第5話 【体育学校の子どもたちに野球指導を開始】
最初の大きな活動を終えた真には、タイにおける野球の普及活動は、子どもたちという世代をターゲットにしなければならないことが明白になった。タイに戻ってきた真の活動の準備をしてくれたのは、タイ野球連盟のチャイワット事務局長である。彼も真の考え方に賛同してくれて、すでに行き先を決めてくれていた。
そこはスパーブリ県にある体育学校で、小学校から高校生まで併設され国内の中心的な役割を担っていた。ここの校長先生は、日本への留学経験もあり、野球にも理解を示してくれる素晴らしい人格者であった。
ここに男女のソフトボールチームがあるのだが、男子に対して野球の指導をして行くことになった。子どもたちと最初に出会った時のあのかわいらしく人懐っこい笑顔が、真を温かい気持ちで包んでくれ同時に、野球のおもしろさを伝えたいと言うと強い気持ちが芽生えた。
タイでは老若男女を問わずサッカーが最も人気のあるスポーツであり、プロリーグもある。足を使うスポーツが主流なので、夕方になると狭い敷地でもサッカーをやる姿をみかける。
真が小さな頃、日本では放課後どこでも野球をやっていたものである。真の住む北海道オホーツク海側にある家の近くの空き地でも、日が暮れるまで野球をやっていた。日本での野球に代わるものがタイではサッカーなのだろう。
国によって地域性、国民性、歴史的な背景が違うので、タイにおけるサッカーの認知度の高さは理解しなければならない。さらにもう少しタイのスポーツ事情に目を向けておきたい。
サッカーは広い場所が必要だが、これに対して狭い場所でもできるスポーツ「セパタクロー」が有名である。「セパタクロー」は、マレーシアとタイの競技が融合してできたと言われている。東南アジアの人気スポーツの1つで、3対3で中央のネットを挟んで行う。
ルールはバレーボールに似ている。つまり足を使ってバレーボールをやるようなもので、日本人にとっては難しいと感じるが、タイの人たちは簡単そうにやっている。サーブは何とかできるかもしれないが、レシーブしてトスをあげてスパイクを打つのである。
スパイクはオーバーヘッドキックである。それをブロックしたり、レシーブをしたりと、最初はアクロバットでも見ているかのようであった。夕方、体育学校の先生方に誘われて、遊びとは言え何度かパス練習をやってみたが、やはりとんでもなく難しいものであった。
タイのスポーツについてもう1つあげれば、国技にあたる「ムエタイ」と呼ばれるタイ式キックボクシング(格闘技)がある。世界最強と言われる格闘技である。
5ラウンドで戦い高度な技術が求められる。試合前のワイクルーという踊りから、独特な雰囲気の中試合が始まる。勝敗がはっきりした場合は、残りのラウンドではあまり大技を繰り出さず、相手に深手を負わせないように配慮するタイらしさも特徴かもしれない。
いろんな場所に行ったが、地方のお祭りには特設のリングが設置され、小さな子どもの試合から始まり大人の試合になる夜更けまで延々と行われる。夜が更けるに従って、見物客は酒も入り、賞金を賭けあって行われるので、後半になるとものすごい熱気と盛り上がりを見せるのである。
真は賭けに参加したことはないが、バンコク中心部のルンピニースタジアムへ初めて行った時、後ろの客から賭けに誘われたが、気乗りせず断ってしまった経験があった。
このような実情の中で、野球をやっているタイ人は皆無と言ってよかった。野球そのものを知らない人が多いのだから環境も整っていないし道具も足りていない。そこにも野球というスポーツには大きなハンディキャップがある。
ただ東南アジアでは、大学生を中心にソフトボールをやっているチームが複数あり、そこから野球に移行したことと、前述したように野球好きの日本人がこのようなアウェーとも言える状況に挑戦するかのように、野球の素晴らしさを広げて行ったことがタイにおける野球の普及につながっていくのである。
真は高校時代に感じた日本におけるサッカー選手と野球選手の違いを野球の優位性と解釈し、こんなことを語ることもあった。それは、長髪のサッカー選手と坊主頭にしている野球選手を比較し、チャラいサッカー選手に対し野球選手は礼儀正しくスポーツマンとして尊敬を集めていると。
サッカー優位のアウェーのタイの中にあっても現在に至るまで野球を心から愛する赤山氏は「バンコクボンバース」を率いて、国際大会等にも積極的に参加し、着実に子どもたちへ野球のおもしろさを伝えてくれている。彼の長きに渡る功績に心から敬意を表している。
スパーブリ県の体育学校も、広い陸上競技場やサッカー場をはじめ、体育館、プール等、充実した競技施設の中で生徒たちは学んでいた。しかし、野球・ソフトボール専用の場所はまだなかったので、体育館の裏の空き地で練習を行っていた。かわいそうだがこれが現実であった。真は狭い敷地の中で、効率よく練習ができるように、知恵を絞って練習を開始した。
かろうじてダイヤモンドの広さを確保できたので、キャッチボールの大切さを語りながら来るべきゲームに備え、日々練習に励んだ。しかし、大きな球場をイメージするように伝えるが、実際に本物の球場でプレーした経験がないため、いつも練習のための練習になってしまう。そんな時は大声を張り上げながら、熱く、粘り強く練習を積み重ねて行った。
大声を出した時の選手の反応を見て、真は日本での指導方法を改めざるを得なくなった。タイにおける理想的な指導者像をソフトボールのコーチから教えてもらってから今までの指導のあり方を見直した。
タイにおける理想的な指導者は、どんな時も冷静で、落ち着いて指導ができなければならない。彼らにしてみれば、時折大きな声を出す真は、外国人であり言葉も片言で、滑稽に見えていたのではないだろうか。
ただ、彼らの流儀であるが、教師をはじめ目上の人たちに対しては、言葉、態度全てにおいて敬意を払うかつての日本に息づいていた古き良き習慣が根付いていた。それを表した習慣として、手を目の前で合わせて挨拶をするワイのポーズを見た人は多いのではないだろうか。
礼儀正しい彼らは、真に対しても先生という意味のタイ語である「アジャーン」をつけて常にワイのポーズで敬意を払ってくれた。彼らにしてみれば真は野球のコーチであり、日本では高校の教師をしていることを知っていたので、表向きには敬意を払ってはいた。
しかし、外国人ということもあったのか、練習が終わった後は友達のように、もっと言えば赤子を諭すように気軽に話しかけて来てくれた。そんな関係も真にとっては心地のよいものと感じ、遠慮なく親しく友達のように接していったのである。
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