第2話

 濱野と樋之口が晴れて交際関係を持つようになってからはや一週間と二日が経とうとしていた。樋之口が付き合い始めた日を記念として丁寧に記憶しているのに対し、濱野は未だこの関係がなぜ始まったのかに疑問を持っているため温度差は感じられなくもないが、少なくとも二人の間に目に見えた亀裂は出来ていない。


 そして、この土曜日、濱野は盛大に悩んでいた。

 というのも、付き合い始めて一週間も経った樋之口が痺れを切らして───実際にはかなり勇気を振り絞っていたが───二人で出かけることを提案したのだ。未だ彼女の連絡先を持っていることに慣れていない濱野は「行きます」というひどく簡素な返事しか返すことができなかったのだが、それでも樋之口は了承を得たことを喜んでいた。

 しかし、異様に元気のいい樋之口の真意を図ろうとして若干訝しげになっていた濱野であったが、前日になってからは未だかつて考えたことのない悩みに苛まれていた。そう、服装である。


 今まで彼が外出するといえば家族と共に食料品の買い出しをする際や、何か必要なものを買い揃えに行く際に出かける程度だった。一応お洒落に気を使わない彼ではないが、女子と出かけるともなると話は変わってくる。しかも、相手の女子は自分とは見合わないほどの陽キャ。せめて服装だけでも取り繕いたい彼であったが、人生初の悩みは彼の頭を悩ませるだけで何の解決策も与えてくれはしなかった。


「さあ! 弟よ、私が来た!」


 しかしそんな彼を神は見捨てた訳ではない。

 うじうじと部屋の中から一向に外に出てこない彼を心配して、母親が送り込んだの忠之助の姉、濱野静香である。名前に見合わず常に声の大きい姉ではあったが、今日ばかりは忠之助には彼女が女神に見えた。


 事情を説明するまでもなく、どこからか彼が付き合い始めたということを聞き及んでいた静香は、忠之助の静止虚しく彼のクローゼットを開け放つ。

 前言撤回、彼女は女神ではなくただの暴走列車だった。しかし悲しいかな、彼にはそれに文句をつけるほどの元気がない。


「ずっと忠之助の服装に手を出したいと思っていたのですよ、私は」

「あの、今回だけで頼みます」

「自分一人で選べるって忠之助が思ってるなら、それでいいんじゃない」


 無理だ。ただ、姉ではなくても友人などの聞けば………。いや、やめておこう。彼のファッションセンスは当てにならない。前胸元にデカデカと「I’ma fuck you」と書かれたTシャツを着ていた人間だ。彼に服選びを任せたら悲惨なことになる気がする。


「普段着ているような無地の服でも悪くはないとは思うんだけどね。その上に何か羽織るとかすれば十分だと思う。あとは、ちょっと整髪剤つけるとか」

整髪剤ワックスはちょっとハードル高いと思うんですけど」

「ちょっとだけだから大丈夫だよ、多分」

「その最後に頼りない言葉付け足すのやめてくれません?」


 彼女が普段着ている服装は割と系統立っていて洒落て見えるため、忠之助は姉の感性を疑っている訳ではない。しかしそれでも、生粋の小心者である彼にとってできることとできないことはあった。

 ワックス=ヤンキーと思っているのが忠之助という人物である。更に酷いことには、陰の者である割にはネットにすら疎いという社会性の欠如した彼にとって、髪によく分からない薬を塗りつけて形を整えるという行為は恐怖の対象だった。メガネをかけたものがコンタクトを異様に怖がるあれと同じである。


「まあ、無難でやつでいっか」

「無難なやつがいい」

「んー、そんなこと言うならちょっと奇抜なやつにしようかな」

「やめてくださいお願いします本当に」


 結局、数十分の格闘の末に彼の服装は決まった。ここまで長い時間悩んだ割にはあまり特筆すべき点もない服装だったが。


 忠之助は鏡に映った自分を眺めつつ、不安げに肩を縮こまらせる。未だ、彼の隣に樋之口が並んで歩いている姿が想像付かなかった。


「何があっても彼女のことは褒めた方がいいよ。その方がどっちも嬉しいだろうし。褒めどころが分からなかったらメイクでも何でもいいから『それ似合うね』みたいなこと言ってれば大丈夫でしょ、多分」

「大丈夫、褒める部分しかないから褒めどころが見つからないってことはないと思う」


 迷わずに告げた忠之助の言葉に、静香は満足そうな笑みを浮かべた。

 静香にとって、普段から言葉をあまり発しない忠之助との接点はあまりない。大学生である静香と高校生である忠之助の活動する時間帯はかなり違う上、大体の時間を部屋にこもって読書をして過ごしている忠之助とはあまり交流をもてはしない。

 しかし、それも変わるかもしれない。主に忠之助に新しくできた彼女の影響で。


 忠之助は基本的には人との交流を持たずに生きて行く人間であるため、まさか彼女など出来ないだろうと思っていた。もちろん普段話している限りネガティブである以外に性格に問題はなく、外見だって弱々しいだけで見てくれが悪い訳ではない。しかし交流を持たなければ恋慕どころか悪感情すら湧かない訳で。

 しかしそんな彼にも出来たのだ。恋人が。ならば、おそらくだが、アクションを起こしたのは忠之助ではなく彼女の方だろう。そんなアクティブな彼女ならば忠之助ももう少し外の世界に興味を持ってくれるのではないか、そんな淡い期待を彼女は抱いていた。


 大丈夫。馬子にも衣装とはいうが、忠之助はただの馬子ではない。着飾れば十分一般人だ。別にデートだって失敗にはならないだろう。

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