第30話 アイビー、本当にお前なのか。
「今日はこの後、主人公のOLのところに関連企業の男性社員が訪ねてくることになっている」
森井さんは言った。
「そこで、最近ちょっと主人公との関係がぎくしゃくし始めている上司と鉢合わせるという場面だ」
「主人公のOLさん、板挟みになっちゃうんですね」
L香が華やいだ声を上げる。
「たいへんだぁ」
「うん、二人のイケメンが、表面上は友好的な雰囲気を保ちながらも、主人公を巡ってばちばちと火花が散るような会話をするというのが、今話の見どころだ」
「きゅんきゅんしますね」
K子さんも微笑む。
「そういう場面、現実では絶対ごめんだけどお話の中なら大好物」
「はん」
H川のおっさんがばかにしたように笑った。
「女ってのは、マンガでもドラマでも小説でも、どうしてそんな話が好きなのかね」
「あら」
K子さんがじろりとH川を睨む。
「男の人だって、ぱっとしない主人公が胸が大きい女の子に懐かれるお話ばかり読んでるじゃないですか」
「そ、それは」
仕方ないだろ、男はそういうのが好きなんだから、とか何とか、H川のおっさんは口の中でごにょごにょと言った。
「それなら女の人のこと言えないじゃないですかー」
L香が言い、K子さんと顔を見合わせて、ねえ、と頷き合う。
あーあ。やめときゃいいのに。
俺はちょっと呆れて、H川のおっさんを横目で見た。
しがないナンパモブの俺だって、そんなことを口にしたらこういう反撃が来ることくらい予想がつくぜ。
そして、こういう話題はえてして男の方が分が悪いと相場が決まってるのだ。
孤立無援の憐れなおっさんはちらちらと助けを求めるような視線を送って来るが、俺はきっぱりと無視した。
あんたのために火の中に手を突っ込む気はねえよ。
「その場面に、アイビーもやって来るはずだ」
淡々と説明を再開した森井さんに、H川のおっさんは救われた顔をした。
わざとらしく、お前ら今は仕事中だぜ、みたいな顔を作る。
いや、最初に余計なこと言い出したのあんただからな。
「アイビーが姿を見せた段階で、我々も現実着を着たままそのシーンに突入する。彼女におかしなことは喋らせない」
それは、タダシのときと同じだった。
闇堕ちしたモブが物語を壊す前に、片を付ける。
だけど。
「何もしなかった場合は、どうするんですか」
思わずそんなことを聞いてしまった。
「アイビーが、普通のモブとしての役割を果たした場合は」
森井さんの目がちらりと鋭くなった。
「あのな、そんなことは」
そう言いかけたH川を遮って、森井さんはきっぱりと言った。
「何かするんだよ」
冷たい声だった。
「必ず何かする。だから、闇堕ちなんだ」
だから、闇堕ち。
……きっと、そうなのだろう。
もはや本人の自制が利かなくなっている状態。するつもりがなくても何かやらかしてしまうほど。
そこで後戻りできるなら、俺たちがこんな灰色の作業着を身に着けて待機する必要はないんだ。
「そうですよね」
俺が頷くと、森井さんは少し思案する顔をした。
「B介君、君は確保の時には離れていていいよ」
「え?」
「知り合いを確保するというのは心理的な負担が大きいし、対象者も知り合いの顔を目にしたら予想外の行動に出る可能性がある」
森井さんは、懐から茶封筒を取り出すと、俺に差し出した。
「完全に確保出来た後の、試薬検査の時にだけ近付いてきてくれればいいから」
「……はい」
俺が封筒を受け取ると、H川のおっさんが鼻を鳴らした。
「まあどうせその腕じゃ、確保のときの戦力にはならねえからな。後ろで見てな」
「すんません」
おっさんの物言いは気に食わないが、実際その通りだ。
できれば後ろからさっと近付いて、アイビーに気付かれないように済ませてしまいたい。
いや、さすがにそれは無理だろうか。
それから、森井さんはオフィスの配置とアイビーの入って来る位置、確保した後の検査場所などを細かく指示した。
その頃には、もう時間は迫っていた。
「よし。じゃあ行こう」
森井さんを先頭に、くすんだ灰色の作業着チームが会議室を出る。
俺はその最後尾についた。
広い廊下を歩き、現場となるオフィスの中に入る。
それと同時に、物語の世界に入った感覚があった。
会議室よりもはるかに大きな部屋だった。
テレビドラマの、大企業が出てくるシーンなんかで見かける、向こうまで見渡す限りのデスク。
パソコンと電話が並べられたデスクの半分くらいは不在で、残り半分では社員たちが忙しなくキーボードを叩いたり電話をしたりしている。
社員たちの中には、顔を見たことのあるモブも一人二人いた。
俺たちがぞろぞろと入っていっても、誰もこっちを見たりはしない。
現実着を着ている俺たちは、この物語には登場していないから、彼らは俺たちを認識しないのだ。
それにしても、みんな、すげえな。
俺は感心する。
いわゆるデスクワークというやつ。自分の会社の事務室でくらいしか見たことはないが、それとは規模がまるで違う。
こんな大きなオフィスでたくさんの人間が一斉にやっていると、それだけで迫力がすごい。
いかにも頭脳労働って感じで、肉体労働専門の俺は、なんというか、気後れしてしまう。
これぞ頭のいい奴らの職場っていう感じだ。
この置いてきぼり感は、中学校の時の数学の授業を彷彿とさせる。
嫌な劣等感が胸に蘇って来そうになって、俺は慌てて空咳をひとつ。
俺にはとてもこんなところで働くモブなんてできねえな。
腰に手を当てて、心を落ち着ける。
はあ、すげえ。
壁際のひときわ大きなデスクに、他の社員とは違いこちら向きに座るやたらときりっとしたハンサムな男。電話で何やら難しいことをすらすらと話している。
英語? 英語かな?
いや、でもところどころは日本語だな。ん?
意味がほとんど理解できないんだが。
オーラから見て、どうもあれがこの物語のメインキャラの一人であるイケメン上司のようだ。
椅子に座っているのではっきりとは分からないが、体型から見て多分かなりの高身長だ。
デスクのプレートを見ると、課長と書かれている。
すげえ。まだ若いのに。年齢、俺とそんなに変わらないだろ。
ええと、それじゃあ主人公のOLさんはどこにいるのかな。
俺がそんな風に、自分にはとんと縁のないオフィスを物珍しく見物しているときだった。
「来たぞ」
森井さんが鋭い声を発した。
森井さんはオフィスの入り口から、睨むように廊下の先を見ていた。
俺たちも廊下に顔を出す。
向こうからゆっくりと歩いてくるのは……
「えっ」
思わず声が出た。
今日何度目かの、嘘だろ? だ。
嘘だろ? あれが、アイビーだって?
すげえ厚化粧、とか、とんでもねえ派手なネイル、とか、お水の人かよっていうきらびやかな服、とか、床に穴でも開きそうなピンヒール、とか、近付いてくるその女のそういうところももちろん十分インパクトはあったけど。
だけどそれよりも、何よりも。
そもそも、顔が違う。
俺の知ってるアイビーの顔じゃない。
顔なんて化粧でいくらでも化けるっていうことは知ってる。でも、そういうレベルじゃなくて。
何といえばいいんだろうか。
表情。形相。面容。
とにかく、顔だ。
俺の知ってるアイビーは、あんなにやばい顔はしてなかった。
他人の美貌を称賛するために必要な無邪気さや謙虚さの欠片もない、ただ自意識だけがでっかく育っちまったみたいな顔。
ひどく邪悪な感じがした。
ハードも変わっちまったけど、ソフトが全然違う。まるで誰かに身体を乗っ取られてしまったかのような。
とても俺の知っているアイビーと同一人物とは思えなかった。
「行こう」
森井さんはそう言うと、他の三人に目配せした。
「廊下でけりを付けたい」
もしもアイビーが何もしなかった場合は。
さっきそんなことを口にしていた自分の甘さが恥ずかしかった。
これが闇堕ちってことなんだよな。
アイビーの姿は、もはやどう考えてもモブじゃない。
オフィスで働く一般的な女性、という枠に自分を嵌めようというつもりさえ全くないように見えた。
こんな奴がオフィスに入ったら、絶対に物語をぶち壊すに決まってる。
K子さんとL香が、アイビーを囲むように回り込む。
H川のおっさんが正面から近付いていく。
おっさんはさすがだった。さっきの会話ではおっさんらしい無神経さを見せたが、仕事となれば余計なことは言わずに完全にモブに徹している。すうっと空気のようにアイビーに身体を寄せた。
森井さんが最後にアイビーの前に立ちふさがった。
「それっ」
四方向から同時に、アイビーの身体を押さえる。
アイビーは一瞬驚いたように目を見開いた。
高いヒールのせいで、ぐらりとよろける。
左右からアイビーに身体を密着させて捕まえるのは二人の女性の役目だ。おっさんは正面から腕を掴む。
その隙に森井さんがアイビーに現実着を巻きつける。
確保した。
「B介君」
森井さんが俺を振り返る。
試薬の出番だ。
離れたところで見守っていた俺は、小走りにそちらへ駆け寄ろうとした。
その時だった。
「ダサいっ!!」
周囲の空気を震わせるような、金切り声が響いた。
現実着を巻かれているので、オフィスの誰もその声に反応はしない。
だが、凄まじい声量だった。思わず俺が足を止めそうになるくらい。
「ダサい、ダサい、ダサいっ!!」
声の主は、アイビーだった。
真っ白く塗りたくった顔を、まるで般若のように歪めて、アイビーは叫んだ。
「こんなダサい服を私に着せようって言うの!!」
は?
思わず目が点になった。
だがアイビーは大真面目だった。
「ふざけないで、私を誰だと思っているの!」
その瞬間、アイビーの身体の中に何かとんでもない力が生まれたのを、俺も感じた。
「まさか」
森井さんが目を見開く。
アイビーに巻きつけたはずの現実着がはじけ飛ぶ。
「きゃああっ」
L香の悲鳴。
アイビーの肩に、申し訳程度に灰色の切れ端が残っていた。
まじかよ。
「深度1なんてものじゃない、これは」
森井さんの言葉は途中で途切れた。
アイビーが身をよじると、それだけで周囲の空気が渦を巻いて、森井さんたち四人を吹き飛ばしたからだ。
「きゃあっ」
「ぐわっ」
悲鳴を上げて床に這うH川たちを、アイビーは恐ろしく冷たい目で見つめた。
「だっさい服のモブが、私の邪魔しないで」
俺にも、分かった。
これは深度1なんてもんじゃない。
深度2だったタダシも、比べものにならない。
「この深度は」
苦痛に顔を歪めた森井さんが呻く。
深度3。
アイビーは立ち尽くす俺に目もくれず、優雅な足取りでオフィスへと入っていった。
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