第3話 捧ぐは当惑と共に

 暗闇を柔らかく塗りつぶすように、街灯は高みから照らしている。

 急いで追いかけたにも関わらず、姉の姿を見つけることはかなわなかった。

 ハッ、ハッ、ハッと自分の息切れと駆ける足音だけが静寂に響く。

 歩幅ストライドを合わせるようにして私はやがて立ち止まった。

 見慣れた古い校門が私の目の前に立っている。

 校門はわずかながら開いたままになっており、誰かが入っていったであろうという事実を証しているようであった。

 夜の学校を訪れるのは初めてであったが、どこかしら不自然な密やかさに、私は全身が固くなる。

 私は、建物ながら、昼間の学校には表情というものがあったのだと今更ながらに気づいた。

  人間ひとの声のない夜の学校は、シルエットそのものであった。

  不意に、ダン、ダンと何かが床を突くような音が遠くから耳に入ってきた。

  体育館のある方向から響いてくるようであった。

  私はその残響に導かれるようにして、校門に足を踏み入れた。

 僅かに弱まった月光が、私の視線を空へと誘う。

 流れる雲がかさをかぶせるようにして、夜空の明かりを消していった。

 いつの間にか風の音すら止んでいた。

 恐怖を創造するエネルギーはこんなにも逞しいものなのか。

 視覚や聴覚を奪われることすら自然に思わせてくれる。

 夢を見ているのか、幻覚を見ているのか。

 そんな非現実感に誘われるようにして、私は体育館入口ドアの前に立っていた。

 やはり中からボールの跳ねる音がする。

 私がドアに手をかけようとした瞬間、ひとりでにそれは開いた。

 中に入る。

 真っ暗であった。

 しかし、私の目は既に暗闇に幾分慣れている。

 ほどなくその人影を見つけることができた。

 入口からいちばん遠いコートを使ってシュート練習をしている一人の少女。

 姉であった。

 姉は苦手としている角度からシュートを打っているようであった。

 私はしばらく無言でそんな姉の様子を見つめていた。

 ゴールに入ったボールもそうでないものも、床に落ちて跳ねたボールは不自然な軌道を描いて、必ず姉の元へと返っていくのが恐ろしかった。


 「お姉ちゃん…」


 小さく漏らしたその言葉に姉が反応することはなかった。

 姉は必死にシュートを放っている。

 なぜだろう。

 姉がシュートを放る度に私の心が締め付けられていく。


 「お姉ちゃん」


 今度は声を大にして叫ぶ。

 耳だけではなく、心にしっかり届くように。


 「お姉ちゃん、帰ろ?」


 私の懇願は姉に届いたようであった。

 姉の動きが止まった。


「お姉ちゃん帰ろう?お母さんも心配しているよ。練習なら昼間やれば良いじゃない。私も手伝うからさ」

「あんたと一緒に練習したら、いつまでたってもあんたに勝てないじゃない」

「私はスタメンなんていらない。お姉ちゃんと一緒にバスケができればそれで良いの」

「よくもそんなことが言えるわね。隠キャだったあんたにスタメン奪われて、私がどんな気持ちで過ごしていたか分かる?陰口叩かれたり、ハブられたり。惨めな気分で消え入りそうだったわ。それもこれも全部あんたのせい。もし、あの時あんたをバスケに誘いさえしなければ」


 姉は視線を床に向けたまま、冷たく言い放つ。

 ショックだった。

 姉が陰口を叩かれていたり、ハブられていたことなど今初めて知った。

 少なくとも、私が知る限りでは、周りにそういった雰囲気はなかったように思える。

 隠していたのか?嘘だと思いたい。

 しかし、声で分かった。

 姉は泣いていた。

 姉が言ったことは真実なのだ。

 姉もどうすれば良いか分からなくなっていたのだ。限界だったのだ。

 私は何も言えなくなっていた。

 見方を変えれば、姉の言うことは無責任でもあり、 被害妄想とも言えるものかもしれない。

 それでも姉の言う通りなのだ。

 全部私が悪いのだ。

 私という異物が姉の生活を壊してしまったのだ。 しかし、それでも、早く姉をここから連れ出さねばならない。

 私が何とか次の句を紡ごうとした瞬間、天井の灯りが明滅した。

 暗闇に包まれていた体育館が一瞬だけ光を取り戻し、再度暗闇に呑まれる。

 私は見た。

 姉のそばに立っている、喪服姿の黒髪の青白い顔の少女を。

 そして泣いているだけではなく、涎を垂らし、目の焦点すら合っていないような姉の、おぞましさすら覚える異様な表情を。


「イケニエさん…」


 私は自分の声が震えるのを初めて耳にした。

 そう、尋ねるまでもない。

 あの少女こそがイケニエさんなのだと直感することができた。

 イケニエさんが私の方を見ている。

 暗闇の中でもイケニエさんの姿だけははっきりと目にすることができた。


 「そうよ。イケニエさんよ。イケニエさんは私を救ってくれるために、わざわざ家まで迎えに来てくれたのよ」


 姉はイケニエさんに振り返った。


 「さぁ、イケニエさん叶えて。私はバスケが上手くなりたいわ。そのためならどんなものだって捧げる。私が捧げるものはー」


 姉が捧げるといったものを聞いた時、私はやはり姉はすでに精神的に限界を迎えていたのだと悟った。

 イケニエさんも一瞬困惑したような表情を浮かべたのはきっと気のせいなどではない。

 そこまで考えたところで、私の意識は次第に闇の中に飲まれるようにして遠のいていった。


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