第8話 【教師としての第1歩はオホーツクから】
真は1993年4月2日、北海道のオホーツク海側にある高校に地歴公民科の教師として赴任した。その年は期限付き採用で、野球部の顧問を引き受けることが決まっていた。
そうなった背景は2週間ほど前に遡る。履歴書を書いて一方的にオホーツク振興局の教育委員会に顔を出した。「私は教員になったら必ず甲子園に連れていきます」と何の根拠もないことを堂々と教育長に向かって語っていた。
真は1年の留年を経て大学を卒業し、故郷北海道へ戻ってきた。25歳になっていた。北見にある普通科の高校を1985年に卒業し、それから7年の歳月を経て故郷に戻ってきたのである。前年、北海道の教員採用試験に合格していた。A登録であり、あとは採用場所を待つだけとなっていた。
しかし、1年生の時に落とした「刑法」の単位を取得できないまま4年生になったが、同日に予定されていたボランティア活動を優先したために留年したのである。高倍率の教員採用試験採用を勝ち取り、後輩たちも喜んでくれていた。何よりも両親の落胆ぶりは計り知れないほど大きいものだった。
留年が確定した真は、落ち込んでいても仕方ないと今までできなかったことに挑戦しようと覚悟を決めた。まず1日中ほぼアルバイトに時間をシフトした。今まで続けていた江藤ビル管理センターのビル清掃スタッフと太助寿司の2ヶ所のアルバイトをかけ持ちした。
学費を払えなくなった真は、江藤社長に必死でお願いした。「社長、申し訳ありませんが学費を前借りさせてください」深々と頭を下げた。江藤社長は「心配しないでください。返金は出世払いでいいですよ。私はあなたという面白いキャラクターと未来に投資させていただきます」と快く貸していただき、大学を中退せずに卒業するチャンスをもらったのだ。真は感動のあまり思いっきり泣かずにいられなかった。
そしてさらに太助寿司のマスターからは、この時期にプロフェッショナルとは何かを身をもって教えていただいた。マスターは青森県出身で高校時代はラグビーで鍛え上げた筋金入りのラガーマンで根性と忍耐力に加え優しさを兼ね備えた素敵な人であった。
高校の卒業と同時に反対する親、家族を説得して江戸前寿司の本場である浅草に出てきて19名の弟子たちと十数年の修行の後、たった一人師匠からのれん分けを受けて自分の店を構えていた。
広告や宣伝は一切しなかったが、修業時代から顔なじみの築地の市場から毎日とれたてのネタを仕入れそのまま新鮮な寿司を提供していたので、本物の味を知ったお客さんが次のお客さんを呼び、店は美味しい寿司を愛するお客さんの満足そうな笑顔であふれていた。
仕事の前はいつも冗談を飛ばしながら優しい眼差しで周囲を和ませるマスターであったが、仕事着に着替え、包丁をもった瞬間に空気が一変し、プロとして仕事に臨む姿勢を教えてもらったことに、今もなお心から感謝し深く胸に刻みこんでいるであった。
この年は、朝から晩までびっしりと働いて、何とか卒業までこぎつけることができた。真はこの2人から賜ったご恩は生涯かけてお返ししなければならないと胸に刻み、少し大人になって故郷の土を踏んだのであった。大変な思いをして卒業を勝ち取ったその年であったがなんと教員採用試験は不合格であった。
すぐに気を取り直して埼玉県の教育委員会に期限付き採用のお願いをして、何とか臨時採用教員としてのスタートを切るところであった。埼玉県での期限付き採用をほぼ手中に収めていた3月、父親から電話がかかってきた。「いつまで埼玉にいるんだ。荷物をまとめてすぐに北海道に帰ってこい」真は父のその力強い言葉に「わかった」と答えるしかなかったのだ。
7年間の思い出が詰まった埼玉県越谷市との別れの日がやってきた。長い間、根を張った植物は抜こうとしてもなかなか抜けないように、長い間、根をはって生きてきた地を離れることは真にとっても本当に辛いことであった。
この時は進路先が決まることなく帰って行く真を、友人たちは温かく見送ってくれた。特に長い間、公私ともに本当にお世話になった同じ年の須崎一則と鈴野洋一は、羽田空港まで見送りに来てくれた。
後ろ髪を引かれるような思いをかき消すように明るく振る舞い、精一杯手を振りながら出発ゲートをくぐると、金属探知機に引っかかった。入念にボディチェックを受けている真を見ていた2人は「相変わらず面白い奴だな。いつまでも変わらない真でいてくれよ」と祈るような思いで見送ったのであった。
飛行機に乗り込んだ真の脳裏には、今までの来し方が走馬灯のように思い出された。高校時代、1年生の時に急性盲腸炎を患い、盲腸の中にたまった鮮やかな緑色の膿を出すために45日間という長い入院を経験した。
早朝から夜まで野球部の厳しい練習に明け暮れ、勉強について行けなくなり、体育を抜かす全ての教科で赤点を取り続けている最中の出来事であった。予想をはるかにこえた厳しい練習に耐えに耐えてきた結果であった。
真が大変な思いで入院している中、担任の教員は1度も病院を見舞うことはなかった。やっとの思いで退院して登校した時も、ひとことも声をかけてくれなかった。そのあまりにも冷たい姿に、真の気持ちは切れてしまった。「こういう人間の言うことを聞く必要はない。今後勉強は一切しない」と固く誓った決意が、学年最下位という必然の結果での卒業となった。
高校野球を終えた真には、ぽっかりと心に大きな穴が空いてしまったようだった。信じられないほど勉強をしていなかった厳しい現実にさらされた時、遅れを取り戻すことから逃げて生活はどんどんすさんでいった。
毎日のように朝方まで仲間たちと遊びに明け暮れた。当時つきあっていたクールでスマートな彼女とは、なんともしまりのないのない関係になってしまった。今、真は自分勝手な欲望のままに振る舞い、優しく前途有望な彼女の気持ちを踏みにじったことを心から悔いている。
そんな中にあっても進路は決めなければならないため、体育の教師になるという夢を捨て、半ばやぶれかぶれの状態のまま、無試験で入学できる東京の専門学校に進学することにした。悪友との縁を切り新しい人間に生まれ変わってほしいというという父親の強い思いもあり、北海道から出ることを強く勧められそれに従ったのである。
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