第17話 【タイの文化に馴染んでいく】
スパーンブリー県体育学校での滞在は、残り1ヵ月となった。ここでは朝5時、チームごとのランニングから朝のトレーニングがはじまる。野球・ソフトボールチームには、持久走の他にSAQ(スピードや俊敏性を高めるため)のトレーニングもさせている。
生徒たちは日中、町にある学校で勉強をする。その間、真はいろんな人に時間をもらって、技術書を作成したり、スパーンブリー県の見どころにはほぼ全て連れていってもらった。夕方、集まってきた彼らに曜日ごとにメニューを与えていた。大きく分けるとオフェンス、ディフェンスの日を交互にさせている。
最初のアップの中のダッシュには、ベースランニングをさせている。できるだけ試合を想定した実践内容を身につけてもらうためだ。真がピッチャー役を担い、盗塁の練習も入れている。とにかく基本を身につけなければ上達はないことを徹底して教えている。
ここで真が子どもたちに話した内容を一つ紹介しておきたい。真はタイの子供たちと接する中で違和感を感じ正そうとしたことがある。それはキャッチボールの時に、悪送球を投げても謝らないことだった。
そこで真は全員を集めて、自分の悪送球が原因でキャッチボールを中断させてしまった時は謝るようさとした。彼らはその場では理解してくれたようだったが、結果的にこの習慣は身につかなかったと言ってよい。
異文化理解の大切さを学んだのであるが、タイ語で謝るという言葉の重みが違うことや、そもそもそういう習慣がないこと、いちいち誤りを咎めずに積極的に過ちを許す「マイペンライ」という言葉で相手を包み込んでしまう文化があることなど、社会的背景が日本とは全く違うことがわかったからだ。
日本の「ごめんなさい」「すいません」という意味の言葉がなく、「コ―トーッ」という言葉は「罰を与えてください」という非常に重い意味であることもわかったのだ。
野球の発祥の地はアメリカである。日本でもいいプレーには「ナイスプレー」「ナイスキャッチ」「ナイスバッティング」等を使うので、相手の罪を咎めるのではなくいいプレーを褒めようということを強調した。そして、スポーツ万般に必要不可欠な「フェアプレーの精神」、「前向きな考え方」、「攻撃的な闘争心」、これらは野球だけでなく人生万般に必要なことあると語った。
また「君たちの相手は世界である。いつの日かタイの代表チームの一員として、世界の国々と戦う時がくる。その時のために、毎日の地道な練習を真剣勝負で積み重ねていくしかない。だから練習は、試合以上に厳しくのぞまなければならない」こんなことを真は真剣に生徒たちに語っていた。
タイは熱帯に属する熱い国である。年中、日中は30度を超える。真は2年間普段の生活を送る中で、タイ人が走っている姿を見たことがなかった。それは場合によって命に関わることだからであろう。
そんな気候の中で、真は、毎日厳しい練習内容を求め、ダラダラとした動きを厳しく叱った。練習は試合以上に真剣にのぞむ。確かに正しいかもしれないが、その理不尽さに気づいた頃、真は日本人の特殊さが抜け落ち、タイという国の中で、新しいタイプの人間に生まれ変わっていた。
それでも野球連盟のチャイワット氏は「真さんの考えや提案は、いつもあまりにも強烈すぎてついていけないと思ったことがたくさんあった」と語っていたことから、重荷を負わせていたようだ。少しずつタイの気候風土にマッチした真は、生涯ここで暮らしていけたらどんなに素敵なことかと心から愛するようになったのである。
真がタイに来てから5ヵ月が過ぎた頃、幾つかの変化を感じるようになった。1つは蚊に刺されなくなったことである。来たばかりの頃は、真1人だけが蚊に集中砲火を浴びて刺されまくっていた。なぜタイ人は刺されないんだ?と不思議に思っていた。
もう1つは、タイ料理はめちゃくちゃ辛いのだが、普通の辛さでは満足できなくなっていたのである。タイに来たばかりの頃、食事に行った時、タイの人たちは置いてある香辛料を真っ赤になるくらい付け足して食べていた。恐ろしくて目をそらしたほどだった。
北海道育ちの真は、もともと辛い料理は苦手であった。カレーも甘くなければダメだったくらいだ。しかし、熱帯の暑さの中で生きていると、徐々に多くのタイ料理が美味しくなり、この辛さこそ必要な刺激であることがわかった。2年間、食欲を失うことが1度もなかったからだ。
辛さにはこの風土で生きていく知恵が詰まっていることを知った。同時に香草をたくさん使うタイ料理が体に馴染み、その香草から発する体臭のためなのだろうか蚊も刺さなくなったのである。
この年も12月に入った。子どもたちには、まもなくここでの野球指導を一区切りつけて、ナコンシータマラート県に行くことを伝えていた。少しずつ最後だからということで、思い出作りのための生徒たちとのやりとりが濃くなった。
その1つに日本語を教えてほしいというリクエストがあった。もう少し早くその要望に応えてあげたならば、日本語の上達も早かったのではないだろうか。真は次の行き先からは、もっと積極的に日本語の授業もやってみようと思った。
「愛してる」を日本語で教えて、「お別れの時の挨拶は」いくつの日本語をマンツーマンで教えてあげた。「次は文字も教えて」彼らのあくなき好奇心は彼らとの長時間のやりとりとなっていた。いくら時間があっても足りないのである。彼らは習ったばかりの日本語を精一杯使って、メッセージ付きのカードを作ってくれた。彼らの優しさとまごころが、真の心に深く染み渡ったのである。
そして、いよいよお別れの時がきた。12月8日(水)彼らとの最後の練習を終えた真は、随分と無茶な要求をしてしまったことを思い返しながら、初めてここに来てから今日まで充実した指導ができたことに心から感謝をしつつ挨拶をした。
「ここでの指導は今日を持って一区切りとなる」と話しかけた時「もう会えないの」とある生徒が口を挟んだ。真は話を続けた。「いや、また必ず会える」「来月から南部のナコンシータマラート県体育学校に行くことになった。そこでの指導にはここ以上に時間がかかるだろう。
しかし、来年タイで初の野球大会「甲子園大会」を開催する。その時までにさらに成長した姿で再会できることを願っている。今まで本当にありがとう」と話をしたつもりだが、タイ語がどこまで通じたのか、少々不安を感じながらスパーンブリー県体育学校を後にした。真の心の中には、来年の中高生野球大会がはっきりと浮かんでいたのであった。
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