第3話 【マイペンライは素敵な言葉】
20世紀末の7月14日、31歳となった真は南国タイに旅立った。青年海外協力隊員の野球のコーチとして派遣されたのである。この年の3月、担任としてはじめて卒業生を送り出した直後、学生時代から強く希望していた国際貢献の方途を青年海外協力隊への参加に求めて、福島県二本松にある訓練所に入所し、約3ヶ月間、語学を中心に派遣前の訓練をへて、いよいよ出発の日を迎えたのである。
タイ・ドンムァン空港に到着した時私たちを出迎えてくれたのは、30度をはるかに超えるタイ特有のムンとした空気と、何ともいえない独特な香り、そしてタイの人たちの素敵な笑顔であった。「微笑みの国」ならではのお出迎えである。
「ここで2年間の活動がはじまる。気負いしないで自分らしく、そして何より楽しみながら新しい歴史を作るために来たのだ」そう心に深く誓い、はやる気持ちを抑えながら、タイへの第1歩を記したことを今もなお鮮明に覚えているのであった。
タイに派遣された初代野球隊員は桜谷氏である。社会人野球まで経験した方で、野球選手としてだけではなく、指導者としての力量も申し分なく、タイで開催された国内初のアジア大会の野球を成功に導いた大功労者である。
ベアリング等の部品制作を手掛ける日系企業のタイ責任者である慶応義塾大学野球部出身の柏原氏が中心となり、またタイに在住され今なお野球の普及に取り組んでおられるバンコク・ボンバース監督の赤山氏をはじめ、野球好きの日本人が後押しをする形で、タイ・アマチュア野球連盟が設立された。
さらには日本野球連盟やJICAからのサポートも受けながら、見事にアジア大会は成功裏に終わったのである。今まで野球においては一歩先に普及していたライバル国フィリピンを倒すなど大きな成果を残し、2代目の真にバトンタッチしたのであった。
桜谷さんができなかったことを中心に取り組んでいくことを真は誓った。桜谷氏の時代は、各地から集まったナショナルチームの選手たちの育成が主目的であり、大学生以上の大人を指導の対象としていた。
野球というスポーツがアジア大会開催国として国内初開催となり、同時にタイ王室シリキット王女の名を冠した球場が完成した。この時流に乗って大会を終えることはできたが、野球人口は増えることなくタイ国内における野球の普及は手詰まりになってしまっていた。
そうした背景から2代目の真は高校の教員でもあり、野球部の顧問として、生徒たちに野球を指導してきた経験が思う存分生かされることになった。タイの野球は、青少年への普及活動を主目的として進められることにシフトしていったのである。
もちろんタイのナショナルチームへのサポートにも参加してきたが、青少年を目的にタイ国内の学校をまわり、子どもたちへの野球の普及活動に、より長い時間を費やすこととなった。 前回のアジア大会で宿敵フィリピンに勝ったために、シドニーオリンピックのアジア予選にタイのナショナルチームは参加することができた。真は大会1ヵ月前、チョンブリー県にあるブラパー大学での短期語学留学、その後の一般家庭へのホームスティを終えて、いよいよ野球隊員としての活動に参加することになった。
その第一歩がトレーナーとして、韓国で開催されるオリンピック予選への同行であった。真は日系企業の施設を借り切った合宿所に初めてやってきた。タイ人のタナキット監督、コーチのウワン、ウィワットと初対面、タイ語で挨拶をした。その時「あまりタイ語が上手じゃないな」とタナキット監督は言っていた。
「大丈夫、これから上手になるから」と真を気遣って赤山氏がフォローしてくれたやりとりがあったようである。2年間の活動を終えていた前任の桜谷氏に比べれば、不安感を与えたのは当然であろう。「タイ人の彼女を作れば上手くなるよ」とタナキット監督は笑いながらアドバイスをしてくれた。
合宿期間中は早朝5時からのトレーニングから始まる。そして朝食を終えるとほとんどの選手は仕事に向かう。仕事を終えて夕方、球場に集って練習を再開した。日中の暑さもあるため、日が落ちた夜の方が練習には向いていると言える。土、日、祝日は日系企業の野球経験者が集まってチームを作り、タイチームの試合相手をするのである。
真も久しぶりに選手としてプレーした。高校時代は野球を経験していたとは言え、久方ぶりの実践だったため、凡フライを落としたり、正面のゴロをトンネルするなど、コーチとしての面目は丸つぶれであったが、そんな真に対しても、明るく笑顔を絶やさずに接してくれる選手たちとの関係が深まるにつれて、この国への愛情が深まっていった。
中でも彼らがよく使う、人が何かに失敗した時に使われる『マイペンライ』という言葉は、タイの国民性を最も的確に表す言葉で、真にとっても一番好きなタイ語となって徐々に体全体へ馴染んでいくのだった。
『マイペンライ』とは、何でもないよ、大丈夫だよ、気にすることないよという意味で使われる。ありがとうに対する、どういたしまして、英語のYou are welcome.としても使われる。たとえ失敗してしまっても『マイペンライ』で、優しく人を励ます素敵な言葉だ。
日本人は真面目すぎるところがあり、失敗に対して不寛容な面があるのではないだろうか。しかし、タイの人たちはどんな失敗に対しても、それを許し『マイペンライ』で受けとめる寛容さがある。
タイは世界の旅行者たちがリピーターとなるランキング上位の国として高く評価され続けている。どんな人たちも虜にさせるホスピタリティーあふれる国民性が最大の魅力だと思う。今後、観光立国を目指す日本にとっても学ぶべき点が多くあるのではないだろうか。
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