2008年 ボクの夏休み/松本順子

R&W

2008年 ボクの夏休み   松本順子

 僕は、高校へ入ってから隆君という、熱い友情で結ばれた友達を持つことができた。

 高校二年の夏休み、僕はドーナツ屋のアルバイトで、せっせと休みを消化していた。隆君は、予備校に通ったり、図書館に行ったりと、

勉強のための時間を費やしていた。僕と隆君と、どちらが有効な時間を使っているか。どちらも有効である。

 アルバイトの休みに、図書館に行こうと、自転車で家を出た。隆君の家の前を通ったので、ひょっとしたら隆君がいるかもしれないと思

い、呼び鈴を鳴らした。隆君の兄貴が出てきた。僕は、ちょうど通りかかったので、隆君がいればと思いました。と、告げると、

「お前な、おとなみたいな口をきくな。あれ、ひょっとしたら吉田君?」と、きかれたので、

「・・・・・・ハア」と、こたえると、

「おとなってさ、わざわざ訪ねて行った先に、通りかかったものですから寄りましたなんて言うだろ。お前もそう言ったんだぞ」

 なる程、だけど僕は、本当に通りかかったから寄ったのであって、わざわざ来たのではない、と言うと、

「まあ、いいさ。上がりな」と言われた。

 僕は隆君がいないのなら帰ります。と言うと、兄貴は、

「なあに、すぐ帰って来るから」と、部屋で待つように言った。僕は待ちたくなかったが、兄貴が強引とでもいうような態度で僕を上がら

せた。

 兄貴は大学生であると、隆君からきいたことがある。隆君は頭もいいし、スポーツマンでもあるせいで、たくましい身体をしているが、

初めて見る兄貴は、小柄で細い。眼鏡があわないのかという位、絶えず鼻までずり下がってては上げてを繰り返していた。驚いたことに、

兄貴の部屋に通された。

 またまた驚いたことに、そこには、この兄貴とは全くもって不釣合いな、見目麗しい女友達がいたのである。

 僕が部屋に入ろうとすると、長いサラサラの髪を手で持ち上げて、僕に微笑をくれたのである。

 僕はその場から動けなくなるくらい感動した。兄貴は、「ねえ、この子に冷たい飲み物持って来てやって」というと、その彼女はスッと

立ち上がり、僕の傍から出て行った。

 その時、汗の匂いと、コロンの香りの混ざった、言い知れぬ香りが僕の鼻クウを刺激した。

 僕はようやく部屋の中に入ることが出来た。彼女の座っていたクッションの隣に来て座った。場所を選んだわけではない。そこしか座る

所がなかったのである。六畳くらいのフローリングにベッドがあり、勉強机と本棚とテレビ、それだけで空間はほんの僅かである。

 クーラーはあるが、作動していない。窓を全開しているので、風ははいらないことも無いが、真夏の昼下がり、汗はとめどなく出てきた

 たぶんこの家も母親から言われているのだろう。昼間は出来るだけクーラーは使わないことと。僕の家がそうなのである。兄貴はさっき

からの続きであろう、テレビゲームに夢中である。


 彼女がカルピスを持ってきてくれた。ついでに彼女の分と兄貴の分も持って来た。勝手知ったる様子に少々驚いている。

 僕は喉がカラカラで、ストローがついているにも関わらず、一気に飲み干した。彼女は自分の分をストローで少し飲んでから僕にくれた

 なんて優しいのだろう。僕の感動は頂点に達していた。彼女も暇だったのだろう、テレビゲームに夢中になっている兄貴の傍で、どうい

うわけか、「世界」を読んでいた。およそ女の子の読むような雑誌ではないと思う。僕の親父も時々買って読んでいたので。「世界」を真

剣に読んいるようなので、彼女を観察することが出来た。胸は大きくはないが、小さくも無い。ただ、ピチピチのタンクトップにジーンズ

、そして素足を僕の方へなげている。

 僕としては雑誌でしか見たことのない女の子の肌を初めて間近に見たのである。彼女は興味のある箇所を読み終わったのか、ページをパ

ラパラとめくりだしたので、あわてて僕は目を逸らした。僕はどうしてよいのかわからない。この部屋に来てからそんなに時間はたってい

ないと思うが、ほとんど拷問である。半日分の活力が失われた位草臥れた。そこで僕は思い出した。カバンの中に参考書があることを。徐

にカバンの中に手を突っ込んだ時、「あちゃーっ」と、兄貴が奇声を上げた。ゲームの音はするものの、僕にとって静かな張り詰めた部屋

の中でのその声は、僕の尻を十センチ上げるのに充分であった。そして僕は見逃さなかった。彼女の尻も三センチ位上がったのも。

「あーー、ヤメヤメ。あーー腹減った。アキチャン何か食べに行こうか」

 彼女の名前はアキちゃん。アキコ、アキヨ、アキ・・・・・・何ていう名前だろう。

 アキちゃんの顔を見ると「うん、そうしよう。だけど良いの?留守にして」「いつもここは留守の家なの。親父もお袋も勤め人だし、俺

達かぎっ子なのよ」「うん、わかった」と、ふたりで僕を見た。僕はふたりのやり取りをボワーッとみていた。口は開けっぱなしだったと

思う。

「僕、帰ります」「うんそうしろ。悪かったな。隆けっこう忙しいんだ。又、隆いない時でもいいから遊びにこいよ」「カルピスごちそう

さまでした」僕は兄貴に言うでもなくアキチャンに言った。アキチャンはニコッと笑ってくれた。これで僕の機嫌もなおった。兄貴とアキ

チャンは図書館の方へ歩いて行った。僕は図書館とは逆の来た道を戻った。同じ方向はまずいと思った。

 その日の午後、クーラーも付けずにパンツ一枚で、ベッドの上でアキチャンのことを考えていた。アキチャンの汗の匂い。滑らかな肌。

綺麗に切り揃った足の爪、全てが愛おしかった。何であんな兄貴と付き合っているんだろう。隆君が言っていたことがあった。兄貴は天才

なのだと。僕は勉強してやっと人並みだけど兄貴は予備校などにも行かず、現役で国立大学に合格した。変人でもあるが。というようなこ

とを。

 僕からしてみたら、変人というより、勝手で独りよがりなだけと思う。そんなことをウダウダ考えながら勉強もせずに無為に過ごしてい

た。

 翌日のバイトは、午後三時から閉店まで。午後の方が時給はいいし、何といっても寝坊が出来る。そこで僕のシフトは午後にいれている

 その日の夕方、兄貴とアキチャンが店に来た。僕にとっては驚天動地の大事件である。隆の奴、僕のバイト先を兄貴に教えたな。余計な

ことをしてくれたもんだ。僕の顔はひきつりながらでも店長に言われていた「いつもニコニコ」の笑顔を貼り付けていたと思う。


 兄貴は偶然を装いながら、そして小賢しい驚きの表情まで付録に付け足していた。

「何と、ヨシクンがこんな所でバイトしているとは驚いたな」アキチャンは本当に知らなかったようで、真顔で驚いていた。「ヨシクンっ

ていうのね。何ていう名前なの?」

 非常に忙しい時間であった。客が行列をつくって待っている。こんな時知り合いが来ると、うろたえる。「あ、あのー」僕が言いかけた

時、

「お次にお待ちの方、どうぞ」店長がすかざず声を掛ける。これは従業員にビシビシ仕事をしろという合図である。

 僕はアキチャンに「そ、それは又今度。(今度があるのか)あのーなにに、い、いたしますか」ひきつりスマイルを絶えず出しながら汗

が顔からわきの下からあふれている。

 アキちゃんがドーナツの名前を言わずに、「これと、これと、これ」ウインドウ越しに指をさしている。僕にはなにがなんだかわからな

くなる。そこへ兄貴が「何でもいいから三ついれてくれ」といい、「コーヒーもふたつ」と、言ってくれた。

 僕は適当にドーナツを皿の上に載せた。その時、僕の汗がドーナツの上に落ちた。粉砂糖の上に一センチ四方の汗の滴。目だった。裏返

しにする。何食わぬ顔で上着で汗をぬぐいブレンドコーヒーをトレイに載せて代金をもらう。おつりと一緒にレシートを渡した時、向こう

から押し付けてくる紙切れがあった。読む暇も無く上着のポケットにクシャット入れて、次の客を塾していった。七時まで休む暇なく働い

た。店長が「休憩とれ」と言ってくれた。休憩か癒しの言葉である。労働したと思う。休憩室のような気の利いた部屋はないが、クーラー

の効いた、六畳位の部屋にロッカーが壁に並び、真ん中にテーブルと椅子があるだけである。男女共に使うので女子の着替えを考慮し、入

る時はノックを余儀なくする。ノックをすると、「今ダメ!」という返事が返ってきた。三十分の休憩を有効に使いたい。とにかく座りた

い。「あとどのくらいですか}と、訊くと「「もういいよ」の返事。休憩時間に店からドーナツ一個とコーヒーがもらえる。それを片手に

持ってドアを開けると、初めて見る女の人がいた。新人ということで少々先輩面をしつつ声を掛けた。「今日初めてなの」の言葉に彼女は

「いいえ、ここは初めてだけど他の支店で働いていました。それも学生の時でしたから、初めてと言われるとそうかもしれませんね。子ど

もが出来て子どもにおわれていましたし」

 何と、子持ちの先輩である。しかも僕に対して丁寧語である。僕としては非常にバツが悪い。「ああ、そうですか」落ち着き無く座って

ドーナツを食べ始めた。草臥れたのである。一人のときはテーブルに足をのせるのであるが、女の人がいる前ではできっこない。早く出て

行って欲しい。ドーナツをほおばりながら横目で彼女を見ると、目が合ってしまった。

あわてて目を逸らすと、彼女の方から話しかけてきた。

「ここのアルバイト長いのですか」「いえ、あの、この夏休みですからまだ二週間です」「店長の名前ってご存知ですか」「はい、あの、

確か桑原さんという人です」「そう良かった」

 そう言って黙ってしまった。沈黙が恐くなって僕から話しかけた。

「前に働いていたって、いつ頃ですか」「うん、ずっと前もう何年もむかしのことです。あ、時間だわ。もう行かなくちゃ」そういい置い

て彼女は出て行った。あと、十分しか休憩時間は残っていない。靴を脱いでテーブルに足を乗せた途端、店長があわてた顔して入ってきた


 店長ずるい。店長の休憩時間まであと一時間以上あるのに。と思ったが、ただならぬ店長の様子に「大丈夫ですか」と、声を掛けると「

あああ、大丈夫。ちょっと店から水を持ってきてくれないか」と言われたので、店に水を取りに行くと、あの彼女がてきぱきと仕事を熟し

ていた。数年のブランクは関係ないようである。店長は水を一気に飲み干した。

「ありがとう」と言って帰り支度を始めた。「あれ、帰るのですか」「うん、ちょっと気分が悪いから先に帰る。店の者には言ってないの

で、塚本君に伝えておいて」「ああ、はい分かりました」誰が店閉めるんだ。と言いたかったが、この店のナンバー2の塚本さんに言えば

いいことである。「お大事に」と店長の背中に言ったが僕のことばが言い切らないうちに、ドアは閉まった。僕の休憩も終わりとなり、店

に出る。塚本さんに店長のことを告げると、「なにーっ!」と、大声で怒鳴られた。塚本さんは僕より十才位上の女の人である。「なに」

と、言われても僕としては何と答えてよいのか分からなかったが「気分が悪いようです」「何が気分がわるいだ・・・・・・」塚本さんは

ブツブツ言いながらお客さんには営業スマイルを忘れていない。すごい人だと思うが、たぶん僕には無理だろう。子持ちの先輩は営業スマ

イルでなく、本当の笑顔でお客さんに接しているように思われた。ソツがないというのか、間違いなくドーナツを皿にのせ、飲み物も手際

よく作っていた。僕の初日はひどいものだった。いや、今でもさっきのアキチャンのようにウインドウ越しに指示されたら何がなんだか分

からなくなる。

 本日の業務も終了となり僕は店の掃除に取り掛かる。レジの閉めは塚本さんと思いきや、子持ちの先輩がやっていた。初日でそんなこと

させる店のいいかげんさにあきれかえる。

 売上金を夜間金庫に預けるのであるが、ひとりで行くのかと思いきや、僕に声を掛けた。

「夜間金庫まで一緒にいってほしい」である。僕はナイトに選ばれた。だが店には僕しかいないのである。着替えの時、ポケットからシワ

クチャの紙が出てきた。兄貴が手渡したことを思い出す。(明日午後五時裏の喫茶ココヨで待つ)とだけ記されていた。(ココヨ)はドー

ナツ屋の真裏にある。繁華街の中にあるが、目立たず埋没している。僕には関心のない所である。果たして昨日あったばかりの僕に何の用

があるのか。かなり如何わしい。

 店から歩いて五分のところに銀行がある。子持ちの先輩の名前は鎌田恵子さん。子どもは三才で両親と一緒に暮らしているとのこと。シ

ングルマザーであった。僕より五才年上の二十二才。五分間の間に自己紹介してくれたわけである。

 翌日昼過ぎに起きた。隆君の携帯に電話するが電源は入っていないの返事。予備校か図書館にでも行っているのだろう。隆君の家電に電

話しても誰も出ない。

 五時に(ココヨ)に行けるはずがない。いい考えが浮かんだ。早めに行って(ココヨ)に伝えておけばいいだけのこと。メモ用紙に「今

日、五時に店をでることはできません」と書いてポケットに入れた。

 いつもより十分早く家を出て(ココヨ)に行くとガラス戸の向こうにカーテンが引かれていた。錠も掛けられていた。今日は休みなんだ

ろう。胸をなでおろす。これでバイトに専念できる。

 働いている時兄貴が来た。当然といえば当然であるが、僕はそんなこと考えていなかった。アキチャンも一緒である。この三日間兄貴と

アキチャンは毎日会っている。そしてこの僕も毎日会う羽目に陥ったのである。

 お客さんの行列の中にいるのを見つけた時から僕は落ち着きをなくした。どうぞ僕の所に来ませんようにと、祈った。祈りが伝わった。


 隣の鎌田さんの所へ自然と流れていった。

 鎌田さんとアキチャンは知り合いなのか、鎌田さんのお客さんに対する元気な挨拶がないので、チラっと横目で見るとふたりで何か囁い

ていた。「後で」というアキチャンの声だけが聞こえてきた。僕は思わずドーナツを落とした。だが誰も気付いていないので、平然を装っ

て皿にのせた。そこへ兄貴が僕に声を掛けた。

「ヨシクン、今日もバイトご苦労さんデス。万が一ドーナツ落としたら客に食わせるなよ」

 なんともはやである。兄貴は僕の不正を見逃さなかった。僕はすばやくドーナツをゴミ箱に捨てた。

客足が退いた時、鎌田さんはフロアの掃除、主にテーブルを拭いたり片付けたり、塵を拾ったりと休む暇なく働いている。アキチャンたち

の席に行って、ひと言ふた言、ことばを交わしていた。年恰好は同じくらいなので、高校の同級生だったかもしれない。僕がその情景を見

ていると、兄貴と目が会ってしまった。兄貴となんか目を合わせたくなかったが、メガネのずれた所謂鼻メガネのような老人くさい顔で僕

と目が合ったのである。メガネをずりあげて暇そうに客を待っている僕の所へ、カツカツと、歩いてきた。「ヨシ君、今日は何時に終わる

の」「今日はシマイマスので十時半頃になると思います」「そう、じゃ今日はココヨが休みなので駅前の「双葉」で待ってるよ」有無を言

わさずにあっという間に自分の席に戻っていった。一体僕に何の用があるんだ。用があるのなら弟の隆君にしてくれ。と、言いたい。言い

たいが、なんだか兄貴には抵抗できない。いや、僕は兄貴だけでなく誰にでも抵抗できないひ弱なところがある。そんな僕を他人は「いい

人」と評価してくれる。だが僕は知っている。「いい人」の裏に隠れているものを。僕は困った。困ったが仕方ない。七時の休憩に家に電

話する。夕食はいらないと。母親がもっと早く電話しなさいと怒った。僕は母親に謝った。

 双葉は僕も知っているが入ったことは無い。和食のレストランバーと、親父が言っていた。遅くまでやっているそうである。店長は今日

休んでいるので閉めは塚本さんがやっていた。鎌田さんはいつの間にかいなくなっていた。着替え終わり、財布の中を見ると、一二三六円

入っていた。何とか千円以下のもので腹を満たしたいが大丈夫か。

 兄貴はかなり古風なのであろうか、いやそれよりも老人じみている。ココヨを指定したり、この双葉を選んだり、付近には若者向けのバ

ーや居酒屋が多くあるのに何故双葉なのか。双葉は親次世代、いやもっと上の世代の店である。親父が和風のレストランバーと言っていた

が、何ということは無い。ただの傾きかけた一杯飲み屋である。

 曇りガラスに漢字で「双葉」とかいてある。それだけを見ると、食べ物やなのか、飲み屋なのか床屋なのか分からない。要するに得体が

知れないのである。細工も何もない。僕は頻繁にその前を通るのであるが、意識したことは無い。あって当たり前の店であるが失くなった

としても何も感じないという存在感の乏しい店である。店に入ると、薄暗く狭い店内にカウンターがあり四つの席、四人掛けのボックス席

が二つ。カウンターは満員。ボックス席も埋まっている。ひとつのボックス席にはふたり。もう一方には三人いた。僕は薄暗い店内でそれ

だけのことを把握するのに一分はかからない。僕にはそんな能力が備わっている。だが人の顔は見分けられなかった。僕が入ると、その店

にいた全員が僕を見た。

 知らない人ばかりと思って回れ右をして帰ろうとした時、「ヨシ君こっち!」と、兄貴の声がした。ボックスにいる三人のほうである。

兄貴の他にアキチャンと、鎌田さんがいた。「どーも!」と頭をかきながら、鎌田さんの隣があいていたのでそこに座った。そこで、鎌田

さんとアキチャンは高校の時の親友であったと兄貴から訊いた。ふたりの美しい瞳が僕を見た。僕は来て良かったと思った。兄貴の強引さ


は許せなかったが、この優艶なふたりの傍にいられるというだけで兄貴を許すことができた。

 店のママが「何にします?」と、錆びた声で訊きに来た。「あら、吉田さんの坊ちゃんね」と、気さくに言われた。「ハア、」このママ

というか、このおばさんは、僕を知っている。僕はこのおばさんを知らない。「あの、千円しかもっていないのですが、お腹はすいていま

す」か細く掠れた声で言ったが言いたいことが言えて満足した。おばさんは「分かった」と言ってカウンターの中へ入った。

 兄貴は鎌田さんの子どもの父親の悪口を呟くようにしゃべっている。そういえばこの店で大声で話している人がいないことに気がついた

。飲み屋とは喚いたり、叫んだり、お酒の勢いで騒ぐ所というイメージだった。今日のお客さんは紳士淑女が多いのかもしれない。兄貴は

ひとしきり父親の悪口をしゃべった後、「そこでだ、ヨシ君」初めて僕に向けて話し始めた。と、その時、たぶんあのおばさんの旦那だろ

うと思われるマスターが何やらお盆にいっぱい乗せて持ってきた。「有り合わせだけどたんとお食べ」と言ってテーブルにのせたのは、店

のメニュウというよりお袋が作ったものと同じようである。チャーハン、卵焼き、野菜炒めといったところである。兄貴はニヤニヤしなが

ら水みたいなウイスキーの水割りを飲んでいた。

「ヨシ君、食いながら訊いてくれ。鎌田さんの父親のことなんだけど、驚く無かれ、ヨシ君のバイト先の店長なんだよね。でもってあいつ

、知らん顔している」僕はむせて、チャーハンを口から吐き出してしまった。三人は僕をチフス菌感染者のごとく扱った。ママがすかさず

お絞りと、みんなのために新しいコップと水を持ってきた。僕は遣る瀬無かった。

「そこでだ。ヨシ君お前にお願いがある。店長を懲らしめたいと思っている。あんな店長女の敵である。子どもの養育費は払うべきである

。なあ、お前もそう思うだろ」「ハア、」

「鎌田さんはあんな店長に未練は無いと言っている。そうだよね」僕は鎌田さんを見た。

彼女はずっとうつむいて兄貴がおしゃべりするままを聞いていた。ようやく顔を上げて、

「今は両親のところに帰って何不自由なく暮らしているけど、やはり父親としての義務は果たしてもらわないと。これから学校に行くよう

になるとお金もかかる。今だってわたしだけの働きでは大赤字ですもの。いつまでも年老いた両親から世話を受けるわけにもいかないし。

精神面よりも金銭面で苦しいの」

 僕は初めて鎌田さんが店に来た時のことを思い出していた。あの時の店長、具合が悪かったと本気で信じ込んでいた。僕は自分の勘の悪

さにまたしても惨めな気持ちになった。

「今、鎌田さんは店長の居場所をつきとめて、そこで働くようになった。偶然でもなんでもないんだ。うまい具合にお前がそこで働いてい

た。これは偶然なんだけどね」

 兄貴はずっと僕のことをお前呼ばわりしている。

「そこで、お前に鎌田さんのサポートをお願いする」「サポートって何をすれば良いのですか」「まあ、用心棒みたいなもんだ」「僕何も

出来ませんよ。だって僕体力ないし、喧嘩も弱いし・・・・・・」「バカ!喧嘩しろってだれが言った。お前にケビンコスナーなんてでき

っこないだろ」兄貴とは三回しか会っていないのに、僕とは十年以上の知己の口ぶりである。

「要するに、何かの時鎌田さんの味方になってやってと、いうんだ。別に何もしなくていいが、俺は店長の仮面の下を知ってるんだぞ、と

いう素振りをすればいいの」


 なんだ簡単ではないか。そんなことならビクビクする必要な無かったんだと思い、「はい、わかりました」と、お腹も満たされ、元気な

声でいうと、「お前は頼りないが、隆と同じ高校に通っているからバカじゃないだろう。宜しくたのんだよ。さ、用は終わった。未成年は

こんな所にいちゃダメだ。早くママのところに帰りナ。千円は置いていって」

 勝手である。言いたいだけ言って帰れとは。だが、僕は素直に帰り支度をした。

 帰り際、ママであるおばさんに「ごちそう様でした。千円は置いておきましたので」と、言うと、「気をつけてお帰り」と言ってくれた

 兄貴は勝手な人であるが、悪い人ではなさそうである。それよりも店長が許せなかった。僕は最近知ったのである。どうすれば赤ちゃん

が産まれるかということを。だから余計に女の子を見ると疼くのである。しかもこのあいだのアキチャンのように、半分裸の女の子をみる

と、どうしようもなく、胸が騒ぎ高揚してしまう。今も鎌田さんの体臭で頭がクラクラしていたところであった。

 翌日バイトに行くと、店長も鎌田さんもいた。ふたりは笑いながらおしゃべりをしていた。僕だけである。ふたりを見て動揺したのは。

店長にも鎌田さんにも顔を向けずに「おはようございます」と、やっと言うことができた。僕が休憩をとっていると、鎌田さんが現われた

。「鎌田さんすごいね。もう店長と仲良くしていますね。決着ついたのですか」の問いに、鎌田さんは、「まだよ。だって最初からこっち

の手の内見せたら、相手は逃げ出してしまうでしょ。だからやんわりと近づいていっただけよ。最初は店長もビクついていたけど、笑いか

けると、安心したようにしゃべってくれたわ」店長も僕と同じくらい単純である。兄貴が言っていた。サポートとは、店長にそれとなく因

果応報の報いを受けさせることなのかもしれない。鎌田さんのために僕はがんばるしかないのである。だが、その機会はなかなか来ない。

あっという間に夏休みも終わりに近づき、僕のバイトも残りあとわずかである。

 僕が休憩をとっていた時、店長がノックもせずに入って来た。テーブルに足を乗せ、ドーナツをぱくついていた時であった。まあ、従業

員数を頭に入れていれば、ここには僕しかいないという計算にはなるが、決まりは決まりである。

 常に鎌田さんのことを言わねばと思っていた矢先の店長の怪しからん態度に僕は強気になっていた。すぐに足を下ろし、ドーナツをコー

ヒーで飲み干し僕が喋ろうとすると、すかさず店長が、椅子に座り足をテーブルに乗せて、「立ちっぱなしだもんな、やはり足は上げとき

ゃなきゃもたんよな」何と、出鼻をくじかれてしまった。気の弱い僕はさっきまでの勢いはどこへやら。「ハア・・・・・・」としか言え

なかった。

「吉田君もいいんだよ。足を乗っけて」良くないことを人から唆されてもやる気は失せるし、やったとしても決して気持ちのよいことでは

ない。あと一〇分休憩時間は残っているが、店長といても疲れが倍加するだけである。所在無く落ち着かないでいると、店長から話しかけ

て来た。「吉田君、鎌田さんのことどう思う?」「ハア・・・・・・?」「いやね、いい子だよね。仕事は良くやるし」「ハア」「実は俺

ね・・・・・・、ああ、やっぱりやめとくわ。今の話なしね」「ハア」僕は何がなんだか分からなかった。鎌田さんは今日はお休みである

。そして明日は僕の休みである。そしてその次の日で、僕はこの店ともお別れである。サポートどころか、僕は鎌田さんの為に何もしない

うちに終わってしまうのである。

 残る一日は僕に与えられた最後の機会である。計画を練るべく、花道を飾りたい。そう思うと、勉強どころではない。それにしても店長

のことばが気になる。こんな時、兄貴に相談するべきかもしれないと、夜遅くにも関わらず隆君の携帯に電話すると、出た。


 この夏休み隆君の声を聞くのは初めてである。だが感傷に浸っている暇は無い。隆君に用は無いので、兄貴に代わってくれというと、兄

貴は今いないが、何の用だと訊かれた。

 いないならいいと言って、電話を切ろうとしたら隆君から話しはじめた。

「お前、兄貴にからかわれているんじゃないのか」「?」「何があったか知らないけど、前に兄貴に訊かれたことがあったんだ。ぼくの同

級生に世の中の悪というものを知らない純粋無垢な生徒はいないかとね。すぐにお前が浮かんだ。勉強はまあできるが、体はあんまり丈夫

じゃないし、男子校だから分からないけど、女子の前だと何も喋ることができないんじゃないかってね。お前のこと興味持ったみたいだっ

た。兄貴は大学でも心理学を学んでいて実験材料さがしていたみたいだったから。たまたま僕がいない時お前がきたんだってね。ごめんよ

。だけど兄貴は人は利用するけど、悪意はないから安心していいと思うよ。そして付き合っている彼女、本当にいい人だから何かに巻き込

まれたとしても、お前に傷は負わせないと思うよ」僕は充分傷ついていた。隆君に電話したお陰で知らなくてもいいことを知ってしまった

。僕の夏休み隆君の兄貴に振り回されているのである。

 バイト最後の日、いつものように三時からシマイまでである。鎌田さんも店長もいた。僕はむきになっていた。いつもより大きな声で接

客していた。そしてウインドウを指差している客にも間違うことなくドーナツを皿にのせ、ドーナツを落とすことも、汗をドーナツにおと

すこともなく、つまり僕は仕事をしっかりこなしていた。鎌田さんとふたりきりになる機会を待った。暇な夕方頃それは訪れた。

「鎌田さん、今日で僕のバイトは終わります。僕何もできなくて・・・・・・」

「ありがとう。でもね、店長のこと片付いたの」「えっ」「金子さんが(兄貴のこと)ちゃんと中に入ってくれたの。わたしね、店長のこ

とまだ好きみたい。店長も子どものことを知った途端、どうしていいのか分からず、わたしから逃げたのだけど・・・・・・。それは許せ

る行為ではない。だけど店長もいきなり子どもを押し付けられて困っていたと思う。まだ店長もアルバイトの立場だったし。アキチャンが

ここに店長がいるって教えてくれたの」客が入って来た。話の続きは後で。と言いながら接客に努めた。店長が休憩から戻り、鎌田さんと

交代した。僕は店長に「一昨日店長が僕に言いたかった鎌田さんのことってなんだったのですか」僕は珍しく思ったことを口に出して言っ

た。

「あっ、それね。ああ、まあいいか。俺達結婚することに決めたんだ。「俺達って鎌田さんとですか」「ああ」切なかった。その後僕は誰

とも口をきいていない。閉め際の九時半頃兄貴がアキチャンを連れてやってきた。

「お前、今日でバイト終わりなんだってな」「はあ」「じゃあ、今日は打ち上げといくか」「はあ?」「お前の為にパーティーやってやる

よ。閉めたら双葉へ来い。貸しきってあるから。それに隆も呼んだから。あいつも勉強ばかりやって青白い顔になっているから来いってい

ったら、来るっていっていたから」「ハア」兄貴の強引さは今に始まったわけではない。有無を言わさず言うだけ言って去ってしまった。

僕は母親に夕食いらないと電話した。母親はもっと早く連絡しなさいと、怒った。無理もないことである。

 双葉のドアを開けると、真っ暗闇からパンパンパンと、クラッカーが鳴った。僕は腰が抜けるほどびっくりした。途端に電気がついた。

この間より明るく感じたのは、暗闇からいきなり灯りがついたからなのか。それとも僕や隆君が未成年であることの気遣いなのか。ママの

化粧もこの間よりは薄く感じられた。

 兄貴と隆君、アキチャンと鎌田さん、そして今まで登場する機会がなかった僕と同じくらい不器用なバイト生の女の子。全部で五人いた


。パーティーである。マスターもママもカウンターの中で僕たちの為にご馳走を作っている。テーブルも狭い店内の中で車座になれるよう

配置換えしてあった。

 兄貴が口火を切った。

「ええ、吉田君、夏休みのアルバイトご苦労さんデス。いろいろな体験をしたと思います・・・・・・」その時店長が入って来た。

「ああ、桑原さんも来られましたので、全員揃いましたので最初から仕切りなおします。吉田君、アルバイトご苦労様でした。これからは

勉強に励むようにがんばりなさい。だけど明日からです。今日は大いに楽しんでください。労を労ってもらおうと、僕とアキチャン、そし

て双葉のマスターとママの温かいお志で本日かくも盛大な宴を設けることが出来ました。食べ放題です。遠慮せずにどんどん食べてくださ

い。ああ、それともうひとつお知らせがあります。店長こと桑原さんとこちらにおられます、鎌田恵子さんが、めでたく結婚することにな

りました。おめでとうございます。それではマイクをそちらに向けたいと思います」マイクなどないのにそれらしい気分をだしていた。店

長が立ち上がった。

「いろいろありましたが、ようやく結婚することになりました。これも金子さんやエエット傍にいる恵子さんのお陰です。お金が無いので

式は挙げません。披露宴もこの場をお借りしていいですか?金子さん」「いいも悪いも今やってるじゃないか」ここでみんな笑った。僕は

涙がでて仕方なかった。鎌田さんもアキチャンも泣いていた。すかさずママとマスターがみんなにビールを注いでいった。僕と隆君はジュ

ースである。マスターが

「桑原さん、鎌田さんご結婚おめでとうございます。これからも末永くお互いの思いやりと協力でいい家庭を築いてください」マスターが

兄貴に目配せすると、「かんぱあーい」

兄貴の張りのある声が店中に響いた。楽しかった。めちゃくちゃ楽しかったが、ほとんど覚えていない。生まれて初めてウィスキーなるも

のを飲んだようだ。兄貴が僕にウーロン茶といって飲ましたのである。またしても兄貴にだまされた。僕はどうやって家に帰ったかも覚え

ていない。家の中は明るかったような気がする。母親が起きていたような気がする。僕はトイレに駆け込み、ゲーゲーやったと思うがそれ

さえも定かではない。

 夕方四時頃起きるが、頭の痛みはこの世のものとは思えずまたまたトイレに駆け込む。

そのうちに母親が仕事から帰ってきた。帰るなりどのくらいお酒呑んだのかと、訊かれた。

答えられない。黙っていると、母親も話しかけなくなった。夕食までにはすっかり体も立ち直った。

 本当に久々親子三人で夕食を摂った。

 親父が寝る時、珍しく僕に声を掛けた。「バイトも終わったし、これから受験に向けてがんばれよ。酒の味覚えたか。まあ、覚えるよう

な飲み方はしていないだろうが。双葉の夫婦は俺の友達だよ。面倒見のいい人たちだ。世話になったんじゃないのか。後で一緒に行くか

」 

 何も知らないのは僕だけであった。酒なんてもう呑むまい。あんなに苦くて、つらくて、痛くて苦しい酒なんぞ、もう呑むまい。

 夏休みもあと二日である。山と残った宿題に四苦八苦の僕であった。

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