第9話 【埼玉の地から再出発】


 専門学校に進学したものの本来の自分の夢を捨てやぶれかぶれになっていた真は、専門学校には一日も通わず、その日暮らしの勝手きままな生活を送っていた。夏は千葉県の九十九里浜で住み込みのアルバイトをし、9月になると専門学校をやめ、埼玉県越谷市に移り住み、江戸川区にある運送屋で働くようになった。

 長年懸命に働き、1年分の学費を支払った両親にとって、専門学校に通いもせず辞めてしまったショックは相当なものだった。結果的に父には大きな心労を与えてしまったのだ。

 高校を卒業して1年が過ぎたころ、楽しいことだけを追い求めて何のあてもなくただ遊ぶために働き、本業である勉強から逃げたツケを支払うこともなく現実逃避の生活を続けた真の心の中に芽生えてきたものは死んだ方がいいという考えであった。

 「自分は何のために生まれてきたのだろうか。やりたくもない職業について、何の目的もなく生きている自分は死んでしまった方がいいのではないか」そんな気持ちになっていた。どうして死を選択するに至ったのか、こうなってしまったのであろうか。

 しかし人は死というものを意識すると、逆説的に生きることへの思いが強まってくるのである。死ぬことに恐怖を感じなくなった真には何も恐れるものがなくなったのである。同時にそれを後押したものは父から教えてもらった「妙とは蘇生の義なり」という仏法哲学であった。それは真の生命を見事に蘇生させていった。

 真は冷静に考えた。「自分はまだ何もしていないではないか。やりたいことを本気でチャレンジしてみよう。あの時の夢である体育の教師を目指してみよう」そんな思いが沸き上がってきたのである。

 失うものもなく、ただ上を目指してチャレンジするだけの真にとって、新たな1歩を踏み出す勇気の炎が赤々と燃え出したのであった。そんな折に近所に住む藤井先輩が真のアパートを訪れた。

 彼は関東エリアを本拠地にした会社に身を置きながら、地域では世界的な平和団体の青年リーダーという珍しいタイプの人物であった。「ちょっとお邪魔するよ」と初対面でありながらずかずかと部屋に入ってきた。

 度の強い眼鏡をかけた藤井先輩の目には、鋭さと優しさがにじみ出ていた。今まで出会った大人とは明らかに違った。人をバカにするような雰囲気がひとつもなかったこととほとばしるような強い生命力にあふれている人であった。

 真は今までたくさんの大人たちからバカにされてきたので、自分の悩みを人に打ち明けたことはなかった。しかし、藤井さんにだけは本当の悩みを打ち明けることができた。ある日藤井さんのアパートに遊びに行った時、部屋の中に数えきれないほどの本が並んでいたことにびっくりした。

 「この本を全て読んだのですか」と聞いてみると「うん。もちろん全部読んだよ」その事実に心から驚いた。どんな難解な質問をしても明確に答えてくれる藤井さんの桁違いの読書量を裏付けにした豊富な知識量、深い人間性にすっかり心を許すようになったのである。

 「小学校から野球を続け、運動神経には自信があったし、勉強もそれなりにしていたので体育の教員になってみたいと思っていたんです。だけど高校時代不誠実な担任に失望して一切勉強をしなかったため、何もかもをあきらめていました。高校を卒業してから今まで逃げてきた自分を反省し、大学を目指して勉強してみようと考えているんです」と話をした。

 藤井さんは即座に「君のように苦しんだ経験をもつ人こそが教師として最も必要な資質を備えているのだ。僕は全力で応援するから頑張ってみるといいよ」と何の躊躇もなく、真の考えに同意してくれ心からエールを送ってくれたのである。

 今まで出会った大人たちからいいだけバカにされてきた真にとって衝撃的な出来事であった。残念なことだが、若い人間が抱く夢をバカにする大人は少なくない。ところが藤井さんは若く傷ついた真の夢を真剣に受けとめ励ましてくれたのだ。「やる気スイッチ」が入った真は、高校生が通う補習予備校に通いながら猛勉強をはじめたのである。

 最初の模擬試験を受けた時、高校時代に一切勉強をしなかった真は、偏差値という言葉すら知らなかった。勉強をしていなかったのだから「0」だと思っていたが、何と「26」という数字に大喜びしたのである。「0」じゃなかったからだ。そんな真が日焼けをせずに生まれて初めて高校の勉強に取り組んだ。

 人は本気になると苦しいことすら楽しめるようになっていく。訳のわからなかった勉強だが、前向きに取り組んでみると意外に面白く感じた。何もわからなかった英語の勉強も続けていくと、着実に偏差値が上がっていった。最低の偏差値は上がるしかない訳だが、着実に上昇していく偏差値が、生きている手応えに変わっていった。

 後日談となるが大学時代にはじめての海外旅行でフィリピンに行かせてもらい、人生を大きく左右するような経験をするのだが、この時に学んだ英語力が見事に活きたのである。お金をせびるために真に言いよる輩に対して、応戦するように心の底から発した反論は、あの時インプットされた英語が見事に並び替えられて真の口からアウトプットされる経験をした。

 さて話を戻すが夏になると目標だった体育大学は予想以上に早く「A」判定が出た。そこで藤井さんに相談してみた。「それなら普通の大学に切り替えてもいいんじゃないか」とのアドバイスをもらった。真の気持ちはさらに燃えた。「最も難しい学部はどこですか」と聞くと「文系なら法学部だな」と教えてくれた。体育大学の目標は変更し、法学部を目指してさらに大学受験のための取組は加速し、勉強がこんなに楽しいものかと心から思えるようになったのである。

 1年間はじめて日焼けすることもなく高校の勉強に取り組んでみて、最終的に偏差値は「26」から倍以上の「55」まで上昇していた。真は高校を卒業し1年間のフリーター生活、さらに1年間の浪人と併せ2年の歳月を経て大学に入学した。

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