しゃぼん玉日和

立談百景

しゃぼん玉日和

 しゃぼん玉が街中に浮かぶ。

 きょうの天気は晴れ、ときどきしゃぼん。


 このしゃぼん玉は太平洋と大西洋のそれぞれ真ん中にある人工島から空に上がり、世界中に流れてくる。

 しゃぼん玉の中には世界の空気を綺麗にするための薬剤が含まれているとかいないとか、あまりに日常の風景になったので、そのしゃぼん玉が何のためのものなのか、もはや誰も気に留めていなかった。


 たゆたうしゃぼん玉は私の憂鬱を写し、割れる。

 私の春からの職場が、しゃぼん島だ。


 いつか見た社会の資料集のしゃぼん島の写真。

 幾十にも連なる巨大なシリンダーから射出されるしゃぼん玉たち。

 それらは海の上を風に乗り、世界中に広がる。


 人の作った絶海の孤島、その製造プラントの副主任として働くのだ。


「外資系はやめとけばよかったな……」


 しゃぼん島に行けば、数年は帰ってこられない。

 もちろん定期的な帰省は許されているが、居を構えてしゃぼん島に住むことになる。

 仕事としては出世だし、栄転でもある。しゃぼん島に住みたくて入社する者もいるくらいで、住環境は快適だと聞く。


 私の気がかりは音信不通になった姉のことだ。

 変わり者の姉は、しゃぼん玉を追いかけて消えた。


「しゃぼん玉が本当に世界中に飛んでいるのか、見てくるわ」


 そんな戯言を残し、財布とスマホと五年落ちのMacBookを持って姉はどこかに行ってしまった。連絡手段を持っているのだからいざとなれば何とでもなるだろうと高を括っていたのだが、一ヶ月もすると連絡も取れなくなったし、Twitterもインスタも更新されなくなった。

 最後に姉の生存が分かったのは一年前、Twitterの更新だ。


『ごめん、同窓会には行けません。いまサンパウロに居ます』

 という一言と共に添えられていた写真はイギリスのビッグベンだったので、本当にふざけるなと思った。


 イギリスで何かあったのだろうか。それとも本当にサンパウロにいるのだろうか。

 私は気がかりでしかたがない。


 思えば、私はいつも姉の帰りを待っていた気がする。

「別に待ってなくていいんだよ」と姉は言う。

「でも、待っててくれてありがとう」とも。


 待つ人がいるから、私たちは帰ってくることができる。

 それは私にとってもそうだし、姉にとってもやはりそうだと思う。

 父さんと母さんが残してくれた私たちの家に、ただいまを言う相手がいないのはあまりに寂しい。


 ――結局、姉とは連絡が取れないまま、私はしゃぼん島へ赴任した。


 幸いなことにしゃぼん島での業務は多忙で、私はあまり姉のことを考えずに済んでいた。

 今日もしゃぼん島のシリンダーからは大量のしゃぼん玉が飛んでいく。

 私はプラントのデッキに出て、風や空の調子を確認しながら、そのしゃぼん玉の行方を目で追っていく。


「今日はインドネシアの方に向かって飛んでるね」と、整備長が声を掛けてきた。

「ええ、雨にならなくてよかったです」

「予報が出ていたね。しゃぼんが無事についてくれるといい」

「本当に……」



 晴れの日は、しゃぼん玉日和だ。

 しゃぼん玉は帰ってこない。

 飛んでいって、弾けておしまいだ。


 しばらく二人でしゃぼん玉を眺めていると、整備長はポケットから何かを取り出した。


「それ……しゃぼん液ですか?」

「そうだよ。おもちゃのね」


 整備長はしゃぼん液にストローをつけると、ゆっくりとそれを吹く。

 うまいもので、しゃぼん玉はあっという間にバスケットボールのようなサイズになる。


 しかし単なるおもちゃのしゃぼん玉は、自重に耐えられずに割れてしまった。


「ま、こんなもんかな」

「……なんです、それ?」

「願掛けだよ。大きく膨らませたときは、しゃぼん玉はうまく運ばれてくれる」

「ふふ、いいですね、それ」


 私は再び、しゃぼん島を離れていくしゃぼん玉を見つめた。

 そして不意に、姉のことを思い出し――繋がらないと分かっていながら、ショートメールを送った。


 それからしばらく、私は折に触れて、姉にショートメールを送りつづけていた。

 それはまるでしゃぼん玉を飛ばすような気持ちだ。


 しゃぼん玉を追いかけていった姉の元へ、しゃぼん玉なら届くのかも知れない。

 あるいは私がしゃぼん玉になったなら、きっと姉だって追いかけてくれるのだろう。


 私はこの孤島から出られない、追いかけられないしゃぼん玉だ。

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しゃぼん玉日和 立談百景 @Tachibanashi_100

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