別な力はない。選ばれた者だけが抜けるという伝説もハッタリ。誰でも抜けるけど、王が指名した勇者様にしかその機会が与えられないというだけ。その勇者というのも、あくまで剣技に長けた若者が選ばれる役職でしかない。実際の戦闘はやっぱり王が選んだ精霊術師たちが主役。勇者は最後に魔王をかっこよく斬り伏せる。言ってしまえば、それだけの役割。こういうの茶番っていうんじゃない?
そういう話を大声でするなよ、とわたしは釘を刺した。酒が入ったときなどに喋りすぎてしまうらしい。気づけば、あの子は勇者や王に関する身も蓋もない真実をほとんど余すところなく知ってしまったのだった。ただ一つの例外を除いて。
――魔王。
あの子は不意に呟いた。
――あんた、たまに寝言でそう呟いてるんだよ。気づいてる? いや、呻いてると言った方がいいかな。
いい加減な嘘を吐くな、とわたしは言う。鎌をかけたところで、話すようなことはない。
――じゃあ、魔王ってどんな奴だったの? 見るからに悪そうな奴だった? 剣の錆にしてもその夜にはぐっすり熟睡できるくらいに、後悔も同情も覚えない相手だった? それとも――
いい子はもう寝る時間だ、とわたしははぐらかす。えー、ケチという声を背に、厠へと向かう。頻尿。どこで覚えたのか、そんな声が飛んでくる。
――殺すといい。
魔王は剣を突き付けられても微動だにせず、そう呟いたものだ。
――我はもう倦んだ。疲れたのだよ。
魔王は玉座に座したまま、自ら刀身を握る。握った手から血を滴らせながら、続けた。
――劇的な絵がお望みか? しかし、どうせそこの女が脚色するのであろう。ならば、どう殺そうが同じこと。このまま胸を貫くがいい。その無用の長物でな。
剣を握ろうとすると、いまでも、あのときの感覚がよみがえる。魔王の胸を刺し貫いた時の感覚が。王剣が骨を砕き、心臓へと達する感覚。毬を針で突くような感覚とともに溢れる血飛沫。咽るほどに濃厚な血の匂い。苦痛と安堵の狭間で揺れ動く魔王の顔。剣を抜くと痙攣しながら崩れ落ちた奴の、みじめなほど瘦せこけた身体。振り向いたときの仲間たちの表情。
王直属の精霊術師たち。医者。記録係。それに王立学園の同期にして首席だったあいつ。勇者を支える右腕、実質的な参謀として異例の抜擢を受けたあいつ。
後に、王の勅命を受けてわたしを訪ねてきたあいつ。三人の精霊術師を背後に立たせて、わたしの対面に座したあいつ。わたしにふたたび魔王を討つよう依頼しに来たあいつ。
――やあ、久しぶり。元気だったかな。
あいつは二〇年前とあまり変わらないように見えた。衣服こそ華美になったが、朱色の髪は変わらず豊かで、片眼鏡の奥の碧眼には挑発的な光が宿っていた。
――我々がいきなりここを訪ねたとでも思うかい? まさか! 数日前からこの家を観察させてもらったよ。いい暮らしじゃないか。犬に――それからあれは君の子かな。そう小さい同居人がいるだろう。彼、いや、彼女かな。何せ遠目からでは判別しかねてね。あるいは――性別なんてなかったりするのかな。そう、魔族はみんなそうだっていうじゃないか。でも、まさかね。あのいつも被ってるフードを外したらツノが生えてるなんてことはないだろうね。ははは。いや、失敬。今日はこれで失礼するよ。しばらくは近くの村に逗留するつもりだ。また来るよ。いい返事を――
あいつはそこで言葉を区切った。わたしの背後に視線を向けている。はっとして振り向くと、あの子の顔があった。屋根裏から、頭だけを覗かせている。屋内ではくすんで見える蜂蜜色の髪。それが真下に垂れて、額のツノがはっきりと見えた。
――そうか。ここまで嗅ぎつけよったか。
冷たい声音で言う。
――人間も随分と鼻が利くようになったようだ。
――おいおい、嘘だろ。
あいつは狼狽えるようにして、椅子から立ち上がった。思わずと言った様子で、後ずさる。
――くそっ、はっきりと相対してようやくわかった。まだあどけないが、見間違えるものか。あの顔は――
――如何にも。我が魔王である。
あの子が呟くと同時に、精霊術師たちが詠唱をはじめた。さすがに動揺したらしく、融通の利かない定型文の詠唱術式だった。精霊術特有の空気がぴりつく感覚。わたしは思わず腰に手をやる。しかし、客人をもてなすのに剣を下げたままのはずもない。判断に迷い、自分が座っていた椅子を振りかざした。詠唱を妨害するつもりだったのだろう。しかし、その意図を達するより先に、視界が光に包まれた。
反射的に床に伏せ、目を瞑る。しかし、神妙な光が瞼の裏に焼き付いて離れない。術師と、そしてあいつの悲鳴。それに犬が吠え立てる声が重なる。やがて周囲が静寂に包まれ、わたしはようやく目を開いた。目が眩んでうまく見えない。視界が正常に戻るまでに少し時間を要した。うっすらと見える血の海が幻でないことを理解するまでには、さらにもう少し。
――殺しに来い。
頭の上からそんな声が聞こえた。どこか懐かしく、しかしまったく未知の響きにも聞こえる声が。
――勇者よ、再び剣を取り我を殺してみせよ。
それは、空に浮かんでいた。まだ幼い子供の影。その背中で蝙蝠を思わせる巨大な翼がゆっくりと羽ばたいている。逆光でよく見えない。太陽が眩しくて思わず目を庇う。そして、そこでようやく天井が抉り取られていることに気づいた。鯨が嚙みつきでもしたようにぱっくりと、青空に向かって開けている。
――どうした、勇者。剣を取れ。もう一度、我を殺してみよ。
いつの間に移動したのだろう。剣はわたしのすぐ足元に転がっていた。束も鞘も、精霊術師たちの血や肉片が張りついている。それにあの子の手。小さい子供の手が血の海に転がっている。わたしは思わずそれを手に取った。
視線を頭上に戻す。よく見ると、魔王は左腕の肘から下を失っていた。傷がすでに塞がりつつあるのか、血はほとんど垂れ落ちてこない。あの子の左手を握りながら、そんなことを考えた。しかし、自分がいま手にしているものと、頭上の光景がうまく結びつかなかった。
――ここにいる者だけで来たとは思えぬ。後方に控えの人員がいるであろう。魔王の出現と同時に魔族の子どもが忽然と姿を消したのでは汝も疑いを向けられよう。また、汝だけが無事というのも不審に違いない。だから、さあ、剣を取れ。魔王に立ち向かうのが勇者の勤めであろう?
魔王はこう言っていたのだ。お前の立場を守るため茶番を演じてやるから付き合え、と。
――できぬか。
だが、そう思い至ったのは魔王に吹き飛ばされ、意識を手放した後。騒動を聞きつけた「控えの人員」に介護され、村の診療所に運び込まれてからのことだった。
回想を断ち切るようにして、わたしは剣を振る。実家から持ち出した愛剣を。追剥たちの血を浴びた愛剣を。縦に、横に、見えない相手の剣に応じるようにして、ひゅんひゅんと風を切る。
針葉樹がさわさわと歌う。小鳥たちが朝の挨拶を交わす。稜線から朝焼けの光が漏れ出てくる。病院の患者たちも徐々に起き出す頃合いだろう。見回りの時間も近い。病室を抜け出したこともじきにばれるだろう。
あの日から、およそ一ヶ月。
あの後、わたしは王都からやって来た新たな遣いに事の経緯を説明し、多大なる疑いを買いつつも、王都へと召集されることになった。
魔王の復活宣言が出されてすでに二か月。魔族が小村で暴れ、勇者の仲間を殺したという報はすでに広く知れ渡っていた。あの日以降、この国は度々、魔族の攻撃を受けているらしい。それが魔王の、あの子の指示によるものなのかはわからない。なにせ、王都を席巻する流行り病も魔族の仕業だと噂する者もいるくらいだ。なんだって魔族のせい、魔王のせい。そういうことにしたいのだろう。このご時世では、誰も考える余裕がないのだ。誰も。
混乱のさなか、民と王は勇者の再来を求めていた。わたしにかかった疑いはそうした機運の前では些細な問題だったらしい。傷が癒え、準備が整い次第、再び魔族領に旅立つこととなった。
――勇者様も無理をなさる。もう先が長くないのはご存じのはずでしょう? その命、残り火も同然ではありませんか。
王都で体全体の検診を受けた際、でっぷりと太った医者の問いに、わたしは頷いた。
三か月ほど前、村の診療所で肺病の診断を受けていた。安静にしていれば二、三年は大事ないが、急激に悪化し死に至る可能性もあるという。それが明日、明後日でない保証はどこにもなかった。
検査の結果は王にも報告は届いているだろう。しかし、謁見の場でも特に病のことに触れられることはなかった。例によって選りすぐりの精霊術師たちを同行させると約束されただけ。
勇者など所詮はお飾り。そういうことなのだろう。魔王の首を提げて王都に凱旋する。それだけが務めだ。ただ生きて帰ってくること。王の代理として国民の尊敬と称賛を集め、凱旋パレードでにこやかに手を振ること。それだけが。
剣の鍛練など本来は必要ない。むしろ体に障るからと医者にも止められていた。しかし、身に染みついた習慣はそう易々と変わるものではない。わたしは早朝に目覚めると病室を抜け出して人気のない場所で剣を振るのが日課になっていた。
まだ動ける体ではない。そう言われても、じっとはしていられなかった。体が剣を忘れてしまうのではないかという恐怖があった。
だから、わたしは剣を振る。傷の痛みに耐え、白い息を吐きながら。型の一つ一つを確かめるようにして。
――お互い退屈だったはずだ。準備を整えよ。王の間で存分に斬り結ぼうぞ。
意識を手放す刹那、頭上からそのような声がかかったのを思い出す。
――××。
最後に、そう小さく呟くのが聞こえた気がする。わたしの名を呼ぶ声が聞こえた気がする。記憶が混濁しているのだろうか。それとも、魔王はまた何かをわたしに求めているのだろうか。
なんであれ、もう一度、あの子に会わなければならない。
その思いがわたしを突き動かしていた。
わたしは今度こそ教え子と斬り結ぶだろう。
そう考えると、なぜだろう、少し胸が高鳴る。魔族や追剥連中を斬り伏せたときの高揚感がよみがえってくる。
剣を握るのが怖かった。自分が血に飢えた怪物のように思えてくるから。自分にはいかな人間的幸福も許されないように思えてくるから。
無抵抗の魔王を刺殺したとき、胸に沸き上がったのは失望だった。そのことを自覚したとき、わたしは自分が恐ろしくなった。心のどこかで、わたしは望んでいたのだ。王剣を手に、魔王と大立ち回りを演じることを。絵物語の勇者のように、血に濡れた栄光を手にすることを。
それが後ろめたくて逃げ回っていた。栄誉を受け取ることを恐れた。誰も知らない場所で人知れず暮らし、そして死のうと思っていた。
しかし、その願いはもはや叶わない。わたしはふたたび勇者となり、その命はそう遠くなく燃え尽きる。あの穏やかな日々にはもう戻れないのだ。
自分に言い聞かせた、その瞬間だった。
不意に気づきが訪れた。それは電撃のようにわたしの体を撃ち、全身を駆け巡った。思わず剣を落とす。拾おうとするが、手が震えてうまくつかめない。
ああ、そうか。わたしは人間の真似事をしていたのだ。
どうして
震える手で剣を掴む。刀身に映ったのは、歪んだ笑みを浮かべる男の顔だった。
そうだ、これがわたしの本質だ。どれだけ取り繕っても、誤魔化しようがない。
虚空に向かって剣を構える。目を閉じ、深く息を吸いながら独白する。
わたしは血に飢えた化け物だ。人間が思い描く魔族と大差ない。ならば、迷う必要などない。ただ、この飢えを癒すことだけを考えればいい。
たとえ自ら育てた相手であっても、躊躇いなどない。剣の錆に変えるだけだ。
もう、それでかまわない。
だから、わたしは剣を振る。
胸の痛みを押し殺し、
血で地面を汚しながら、
ただただ魔王と斬り結ぶために。
残り火のような命をそのために使うと誓う。
魔王の挑発、勇者の屈託 戸松秋茄子 @Tomatsu_A_Tick
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