第29話 どんな可能性だってあるだろ

 嘘だろ。

 思わず絶句した俺の方をちらりと見て、森井さんは続けた。

「自分の中の美の基準にあてはまらないものは、称賛できない。それは、美への冒涜になってしまうから。彼女はそう言った」

 美への冒涜。

 あんなに嬉しそうに、無邪気に、美を称賛することへの喜びを語っていたアイビー。

 きれいなものを見るのが好きだと、いつも言っていた。だけど、あれは良くてこれはだめだ、みたいな批評家ぶったことを言ったことはなかったはずだ。

 少なくとも、俺は聞いたことがない。

 俺の記憶の中のアイビーと、森井さんの語るアイビーとが俺にはすぐには結びつかなかった。

「そうであれば、もうモブの仕事は辞めるべきだと私は言ったんだ」

 森井さんが言う。

「自分を物語の枠の中にはめ込むことができなくなったのであれば、もうモブの仕事を続けることはできないと」

「物語への奉仕の気持ちよりも自分の中のこだわりの方が大きくなっちまったら、もうおしまいだな。森井さんの言う通り、モブの仕事はできねえ」

 H川のおっさんが言い、若い女がそれに同意するように頷いた。

「美への冒涜とか、何様なんだろ。きれいでもない女に限って、ほかの女の外見にやけに厳しかったりするんだよね」

「まだ若いんでしょ、そのアイビーって子は」

 中年の女の言葉に森井さんは頷く。

「ああ。二十代前半だね」

 やっぱりねえ、と女は微笑む。

「だから、まだそこに諦めがつかないのかもね。私くらいの歳になるともう、きれいなものはきれいって、自分には関係ない別世界のものとして楽しんじゃえるけど。若い子にはその辺の割り切りが難しいのよね」

「若い子でくくらないでよ、K子さん」

 若い方の女が不満そうに口を尖らせた。

「私もまだ若いけど、ちゃんと身の程を知ってるもん。主要キャラを上から目線で批評するなんて恥ずかしいこと、私は絶対にしないから」

「ああ、そうね。L香ちゃんごめんなさい」

 K子と呼ばれたおばさんは若いL香にとりなすような笑顔を向ける。

「若い人の中でも、一部の子だけよね」

「そう。分かってないやつらだけ。そんなの、どこの世代にもいるでしょ?」

 こいつらの言うことの是非はさておき、自分の知り合いがこうやってこき下ろされるのは、聞いていてあまり気分のいいものじゃない。

「それで?」

 だから、俺は森井さんに先を促した。

「それなのに、どうしてアイビーはここに?」

「いずれ辞めるとは思う、でも今はこの仕事を続けさせてほしい、とアイビーは言ったんだ。今後は二度とそういうことはしないと、真摯に誓いもした」

 森井さんは答える。

「だから、厳重に注意した上で仕事は継続させていた。知っての通り、うちはいつでも人手が足りないからね」

 その口調に、森井さんには珍しく微かに自虐的なニュアンスが滲んだ。

 確かに、人的資源の潤沢な大手だったら、アイビーはズレたことを言い出した段階でさっさとクビを切られていたかもしれない。

 だが、モビーは零細企業だ。

 人はなかなか集まらないし、入れ替わりも激しい。

 闇堕ちまではいかなくても問題があって大手にいられなくなったようなやつが入ってきたりもする。

 そんな中で、俺やアイビーのようにここで何年も堅実にモブをやってきた人材っていうのは、実は貴重なんだっていうことに、最近俺も薄々気付き始めていた。

 自分のことを「人材」なんて言うのもくすぐったいが、まあ、いれば会社にとって助かる人間、と言ってもいいかもしれない。

 地味な仕事をきちっとこなして、会社の業績の底を支える人間。シフトにしろ実績にしろ、そういう業務の計算に問題なく入れることのできる人間。

 だからといって別に待遇が良くなったりするわけでもないのが、零細企業の悲しいところだが。

 意外に多くはないんだ。俺やA太みたいな、そういう人間って。

 だから、森井さんがアイビーをやめさせるのを躊躇った気持ちも分かる。

「自分の言葉通り、今回のハントの舞台となる物語では、彼女は当初は普通に振る舞っていた。会社のイケメン上司やライバル企業の謎めいた美女について、その容姿や振る舞いを絶賛してきゃーきゃーとはしゃぐモブOLの一人として」

 それはそうだろう。

 その程度の仕事、あいつにできないわけがない。

 作者自身さえ気付いてなかった主要キャラの魅力について短い言葉で的確に褒め称えて、その作者から感謝されたことだってあるくらいなんだ、アイビーは。

「だが、最近徐々に彼女の服装や化粧が派手になっていると連絡があった。おたくの会社のモブさんって何か妙な裏設定を勝手に付けてるんですか?などと訊かれて、それでこちらも事態を把握したというわけだ」

「ふん」

 H川のおっさんが鼻で笑う。

「最初のうちはおとなしくしていたが、結局は我慢しきれなくなったということか」

「前回の依頼時にうちの社員が目視で確認した結果、闇堕ちが確認された」

 森井さんは資料をぱらりとめくった。

「外形観察による闇堕ち深度は1。ごく初期の闇堕ち状態ではあるが、早いうちに芽を摘んでおかないとどうなるか分からない。深度3や4の闇堕ち対象者だって、最初は1から始まっているわけだからね」

 早めのハント。

 それはもしかしたら、森井さん流の温情なのかもしれなかった。

「深度1か」

 H川のおっさんが呟いた。

「深度1は、実は一番見極めが難しいんだ。ちょっと生意気なだけの普通のモブとそんなに見た目の区別はつかないからな」

「そうなんですか?」

 L香が目を瞬かせる。

「闇堕ちしてるんだから、やばいんじゃないですか? 口からぐわーっと黒い煙を吐いたりして」

「何を想像してるんだ」

 H川は苦笑した。

「俺たちモブにゃ、そんな突拍子もない力はないよ」

「トッピョウシって何ですか?」

「ああ」

 おっさんはめんどくさそうに頭を搔く。

「何て言えばいいのかな」

「主要キャラたちみたいなすごい力はないって意味よ」

 K子さんがそう補足すると、L香は納得したように頷いた。

「ああ、そういうこと。そうですよねえ、何もないからモブなんだし」

「そういうことだ。まあ深度3や4にでもなりゃ話は別だが」

「深度1なら」

 俺は口を挟んだ。

「まだ間に合いますよね。きちんと漂白すれば、元のアイビーに戻れるかもしれない」

「おい、あんちゃん」

 H川が胡乱な目で俺を見る。

「変な期待は持たない方がいいぞ。俺に言わせりゃ闇堕ちしかけるって時点でもうアウトなんだ」

「分かってますよ」

 俺はH川の方を見もせずに答える。

「可能性の話を聞いただけだ」

「もちろん元の彼女に戻れる可能性はある」

 森井さんはそう答えてくれた。けれど、やはり次に続いた言葉は森井さんらしいものだった。

「だがもう手遅れの可能性もある。深度1とはいえ、闇堕ちというのはそういうことだからね」




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