第22話 落下。俺、死んだ……?

 やばい。

 落ちる。

 ショッピングモールの三階から、吹き抜けを一階まで真っ逆さまに。

 とっさに身体を捻って腕を伸ばしたが、もう三階の手すりはとても届かないところにあった。

 全身を包む、ぞっとする浮遊感。

 あ、これ死ぬやつだ。

 痛いのが嫌いな俺だけど、昔モブの仕事で一回だけ死んだことがある。

 その時の感覚に似ている。

 これ、だめなやつだ。

 助からない。


「さつきさん!」


 まるでスローモーションみたいに切り取られた一瞬に、はっきりと俺を呼ぶ声が聞こえた。

 聞き覚えのある声。

 というか、忘れるわけがなかった。

 あれは梨夏ちゃんの声だ。

 俺のことをさつきさんと呼んでくれる人間は、この世でたった一人しかいない。

 だから、あの声は梨夏ちゃんで間違いない。ファイナルアンサーだ。

 ……え? 梨夏ちゃん?

 おかしいだろ。なんで、物語世界に入ってもいないのにあの子の声がするんだよ。

 あ、あれか。これ、死ぬ前の幻聴か。

 今、大絶賛、走馬灯駆け巡り中か。

 俺の人生ダイジェストで放送中か。

 それにしちゃ何も見えてこねえじゃねえか。

 さつきさんって声がしただけだ。

 二十数年生きてきて、俺には思い出すべき思い出も特にないってか。

 モブの人生なんてそんなもんか。くそが。


 ぼすっ! どん! ごろごろ、ずごん!


 ほんの一瞬のうちに、無駄に脳みそが高速回転したけどしょうもないことを考えただけで何の役にも立たなかった。

「いってええええ!」

 いきなり布みたいなものに包まれたと思ったら、乱暴に投げ出された。床をごろごろと五メートルも転がって、ベンチにぶつかって止まる。

「いてえええ!」

 背中を思い切り打って息が詰まったが、それでもそう叫ぶ方を優先した。だって痛いんだもん。

 きゃあああ、と周囲の人たちから悲鳴が上がる。

 誰も人を巻き込まなくてよかった。

 とりあえず生きてる。

 俺、まだ生きてるぞ。

 ちょうど真下にあった臨時店舗のテントの屋根に突っ込んだみたいだった。

 そのままテントをなぎ倒して床に転がったものだから、辺りには店の小物やら何やらの商品が散乱して、ひどい有様だ。

「B介! おい、生きてるか!」

 三階の手すりから身を乗り出してA太が叫んでいるのが見えた。

 そんなに乗り出すとお前も落ちるぞ。

 A太の背後から、子供の泣き声が聞こえてくる。

 さっきの男の子だろう。火の付いたようなえらい泣き方だ。

 突然ヤカラにぶん投げられたんだから、まあ泣くわな。

 死んでたら泣くこともできないから、泣き声がするってことはとりあえず生きてるってことだ。

 よかった。

「大丈夫ですか!」

 駈け寄ってきた店員のお姉さんがそう訊いてくれた。

 店をぐちゃぐちゃにしちゃったのに、優しい。

 ありがとうございます。

「あ、多分……」

 そう言って起き上がろうとしたら、激痛。

「あづっ……」

 お姉さんが「ひっ」と声を漏らして青ざめた。

 右腕が、ぷらんとしている。

 ああ、これはだめだ。今日の仕事、穴開けちゃうよ。ごめん、寺井君。

 それでも無理して立ち上がる。

「あ、大丈夫です、大丈夫」

 なぜ人は、大丈夫じゃない時ほど大丈夫なふりをしてしまうのか。

 えへへ、と不気味に笑う満身創痍のヤカラに、お姉さんが一歩後ずさったときだった。

「さつきさん!」

 さっき聞いた梨夏ちゃんの声が、背後から。

 また聞こえたってことは、走馬灯継続中? 俺、実は死んでた?

 とか思ったら、右腕にすごい衝撃。

「いってえええええ!」

「きゃあああ!」

「大丈夫ですか、さつきさん!」

 半泣きの梨夏ちゃんがすごい勢いで突っ込んできた。俺の折れた右腕の方に。

 それを見たお姉さんが悲鳴を上げる。カオス。

「死んじゃだめです、さつきさん!」

「いだだだだだだ!」

 梨夏ちゃんが抱きついている。それは嬉しいんだが、痛い。痛い痛い痛い。

「お姉さん、救急車! 救急車呼んでください!」

 俺は叫んだ。

「は、はい!」

 お姉さんが我に返ったように携帯電話を取り出す。

「梨夏ちゃん!」

 俺は無事な左手で梨夏ちゃんの肩を押し留める。

「そっち、痛いから!」

「あ、ごめんなさい!」

 梨夏ちゃんが慌てて身体を離した。

「何でこんなところにいるの、梨夏ちゃん」

「私のことなんて、今はどうでもいいんです!」

 梨夏ちゃんはこれ以上ないくらい、きっぱりと言った。

「さつきさん、起き上がっちゃだめです! 横になっててください」

「いや、だいじょう」

「ぶじゃありません! 頭打ってるかもしれませんから!」

 いつになく真剣な梨夏ちゃんの怖い顔に気圧されて、俺はおずおずとその場に横になった。梨夏ちゃんはその横にしゃがみこむ。

「ああ、大変……腕以外に痛いところないですか」

「うーん、多分……」

 本当は背中とか胸とか足とか、まあ全身が痛いんだけど。三階から落っこちたんだから当たり前だけど。

 でも梨夏ちゃんにそれを言って心配させたくなかった。右腕がぷらぷらしてるんでもう遅いっちゃ遅いんだけど。

「B介!」

 A太がエスカレーターを駆け下りてきた。

「大丈夫かよ!」

「大丈夫っつうか」

 俺はへし折れた右腕を上げる。痛い。

「これもんだ」

「ああー」

 A太は自分まで痛そうに顔をしかめる。

「全治一時間くらいか」

 だめだ。こいつも俺と同じですっかりモブ思考に侵されてる。

「一時間じゃ済まねえよ。リアルの負傷だから一か月以上かかっちまうだろ」

「あ、そうか。仕事前だもんな」

 A太はすっとぼけた顔で頷いた後で、俺の隣にしゃがんでいる梨夏ちゃんを見た。

「うわ、すっげえ可愛い子」

 でかい声で身も蓋もないことを言ってから、俺に顔を向ける。

「え? 知り合い?」

「ああ、まあ……」

 なんて説明していいか分からない。

「そんなことより」

 俺はとっさに話題を変えた。

「あの男の子、怪我無かったか」

「あ、おお。あの子な。すげえ泣いてたけど、怪我は無さそうだったぞ」

 A太の言葉にほっとする。

「そうか。ならよかった」

「そうだ、あの子の親にちゃんと言っとかねえとな。あんたらの子供助けるために俺のダチが落っこちて死にかけたんだぞって」

「いい、いい。そんなこと言わなくて」

 A太のヤカラ顔でそんなこと言われたら、新手の当たり屋かと思われそうだ。

「でもよう」

「子供が怪我してねえんなら、それでいいじゃねえか」

 そこまで言ってから、不意にこの後の予定を思い出す。

「ああ、そうだ。かっこつけてる場合じゃなかった。わりい、A太。俺、この後の仕事だめだわ」

「そんなこと心配しなくていいよ。会社に電話して誰か手配してもらうから。もしだめなら俺一人でどうにかすっからよ」

 A太は何のためらいもなくそう言ってくれた。ありがたい。

「すまねえ」

 遠くの方からサイレンの音が聞こえてきた。

「もうすぐ救急車来ます」

 駈け寄ってきた店員のお姉さんが言った。

「ご友人の方も付き添われますか」

「あ、えっと俺は、この後用事が」

 今度は、A太がはっきりとためらう。

「私が付き添います」

 A太の代わりに、生まれたてのお釈迦様みたいにぴんと真っ直ぐ手を挙げたのは、梨夏ちゃんだった。


 ……え?





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